ザ・シネマ なかざわひでゆき
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COLUMN/コラム2022.05.02
‘70年代ブラックスプロイテーション映画ブームが生んだ異色の犯罪アクション映画『110番街交差点』
「ブラック・パワー」ムーブメントから生まれたブラックスプロイテーション映画 いわゆるブラックスプロイテーション映画を代表する名作のひとつである。’70年代前半のハリウッドで巻き起こったブラックスプロイテーション映画のブーム。折しも公民権運動や左翼革命の嵐が吹き荒れた当時のアメリカにあって、ファンキーなソウル・ミュージックに乗せて反権力的な黒人ヒーローが活躍するブラックスプロイテーション映画は、黒人だけでなく白人の若者たちからも熱狂的に支持された。まずは、そのブラックスプロイテーション映画の歴史から簡単に紐解いてみよう。 ご存知の通り、もともとハリウッド業界では、カメラの前でも後でも黒人の地位が低かった。なにしろ、サイレント期には白人俳優が黒塗りで黒人を演じる「ブラックフェイス」が当たり前にまかり通っていたくらいだ。『風と共に去りぬ』(’39)ではスカーレット・オハラの乳母を演じた女優ハッティ・マクダニエルが、黒人として史上初のオスカーを獲得するものの、それで黒人俳優に大きな役が回ってくるようなこともなかった。彼らに割り当てられるのは、良くて白人の引き立て役かコミック・リリーフ。その一方で、黒人観客層に向けて黒人キャストを揃えた「人種映画」も作られたが、その殆どが弱小スタジオによるマイナー映画で、上映される映画館も非常に限られていた。 やがて、’50年代に入ると公民権運動の気運が徐々に高まり、ハリウッドでも遂に本格的な黒人の映画スターが登場する。シドニー・ポワチエだ。紳士的でクリーンなイメージのポワチエは、キング牧師が推し進めた当時の公民権運動における、「黒人も白人と同じ普通の人間だ」という主張を体現するような存在だったと言えよう。しかし、こうした穏健派の活動には限界があり、’65年に公民権法は制定されたものの、しかし人種差別が収まる気配は全くなかった。そのうえ、指導者であるマルコムXとキング牧師が相次いで暗殺され、やがて目的のためなら暴力も辞さない急進派の活動家が台頭していく。その象徴がマルコムXの影響を受けたブラック・パンサー党だ。彼らはむしろ「黒人は白人と違う」「黒人は美しい」と主張し、長いこと虐げられてきた黒人の民族的な誇りを取り戻そうとした。いわゆる「ブラック・パワー」の時代の到来だ。 そうした中、1本の映画が公開される。ブラックスプロイテーション映画第1号と呼ばれる、黒人監督メルヴィン・ヴァン・ピープルズの名作『スウィート・スウィートバック』(’71)だ。白人警官殺しの容疑で追われる貧しい黒人青年の逃避行を描いたこの映画は、反体制的な「ブラック・パワー」のムーブメントに後押しされるようにして大ヒットを記録。ヴァン・ピープルズ監督が私財を投じたインディーズ映画ながら、1500万ドルという大作映画も顔負けの興行収入を稼ぎ出した。その数か月後には、黒人アクション映画『黒いジャガー』(’71)も興収ランキング1位を獲得。かくしてメジャーからインディーズまで、ハリウッドの各スタジオが競うようにして黒人映画、すなわちブラックスプロイテーション映画を作るようになったのである。 ブラックスプロイテーション映画の定義とは? それでは、何をもってブラックスプロイテーション映画と定義するのか。舞台の多くはニューヨークやロサンゼルスなどの大都会。主人公は刑事から私立探偵、麻薬の売人からヒットマンまで様々だが、いずれも既存の価値観やルールに縛られないアンチヒーローで、ハーレムやスラム街に蔓延る悪を相手に戦うこととなる。敵は必ずしも白人ばかりではなく、むしろ同胞を搾取する黒人の犯罪者も多かった。基本的には大衆向けの娯楽映画だが、しかし物語の背景には多かれ少なかれ黒人を取り巻く貧困や差別などの社会問題が投影され、白人の作り上げた資本主義社会や格差社会に対する痛烈な批判が含まれていることも多い。ブームが広がるにしたがってジャンルも多様化し、犯罪アクションのみならずセックス・コメディやホラー映画なども作られるようになった。 もちろん、キャストは黒人俳優がメイン。その中から、フレッド・ウィリアムソンやリチャード・ラウンドツリー、ロン・オニール、ジム・ブラウンなどのタフガイ的な黒人スターが次々と登場。パム・グリアやグロリア・ヘンドリーなど女優の活躍も目立つようになる。その一方で、作り手は黒人でないことの方が多かった。メルヴィン・ヴァン・ピープルズやゴードン・パークス、オシー・デイヴィスなど重要な役割を果たした黒人監督もいるにはいたが、しかし当時のハリウッドではまだ経験豊富な黒人フィルムメーカーが不足していたため、ジャック・スターレットやラリー・コーエン、ジャック・ヒルなど、既に実績のある白人監督が起用されがちだったのである。 そして、ブラックスプロイテーション映画を語るうえで絶対に外せないのが音楽である。『スウィート・スウィートバック』ではアース・ウィンド&ファイア、『黒いジャガー』ではアイザック・ヘイズ、『スーパーフライ』(’72)ではカーティス・メイフィールド、『コフィー』(’73)ではロイ・エイヤーズといった具合に、今を時めく大物黒人アーティストがテーマ曲や音楽スコアを担当。それらのファンキーなサウンドも、ブラックスプロイテーション映画が人気を博した大きな理由のひとつだった。 ハーレムの悲惨な日常をリアルに映し出す社会派映画 いよいよここからが本題。大手ユナイテッド・アーティスツがフレッド・ウィリアムソン主演の『ハンマー』(’72)に続いて配給したブラックスプロイテーション映画『110番街交差点』である。舞台はニューヨークのハーレム。アパートの一室が警官に変装した黒人3人組の強盗に襲撃され、イタリアン・マフィアの裏金30万ドルが奪われてしまう。ニューヨーク市警のベテラン刑事マテリ警部(アンソニー・クイン)が現場に駆け付けるも、地元住民は警察を嫌っているため有力な情報は出てこない。そればかりか、事件が人種問題に発展することを恐れた上層部の指示で、大学出のエリート黒人刑事ポープ警部(ヤフェット・コット―)が捜査の陣頭指揮を任されることに。暴行や恐喝など朝飯前の昔気質な叩き上げ刑事マテリと、ルールや人権を尊重するリベラル派のインテリ刑事ポープは、その捜査方針の違いからたびたび衝突することになる。 一方、110番街交差点を挟んでセントラルパークの反対側に拠点を構えるイタリアン・マフィアは、現金を奪い返して組織の威厳を回復するため、ボスの娘婿ニック(アンソニー・フランシオサ)をハーレムへ送り込む。出来の悪いニックは組織の厄介者で、これが彼に与えられた最後のチャンスだった。そんな彼を迎え入れるのは、ハーレムを仕切る黒人ギャングのボス、ドック・ジョンソン(リチャード・ウォード)。彼らもまた現金強奪事件で痛手を負っていた。とはいえ、あくまでもイタリアン・マフィアの下働き。それゆえニックは偉そうな態度を取るのだが、もちろんドックはそれが気に食わない。ここは俺たちのシマだ。お前らに好き勝手などさせない。所詮は金だけで繋がった組織同士、決して一枚岩ではなかったのだ。 その頃、現金強奪事件の犯人たちは、何事もなかったように普段通りの生活を送っていた。恋人に食わせてもらっている前科者ジム(ポール・ベンジャミン)にクリーニング店員ジョー(エド・バーナード)、そして無職の妻子持ちジョンソン(アントニオ・ファーガス)。彼らはみんなハーレムに生まれ育った幼馴染みだった。夢も希望もないこの街から出ていきたい。しかし、学歴も資格もない無教養な彼らには、外の世界で人生を立て直すだけの資金もなかった。そんな3人にとって、現金強奪はまさに最後の賭けだったのである。ほとぼりが冷めるまで静かにしているはずだったが、しかし調子に乗って浮かれたジョンソンが派手に女遊びを始めたことから、ニックとドックの一味に存在を気付かれてしまう。マフィアよりも先に犯人グループを逮捕せんとする警察だったが…? どん底の経済不況と犯罪の増加に悩まされた’70年代初頭のニューヨーク。中でも黒人居住区ハーレムの治安悪化は深刻で、余裕のある中流層はクイーンズやブルックリン、ブロンクスなどへ移り住んでしまった。つまり、当時のハーレム住民の大半は、本作の現金強奪犯グループと同様、ハーレムから出たくても出られない、ここ以外に住む場所のない最底辺の貧困層ばかりだったのだ。そんな暗い世相を背景にした本作では、白人マフィアが黒人ギャングを搾取し、その黒人ギャングが同胞である黒人住民を搾取するという、まるでアメリカ社会の縮図のような構造が浮き彫りになっていく。しかも移民の歴史が浅いイタリア系は、支配階級の白人層から見れば差別の対象であった。要するにこれは、弱者がさらなる弱者を抑圧するという負のサイクルを描いた作品でもあるのだ。 この人種間および階級間の軋轢と衝突は、警察組織にもおおよそ当てはめることが出来る。その象徴が、主人公であるハーレム分署のマテリ警部とポープ警部だ。容疑者には殴る蹴るの暴行を加えて自白を強要し、ギャングには軽犯罪を見逃す代わりとして賄賂を要求するマテリ警部。汚職まみれの典型的な不良刑事だが、しかし根っからの悪人ではない。警部という役職など名ばかり。安月給で朝から晩までこき使われ、守っているはずの住民からは嫌われる。心が荒んでしまうのも不思議ではない。しかも、50代にさしかかって昇進も見込めないマテリ警部は、ここ以外に行く当てがない。つまり、彼もまたハーレムから出たくても出られないのである。 そこへ、外部からやって来たエリート刑事に捜査の指揮権を奪われたのだから、心穏やかではいられないだろう。しかも、相手は普段から彼が見下している黒人だ。そのポープ警部は大学出のインテリ・リベラル。政治家や警察上層部からの覚えもめでたく、出世コースは約束されたも同然だ。そもそも立派な身なりからして違う。粗野でみすぼらしいマテリ警部とはまるで正反対だ。しかしそんなポープ警部も、自らの崇高な理想がまるで通用しないハーレムの現実に阻まれ、警察官としての強い信念が少しずつ揺らいでいく。この2人の対立と和解が、モラルの崩壊した世界における正義の在り方を見る者に問いかけるのだ。 ブラックスプロイテーション映画の枠に収まらない特異な作品 こうして見ると、本作は当時作られた数多のブラックスプロイテーション映画群にあって、かなりユニークな立ち位置にある作品だと言えよう。確かにキャストの大半は黒人だし、ハーレムに暮らす貧しい黒人を取り巻く様々な問題に焦点を当てている。血生臭いハードなバイオレンス描写や、ボビー・ウーマックによるソウルフルなテーマ曲と音楽スコアもブラックスプロイテーション映画のトレードマークみたいなものだ。しかしその一方で、社会の底辺に生きる庶民の日常を、徹底したリアリズムで描いていくバリー・シアー監督の演出は、ジュールズ・ダッシン監督の『裸の町』(’48)に代表される社会派フィルムノワールの影響を強く感じさせる。優等生の黒人警官と堕落した白人警官の組み合わせはシドニー・ポワチエ主演の『夜の大捜査線』(’67)を、ニューヨーク市警の腐敗や暴力に斬り込む視点はフランク・シナトラ主演の『刑事』(’68)を彷彿とさせるだろう。 これは恐らく、本作がもともとはブラックスプロイテーション映画として企画されたわけではないからなのだろう。ユナイテッド・アーティスツがウォリー・フェリスの原作小説の権利を入手したのは’70年の夏。同年9月には俳優アンソニー・クインが製作総指揮に関わることが決まったが、しかしマテリ警部役のキャスティングは難航した。第1候補のジョン・ウェインに却下され、さらにはバート・ランカスターやカーク・ダグラスにも断られ、仕方なくクイン自らが演じることになった。また、ポープ警部役も当初はシドニー・ポワチエの予定だったが、黒人コミュニティからの「イメージに相応しくない」との声を受けて変更されている。白人であるバリー・シアー監督の登板にも疑問の声があったようだ。さらに、ハーレムでのロケ撮影や黒人住民の描写について、ニューヨークの様々な黒人団体と事前に協議を重ね、意見を取り入れる必要があった。こうした事情から準備に時間がかかり、そうこうしているうちブラックスプロイテーション映画のブームが到来。やはりジャンル的に意識せざるを得ない…というのが実際のところだったようだ。 劇場公開時は賛否両論。残酷すぎる暴力描写に批判が集まったものの、しかし当時のブラックスプロイテーション映画群の多くがB級エンターテインメントに徹していたのに対し、シリアスな社会派ドラマを志向した本作は、特に黒人の批評家や知識人から高い評価を受けている。ボビー・ウーマックのテーマ曲もビルボードのR&Bチャートで19位をマーク。クエンティン・タランティーノ監督がブラックスプロイテーション映画にオマージュを捧げた『ジャッキー・ブラウン』(‘97)のサントラでも使用されている。■ 『110番街交差点』© 1972 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.04.28
「スウィンギン・ロンドン」前夜の自由な空気を今に伝えるお洒落でシュールなコメディ『ナック』
ユース・カルチャーが台頭した’60年代半ばのロンドン 時代の空気と息吹を鮮やかに封じ込めた、さながらタイムカプセルのような映画である。時は1960年代半ば、場所はイギリスのロンドン。ヨーロッパ諸国に比べて第二次世界大戦後の経済復興が遅れたイギリスだが、しかし’60年代に入ると国民生活も次第に豊かとなり、さらにベビーブーム世代に当たる中流層の若者が経済力を持つことで、本格的な消費社会が到来する。’64年にはそれまでの保守党に代わって、中道左派の労働党政権が誕生。そうした中でファッションやポピュラー音楽などの若者文化が大きく花開き、首都ロンドンは世界に冠たるトレンド発信地へと成長する。 ビートルズにミニスカート、モッズ・カルチャーにカーナビー・ストリート。いわゆる「スウィンギン・ロンドン」の時代だ。’50年代を通して重苦しい空気に包まれたロンドンは、見違えるほど華やかでカラフルな街へと生まれ変わる。欧米のマスコミがロンドンをスウィンギン・シティ(イケてる都市)と呼ぶようになるのは’65~’66年にかけてのこと。’64年に撮影されて’65年に公開された映画『ナック』は、新たな時代へ向けて急速に変わりゆくロンドンの、若さ溢れる楽天的なエネルギーを思う存分に吸い込んだ作品だったのである。 主人公はちょっとばかり神経質な若き学校教師コリン(マイケル・クロフォード)。自宅の部屋を他人に貸している彼は、女性の出入りが激しいモテ男の下宿人トーレン(レイ・ブルックス)にイラっとしており、そのせいで無関係な女性たちにも厳しく当たってしまうのだが、しかし本音を言うと自分もモテたくて仕方がない。女性をゲットするにはどうすればいいのか。このままじゃ将来は欲求不満のスケベおじさんになってしまう! 思いつめた彼は恥を忍んで、トーレンに女性からモテる「コツ(英語でナック)」を伝授してもらおうとする。ところが、面倒くさがりで無責任なトーレンは、「んー、やっぱ食い物じゃね? チーズとかミルクとか肉とか。要するにプロテインよ」「っていうか、直感は大事だよね。でも、こればっかりは生まれつきの才能だからなあ」とテキトーなことばかり。最終的に「女は強気で支配するに限るね」などと言い出す。 その頃、故郷の田舎から長距離バスでロンドンへやって来た若い女性ナンシー(リタ・トゥシンハム)。右も左も分からない大都会に少々面喰いつつも、とりあえずYWCA(キリスト教女子青年会)を探して歩き回るナンシーだったが、しかしなかなか辿り着くことが出来ない。すれ違う人々に道を尋ねても、知らないと首を横に振られたり、間違った道順を教えられたり。そればかりか、見るからに田舎者といった感じの彼女を言いくるめて騙そうとしたり、バカにして軽んじたりする威圧的な男性ばかりに出会う。とはいえ、純朴そうに見えて実は意外としたたかなナンシーは、天性の勘と機転で「女性の危機」を上手いことやり過ごしていく。 一方、女性にモテたいならまずはベッドを大きくしなくちゃね!というナゾ理論に落ち着いたコリンは、部屋を真っ白に塗り替えないと気が済まない新たな下宿人トム(ドナル・ドネリー)に付き添われてベッドを新調することに。スクラップ置場で理想の中古ベッドを発見した彼は、そこへ迷い込んできたナンシーと仲良くなり、3人で意気揚々とロンドンの街を駆け抜けながら自宅へベッドを運ぶ。そこへ現れたトーレンはナンシーに興味津々。コリンも彼女に気があるものの、そんなこと全くお構いなしのトーレンは、チョロそうな田舎娘ナンシーを強気で口説こうとするのだが…!? 新進気鋭の鬼才リチャード・レスターとフリー・シネマの総本山ウッドフォール 本作の基になったのはアン・ジェリコーの同名舞台劇。’62年にロンドンのロイヤル・コートで初演されて評判になった同作は、古い貞操観念や男女の役割に凝り固まった旧世代の保守的なモラルを笑い飛ばす風刺喜劇だった。この舞台版をプロデュースしたのがオスカー・レウェンスタイン。ロンドンの有名な舞台製作者だったレウェンスタインは、その一方で友人トニー・リチャードソンやジョン・オズボーンの設立した映画会社ウッドフォール・フィルムにも深く関わっていた。 ウッドフォール・フィルムといえば、『怒りをこめて振り返れ』(’56)や『土曜の夜と日曜の朝』(’60)、『長距離ランナーの孤独』(’62)などの名作を次々と生み出し、同時期に起きたフランスのヌーヴェルヴァーグと並ぶ重要な映画運動「フリー・シネマ」の中心的な役割を果たしたスタジオである。この舞台版を見て映画化を思いついたリチャードソンは、舞台演出家時代から気心の知れたレウェンスタインに映画版のプロデュースも任せることに。そんな彼らが本作の演出に白羽の矢を立てたのが、当時ビートルズ映画で大当たりを取っていた新進気鋭の映画監督リチャード・レスターだった。 フィラデルフィアで生まれた生粋のアメリカ人だが、少年時代からハリウッド映画よりもヨーロッパ映画を好んで育ったというレスター。19歳で大学を卒業して大手テレビ局CBSに就職したものの、なんとなくアメリカの水が肌に合わないと感じていた彼は、’55年に開局したイギリスのテレビ局ITVの立ち上げに携わり、そのまま同局の番組ディレクターとしてロンドンに居ついてしまう。やがてテレビCMの世界にも進出し、仕事を通じてピーター・セラーズと意気投合したレスターは、セラーズ主演の短編コメディ『とんだりはねたりとまったり』(’59)で映画監督デビュー。そして、この映画の大ファンだったビートルズの指名によって、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(’64)と『ヘルプ!4人はアイドル』(’65)の監督に起用され、テレビCMで培ったポップで斬新な映像感覚が注目される。本作はその合間に手掛けた作品だった。 当時まだ32歳のフレッシュな才能リチャード・レスターと、フリー・シネマの総本山ウッドフォール・フィルム。「スウィンギン・ロンドン」時代の幕開けを告げる映画として、これほど理想的な顔合わせはないだろう。根っからのビジュアリストであるレスター監督は、原作の舞台劇をそのまま映画化するのではなく大胆に改変。重要な要素である「性の解放」と「世代間ギャップ」というテーマはしっかり残しつつ、現実と妄想が巧みに交錯するシュールでお洒落なブラック・コメディへと昇華させている。 早回しや逆再生、ジャンプカットなどの映像技法を凝らした自由奔放な演出は、まさしくビートルズ映画で世に知らしめた当時の彼のトレードマーク。早口で飛び交うリズミカルなセリフのやり取りは、まるでメロディのないミュージカル映画のようだ。バスター・キートンやジャック・タチを彷彿とさせる、とぼけたビジュアル・ギャグの数々も皮肉が効いている。自分たちを縛ろうとする固定概念にノーを突きつけ、今まさに生まれ変わろうとするロンドンの街を、自由気ままに駆け抜けていく4人の若い男女に思わずウキウキワクワク。そんな彼らを見て眉をひそめ、陰口をたたくオジサンやオバサンたちの様子がまた面白い。実はこれ、ロケ現場でたまたま居合わせた通行人を隠し撮りした映像を使っている。そこへ後からセリフを被せているのだ。当時のイギリスの中高年層が、ベビーブーム世代の若者たちをどのような目で見ていたのか分かるだろう。 ヒロインのナンシーを演じるのは、舞台版に引き続いてのリタ・トゥシンハム。当時の彼女はトニー・リチャードソンの『蜜の味』(’61)やデズモンド・デイヴィスの『みどりの瞳』(’64)に主演し、文字通り「フリー・シネマのミューズ」とも呼ぶべき存在だった。そういえば彼女、’60年代のロンドンを描いた『ラストナイト・イン・ソーホー』(’21)にも出ていたが、あの映画のヒロイン、エリーとサンディは本作のナンシーの暗黒バージョンみたいなものと言えよう。後にロンドンとブロードウェイの初演版『オペラ座の怪人』などに主演し、ミュージカル界の大スターとなるマイケル・クロフォードもウルトラ・チャーミング。そのピュアな少年っぽさは、どことなくエディ・レッドメインを彷彿とさせる。 さらに本作は、無名時代のジェーン・バーキンにジャクリーン・ビセット、シャーロット・ランプリングが出演していることでも知られている。夢とも現実ともつかぬオープニング・シーンで、モテ男トーレンに会うため階段にズラリと並んで列を作っている美女たち。ドアを開けたコリンの目の前に立っている女性がジャクリーン・ビセットだ。さらに、コリンの部屋に椅子を借りに来て、その後トーレンのバイクに乗って颯爽と去っていく美女がジェーン・バーキン。また、トーレンやコリンと水上スキーを楽しむダイビングスーツ美女2人の片割れがシャーロット・ランプリングである。 同年のカンヌ国際映画祭ではパルム・ドールと青少年向映画国際批評家賞の2部門に輝き、リチャード・レスター監督の名声を決定的なものにした『ナック』。当時は斬新だった映像技法やユーモアも、時代と共に色褪せてしまった感は否めないものの、しかし「スウィンギン・ロンドン」前夜の活気溢れるロンドンの空気を今に伝える作品として、映画ファンならずとも見逃せない作品だ。■ 『ナック』© 1965 Woodfall Film Productions Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.04.06
ヌーヴェルヴァーグの先駆者シャブロルの代表作『いとこ同志』
「フランスのヒッチコック」とも呼ばれたシャブロルとは? ‘50年代後半から’60年代にかけて、フランス映画界を席巻した「ヌーヴェルヴァーグ」の大きな波。当時のヨーロッパではイギリスのフリー・シネマやドイツのニュー・ジャーマン・シネマなど、各国で新世代の先進的な若手映像作家が急速に台頭し、旧態依然とした映画界に変革を起こしつつあった。それはヨーロッパ最大の映画大国フランスでも同様。従来のスタジオシステムに囚われない若い才能が次々と登場し、その大きなうねりを人々は「新たな波=ヌーヴェルヴァーグ」と呼んだのである。 このヌーヴェルヴァーグのムーブメントには、大きく分けて「カイエ・デュ・シネマ派」と「セーヌ左岸派」が存在した。前者は雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に寄稿していたフランソワ・トリュフォーやジャン・リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、エリック・ロメールなどの映画批評家たち、後者はパリのセーヌ左岸に集ったアラン・レネやアニエス・ヴァルダ、ルイ・マルなど主にドキュメンタリー出身の作家たち。その「カイエ・デュ・シネマ派」の中でも先陣を切って映画制作に乗り出し、トリュフォーやゴダールと並んでヌーヴェルヴァーグの旗手と目されたのがクロード・シャブロルだった。 とはいえ、当時のヌーヴェルヴァーグ作家群の中でも、シャブロルは少なからず異質な存在だったと言えよう。ゴダールは自己表現のために映画を利用し、シャブロルは映画そのものに奉仕すると言われるように、彼は特定のジャンルやイデオロギーに囚われることなく様々なタイプの映画に取り組む、純粋な意味での「映画作家」だった。なので、やがてヌーヴェルヴァーグの勢いが落ち着いていくと、商業映画に背を向けたゴダールやリヴェットが政治的に先鋭化し、資金繰りに窮したロメールはテレビへ活路を見出し、トリュフォーはメインストリームのアート映画を志向するなど、ヌーヴェルヴァーグの仲間たちが各々別の道を模索していく中、シャブロルは折から流行のスパイ・コメディなど大衆娯楽映画に進出する。恐らく彼にとっては、たとえ低予算のプログラム・ピクチャーであろうと、大好きな映画を撮り続けることが重要だったのだろう。 中でも彼が最も得意としたのはミステリー映画。アルフレッド・ヒッチコックやフリッツ・ラング、ジョゼフ・L・マンキーウィッツなどをこよなく愛し、ロメールと共著でヒッチコックの研究書も執筆したことのあるシャブロルは、’60年代後半から’70年代にかけて『女鹿』(’68)や『肉屋』(’69)など数々の優れたミステリー映画を発表し、一時は「フランスのヒッチコック」とも評されるようになる。ヌーヴェルヴァーグを一躍世に知らしめたと言われ、ベルリン国際映画祭では金熊賞を獲得した監督2作目『いとこ同志』(’59)にも、既にその兆候を垣間見ることが出来るだろう。 明暗を分ける「いとこ同志」の青春残酷物語 法学の試験を受けるため、田舎から大都会パリへとやって来た若者シャルル(ジェラール・ブラン)。真面目でシャイなお人好しの彼は、同じく法律を学ぶ従兄弟ポール(ジャン=クロード・ブリアリー)と同居することを条件に、過保護な母親の許しを得ることが出来たのだ。そのポールは、シャルルとまるで正反対の破天荒で不真面目なプレイボーイ。広い高級アパートに遊び仲間を集めては、夜な夜なドンチャン騒ぎを繰り広げている。その贅沢な暮らしぶりに圧倒される田舎者のシャルルだったが、少しずつグループの輪にも慣れていき、大都会での暮らしを満喫しつつ勉学に励む。日頃から傲慢で自堕落なポールも、実のところ根は悪い人間ではなかった。 そんなある日、シャルルはポールの取り巻きグループの女性フロランス(ジュリエット・メニエル)に一目惚れする。恋に落ちると周りが見えなくなってしまう初心で不器用なシャルル。それなりに恋愛遍歴を重ねてきたフロランスも、今どき珍しく純情で一途なシャルルに好感を抱き、デートの誘いに応じるようになる。ところがある時、約束の時間を間違えたフロランスがアパートでシャルルを待っていたところ、ポールとその悪友クロヴィス(クロード・セルヴァル)に忠告される。真面目過ぎるシャルルと遊び慣れた君とでは絶対に合わない、いずれ退屈して彼を傷つけることになるだけだ…と。なんとなくその場の雰囲気でポールとキスしたフロランスは、そのまま彼の恋人として同居することになる。 この予期せぬ展開に大きなショックを受けるシャルルだったが、それでもなんとか平静を装い、試験に合格して見返してやろうとする。なにより、女手ひとつで育ててくれた母親の恩に報いるためにも、試験に落ちるわけにはいかなかった。とはいえ、目の前でいちゃつく2人との共同生活はストレスで、なかなか勉強にも身が入らない。そんなシャルルの複雑な心境も考えず、勉強ばかりしないで一緒に遊ぼうよ!と無邪気に誘うポールとフロランス。おかげで、シャルルはあえなく試験に落第してしまう。一方、ろくに勉強などしなかったポールは、賄賂とコネを使ってちゃっかり合格を手に入れていた。恋人を横取りされたうえに、試験でも負けてしまったシャルル。やはり貧乏人は金持ちに敵わないのか。無力感と敗北感に苛まれた彼の心に、やがてポールへの殺意が芽生えていく…。 また、本作はシャブロルにとって最大の協力者である脚本家ポール・ジェゴフとの初仕事でもあった。ルイ・マル監督の『太陽がいっぱい』(’60)の脚本家としても知られ、シャブロルとは「カイエ・デュ・シネマ」時代からの親友だったジェゴフ。実は『美しきセルジュ』でも彼に手伝ってもらうつもりだったシャブロルだが、しかし当時のジェゴフは20世紀フォックス広報部の業務で忙しかったために叶わなかった。まあ、もとはといえば先にフォックスで仕事をしていたシャブロルが、スタッフ増員の際にジェゴフを引き入れたので、その経緯を考えれば無理を言えた義理ではなかったのだろう。その後、仕事に嫌気のさしたジェゴフはフォックスを退社。めでたく(?)本作での初コラボが実現することとなったわけだ。 基本的にジェゴフが草稿を書き上げ、そこにシャブロルが加筆・修正を加えていくというスタイルで完成した本作の脚本。元になったあらすじはシャブロルのものだが、しかし出来上がった脚本の99.5%はジェゴフのものだという。そんなジェゴフは相当に破天荒な人物だったそうで、なおかつ女性関係にもだらしなかったという。もしかすると、ポールのモデルは彼だったのかもしれない。ただまあ、若い頃のシャブロルもなかなかのヤンチャ坊主で、しかも女癖の悪さを治すために結婚したというほどの遊び人だったらしいので、反対にジェゴフがシャブロルをもとにしてポールの人物像を作り上げたとも考え得る。その辺りも興味深いところだ。 ちなみに、本作は後にシャブロルのミューズとして数々の映画に主演し、2番目の妻ともなる女優ステファーヌ・オードランとの初仕事でもある。ポールの友人で生真面目すぎる若者フィリップを振り回す、プラチナブロンドの浮気性女フランソワーズを演じているのがオードランだ。主演のジェラール・ブランとジャン=クロード・ブリアリーは、前作『美しきセルジュ』からの再登板。これが本格的な映画デビューだったフロランス役のジュリエット・メニエルは、化粧石鹸の広告で彼女を見かけたシャブロルによってスカウトされたという。■ 『いとこ同志』© 1959 GAUMONT
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COLUMN/コラム2022.04.06
『ジョーズ』ブームの流れを汲むエログロ満載の海洋モンスター映画!『モンスター・パニック』
男は殺して女はレイプする!残酷でスケベな半魚人軍団が漁村を襲撃! ハリウッド映画にセックスとバイオレンスが溢れていた時代を象徴するようなモンスター映画である。1934年に映画界の自主規制条項ヘイズ・コードが実施されて以降、キリスト教のモラルに反するような性描写や暴力描写などが半ばご法度となってしまったハリウッド。ヘイズ・コード自体に法的な強制力があったわけではないが、しかし全米の映画館の大半はアメリカ映画製作者配給者協会(現在の映画協会)の承認した映画しか上映せず、その承認を得るためにはヘイズ・コードの条項を遵守したうえで審査を受ける必要があった。そのため、草創期のアメリカ映画には存在したセックスとバイオレンスが、30年以上に渡ってほとんど影をひそめてしまったのである。 もちろん、そうした実質上の「検閲」を意に介さないフィルムメーカーたちも存在はした。ハリウッドの映画業界とは縁もゆかりもなく、従ってヘイズ・コードの審査を通す必要もないインディペンデント映画の製作者たちだ。彼らはメジャーな映画をレンタルする経済的な余裕がない場末の映画館やドライブイン・シアターのため、安上がりで刺激的な内容の性教育映画やヌーディスト映画、スプラッター映画を供給したのである。ただ、それらの作品は上映できる場所が限られていたため、一般的な映画ファンの目に触れる機会はあまりなかった。しかし、社会の意識改革が進んだ’60年代半ばになるとヘイズ・コードの影響力も薄れ、’68年には廃止されて現在のレーティング・システムが導入されることに。’70年代以降はハリウッドのメインストリーム映画でもセックスとバイオレンスが本格的に解禁され、中でも商魂たくましいB級エンターテインメントの世界では我先にと過激さを競うようになる。血みどろの残酷描写とあられもない女体ヌードが満載の本作『モンスター・パニック』(’80)も、そんなハリウッドのエログロ全盛期に誕生した映画のひとつだった。 舞台はカリフォルニア州の小さな漁村ノヨ。豊かな自然に恵まれた平和な場所だが、しかしその水面下では住民同士の対立が深まっていた。というのも、数年前から地元に大きな缶詰工場の建設が計画され、その経済効果に期待する推進派と環境破壊を懸念する反対派が互いにいがみ合っていたのである。中でも推進派の代表格ハンク(ヴィック・モロー)と、反対派のリーダーであるネイティブ・アメリカンの青年ジョニー(アンソニー・ペーニャ)は犬猿の仲。人種差別主義者でもあるハンクはジョニーを目の敵にし、子分どもを率いてたびたび嫌がらせをしていたのだが、村人からの信頼も厚い中立派のジム(ダグ・マクルーア)の仲裁で、なんとか決定的な衝突が避けられているような状態だった。 そんなある日、沖合に出ていた漁船が正体不明の巨大生物に襲われて大破し、さらに地域で放し飼いにされていた犬たちが大量に殺される。これを反対派の仕業だと勝手に思い込んで報復を計画するハンク一味。しかし、真犯人は海から陸へ上がって来た半魚人の群れだった。やがて、海岸でデートをしている若いカップルが次々と半魚人に襲撃されていくのだが、しかし殺されるのは男性だけ。一方の女性は片っ端からレイプされてしまう。ジョニーの自宅でバーベキューを楽しんでいたジムの弟トミーと恋人リンダも被害に遭い、辛うじてトミーは一命を取り留めたものの、助けを呼ぶため車を走らせたリンダは、半魚人に襲われて端から転落死してしまった。ジョニーの証言によって村の危機を知ったジムは、缶詰工場の顧問を務める生物学者スーザン(アン・ターケル)の協力を得て真相究明に乗り出す。 以前から運営会社に環境破壊の危険性を警告していたスーザンは、会社が秘密裏に遺伝子操作で開発した新種のサーモンが工場から流出し、それを食べた海洋生物が突然変異でヒューマノイド化したと推測する。しかも、彼らは種を進化させるために人間の女性との交配を目論み、不要な男性は容赦なく殺していたのである。折しも、村では毎年恒例のサーモン祭が開かれようとしていた。住民や観光客に警戒を呼び掛けようとするジムとスーザン。しかし時すでに遅く、大量の半魚人軍団に襲撃されたサーモン祭は阿鼻叫喚の地獄と化してしまう…! 『モンスター・パニック』© 1980 New World Productions, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.03.08
同性愛者を矯正する「救済プログラム」の実態を描く問題作『ある少年の告白』
19歳で矯正施設へ送られた少年の実話 同性愛は精神疾患でも性倒錯でもなく、異性愛と同じく本人の意思で変えることのできない先天的性質である。これは世界保健機関やアメリカ精神医学会など世界中の専門組織が認めた事実であり、少なくとも現在の先進諸国においては共通の認識であるはずだが、しかしその一方で様々な理由(主に宗教的な偏見)から同性愛を犯罪として禁じる、あるいは心の病気だとして「治療」しようとする国や地域も依然として存在する。 実はLGBTQ先進国アメリカもそのひとつ。’15年に国内全州での同性婚が認められるなど、同性愛への社会的な理解が進んでいるアメリカだが、しかし今なお伝統的なキリスト教の価値観が根強い保守的な地域も多く、中には同性愛者を異性愛者に矯正する救済プログラムを実施している団体も存在する。これまでに70万人以上のアメリカ人が、そうした救済プラグラムを受けており、そのおよそ半分がティーンエージャーなのだそうだ。えっ、21世紀のアメリカで?未だに?と驚きたくもなる話だが、そんな前時代的かつ非人道的な救済プログラムの実態を、実際に体験した当事者の手記を基にして描いた作品が、この『ある少年の告白』(’18)である。 原作はNYタイムズのベストセラーにも選ばれた回顧録「Boy Erased: A Memoir」(’16年出版)。著者のガラード・コンリーは、大学生だった’04年に自らが同性愛者であることを両親に打ち明けたところ、父親の命令でキリスト教系団体Love In Action(LIA)が主催する同性愛者の救済プログラムに参加させられる。なにしろ、彼の故郷であるアメリカ南部アーカンソー州のマウンテン・ホームは保守的な田舎町で、なおかつ父親はバプテスト教会の牧師。福音派の指導者ビリー・グラハムを敬愛する原理主義者の父親によって、幼い頃から「天国と地獄は実在する」「進化論は邪悪な嘘だ」などと教え込まれた彼は、同性愛は罪深い病気だと本気で信じていたという。映画でも描かれている通り、そもそもカミングアウトの原因は大学の同級生男子にレイプされたことだったが、しかしその際にも「これは神が自分に与えた罰だ」と自分を責めたのだそうだ。いやはや、刷り込みというのは恐ろしいものである。しかも、家父長制的なクリスチャンの家庭では父親の言うことが絶対。母親も口出しは出来ない。それゆえ、当時まだ19歳のコンリーにしてみれば、父親の指示に従って救済プログラムを受ける以外に選択肢はなかったのである。 テネシー州のメンフィスにあるLIAの施設でコンリーを待ち受けていたのは、’86年から長きに渡って救済プログラムを指導してきた主任セラピストのジョン・スミッド。「同性愛は生まれつきではなく行動と選択の結果だ」と主張するスミッドは、同性愛の罪を悔いて異性愛者に生まれ変わらねば神から愛されないと若い参加者たちを脅し、君たちが同性愛者になったのは両親の育て方が悪かったからだ、家庭に欠陥があるからだ、母親が過保護なせいだなどとして、家族に憎悪を向けさせるようなセラピーを行ったという。いわば、同性愛が後天的な性質だと信じ込ませるための洗脳である。 さらに、施設内では髪型から下着まで「ゲイっぽい」かどうかのチェックが事細かく行われ、携帯電話やノートなどの私物も勝手に検閲される。男は男らしく、女は女らしく立ち振る舞わねばならない。スポーツトレーニング後に利用するシャワールームでは、マスターベーションを禁じるための砂時計まで用意されていたという。要するに、短時間でさっさとシャワーを終えろ、余計なことは一切するな、考えるなというわけだ。ほかにも、聴いてはいけない音楽や立ち寄ってはいけない場所など、施設の外で守らねばならないルールもあった。ただし、こうした救済プログラムの詳細は他言無用。家族に話すことすら禁じられていた。恐らく、プログラムの内容が重大な人権侵害であることをスミッド自身も認識していたのだろう。 もちろん、このような非科学的かつ非合理的な救済プログラムによって、同性愛者が異性愛者になれるはずなどない。実際、後にジョン・スミッド本人が「救済プログラムで変えられるのは上辺だけ」「実際に同性愛者から異性愛者への転換に成功した者はひとりもいない」と告白している。結局、救済プログラムの実態というのは、参加者に本来の自分を否定させ、強制的に異性愛者のふりをさせること。そのせいで、精神的に追い詰められた参加者が自殺するというケースも起きている。コンリーの場合は幸いにも、母親マーサが息子のSOSをちゃんと受け止め、施設へ乗り込んで救い出してくれた。「自分はまだ幸運だった」とコンリー本人も振り返っている。 皮肉なのは、同性愛者を矯正するという誤った使命感に取りつかれたジョン・スミッド自身が、実は同性愛者だったということだろう。世間からの批判を受けて’08年に教官を辞任してLIAを去った彼は、’14年にパートナー男性との同性婚を果たしている。若い頃に女性と結婚して子供をもうけたというスミッド。恐らく、彼自身が自らの性的指向に強い罪悪感を覚えていたのだろう。それゆえ、同性愛は矯正できると実証したかったのかもしれないが、結果的に身をもって「性的指向は変えられない」ことを証明してしまったのである。原作者の想いを丹念に汲み取ったジョエル・エドガートン監督 そんな日本人の知らないアメリカ社会の暗い一面を映し出す実話を描いた本作。演出を手掛けたのは、俳優のみならず映画監督としても高い評価を得ているジョエル・エドガートンだ。出版当時に原作を読んで自ら映画化することを熱望したそうだが、しかしひとつだけ大きな懸念材料があった。それは、異性愛者である自分に、果たして本作の監督が務まるのだろうか?ということ。ただ、彼にはガラード・コンリーの原作本に強く共感する理由があった。 ご存知の通り、オーストラリアの出身であるエドガートン。彼の故郷ニューサウス・ウェールズ州ブラックタウンは、コンリーの故郷マウンテン・ホームと同じく保守的かつ閉鎖的な田舎町で、エドガートン曰く「みんなが同じでなくてはならず、誰もが仲間外れにされることを恐れて、普通のふりをしながら暮らす町」だったという。しかも、両親は敬虔なカトリック教徒。当然のように彼自身も同性愛者への偏見を持っていた。「当時は周囲の価値観に染まっていただけで、実際は同性愛のことなど深くは考えていなかった」と振り返るエドガートン。しかし、16歳の時に初めて同性愛者の男性と知り合い、さらに演劇学校で学ぶため大都会シドニーへ出て視野が広がったことで、ようやくセクシャリティについてちゃんと理解するようになったという。異性愛者と同性愛者という違いこそあれ、コンリーの生い立ちには自らの生い立ちと重なる点が多かったのだ。 結局、諦めきれずに自ら映画化権を獲得したエドガートンは、原作者コンリーのみならず救済プログラムの関係者や体験者に直接会って話を聞き、さらに客観的な資料も徹底的にリサーチして脚本を書き上げたという。脚本だけでなく撮影した映像も全てコンリーの確認を取り、さらにはLGBTQのメディアモニタリングを行う組織GLAADにも本編をチェックしてもらった。なにしろ、センシティブな題材を門外漢が描くわけだから、間違った表現などがないよう細心の注意を払ったのである。 出来上がった作品は、登場人物の名前こそ架空のものに変更されているものの、それ以外は実際の出来事をほぼ忠実に再現。決してセンセーショナリズムに訴えることなく、あえて誰かを悪者に仕立てることもなく、無知や偏見に基づいた救済プログラムの危険性を訴えつつ、お互いを労わり合う親子の衝突と和解を描くファミリー・ドラマとしてまとめあげている。重苦しさよりも優しさ、憎しみや疑念よりも愛し合う家族の絆が際立つ。原作者自身が「両親を恨んでなどいない」と語っているが、その心情を丹念に汲み取ったエドガートン監督の慈しみ溢れる眼差しが印象的だ。中でも、ニコール・キッドマン演じる母親ナンシーの愛情深さには胸を打たれる。慎ましやかな南部の女性として常に夫や周囲の男性を立て、たとえ不平不満があっても黙って彼らに従ってきたナンシーが、最愛の息子を守るために「もう黙ったりしない」と夫に反旗を翻す。まさしく「母は強し」。これはクイアー映画であると同時にフェミニズム映画でもあるのだ。 結局のところ、「お前のためだ」という父親マーシャル(ラッセル・クロウ)も、「君のためだ」というセラピストのサイクス(ジョエル・エドガートン)も、実は自分の個人的なイデオロギーや信仰心のために主人公ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)を変えようとする。もちろん本人たちに悪意などなく、むしろ良かれと思ってやっているわけだが、それでもなお彼らが自分本位であることには変わりがない。他者が好むと好まざるとに関わらず、人にはそれぞれ持って生まれた特性というものがある。それはなにも性的指向だけに限らないだろう。本当に誰かのためを想うのならば、その人のありのままをまずは受け入れるべきではないのか。その大前提がないと、たとえ家族であっても信頼関係を構築することはできないだろう。 ちなみに、サイクス役を自らが演じるにあたって、エドガートン監督はモデルとなったジョン・スミッド本人にも面会したという。ニューヨークで行われた映画のプレミアにもスミッドは参加。救済プログラムのセラピストを辞任後、メディアを通じて公に謝罪をした彼だが、しかし原作者コンリーによると彼の家族への直接的な謝罪はされていないそうだ。父親はようやく息子の同性愛を受け入れたというが、それでも親子の関係には少なからぬ傷跡が残されたままだとも語っている。その後、LIAは名称を変えて救済プログラムも廃止されたが、現在は既に組織自体が解散してしまった模様。それでもなお、同種の救済プログラムを法律で禁じているのは、’20年の時点で全米50州中20州のみ。それ以外の地域では、いまだに行われているところがあるという。■ 『ある少年の告白』© 2018 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
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COLUMN/コラム2022.03.01
メキシコの生んだ伝説の悪霊ラ・ヨローナが甦る!『ラ・ヨローナ ~泣く女~』
映画界でも脈々と受け継がれたラ・ヨローナの恐怖 日本でも大人気のホラー映画『死霊館』ユニバースの第6弾に当たる作品だが、しかしストーリー上の直接的な関連性は薄いため、厳密には単独で成立するスピンオフ映画と見做しても構わないだろう。テーマはメキシコに古くから伝わる怪談「ラ・ヨローナ(泣く女)」伝説。ラテン・アメリカ圏では広く知られた話で、過去に幾度となく映画化もされてきているが、しかし日本でちゃんと紹介されたのは、これが初めてだったのではないかとも思う。そこでまずは、「ラ・ヨローナ」の伝説とはいかなるものなのか?というところから話を始めたい。 それは昔々のこと。メキシコの小さな村に美しい女性が住んでいた。ある時、彼女は村へやって来た裕福な男性と恋に落ちて結婚し、2人の子宝にも恵まれるものの、やがて夫は別の若い女性と浮気をしてしまう。これに怒り狂った女性は、仕返しとして子供たちを川で溺死させてしまった。すぐ我に返って子供らを助けようとしたもののすでに手遅れ。深い喪失感と後悔の念に打ちひしがれた女性は、自らも川に身投げをして命を絶つ。しかし、神の罰を受けた彼女は白いドレス姿の亡霊としてこの世に甦り、我が子を探し求めて泣きながら永遠に地上を彷徨うこととなる。そして、運悪くラ・ヨローナに遭遇してしまった人間は、亡き子供たちの身代わりとして連れ去られてしまうのだ。 地域によって多少の違いはあるものの、一般的に知られているラ・ヨローナ伝説の大まかな内容は以上の通り。メキシコのみならずプエルトリコやベネズエラなど中南米各国に似たような話が存在し、昔から大人が子供を躾けるための怪談として語り継がれてきたという。「悪いことをするとラ・ヨローナにさらわれちゃうよ」と。さらに、中南米からの移民によってアメリカへも伝説は持ち込まれ、かつて1990年代にはマイアミやニューオーリンズ、シカゴなどの各地で、ホームレスの子供たちが黒い涙を流すラ・ヨローナを目撃したという噂が広がったこともあった。 ラ・ヨローナのルーツについては諸説ある。そのひとつが、古代アステカの神話に出てくる女神シワコアトル。亡き息子を探し求めて泣きながら現れる、死の予兆を感じると泣きながら現れるなどの言い伝えがあるらしいが、いずれにせよ彼女がラ・ヨローナ伝説の元になったという説が最も有力だ。また、エウリピデスのギリシャ悲劇「メディア」との類似性を見出すこともできるだろう。夫の裏切りに怒り狂った王女メディアが、復讐のため我が子を手にかけるという下りは非常によく似ている。さらに、アステカ帝国を征服したスペインの侵略者エルナン・コルテスに棄てられたインディオの愛人マリンチェが、奪い去られそうになった息子をテスココ湖のほとりで殺害し、死後に亡霊となって泣きながら地上を彷徨ったという逸話もあるそうだが、しかし彼女とコルテスの息子マルティンはスペインでちゃんと育っているので、これは裏切り者の代名詞として憎まれたマリンチェを貶めるために生まれた作り話と思われる。 そんなラ・ヨローナが初めて映画に登場したのは、メキシコで最初のホラー映画とも呼ばれる『La Llorona(泣く女)』(’33)。これはラ・ヨローナの呪いをかけられた一家の話で、ホラーというよりもミステリー仕立てのメロドラマという印象だ。続く『La Herencia de la Llorona(泣く女の遺産)』(’47)は幻の映画とされており、筆者も見たことはないのだが、推理ミステリーの要素が強かったらしい。’60年代には有名なB級映画監督ルネ・カルドナが『La Llorona(泣く女)』(’60)という作品を残しているが、しかしラ・ヨローナ映画の最高傑作として名高いのは、メキシカン・ホラーの巨匠ラファエル・バレドンの『La Maldición de la Llorona(泣く女の呪い)』(’61)であろう。ここでは黒装束に黒い眼をしたラ・ヨローナが登場。ラ・ヨローナを復活させるための生贄に選ばれた女性の恐怖を描き、マリオ・バーヴァ監督の『血ぬられた墓標』(’60)を彷彿とさせるゴシックな映像美が素晴らしい。 以降も、覆面レスラーのサントがラ・ヨローナと対決するルチャ・リブレ映画『La Venganza de la Llorona(泣く女の復讐)』(’74)、ラ・ヨローナ伝説にフェミニズムを絡めたシリアスな幽霊譚『Las Lloronas(泣く女たち)』(’04)、珍しく日本でDVD発売された『31km』(’06)、マヤ語の方言でラ・ヨローナを意味する悪霊ジョッケルが出てくる『J-ok'el』、ラ・ヨローナ伝説を子供向けにアレンジしたアニメ『La leyenda de la Llorona(ラ・ヨローナの伝説)』(’11)が登場。その中でも『Las Lloronas』は女性監督らしい視点の光る秀作だ。また、アメリカでもラ・ヨローナ伝説にエクソシストを絡めた『Spirit Hunter: La Llorona』(’05)、『死霊のはらわた』風にアレンジした『The Wailer』(’05)、スラッシャー映画仕立ての『The River: Legend of La Llorona』(’06)などが作られており、『The Wailer』と『The River: Legend of La Llorona』はシリーズ化もされている。ただ、’00年代のアメリカ版ラ・ヨローナ映画は、いずれもウルトラ・ローバジェットのインディーズ映画で、残念ながら決して出来が良いとは言えない。 ハリウッドが初めて本格的に取り組んだラ・ヨローナ映画 そして、ハリウッドのメジャー映画が初めてラ・ヨローナを取り上げたのが本作『ラ・ヨローナ~泣く女~』(’19)。冒頭でも述べたように『死霊館』ユニバースのひとつとして作られたわけだが、しかしシリーズ作品との関連性は『アナベル 死霊館の人形』(’14)のペレズ神父がサブキャラとして出てくることと、フラッシュバックで一瞬だけアナベル人形が姿を見せるくらいしかない。 映画の冒頭はオリジン・ストーリー。1673年のメキシコで、夫に浮気された女性が復讐のため2人の息子を川で溺死させ、自らも命を絶って白いドレスの悪霊ラ・ヨローナとなる。舞台は移って1973年のロサンゼルス。時代設定は『アナベル 死霊博物館』(’19)の1年後に当たる。警官の夫に先立たれた女性アンナ(リンダ・カーデリーニ)は、ソーシャルワーカーとして働きながら2人の子供を女手ひとつで育てている。ある時、アンナは担当するメキシコ系のシングルマザー、パトリシア(パトリシア・ヴェラスケス)と連絡が取れないとの報告を受け、無事を確認するため彼女の自宅へ訪問すると、物置部屋に監禁されたパトリシアの息子たちを発見する。児童虐待を疑われて逮捕されたパトリシアだが、しかし本人は子供たちを守るためだと必死になって懇願する。そして翌晩、施設に預けられていたパトリシアの子供たちが、なぜか近くの川で溺死体となって発見された。 真夜中に亡き夫の元相棒クーパー刑事(ショーン・パトリック・トーマス)から呼び出され、息子クリス(ローマン・クリストウ)と娘サマンサ(ジェイニー・リン=キンチェン)を連れて現場へ駆けつけるアンナ。大きなショックを受ける彼女に、半狂乱になったパトリシアが「あんたのせいだ」と激しく詰め寄り、子供たちはラ・ヨローナに殺されたと主張する。その頃、車で待っていたクリスとサマンサは悪霊ラ・ヨローナ(マリソル・ラミレス)に襲われるが、言っても信じては貰えまいと母親には内緒にする。それ以来、アンナの自宅では奇妙な現象が相次ぎ、やがて彼女自身もラ・ヨローナの姿を目撃。悪霊は明らかに子供たちを狙っていた。恐ろしくなったアンナは教会のペレズ神父(トニー・アルメイダ)に相談し、強力なシャーマンである呪術医ラファエル(レイモンド・クルス)を紹介してもらう。愛する我が子を守るため、ラファエルの力を借りてラ・ヨローナに立ち向かうアンナだったが…? ロサンゼルスが舞台となっているのは、ここがかつてメキシコ領だったこと、現在に至るまでメキシコ系住民の多いことが主な理由であろう。’70年代を時代設定に選んだのは、もちろん当時のオカルト映画ブームへのオマージュという意味もあろうが、同時に本作が女性の映画、母親の映画であることにも深く関係しているように思う。ウーマンリブ運動の台頭によって女性の権利向上が飛躍的に進んだ’70年代のアメリカだが、それでもまだ女性の社会的地位は決して高いとは言えず、マーティン・スコセッシ監督の『アリスの恋』(’74)など当時の映画を見ても分かる通り、シングルマザーが子育てをするには依然として厳しい社会環境だった。周囲の理解やサポートをなかなか得られないシングルマザーが、子供を守るため悪霊に立ち向かっていくという本作のストーリーにとって、そうした時代背景はとても重要な要素とも言えるだろう。 アメリカでもラテン・コミュニティの間では誰もが知る有名な怪談だったラ・ヨローナの物語。これが長編映画デビューだったマイケル・チャベス監督も、ロサンゼルスで育ったことからラ・ヨローナを知っていたそうだが、しかし一般的な知名度はそれほど高くなかった。そのため、本作はラ・ヨローナ伝説の基本へと立ち返り、その存在を初めて知る平均的なアメリカ人女性を主人公に据えることで、予備知識のない観客でも理解できるオーソドックスなオカルト映画に仕立てられている。一部を除いてCGやグリーンバックの使用をなるべく避け、アナログな特殊メイクでラ・ヨローナを描写している点も、古き良きオカルト・ホラーの雰囲気を醸し出して効果的だ。ラ・ヨローナという題材以外に目新しさはないものの、そのぶん安心して楽しめる王道的なホラー・エンターテインメントと言えよう。 なお、本作の直後にはグアテマラ内戦時代に起きた先住民の大量虐殺事件とラ・ヨローナ伝説を結び付けたグアテマラ映画『La Llorona(泣く女)』(’19)が、さらに最近ではメキシコを旅した米国人一家がラ・ヨローナに襲われる『The Legend of La Llorona』(’22)が作られている。果たして、ラテン・アメリカの生んだ永遠不滅の亡霊ラ・ヨローナは、フレディやジェイソン、キャンディマンなどに続くホラー・アイコンとなり得るだろうか…?■ 『ラ・ヨローナ 〜泣く女〜』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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COLUMN/コラム2022.02.03
大西部を舞台に復讐と贖罪を描くサム・ペキンパー監督の映画デビュー作『荒野のガンマン』
テレビ西部劇をステップに映画進出したペキンパー バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー監督の処女作である。もともと’40年代末にテレビ業界でキャリアをスタートしたペキンパー。ロサンゼルスのローカル局で裏方スタッフとして働きながら映画界でのチャンスを狙っていた彼は、やがて『第十一号監房の暴動』(’54)や『地獄の掟』(’54)などドン・シーゲル監督作品のダイアログ・コーチに起用され、そのシーゲル監督の推薦で『ガンスモーク』や『西部のパラディン』などテレビ西部劇の脚本家となる。その『ガンスモーク』のために書いて却下された脚本が元となって、人気シリーズ『ライフルマン』(‘58~’63)が誕生。同作でエピソード監督も経験した彼は、自らクリエイターを務めた西部劇シリーズ『遥かなる西部』(‘59~’60)の脚本と監督を手掛ける。 だが、この『遥かなる西部』は高い評価を受けたわりに視聴率が伸びず、たったの13話でキャンセルされてしまった。その後、同作で主演を務めた俳優ブライアン・キースが低予算の西部劇映画に出演が決まり、『遥かなる西部』で組んだペキンパーを監督としてプロデューサーに推薦する。それが待望の映画監督デビュー作となった『荒野のガンマン』というわけだ。 舞台は19世紀後半のテキサス。元北軍将校の流れ者イエローレッグ(ブライアン・キース)は、かつて南軍兵士にナイフで頭の皮を剥がされそうになり、その際に出来た額の大きな傷跡を隠すため常に帽子を被っていた。必ずやあの男を探し出して復讐してやる。それだけを生き甲斐に西部を転々としてきた彼は、たまたま立ち寄った酒場でついに宿敵ターク(チル・ウィルス)と遭遇する。どうやら、向こうはこちらの顔を全く覚えていないようだ。タークにはビリー(スティーヴ・コクラン)という相棒がいた。「ヒーラの町に新しく銀行が出来た。保安官は老いぼれだから楽に稼げる」と言って、ビリーとタークを銀行強盗に誘うイエローレッグ。もちろん、憎きタークを陥れるための策略だ。 賑やかな町ヒーラへ到着し、銀行周辺の様子を探る3人。そんな彼らが見かけたのは、町の人々から後ろ指を指される美しい踊り子キット(モーリン・オハラ)とその幼い息子ミード(ビリー・ヴォーン)だった。結婚したばかりの夫を旅の途中でアパッチ族に殺され、ひとり辿り着いたヒーラで息子を出産したキット。だが、偏見にまみれた住民たちはキットが父親の分からない子供を産んだと決めつけ、普段から親子に冷たい眼差しを向けていたのだ。すると、突然銀行の周辺で銃声が鳴り響く。別のならず者たちが先に強盗を働いたのだ。逃げようとする犯人に拳銃を向けるイエローレッグ。ところが、手元が狂ってミードを射殺してしまう。実は戦争で受けた銃弾のせいで、イエローレッグは右肩を痛めていたのだ。 最愛の息子を失って悲嘆にくれるキット。町長や牧師たちはミードの葬儀と埋葬を申し出るが、しかし彼女は毅然とした態度で頑なに断る。これまで町の人々にどれだけ傷つけられてきたことか。今さら同情などされたくない。亡き夫が眠るシリンゴの町へ行き、息子を父親の墓の隣に埋葬しよう。そう決意したキットだったが、しかし廃墟と化したシリンゴはアパッチ族の領地にある。道中は非常に危険だ。それでも旅の支度を済ませて出かけようとするキットに、罪の意識を感じたイエローレッグが護衛として同行を申し出る。そんな彼にありったけの憎しみをぶつけて拒絶し、ひとりで出発してしまうキット。どうしても放っておけないイエローレッグは、反対するビリーやタークを連れて彼女の後を追いかける…。 実は脚本に手を加えることすら許されなかった…!? もともと主演女優モーリン・オハラのスター映画として企画された本作。『我が谷は緑なりき』(’41)や『リオ・グランデの砦』(’50)、『静かなる男』(’52)などジョン・フォード映画のヒロインとして活躍したオハラだが、中でも当時はジョン・ウェインと共演した西部劇の数々で世界中の映画ファンに愛されていた。意志が強くて誇り高い踊り子キット役は、鉄火肌の赤毛女優として気丈なヒロイン像を演じ続けたオハラにはうってつけ。ストーリーを牽引していくのは流れ者イエローレッグだが、しかし後述する作品のテーマを担うのは、間違いなくオハラの演じる女性キットだ。 そんな本作のプロデュースを手掛けたのが、オハラの実弟であるチャールズ・B・フィッツシモンズ。たまたま読んだ30ページほどの草稿を気に入り、すぐさま脚本エージェントに問い合わせたフィッツシモンズだったが、当時は既にマーロン・ブランドが映画化権を押さえていたらしい。しかしその1年後、ブランドが別の企画を選んだことからフィッツシモンズが権利を入手。姉モーリン・オハラの主演を念頭に置いて、プロジェクトの陣頭指揮を執ることになる。シド・フライシュマンの書いた脚本も、基本的にはフィッツシモンズの意向を汲んだもの。完成した脚本を基にしてフライシュマンに小説版を執筆させ、映画への出資金を集めやすくするため先に出版させたのもフィッツシモンズの指示だし、ジョン・ウェインに雰囲気が似ているという理由でブライアン・キースをイエローレッグ役に起用したのもフィッツシモンズの判断だった。要するに、本作は紛うごとなき「プロデューサーの映画」だったのである。 そう考えると、本作が「サム・ペキンパーらしからぬ映画」と呼ばれるのも無理はないだろう。実際、ロケハンの時点から自分のカラーを出そうという姿勢を見せるペキンパーに対し、フィッツシモンズは脚本の改変も独自の解釈も一切許さなかった。脚本に書かれた通り忠実に映像化すること。それがペキンパーに与えられた役割だったのである。しかも、これが初めての長編劇映画であるペキンパーは現場に不慣れだったため、撮影中はずっとフィッツシモンズが付きっきりで演出に口を挟んだらしい。なにしろ、製作費50万ドルと予算が少ないため、撮影スケジュールを伸ばすわけにはいかない。当然ながら、根っからの反逆児であるペキンパーとフィッツシモンズは対立し、現場では喧嘩が絶えなかったという。 それでもなお、どこかマカロニ・ウエスタンにも通じるドライな映像美や荒々しい暴力描写、憎悪や復讐という人間心理のダークサイドを掘り下げたストーリーには、もちろん当時の修正主義西部劇という大きな潮流の影響もあるだろうとはいえ、その後のサム・ペキンパー映画を予感させるものを見出すことは可能だろう。中でも、銀行から奪った金で黒人奴隷や先住民を買い揃えて軍隊を作り、南部連合の夢よ今一度とばかりに自分だけの共和国を建設するという妄想に取りつかれたタークは、いかにもペキンパーが好みそうな狂人キャラのように思える。そういう意味で、本作の監督にペキンパーを推したブライアン・キースは間違っていなかった。 ただ、映画そのもののテーマは非常に道徳的で、なおかつ宗教的でもある。復讐だけを心の拠り所にしてきたイエローレッグは、それゆえに子供殺しという取り返しのつかない罪を犯してしまう。キットを危険から守るためのシリンゴ行きは、彼にとっていわば贖罪の旅だ。その過程で我が身を振り返った彼は復讐の虚しさを噛みしめ、キットとの愛情に人生の新たな意味を見出していく。一方のキットもまた、世の中の理不尽に対して怒りや憎しみを抱き続けていたが、しかし己の罪と真摯に向き合おうとするイエローレッグの姿に心動かされ、やがて深い愛情と寛容の心で荒み切った彼の魂を救うことになる。新約聖書でいうところの「復讐するは我にあり」。つまり、復讐というのは神の役目であって人間のすべきことではない。悪に対して悪で報いるのではなく、善き行いによって悪を克服すべきである。それこそが本作の言わんとするところであろう。 結局、ペキンパー本人にとっては少なからず不本意な映画となった『荒野のガンマン』。インディペンデント映画であったため劇場公開時はあまり話題にならず、興行的にも制作陣が期待したような結果を残すことが出来なかった。これを教訓とした彼は、脚本に手を加えることが許されないような仕事は一切引き受けないと心に誓ったという。とはいえ、そこかしこに「バイオレンスの巨匠」の片鱗を垣間見ることが出来るのも確かであり、映画監督サム・ペキンパーの原点として見逃せない作品だ。■ 『荒野のガンマン』© 1996 LAKESHORE INTERNATIONAL CORP. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.02.03
シリアルキラーの脳内世界をポップに描いたシュールなブラック・コメディ『ハッピーボイス・キラー』
監督は傑作『ペルセポリス』のマルジャン・サトラピ シリアルキラーの深層心理へと観客を誘い、その目から見える世界をポップ&ユーモラスに描いたシュールなブラック・コメディ。フリッツ・ラング監督の『M』(’31)を筆頭に、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(’60)からファティ・アキン監督の『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』(’19)に至るまで、シリアルキラーを主人公にした映画は古今東西少なくないものの、しかし精神を病んでしまった連続殺人鬼の人間的な内側にこれほど寄り添った作品はなかなか珍しいかもしれない。 演出を手掛けたのはイラン出身のマルジャン・サトラピ。そう、あの傑作アニメ『ペルセポリス』(’07)で有名な女性監督である。近代化と経済成長に沸く’70年代のイランに育ち、裕福でリベラルな両親から西欧的な教育を受けたサトラピだったが、しかし10歳の時にイスラム教の伝統的な価値観への回帰を目指すイラン革命が勃発。それまで比較的自由だった女性の権利も著しく抑圧されてしまう。娘の将来を案じた両親によってヨーロッパへ送り出された彼女は、フランスの美術学校でイラストレーションを学んだ後、パリを拠点にバンドデシネ(フランスの漫画)作家として活動するように。そんな彼女が、自らの少女時代をモデルに描いた漫画が『ペルセポリス』だった。アメリカをはじめ世界中でベストセラーとなった同作を、サトラピ自身が監督したアニメ版『ペルセポリス』もカンヌ国際映画祭で審査員賞を獲得し、アカデミー賞の長編アニメ部門にもノミネート。以降、バンドデシネ作家としてだけでなく映画監督としてもコンスタントに作品を発表した彼女にとって、初めてアメリカ資本で撮った英語作品がこの『ハッピーボイス・キラー』(’14)だった。 舞台はアメリカ北東部の寂れた田舎町ミルトン。地元のバスタブ工場で働く男性ジェリー(ライアン・レイノルズ)は、一見したところごく普通の明るくて爽やかな好青年なのだが、しかし実は少年時代の悲惨なトラウマが原因で長いこと心の病を患っていた。裁判所の命令によって精神科医ウォーレン博士(ジャッキー・ウィーヴァー)の監督下に置かれた彼は、廃墟となったボーリング場の2階に部屋を借り、社会人としての自立を目指していたのである。 そんな彼の同居人が愛犬ボスコと愛猫Mr.ウィスカーズ。仕事から帰ったジェリーを出迎えた彼らは、なんと人間の言葉でペラペラとしゃべり始める。というのも、ジェリーはウォーレン博士から処方された薬を飲まず、言ってみれば常にナチュラルハイの状態だったのだ。いつも妙に明るくて元気でテンションが高いのも、普段から薬を服用していないため。確かに薬を飲めば精神は安定するものの、しかし冷静になって見えてくる現実世界は孤独で殺伐としていて寂しい。それをどうしても受け入れがたいジェリーは、動物たちとおしゃべりできるパステルカラーに彩られたキラキラな自分だけの世界に居心地の良さを見出していたのだ。 ある日、職場で年に1度のパーティが開かれることとなり、その準備を手伝うことになったジェリーは、経理部に勤めるイギリス人女性フィオナ(ジェマ・アータートン)に一目惚れしてしまう。まるで初めて恋をした少年のように浮足立ち、困惑するフィオナに猛アタックするジェリー。はた目から見ればちょっとヤバい人だが、もちろん本人にその自覚は全くない。それどころか、遠回しに断ろうとするフィオナの言葉もまるで耳に入らず、一方的にデートの約束を取り付けてしまう。しかし、その日は経理部の女子会。悪い人じゃないかもしれないけど、あまり気乗りしないなあ…ということで、フィオナはジェリーとのデートをすっぽかしてしまう。 女子会を終えて帰ろうとしたフィオナだが、肝心の車が故障して動かない。困っていたところへ通りがかったのがジェリーの車だった。少々気まずいけれど仕方ない。ジェリーに家まで送ってもらうことにしたフィオナだったが、しかしその途中で飛び出してきた鹿と車が衝突。「この痛みから解放してくれ…」という鹿の声が聞こえたジェリーは、取り出したナイフで鹿の喉を掻っ切る。周囲に飛び散る鮮血。パニックを起こしたフィオナは近くの森へと逃げ、それを追いかけたジェリーはうっかり転倒して彼女を刺し殺してしまう。慌てて自宅へ戻ったジェリーに「警察へ通報するべきだ」と諭す愛犬ボスコ、反対に隠蔽しろと囁く愛猫Mr.ウィスカーズ。フィオナの遺体を回収してバラバラにしたジェリーは、生首だけを冷蔵庫の中に保存する。すると、今度はフィオナの生首がしゃべり出し、「ひとりじゃ寂しい」と懇願。かくして、ジェリーはフィオナの生首友達を集めるため、経理部のリサ(アナ・ケンドリック)やアリソン(エラ・スミス)を次々と手にかけていく…。 ライアン・レイノルズの起用も大正解! なんとも奇想天外かつブッ飛んだ映画である。’50年代風のレトロでカラフルでクリーンな田舎町、人間の言葉を喋るキュートな動物たち、思わず胸を躍らせる軽やかな音楽。まるでスタンリー・ドーネン監督のMGMミュージカル映画のようであり、はたまたヒュー・ロフティング原作の『ドリトル先生不思議な旅』(’67)のようでもある。だが、それはあくまでも精神病を患った主人公ジェリーの目から見える虚構の世界。ひとたび精神安定薬を服用して落ち着くと、明るくて整理整頓された小ぎれいな部屋は暗くて薄汚いゴミ屋敷へ、愛犬や愛猫は人間の言葉など理解しない普通のペットへ、おしゃべりな生首も腐敗臭が漂う腐乱死体へと戻ってしまう。この日常と非日常の極端な対比を、様々な映像スタイルを用いながら織り交ぜることで、現実と空想が複雑に交錯したジェリーの心象世界を鮮やかに再現していく。さすがはコミック作家出身のサトラピ監督らしい、的確で洗練されたビジュアルセンスだ。 脚本を書いたのは『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』や『堕ちた弁護士-ニック・フォーリンー』、『オルタード・カーボン』など、テレビの犯罪ドラマやミステリードラマで知られる脚本家マイケル・R・ペリー。とある番組で監修を務めるFBI行動分析官と知り合ったペリーは、「連続殺人犯の行動が不明瞭だった場合はどうするのか?」と素朴な疑問を投げかけたところ、「犯人が見ている世界を映画のように想像する」との答えが帰って来たという。ぜひその映画を見てみたい!と思ったのが、この脚本を執筆するきっかけだったそうだ。 2009年には映画化されていない優れた脚本を評価する「ブラックリスト」の年次リストに選ばれた本作。同じ年には『ソーシャル・ネットワーク』(’10)や『英国王のスピーチ』(’10)、『ウォール・ストリート』(’10)などもランキングされたが、しかし本作はなかなか映画化が決まらなかった。その理由は、一歩間違えると不謹慎になりかねない題材にあったようだ。なにしろ、シリアルキラーや血生臭い殺人をポップなノリで軽妙洒脱に描くわけだから。実際、オファーを受けたサトラピ監督も最初に脚本を読んでビックリし、主人公ジェリーに観客が共感を抱くにはどうすればいいのか悩んだという。 そこで監督が撮った手段が、ジェリーを子供のまま成長が止まった青年として最後まで愛らしく描くこと。幼い頃に乱暴な父親から虐待を受け、母親の自殺を幇助したことで心に深い傷を負った彼は、そこから大人になることを拒否してしまったのだ。だからこそ厳しい現実世界に向き合うことが出来ず、キラキラとしたバラ色の空想世界に逃避している。いつまでも無邪気で無垢な少年なのだ。だが、そんな彼の中には善と悪が常に拮抗し、しゃべる動物や生首を通して自分自身に語りかける。ジェリー自身は善き人間として社会に溶け込みたい。だから滑稽なくらい一生懸命に明るく振る舞い、仕事に恋愛に前向きに取り組んでいくわけだが、しかし見えている世界が違うために現実とのズレが生じ、やがて苦悩と葛藤の中で内なる悪魔が囁きかけていく。可笑しくもやがて恐ろしく哀しきかな。シリアルキラーを単なる異常なサイコパスとしてではなく、あなたも私も人生の歯車が狂えばそう成り得る平凡な人間として描いているところは白眉だ。 『ブレアウィッチ・プロジェクト』が怖すぎて、冒頭6分で脱落したというくらいホラー映画が苦手だというサトラピ監督。まるでウェス・アンダーソンがサイコパスの頭の中を解析したような本作の演出には、むしろ適任だったかもしれない。それでも、人殺しは忌避すべき邪悪なものとして、決して美化することなく描いている。内臓や肉片を小分けにしたタッパーの山などはゾッとする光景だ。そこは映画自体の根幹的なモラル意識に関わるポイントだけあって、やはり有耶無耶にはできないだろう。あくまでも犯罪は犯罪として絶対的な悪としつつ、そのうえでシリアルキラーの脳内世界を不条理なファンタジーとして描くことで、狂気へと追い込まれていく人間の痛みと悲哀を浮き彫りにする。主要キャラが勢揃いするミュージカル仕立てのエンディングがまた妙に切ない。 また、ジェリー役にライアン・レイノルズを起用したことも大正解だった。どこか初心な少年の面影を残すチャーミングなオール・アメリカンボーイ。中でもコメディは最も得意とするジャンルだ。そんなイメージを逆手にとって、不器用で無邪気で愛らしい青年ジェリーがふとした瞬間に垣間見せるゾッとするような狂気までをも見事に演じている。これはキャスティングの勝利であろう。ライアン本人も本作に深い思い入れがあるようで、自身の最も好きな出演作のひとつに『ハッピーボイス・キラー』を挙げている。ちなみに、愛犬ボスコと愛猫Mr.ウィスカーズはもちろんのこと、蝶々や鹿、さらには靴下で作ったウサギのぬいぐるみの声も、実は全てライアンが吹き替えている。そりゃそうだ。いずれも主人公ジェリーの心の声だもの。ジェリー役を演じるライアンが声を当てるのは当然と言えば当然だろう。 ‘14年のサンダンス映画祭で初お披露目されたものの、配給会社ライオンズゲートが興行的に見込めないと判断したためなのか、アメリカでは大都市のみの限定公開、それ以外はビデオ・オン・デマンドで配信されるにとどまった作品。確かに取り扱い要注意な内容ゆえに賛否は分かれるかもしれないが、しかしシリアルキラー物の変化球として非常にユニークな切り口の映画であることは間違いない。■ 『ハッピーボイス・キラー』© 2014 SERIAL KILLER, LLC. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.01.06
「シネラマ」方式の醍醐味を存分に味わえるスペクタクルなウエスタン巨編!『西部開拓史』
映画界に革命を起こした「シネラマ」とは? 激動する開拓時代のアメリカ西部を舞台に、フロンティア精神を胸に新天地を切り拓いた家族三代の50年間に渡る足跡を、当時「世界最高の劇場体験」とも謳われた上映システム「シネラマ」方式の超ワイドスクリーンで描いた壮大なウエスタン叙事詩である。全5章で構成されたストーリーを演出するのは、西部劇映画の神様ジョン・フォードに『悪の花園』(’54)や『アラスカ魂』(60)のヘンリー・ハサウェイ、喜劇『底抜け』シリーズのジョージ・マーシャルという顔ぶれ。役者陣はジェームズ・スチュワートにグレゴリー・ペック、デビー・レイノルズ、ヘンリー・フォンダ、キャロル・ベイカー、ジョージ・ペパード、そしてジョン・ウェインなどの豪華オールスター・キャストが勢揃いする。1963年(欧州では’62年に先行公開)の全米年間興行収入ランキングでは『クレオパトラ』(’63)に次いで堂々の第2位をマーク。アカデミー賞でも作品賞を筆頭に合計8部門でノミネートされ、脚本賞や編集賞など3部門を獲得した名作だ。 本稿ではまず「シネラマとは何ぞや?」というところから話をはじめたい。というのも、映画界の革命とまで呼ばれて一世を風靡した「シネラマ」方式だが、しかしその本来の規格に準じて作られた劇映画は本作および同時期に撮影された『不思議な世界の物語』(’62)の2本しか存在しないのだ。今ではほぼ忘れ去られた「シネラマ」方式とはどのようなものだったのか。なるべく分かりやすく振り返ってみたいと思う。 「シネラマ」とは3本に分割された70mmフィルムを同時に再生してひとつの映像として繋げ、アスペクト比2.88:1という超横長サイズのワイドスクリーンで上映する特殊規格のこと。撮影には3つのレンズとフィルム・カートリッジを備えた巨大な専用カメラを使用し、劇場で上映する際にも3カ所の映写室から別々のフィルムを同時に専用スクリーンへ投影する。その専用スクリーンも縦9m、横30mという巨大サイズ。しかも、観客席を包み込むようにして146度にカーブしていた。さらに、サウンドトラックは7チャンネルのステレオサラウンドを採用。各映画館には専門の音響エンジニアが配置され、劇場の広さや観客数などを考慮しながらサウンド調整をしていた。このような特殊技術によって、まるで観客自身が映画の中に迷い込んでしまったような臨場感を体験できる。いわば、現在のIMAXのご先祖様みたいなシステムだったのだ。 考案者はパラマウント映画の特殊効果マンだったフレッド・ウォーラー。人間の視覚を映像で忠実に再現しようと考えた彼は、実に14年以上もの歳月をかけて「シネラマ」方式のシステムを開発したのだ。その第一号が1952年9月30日にニューヨークで封切られた『これがシネラマだ!』(’52)。まだ長距離の旅行が一般的ではなかった当時、アメリカ各地の雄大な自然や観光名所を鮮やかに捉えたこの映画は、その画期的な上映システムと共に観光旅行を疑似体験できる内容も大きな反響を呼んだ。以降、シネラマ社は10年間で8本の紀行ドキュメンタリー映画を製作する。 この「シネラマ」方式の大成功に刺激を受けたのがハリウッドのスタジオ各社。当時のハリウッド映画はテレビの急速な普及に押され、全盛期に比べると観客動員数は半分近くにまで激減していた。映画館へ客足を戻すべく頭を悩ませていた各スタジオ関係者にとって、『これがシネラマだ!』の大ヒットは重要なヒントとなる。そうだ!テレビの小さな箱では体験できない巨大な横長画面で勝負すればいいんだ!というわけで、20世紀フォックスの「シネマスコープ」を皮切りに、パラマウントの「ヴィスタヴィジョン」にRKOの「スーパースコープ」、「シネラマ」の出資者でもあった映画製作者マイケル・トッドの「トッド=AO」など、ハリウッド各社が独自のワイドスクリーン方式を次々と開発。これを機にハリウッド映画はワイドスクリーンが主流となっていく。とはいえ、いずれもアナモルフィックレンズで左右を圧縮したり、通常の35mmフィルムの上下をマスキングしたりなど、カメラもフィルムも映写機もひとつだけという似て非なる代物で、映像と音声の臨場感においても迫力においても「シネラマ」方式には及ばなかった。 とはいえ、アトラクション的な傾向の強いシネラマ映画は鮮度が命で、なおかつ似たような紀行ドキュメンタリーばかり続いたことから、ほどなくして観客から飽きられてしまう。そこで、危機感を持ったシネラマ社はハリウッドのメジャースタジオMGMと組んで、史上初の「シネラマ」方式による劇映画を製作することに。その第1弾が『不思議な世界の物語』と『西部開拓史』だったのである。 西部開拓時代の苦難の歴史を描く壮大な叙事詩 ここからは、エピソードごとに順を追って『西部開拓史』の見どころを解説していこう。 第1章「河」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 天下の名優スペンサー・トレイシーによるナレーションで幕を開ける第1章は、西部開拓時代の黎明期である1838年が舞台。オープニングのロッキー山脈の空撮映像は『これがシネラマだ!』からの流用だ。アメリカ東部から西部開拓地を目指して移動する農民のプレスコット一家。父親ゼブロン(カール・マルデン)に妻レベッカ(アグネス・ムーアヘッド)、娘のイヴ(キャロル・ベイカー)とリリス(デビー・レイノルズ)は、旅の途中で毛皮猟師ライナス・ローリングス(ジェームズ・スチュワート)と親しくなる。大自然と共に生きる逞しいライナスに惹かれるイヴだったが、しかし自由を愛するライナスは家庭を持って落ち着くつもりなどない。ところが、近隣の洞窟を根城にする盗賊ホーキンズ(ウォルター・ブレナン)の一味がプレスコット一家を襲撃。助けに駆け付けたライナスはイヴへの深い愛情を確信する。 アメリカン・ドリームを夢見て大西部を目指す農民一家を待ち受けるのは、美しくも厳しい雄大な自然と素朴な開拓民を餌食にする無法者たち。当時の西部開拓民がどれほどの危険に晒されていたのかがよく分かるだろう。オハイオ州立公園やガニソン川でロケをした圧倒的スケールの映像美に息を呑む。中でも見どころなのはイカダでの激流下り。臨場感満点の主観ショットはシネラマ映画の醍醐味であり、見ているだけで船酔いしそうなほどの迫力だ。ちなみに、盗賊一味が旅人を罠にかける洞窟酒場のロケ地となったオハイオ州のケイヴ・イン・ロックスでは、実際に19世紀初頭にジェームズ・ウィルソンという盗賊が酒場の看板を掲げ、仲間と共に誘拐や強盗、偽金作りを行っていたらしい。なお、盗賊ホーキンズの手下として、あのリー・ヴァン・クリーフが顔を出しているのでお見逃しなきよう。 第2章「平地」 監督:ヘンリー・ハサウェイ それから十数年後。農民の暮らしを嫌って東部へ舞い戻ったリリス(デビー・レイノルズ)は、セントルイスの酒場でショーガールとして働いていたところ、亡くなった祖父からカリフォルニアの金山を相続したと知らされる。これを立ち聞きしていたのが、借金で首が回らなくなった詐欺師クリーヴ(グレゴリー・ペック)。西へ向かう幌馬車隊があることを知り、気のいい中年女性アガタ(セルマ・リッター)の幌馬車に乗せてもらうリリス。そんな彼女に遺産目当てで近づいたクリーヴは、自分と似たような野心家のリリスに思いがけず惹かれていくのだが、しかし幌馬車隊のリーダー、ロジャー(ロバート・プレストン)もまたリリスに想いを寄せていた。 ロマンスありユーモアありミュージカルあり、そしてもちろんアクションもありの賑やかなエピソード。ここは『雨に唄えば』(’52)のミュージカル女優デビー・レイノルズの独壇場で、彼女のダイナミックな歌とダンス、チャーミングなツンデレぶりがストーリーを牽引する。イカサマ紳士を軽妙に演じるグレゴリー・ペックとの相性も抜群。そんな第2章のハイライトは、なんといっても『駅馬車』(’39)も真っ青な先住民の襲撃シーン。「シネラマ」方式の奥行きがあるワイド画面を生かした、大規模な集団騎馬アクションを堪能させてくれる。 第3章「南北戦争」 監督:ジョン・フォード 夫ライナスが南北戦争で北軍に加わり、女手ひとつで小さな農場を守るイヴ(キャロル・ベイカー)。血気盛んな若者へと成長した長男ゼブ(ジョージ・ペパード)は、自分も同じように戦場へ行って戦いたいと願っている。そんな折、旧知の北軍兵士ピーターソン(アンディ・ディヴァイン)が、ゼブをリクルートしにやって来る。はじめは頑なに拒否するイヴだったが、しかし本人の強い希望で息子を戦場へ送り出すことに。意気揚々と最前線へ向かうゼブだったが、しかし実際に目の当たりにする戦場は彼が想像していたものとは全く違っていた。 冒頭ではカナダの名優レイモンド・マッセイがリンカーン大統領として登場し、ジョン・ウェインがシャーマン将軍を、ハリー・モーガンがグラント将軍を演じる第2章。アメリカ史に名高い激戦「シャイローの戦い」を背景に、同じ国民同士が互いに血を流した南北戦争の悲劇を通じて、勝者にも敗者にも深い傷跡を残す戦争の虚しさを描く。全編を通して最も西部劇要素の薄いエピソードを、西部劇の神様たるジョン・フォードが担当。平和な農村地帯の牧歌的で美しい風景と、血まみれの死体が山積みになった戦場の悲惨な光景の対比が印象的だ。なお、砲弾飛び交う戦闘シーンの映像は『愛情の花咲く樹』からの流用だ。 第4章「鉄道」 監督:ジョージ・マーシャル 大陸横断鉄道の建設が急ピッチで進む1868年。西からはセントラル・パシフィック社が、東からはユニオン・パシフィック社が線路を敷設していたのだが、両者は少しでも長く線路を敷くためにしのぎを削っていた。なぜなら、担当した線路周辺の土地を政府が与えてくれるから。つまり、より早く敷設工事を進めた方が、より多くの土地を獲得できるのである。騎兵隊の隊長としてユニオン・パシフィック社の警備を担当するゼブ(ジョージ・ペパード)だったが、しかし先住民との土地契約を破ったり、作業員の生命を軽んじたりする現場責任者キング(リチャード・ウィドマーク)の強引なやり方に眉をひそめていた。亡き父ライナスの盟友ジェスロ(ヘンリー・フォンダ)の仲介で、先住民との良好な関係を維持しようとするゼブ。しかし、またもやキングが先住民を裏切ったことから最悪の事態が起きてしまう。 まだまだアメリカ先住民を野蛮な敵とみなす西部劇が多かった当時にあって、本作では彼らを白人から土地を奪われた被害者として描いているのだが、その傾向がハッキリと見て取れるのがこの第4章。ここでは、大西部にも近代化の波が徐々に押し寄せつつある時代を映し出しながら、その陰で犠牲になった者たちに焦点を当てる。最大の見せ場は、大量の野牛が一斉に押し寄せ、開通したばかりの鉄道を破壊し尽くす阿鼻叫喚のパニックシーン。牛のスタンピード(集団暴走)はハリウッド西部劇の伝統的な見せ場のひとつだが、本作は「シネラマ」方式のワイドスクリーン効果で格段にスペクタクルな仕上がりだ。 第5章「無法者」 監督:ヘンリー・ハサウェイ 西部開拓時代もそろそろ終焉を迎えつつあった1880年代末。亡き夫クリーヴと暮らした大都会サンフランシスコを離れることに決めたリリー(デビー・レイノルズ)は、屋敷や財産を全て売り払って現金に変え、懐かしき故郷アリゾナの牧場へ向かう。近隣の鉄道駅で彼女を出迎えたのは、保安官を引退したばかりの甥っ子ゼブ(ジョージ・ペパード)と妻ジュリー(キャロリン・ジョーンズ)、そして彼らの幼い息子たち。そこでゼブは、かつての宿敵チャーリー・ガント(イーライ・ウォラック)の一味と遭遇する。兄をゼブに殺された恨みを持つチャーリー。家族に危険が及ぶことを恐れたゼブは、チャーリーたちが列車強盗を企んでいることに気付くが、しかし後任の保安官ラムジー(リー・J・コッブ)は協力を拒む。たったひとりでチャーリー一味の強盗計画を阻止する覚悟を決めるゼブだったが…? 時速50キロで走行中の蒸気機関車で激しい銃撃戦を繰り広げる、圧巻の列車強盗シーンが素晴らしい最終章。手に汗握るとはまさにこのこと。サイレント時代のアクション映画スターで、ハリウッドにおけるスタントマンの草分け的存在でもあったリチャード・タルマッジのアクション演出は見事というほかない。ジョン・フォード映画でもお馴染みのモニュメント・ヴァレーでのロケも印象的。チャーリーの手下のひとりはハリー・ディーン・スタントンだ。ちなみに、ジョージ・ペパードのスタント代役を務めたボブ・モーガンが、列車から転落して大怪我を負うという悲劇に見舞われている。ほぼ全身を骨折した上に、顔の右半分が潰れて眼球まで飛び出していたそうだ。辛うじて一命は取りとめたものの、片脚を失ってしまったとのこと。第3章に出演しているジョン・ウェインはモーガンの友人で、この不幸な事故に胸を痛めたことから、翌年の主演作『マクリントック!』(’63)にモーガン夫人の女優イヴォンヌ・デ・カーロを起用している。 シネラマ映画はなぜ短命に終わったのか? まさしくハリウッド西部劇の集大成とも呼ぶべき2時間44分のスペクタクル映画。70mmフィルムを3本も同時に使って撮影されたスケールの大きな映像は、北米大陸の雄大な自然を余すところなく捉えて見応え十分だ。しかも、「シネラマ」方式はカメラの手前から数キロ先の背景まで焦点がブレず、解像度が高いので通常の35mm映画であれば潰れてしまうようなディテールまできめ細かく再現する。そのため、最初に用意した衣装はミシン目が肉眼で確認できてしまったことから、全て手縫いで作り直したのだそうだ。なにしろ、西部開拓時代にミシンなんて存在するはずないのだから。誤魔化しが利かないというのはスタッフにとって相当なプレッシャーだったはずだ。 また、アルフレッド・ニューマンとケン・ダービーの手掛けた音楽スコアも素晴らしい。テーマ曲は本作のために書き下ろされたオリジナルだが、その一方でアメリカの様々な古い民謡を映画の内容に合わせてアレンジし、パッチワークのように散りばめている。中でも特に印象的なのが、劇中でデビー・レイノルズ演じるリリスが繰り返し歌う「牧場の我が家(Home in the Meadow)」。これは16世紀のイングランド民謡「グリーンスリーヴス」の歌詞を本作用に書き直したもの。原曲はザ・ヴェンチャーズからジョン・コルトレーン、オリヴィア・ニュートン・ジョンから平原綾香まで様々なアーティストがカバーしている名曲なので、日本でも聞き覚えがあるという人も多いだろう。ちなみに、本作はもともとビング・クロスビーがMGMに持ち込んだ企画を、シネラマ社とのコラボ作品のひとつとしてピックアップしたもの。クロスビーは’59年にアメリカ民謡を集めた2枚組アルバム「西部開拓史」をリリースしている。 1962年11月1日にロンドンでプレミアが行われ、その後もパリ、東京、メルボルンなど世界各地で封切られた本作。アメリカでは1963年2月20日にロサンゼルスのワーナー劇場(現ハリウッド・パシフィック劇場)でプレミア上映され、シネラマ劇場の存在しない地方都市では35mmのシネスコサイズで公開された。同時期に製作されたシネラマ映画『不思議な世界の物語』と並んで、世界的な大ヒットを飛ばした本作。しかし、本来の「シネラマ」方式で撮影・上映された劇映画はこの2本だけで、以降の『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)や『偉大な生涯の物語』(’65)、『2001年宇宙の旅』(’68)といったシネラマ映画は、どれも70mmプリントを映写機1台で専用スクリーンに投影するだけの疑似シネラマ映画となってしまった。その理由は、「シネラマ」方式が抱えた諸問題だ。 もともと3分割されたフィルムを3台の映写機で同時に投影するという構造上、どうしても繋ぎ目が目立ってしまうという問題があった「シネラマ」方式。本作ではシーンによって繋ぎ目部分に垂直の物体を配置するという対策が取られ、なおかつ現在のデジタル・リマスター版では目立たぬよう修復・補正作業が施されているのだが、それでも所々で繋ぎ目の跡が見受けられる。加えて、専用カメラに備わった3つのレンズがそれぞれ別の方角を向いてクロス(右レンズは左側、中央レンズは中央、左レンズは右側)しているため、例えば中央と右側に立つ2人の役者が向き合って芝居をする場合、撮影現場では相手役の立ち位置から微妙にズレた方角を向かねばならない。つまり、画面上は向き合っていても実際は向き合っていないのである。これではなかなか芝居に集中できない。男女の親密な会話など重要なシーンで、メインの役者が中央にしか映っていないケースが多いのはそのためだ。 また、シネラマ専用カメラはズームレンズに対応していないため、クロースアップを撮影するには被写体にカメラが接近するしか方法がなく、どれだけアップにしてもバストショットが限界だった。さらに、人間の視界範囲の再現を特色としていることから、被写界が広すぎることも悩みの種だった。要するに、映ってはいけないものまで映ってしまうのだ。そのため、撮影開始の合図とともにスタッフは物陰に隠れなくてはならず、音を拾うガンマイクも使えないのでセットの見えないところに複数の小型マイクを仕込まねばならないし、危険なスタントシーンで安全装置を使うことも出来ない。先述した列車強盗シーンでの転落事故もそれが原因だった。 こうした撮影上の様々な困難に加えて、配給の面でも制約があった。恐らくこれが最大の問題であろう。「シネラマ」方式に対応した劇場は全米でも大都市圏にしかなく、しかもその数は60館程度にしか過ぎなかった。新たに建設しようにも莫大なコストがかかる。そのうえ、運営費用だって普通の映画館より高い。初期の紀行ドキュメンタリー映画ならば採算も合っただろうが、スターのギャラやセットの建設費など予算のかかる劇映画では難しい。そのため、シネラマ社はこれ以降、3分割での撮影や上映を廃止してしまい、「シネラマ」方式は有名無実の宣伝文句と化すことになったのだ。■
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COLUMN/コラム2021.12.31
ツイ・ハークやアン・リーにも多大な影響を与えた巨匠キン・フーによる武侠映画の決定版!『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』
武侠映画に革命をもたらしたキン・フー監督 武侠映画(中華時代劇)の神様とも呼ばれる香港・台湾映画の巨匠キン・フー監督の代表作である。1932年に中国本土の北京で生まれ、第二次世界大戦後の1949年に香港へと移住したキン・フー監督。もともと美術スタッフや俳優として映画に携わっていた彼は、同じく本土出身の名監督リー・ハンシャンに影響を受けて’58年に映画会社ショウ・ブラザーズと契約。リー・ハンシャン監督作で俳優や助監督を務めたのち、’64年に監督デビューを果たす。そんなキン・フー監督の出世作となったのが、武侠映画に新風を吹き込んだと言われる名作『大酔侠』(’66)。それまでの大時代的な古めかしい武侠映画から脱却し、アクションとバイオレンスと幻想美を融合した斬新な演出は「新派武侠片」とも呼ばれ、香港映画界に革命をもたらした。興行的にも香港だけでなく東南アジア各国でも大ヒットを記録。キン・フー監督も一躍注目の的となる。 ところが、その直後にキン・フー監督はショウ・ブラザーズを去ることになってしまう。社長ラン・ラン・ショウと衝突したためと言われているが、もともと俳優としてショウ・ブラザーズと契約をしていたというキン・フー監督には、当時まだ2本の出演契約が残されていたらしい。そのためラン・ラン・ショウはいたく憤慨したそうで、2人の間にはその後もわだかまりが残されることとなった。そんなキン・フー監督の向かった先が台湾。当時、まだ設立されたばかりだった映画会社・聨邦影業公司に招かれた彼は、そこで『大酔侠』をさらにスケールアップさせた武侠映画を撮ることとなる。それがこの『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』(’67)だった。 舞台は1457年、明朝・景泰帝の時代。朝廷では宦官ツァオ(バイ・イン)が特務機関・東廠(とうしょう)と秘密警察・錦衣衛(きんいえい)を配下において実権を握り、人望の厚い大臣ユー・チェンを罠にはめて処刑してしまう。大臣の3人の子供たちは流刑処分となったが、しかし彼らが大人になって復讐を企てるのではないかと危惧したツァオは、秘かに刺客を送り込んでユー一門を皆殺しにしようとする。 その任務に就いたのは東廠のピイ(ミャオ・ティエン)とその右腕マオ(ハン・インチェ)。大勢の手下を引き連れた彼らは、ユー一門が立ち寄る場所へと先回りする。そこは人里離れた荒野の真ん中にポツンと建つ古い宿屋「龍門客棧」。近くの国境警備隊を皆殺しにして店を強引に占拠した暗殺部隊は、宿泊客のふりをしてターゲットの到着を待ち構える。すると、そこへ宿屋の主人ウー(ツァオ・ジエン)の友人だという謎めいた風来坊シャオ(シー・チュン)がやって来る。さらに、旅の途中で立ち寄ったチュウ兄弟(シュエ・ハン、シャンカン・リンフォン)も到着。ピイ一味は彼らを宿屋から追い出そうとするが、しかしいずれも並外れた武術の達人であることから苦戦し、仕方なく彼らが宿泊することを許す。 実は、宿屋の主人ウーは処刑された大臣ユーの腹心で、その子供たちを守るために弟分シャオを呼び寄せていたのだ。しかも、チョウ兄弟(弟の正体は男装した女性なので実は兄妹)はウーの親友の子供で、彼らもまた大臣の子供たちを守るため「龍門客棧」へ先回りしていたのだ。ピイ一味の目的に気付いた彼らは、一致団結して暗殺計画を阻止することに。やがてユー一門が「龍門客棧」へと到着し、血で血を洗う壮絶な闘いが繰り広げられる。ツァオに恨みを持つ韃靼(だったん)人の兄弟も加わり、東廠の暗殺部隊を圧倒するシャオたち。業を煮やしたツァオが自ら軍隊を率いて現れ、ついに全面戦争の火蓋が切って落とされる…! 登場人物の個性を際立たせるシンプルなプロット 前作『大酔侠』でも宿屋を重要な舞台のひとつにしていたキン・フー監督だが、本作ではその宿屋がメインの舞台となり、悪徳宦官によって殺された大臣の子供たちを守らんとする忠義の剣士たちと、その宦官が差し向けた東廠の暗殺部隊が死闘を繰り広げる。刺客たちが待伏せする宿屋に予期せぬ客人が次々と現れ、お互いの腹を探りながらもやがて彼らの正体が明かされていくというスリリングな展開は、さながらクエンティン・タランティーノ監督の西部劇『ヘイトフル・エイト』(’15)。かつてタランティーノが『大酔侠』をリメイクするなんて企画もあったくらいなので、仮に『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』の影響を受けていたとしても不思議はないだろう。もちろん、本作自体がジョン・フォード監督の『駅馬車』(’39)やラオール・ウォルシュ監督の『リオ・ブラボー』(’59)といった西部劇に影響されているであろうことも否めない。映画にしろ音楽にしろ文学にしろ、芸術というのはお互いに影響を与え合いながら創造されていくものだ。 そもそもキン・フー監督が舞台設定に宿屋を好んで使うのは、本人曰く「『三國志』の時代から人々が行き交う宿屋は対立を起こすのに格好の場所」だから。さらに、吹き抜けの2階建てとしてデザインされた宿屋は、その垂直で奥行きがある構造のおかげで立体的なアクションを演出しやすい。ひとつのセットで多彩なシーンを撮れるという利点があるのだ。そのため、キン・フー監督は香港へ戻って作った『迎春閣之風波』(’73)では、ほとんどの舞台を宿屋に設定している。『大酔侠』と本作、そして『迎春閣之風波』が「宿屋三部作」と呼ばれる所以だ。 舞台設定もプロットも極めてシンプル。なおかつ余計な人間ドラマもバッサリと省いてスピーディに展開していく本作だが、その代わりに細かなディテールの描写に手間暇をかけ、登場人物それぞれのユニークな個性を際立たせていく。中でも、主人公である剣士シャオの超人的な達人ぶりにはビックリ。飛んできた弓矢を手元の徳利で受け止めたかと思えば、その矢を瞬時に素手で打ち返して暗殺者を仕留める。敵の投げつけた小刀だって箸の先で見事にキャッチ(笑)。どんぶりに入ったうどんを隣のテーブルに放り投げても汁一滴こぼれない。果たして、どんぶり投げが武術とどう関係あるのかは分からないが、とにかく常人離れしたスキルを持つ剣士であることはよく分かるだろう。また、『大酔侠』のヒロイン金燕子に続いて、本作でも男装の麗人キャラが登場。当時まだ17歳だったシャンカン・リンフォン演じるチョウ兄妹の妹である。ひと目で女性であることが分かってしまうのは玉に瑕だが、冷静沈着で颯爽とした美剣士ぶりはカッコいいし、短気で血の気の多い兄との凸凹コンビぶりもユーモラスだ。 もちろん、悪人だって負けないくらい魅力的だ。それぞれに個性的な敵キャラとの戦いが3段階に分かれており、ひとり倒すごとに対戦相手がレベルアップしていくというビデオゲーム的な構成も面白いのだが、この最後に登場するラスボスの宦官ツァオがまたインパクト強烈!なにしろ、『ドラゴンボール』の「かめはめ波」ではないが、剣を一振りしただけで敵を吹っ飛ばしてしまうような気功の達人にして、木々の間を軽やかに瞬間移動していくというスーパーパワー(?)の持ち主。まさしく相手にとって不足なし。やはり、こういう映画は敵役が強くないと面白くない。ただ、クライマックスでヒーローたちが寄って集ってツァオをボコボコにするのは如何なもんかとも思うのだが。しかも、下半身をネタにして嘲笑うというゲスっぷり(笑)。そう、ツァオは宦官なので男性器がないのだが、みんなでそれをバカにして挑発するのだ。さすがにこれはツァオがちょっと気の毒になる。 ダイナミックな剣劇アクションと映像美も見どころ 京劇の伝統的な舞踊スタイルを踏襲した優美なチャンバラも見どころだろう。武術指導を手掛けたのは、暗殺部隊の副官マオを演じているハン・インチェ。キン・フー作品に欠かせないスタント・コーディネーターである彼自身も、実は9歳から18歳まで北京の劇団に所属する京劇俳優だった。この舞うように戦う古典的なチャンバラにフレッシュな躍動感をもたらすのが、随所に盛り込まれる雑技団的な曲芸技である。当時はまだワイヤーワークの技術が確立されていないため、本作では主にトランポリンワークを多用。ここで披露される飛んだり跳ねたりの曲芸アクションが、その後の『侠女』(’71)では大胆なワイヤーワークによってさらなる発展を遂げ、武侠映画特有のファンタジックな剣劇アクションを完成させていくこととなる。 このように、基本的には『大酔侠』で打ち出した「新派武侠片」路線の延長線上にある本作だが、恐らく最大の違いはロケーション撮影の大幅な導入であろう。当時の香港映画は舞台が森だろうと山だろうと荒野だろうとスタジオにセットを組んで撮影するのが一般的で、キン・フー監督の『大酔侠』も御多分に漏れずだったが、しかし台湾で撮影された本作では屋内シーン以外の全てがスタジオの外へ出たロケ。台湾中部の雄大な自然を捉えたスケールの大きなビジュアルと、実際のロケーションだからこそのダイナミックなカメラワークに目を奪われる。このロケ撮影の利点を十二分に生かした映像美は『侠女』で芸術的なレベルにまで昇華され、カンヌ国際映画祭で高等技術委員会グランプリを獲得することになる。 ちなみに、キン・フー監督は本作と同様に『侠女』でも東廠を悪役として登場させているのだが、これは当時世界中で大流行していた『007』映画への反発だったという。権力の手先であるスパイを美化するとは何ごとか!というわけだ。もちろん、本作のストーリーに政治的な意図があるわけではないが、しかし劇中で描かれるユー大臣の処刑やその家族に対する残酷な処遇に、キン・フー監督が祖国・中国で当時吹き荒れていた文化大革命の弾圧と殺戮を投影していたであろうことは想像に難くない。 1967年に台湾で封切られるや映画館に長蛇の列ができ、10日間で10万通以上のファンレターが映画会社に届くほどの大ヒットを記録した本作。台湾のオスカーとも呼ぶべき金馬奨では最優秀脚本賞にも輝いた。ただ、香港や東南アジアでの配給を担当したショウ・ブラザーズは、社長ラン・ラン・ショウとキン・フー監督のイザコザもあったためか、『大酔侠』の続編『大女侠』(’68)の公開後まで本作の封切を延期。それでもなお、香港でも『007は二度死ぬ』に次いで年間興行成績ランキングの2位をマークするほどの大成功を収めた。これ以降のキン・フー作品のプロトタイプともなった映画であり、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(’87)や『グリーン・デスティニー』(’00)も本作がなければ生まれなかったかもしれない。■ 『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』© 1967 Union Film Co., Ltd. / © 2014 Taiwan Film Institute All rights reserved (for Dragon Inn)