ザ・シネマ なかざわひでゆき
-
COLUMN/コラム2024.02.05
ハリウッドが今最も注目する鬼才アリ・アスターの魅力に迫る!
その唯一無二の作家性は短編映画時代に確立されていた! 最新作『ボーはおそれている』の本邦上陸も間近に迫った映画監督アリ・アスター。現代ホラーの頂点とも呼ばれた問題作『ヘレディタリー/継承』(’18)で衝撃の長編映画デビューを飾り、続く2作目『ミッドサマー』(’19)では観客に特大級のトラウマを植え付けてセンセーションを巻き起こした。よくよく考えてみれば、現時点ではまだ長編3本を撮っただけの若手監督なのだが、しかしその独創的な作家性は既にデヴィッド・リンチやデヴィッド・クローネンバーグとも比較され、マーティン・スコセッシやボン・ジュノといった東西の巨匠たちからも類稀な才能を賞賛されている。果たして、人々がアリ・アスター作品に惹きつけられる理由とは何なのか?2月のザ・シネマでは『ボーはおそれている』の日本公開を記念し、『ヘレディタリー/継承』と『ミッドサマー』の両作品を含む製作会社A24の製作作品を一挙放送する。そこで、この機会にアリ・アスター作品の魅力について紐解いてみたい。 1986年7月15日ニューヨークに生まれたアスターは、ミュージシャンだった父親の仕事で幼少期をロンドンで過ごし、10歳からはニューメキシコ州のアルバカーキで育つ。幼い頃より大の映画ファン。中でもホラー映画が大好きで、特にブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』(’76)とピーター・グリーナウェイ監督の『コックと泥棒、その妻と愛人』(’89)には多大な影響を受けたという。もともと作家になるつもりだったが映画脚本家へ志望を転向。地元ニューメキシコのサンタフェ芸術デザイン大学を経て、アメリカン・フィルム・インスティテュートが運営するAFI映画学校へ入学し、ここで演出を学んで芸術修士号を取得する。卒業後はインディペンデントの短編映画を精力的に手掛けていたのだが、その中でも特に重要な作品が『The Strange Thing About the Johnsons(ジョンソン家についての奇妙なこと)』(’11)と『Munchausen(ミュンヒハウゼン)』(’13)の2本だ。 もともとAFI映画学校の卒業制作として作られた『The Strange Thing About the Johnsons』は、少年時代から実の父親の写真を見ながらオナニーをしていた若者が、やがて父親を性的に虐待して支配するようになり、その事実に気付いた母親も見て見ぬふりを決め込んだところ、最終的に家族がお互いに殺し合うこととなる。一方の『Munchausen』は、大学進学を控えた息子を持つ中産階級の平凡な主婦(ボニー・ベデリア)が主人公。目に入れても痛くないほど可愛がって育てた大切な息子が、家を出て独り暮らしをすることに耐えられない彼女は、息子と離ればなれになるくらいなら殺してしまった方がマシだと考えて食事に毒を盛る。どちらも、一見したところ仲睦まじい理想的な家族の恐ろしくも倒錯したダークサイドを描き、後の劇場用長編映画群のテーマ的なルーツとなった作品。近親相姦に親殺し・子殺しと、タブーを恐れないアスター監督の挑戦的な作家性はこの頃から健在だ。 衝撃のデビューとなった『ヘレディタリー/継承』 この2本の短編映画に注目してアスター監督に声をかけたのが、当時『エクス・マキナ』(’15)や『ルーム』(’15)、『ロブスター』(’16)に『ムーンライト』(’16)などの異色作を立て続けにヒットさせ、エッジの効いたアート系映画を得意とする製作会社として注目されていたA24。今やA24の看板ディレクターとなった感すらあるアスター監督だが、その両者の初タッグが長編デビュー作『ヘレディタリー/継承』だった。 祖母エレンが亡くなって葬儀を終えたばかりのグラハム家。その娘である一家の母親アニー(トニ・コレット)は、秘密主義を貫いたエレンとは長いこと折り合いが悪く、それゆえ実母を亡くしたというのに悲しいとは思えなかった。その母親エレンは解離性同一障害を患い、すでに他界している父親や兄も精神疾患が原因で早逝。自身も夢遊病に悩まされているアニーは、いずれ我が子らも心の病を発症するのではないかとの不安に怯えていた。そんなある日、16歳の長男ピーター(アレックス・ウルフ)は友人宅のパーティへ行くため、母親アニーに学校のイベントへ行きたいと嘘をついたところ、13歳の妹チャーリー(ミリー・シャピロ)を連れて行くことを条件に許可される。お祖母ちゃん子だったチャーリーは葬儀以来ふさぎ込んでいるため、気分転換になればとアニーは考えたのだ。チャーリー本人は乗り気ではなかったし、ピーターも余計な荷物が出来て不満だったが、仕方なしに2人でパーティへ向かう。 妹を放置して意中の女の子にアプローチするピーター。すると、知らずにナッツ入りのケーキを食べたチャーリーが、アレルギーの発作を起こしてしまう。慌てて妹を車で病院へ送ろうとするピーターだったが、発作に苦しむチャーリーは窓から身を乗り出し、道路わきの電柱に頭部を激突させて死亡する。あまりのショックで現実を受け入れられず、そのまま夜中に自宅へ戻ってベッドに入るピーター。翌朝、出かけようとした母親アニーは、車の後部座席に頭部のない娘チャーリーの死体を発見して半狂乱となる。事故とはいえ妹を死に至らしめたという罪悪感に苦しむピーターと、そんな息子を憎みたくも憎み切れないアニー。2人の関係はすっかりギクシャクしてしまい、父親スティーブ(ガブリエル・バーン)が仲を取り持とうとするも上手くいかない。ある時、グループセラピーで知り合った親切な中年女性ジョーン(アン・ダウド)と親しくなったアニーは、彼女の誘いで交霊会に参加して不思議な体験をし、自らもチャーリーの霊を呼び寄せようとする。それ以来、グラハム家の周辺では不可解な現象が続き、やがてアニーは母親エレンから想像を絶する恐ろしいものを継承していたことに気付くのだった…。 『ヘレディタリー/継承』 © 2018 Hereditary Film Productions, LLC 暗い過去と深い悲しみを抱える平凡な家族が、更なる不幸と恐怖のどん底へ突き落とされていくという悪夢のような物語。全編に漂う不穏な空気、端正でありながらダークで禍々しい映像美、突然スクリーンにぶちまけられるゴア描写、やがて頭をもたげる邪教カルト、そして予想の遥か斜め上を行く衝撃のクライマックス。その後味の悪さときたら!それでいて、喪失感や罪悪感に苛まれた家族のドラマには強い説得力があり、もがき苦しみながらも絆を手繰り寄せようとする彼らの姿が共感を呼ぶ。それだけに、最悪の事態へ向けて突っ走っていく終盤の恐怖と絶望は筆舌に尽くしがたい。長編デビューでいきなりこれだけの傑作をモノにしたアスター監督の才能に唸らざるを得ないだろう。 アリ・アスター人気を決定づけた傑作『ミッドサマー』 その年のインディーズ系映画の賞レースを席巻し、当時のA24史上最高の興行成績を記録した『ヘレディタリー/継承』。その成功を受けて矢継ぎ早に公開されたのが、さらなるセンセーションを巻き起こした恐怖譚『ミッドサマー』だ。 大学で心理学を専攻する女性ダニー(フローレンス・ピュー)は、双極性障害を患った妹テリーの不安定な言動に度々悩まされているが、しかし同居する恋人クリスチャン(ジャック・レイナー)は真剣に取り合ってくれない。彼女との関係が重荷になっていたのだ。そんなある日、ダニーの心配は現実のものとなってしまう。テリーが両親を道連れに心中してしまったのだ。悲しみと絶望の淵に追いやられたダニー。天涯孤独の身となった彼女にとって、唯一の心の支えはクリスチャンだったが、しかし彼は男友達とばかりつるんでダニーと向き合うことを避けていた。本音ではダニーと別れたいが、しかし今の彼女を見捨てるわけにもいかないクリスチャン。ダニーも薄々そのことに気付いているが、面と向かって問いただす勇気はない。結局、その煮え切らない優柔不断な態度もあって、本来なら男友達だけで計画していたスウェーデン旅行にダニーも付いていくことになる。 行き先はスウェーデン人留学生ペレ(ヴィルヘルム・ブロングレン)の故郷であるヘルシングランド地方のホルガ村。そこは大自然に囲まれた小さなコミューン(共同体)で、キリスト教が伝搬する以前からの伝統的な宗教と風習を今も守っている場所だ。今年の夏は90年に1度の夏至祭が行われるということで、ペレはクリスチャンら大学の同級生らを招待したのである。太陽の沈まぬ明るい白夜、色とりどりの花々が咲く緑豊かな環境、そして古き良き北欧の素朴で美しい伝統文化。明るく朗らかで親切な住人たちの「おもてなし」に、自然と微笑みのこぼれるダニーだったが、しかし思いがけず衝撃的な宗教儀式を目の当たりにして困惑する。そのうえ、これをきっかけに旅行者の若者たちがひとりまたひとりと姿を消し、やがてダニーはこの夏至祭に招かれた恐るべき「本当の理由」を知ることになるのだった…。 『ミッドサマー』© 2019 A24 FILMS LLC. All Rights Reserved. 暗く重苦しい空気に包まれた家の中で静かに狂気が醸成されていく前作『ヘレディタリー/継承』とは打って変わって、花々で彩られた真夏の明るく開放的な北欧の田舎で狂気が咲き乱れる『ミッドサマー』。主人公が直面する恐怖と絶望は前作を遥かに超え、阿鼻叫喚に包まれる怒涛のクライマックスにも唖然とさせられるが、しかし今回の後味には不思議な安堵感がある。人里離れた田舎へ迷い込んだ部外者が、古代宗教の儀式の生贄にされる…という筋書きは往年の英国ホラー『ウィッカーマン』(’73)と似ているものの、アリ・アスターらしい「喪失」と「再生」のドラマに焦点を当てたストーリーには、ただの恐怖譚に終始しない深みが感じられるだろう。興行的には前作に及ばなかった『ミッドサマー』だが、しかし批評的には更なる高い評価を獲得し、ここ日本でもアリ・アスター人気を決定づける大ヒットとなった。 観客が妙な共感を覚えてしまうアリ・アスター作品の世界観とは? そんなアリ・アスター作品に共通するテーマは、「機能不全に陥った家族」「家族に継承されるトラウマ」そして「喪失と再生」といったところであろう。いずれにしても重要なキーワードは家族だ。表向きこそホラー映画のふりをしているアリ・アスター作品だが、しかし監督本人が「身近な物語を書くのが好きだ」と語るように、その実態は家族や恋人との関係性を考察したドメスティック・ドラマだと言えよう。ただし、そこには我々の考える通り一辺倒な救いも希望も幸福も存在しない。そういえば『ヘレディタリー/継承』が公開された際、トロント国際映画祭のQ&Aに現れたアスター監督はこんなことを言っていた。「アメリカの家庭ドラマによくありがちだが、とある家族に悲劇が起きて喪失感からゴタゴタがあり、時には音信不通になったりもするけれど、しかし最後は家族の絆を取り戻してメデタシメデタシみたいな物語が世の中には溢れている。別にそういう話が悪いとは言わないものの、しかし実際は絆を取り戻せない家族だっているし、喪失感から回復できない家族だっているだろう。そのせいで最悪の結果を招くこともある。僕はそういう映画を作りたかった」と。恐らくこれこそが、初期の短編映画を含む彼の作品に共通する世界観の本質なのだろう。 『ヘレディタリー/継承』撮影中のアリ・アスター監督(左)とトニ・コレット(右)。 『ヘレディタリー/継承』にも『ミッドサマー』にも、自身が実際に経験した喪失感や痛みが投影されていると語っているアスター監督。前者は彼の家族に起きた悲劇(具体的な詳細は明かされていない)、後者は3年間付き合った恋人との別れ。そうした実体験が上記のような、ある種の冷めた世界観の土台となっていることは想像に難くないだろう。なるほど確かに、悲しい出来事に見舞われた家族の総てがそこから立ち直れるわけではない。そもそも、どれだけ円満な家庭やパートナーにだって多かれ少なかれ不和やわだかまりはあるだろうし、当然ながら家族とは名ばかりで関係性の破綻してしまった家庭も少なくない。家族だったら支え合うべき、親子だったら兄弟だった恋人同士だったらこうあるべきなどと、当たり前のように押し付けられる家父長制的な役割に苦しめられている人も世の中には意外と多いはずだ。そう、家族とは誠に厄介なもの。時には呪いや束縛ともなり得る。アスター作品では常にその視点があるからこそ、多くの観客が居心地の悪さと共に妙な共感を覚えるのではないだろうか。 そのうえで彼は、本人の言葉を借りるなら「ひねくれた願望が叶う物語」と呼ぶべき…というか、むしろそう呼ぶしかないような結末を用意する。『ヘレディタリー/継承』のクライマックスを「ある種の人々にとっては救いだ」と語り、『ミッドサマー』の結末についてもハッピーエンドだとハッキリ言い切るアスター監督。彼にとっての救いや癒しとはいったい何なのか?にわかには理解し難くも感じるが、しかしその作品群をじっくりと見比べていると、おぼろげながらも段々と分かってくるはずだ。 そういう意味で、アスター監督の言わんとすることが如実に伝わってくるのが最新作『ボーはおそれている』。毒親育ちで気の弱い大人になってしまった中年男性ボー(ホアキン・フェニックス)が、支配的な母親(パティ・ルポーン怪演!)のもとへ戻るべく実家へ帰省しようとするものの、しかしその行く手に次々と不可解な障壁が立ちはだかる。アリ・アスター作品としては過去最大級にシュールで難解なストーリーだが、しかし「機能不全に陥った家族」や「家族に継承されるトラウマ」などの要素は今回も共通しており、なおかつこれまで以上に家族の呪縛というテーマが明確に浮かび上がる。是非とも、ザ・シネマで過去作を予習の上で臨んで頂きたい。■ 『ボーはおそれている』2024年2月16日(金)全国ロードショー監督・脚本:アリ・アスター 出演:ホアキン・フェニックス ネイサン・レイン エイミー・ライアン パーカー・ポージー パティ・ルポーン2023年/アメリカ/R15+配給:ハピネットファントム・スタジオ © 2023 Mommy Knows Best LLC, UAAP LLC and IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved. 公式サイト
-
COLUMN/コラム2024.01.29
大都会の孤独という現代社会の病理を描いた巨匠マーティン・スコセッシの傑作『タクシードライバー』
荒廃した’70年代のニューヨークを彷徨う孤独な魂ベトナム戦争の泥沼やウォーターゲート事件のスキャンダルによって国家や政治への信頼が地に堕ち、経済の低迷に伴う犯罪増加や治安悪化によって社会の秩序まで崩壊した’70年代のアメリカ。都市部の荒廃ぶりなどはどこも顕著だったが、中でもニューヨークのそれは象徴的だったと言えよう。今でこそクリーンで安全でファミリー・フレンドリーな観光地となったタイムズ・スクエア周辺も、’70年代当時はポルノ映画館やストリップ劇場やアダルト・ショップなどの怪しげな風俗店が軒を連ね、売春婦やポン引きや麻薬の売人が路上に立っているような危険地帯だった。そんな荒み切った大都会の片隅で孤独と疎外感を募らせ、やがて行き場のない怒りと不満を暴走させていくタクシー運転手の狂気に、当時のアメリカ社会を蝕む精神的病理を投影した作品が、カンヌ国際映画祭のパルムドールに輝いたマーティン・スコセッシ監督の問題作『タクシードライバー』(’76)である。 主人公は26歳の青年トラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)。ベトナム帰りで元海兵隊員の彼は不眠症で夜眠ることが出来ず、それなら夜勤のタクシー運転手でもして稼いだ方がマシだと考え、ニューヨークのとあるタクシー会社に就職する。人付き合いが苦手で友達のいない彼は、先輩のウィザード(ピーター・ボイル)などドライバー仲間たちとも付かず離れずの間柄。昼間は狭いアパートの部屋で日記を付けているか、四十二番街のポルノ映画館に入り浸っている。乗客の選り好みはしないし、危険な地域へ送り届けるのも構わないが、しかし我慢ならないのは街中に溢れるクズどもだ。娼婦にゴロツキにゲイに麻薬の売人。ああいう社会のゴミを一掃してやりたい。ギラギラとネオンが煌めく夜のニューヨークをタクシーで流しながら、トラヴィスはひとりぼっちで妄想の世界を彷徨う。 そんなある日、トラヴィスは街で見かけたブロンドの若い女に一目惚れする。彼女の名前はベッツィ(シビル・シェパード)。次期大統領候補であるパランタイン上院議員の選挙事務所で働くスタッフだ。いかにも育ちが良さそうで頭の切れる自信家の才媛。一介のタクシー運転手には不釣り合いな別世界の住人だが、彼女に執着するトラヴィスは半ばストーカーと化し、やがて思い切ってベッツィをデートに誘う。なにかと茶々を入れてくる同僚スタッフのトム(アルバート・ブルックス)に退屈していたベッツィは、興味本位でデートの誘いを受けたところ、なんとなく良い雰囲気になって次回の映画デートを約束する。思わず有頂天になるトラヴィス。ところが、あろうことか彼女をポルノ映画館に連れて行ってしまい、憤慨したベッツィは席を立って帰ってしまう。それっきり彼女とは音信不通に。アンタも結局はお高くとまった鼻持ちならない女だったのか。ベッツィの職場へ怒鳴り込んだトラヴィスは、散々恨み言を吐き捨てた挙句に追い出される。それ以来、彼の不眠症はますます酷くなり、精神的にも不安定な状態となっていく。 ちょうどその頃、トラヴィスがタクシーを路駐して客待ちしていたところ、未成年と思しき少女が乗り込んでくる。しかし、すぐにチンピラ風の男スポーツ(ハーヴェイ・カイテル)に無理やり引きずり降ろされ、そのまま夜の街へと消えていった。一瞬の出来事に唖然とするトラヴィス。それから暫くして、タクシーにぶつかった通行人に目を向けたトラヴィスは、それがあの時の少女であることに気付く。少女の名前はアイリス(ジョディ・フォスター)。何かに取り憑かれたようにアイリスの後を追いかけ、彼女が売春婦であることを確信した彼は、今度は何かに目覚めたかの如く知人の紹介で闇ルートの拳銃4丁を手に入れ、なまった体を鍛え直すためにハードなトレーニングを開始する。ある計画を実行するために…。 トラヴィスは脚本家ポール・シュレイダーの分身脚本を書いたのは『レイジング・ブル』(’80)や『最後の誘惑』(’88)でもスコセッシ監督と組むことになるポール・シュレイダー。当時人生のどん底を味わっていたシュレイダーは、いわば自己療法として本作の脚本を書いたのだという。厳格なカルヴァン主義プロテスタントの家庭に生まれて娯楽を禁じられて育った彼は、17歳の時に生まれて初めて見た映画に夢中となり、カリフォルニア大学ロサンゼルス校を経て映画評論家として活動。ところが、結婚生活の破綻をきっかけに不運が重なり、住む家を失ってホームレスとなってしまった。手元に残った車で当て所もなく彷徨いながら車中生活を余儀なくされる日々。気が付くと3週間以上も誰とも話しておらず、不安と孤独のあまり心身を病んで胃潰瘍になってしまった。このままではいけない。ああはなりたくないと思うような人間になってしまいそうだ。そう強く感じたシュレイダーは、元恋人の留守宅を一時的に借りて寝泊まりしながら、およそ10日間で本作の脚本を仕上げたそうだ。現実の苦悩を物語として書くことで心が癒され、「ああなりたくない人間」から遠ざかれるような気がしたというシュレイダー。その「ああなりたくない人間」こそ、本作の主人公トラヴィス・ビックルだった。 「大都会は人をおかしくする」と語るシュレイダー。確かに大勢の人々がひしめき合って暮らす大都会は、それゆえ他人に無関心で人間関係も希薄になりがちだ。東京で就職した地方出身者がよく「都会は冷たい」と言うが、周囲に家族や友人がいなければ尚更のこと世知辛く感じることだろう。なおかつ大都会には歴然とした格差が存在し、底辺に暮らすマイノリティはその存在自体が透明化され無視されてしまう。中西部出身のよそ者で社交性に欠けた名も無きタクシー運転手トラヴィスが、ニューヨークの喧騒と雑踏に囲まれながら孤独と疎外感に苛まれていくのも不思議ではなかろう。そんな彼がようやく巡り合った希望の光が、いかにもWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)なイメージのエリート美女ベッツィ。この高根の花を何としてでも手に入れんと執着するトラヴィスだが、しかしデートでポルノ映画館に連れて行くという大失態を演じて嫌われてしまう。こうした願望と行動の大きな矛盾は彼の大きな特性だ。 清教徒的なモラルを説きながらポルノ映画に溺れ、健康を意識しながら不健康な食事をして薬物を乱用し、人の温もりを求めながらその機会を自ら台無しにする。まるで自分で自分を孤独へ追いつめていくような彼の自滅的言動は、人生に敗北感を抱く落伍者ゆえの卑屈さと自己肯定感の低さに起因するものだろう。こうして捨てるもののなくなった「弱者男性」のトラヴィスは、自分よりもさらに底辺のポン引きや娼婦や麻薬密売人などを蔑んで憎悪の目を向け、やがて自分の存在意義を証明するために社会のゴミと見做した彼らを「一掃」しようとするわけだが、しかしここでも彼の矛盾が露呈する。なにしろ、最初に選んだターゲットはパランタイン上院議員だ。誰がどう見たって、自分を振った女ベッツィへの当てつけである。しかも、ボディガードに気付かれたため、慌てて引き返すという情けなさ。「あらゆる悪と不正に立ち向かう男」と自称しておきながら、その実態は単なる逆恨みのチキン野郎である。結局、このままでは終われない!と背に腹を代えられなくなったトラヴィスは、未成年の少女アイリスを売春窟から救い出すという大義名分のもと、ポン引きや用心棒らを銃撃して血の雨を降らせるというわけだ。 ある意味、「無敵の人」の誕生譚。実はこれこそが、今もなお本作が世界中のファンから熱狂的に支持されている理由であろう。確かに’70年代アメリカの世相を背景にした作品だが、しかしその核となる人間像は極めて普遍的であり、古今東西のどこにでもトラヴィス・ビックルのような男は存在するはずだ。事実、ますます格差が広がり閉塞感に包まれた昨今の日本でも、彼のように鬱屈した「無敵の人」とその予備軍は間違いなく増えている。そもそも、誰の心にも多かれ少なかれトラヴィス・ビックルは潜んでいるのではないだろうか。だからこそ、世代を超えた多くの人々が彼の不満や絶望や怒りや願望にどこか共感してしまうのだろう。それほどまでの説得力が役柄に備わったのは、ひとえにポール・シュレイダー自身の実体験から生まれた、いわば分身のようなキャラクターだからなのだと思う。 映画化への長い道のりとスコセッシの情熱このシュレイダーの脚本に強い感銘を受け、是非とも自らの手で映画化したいと考えたのがマーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロ。揃って生まれも育ちもニューヨークの彼らは、主人公トラヴィスに我が身を重ねて大いに共感したという。世渡りが下手で社会の主流から外れ、大都会の底辺で不満と幻滅を抱えて悶々としたトラヴィスは、若き日の彼らそのものだったという。偶然にも実家が隣近所で、子供の頃から顔見知りだったというスコセッシとデ・ニーロは、当時『ミーン・ストリート』(’73)で初タッグを組んだばかり。その『ミーン・ストリート』の編集中に、スコセッシは盟友ブライアン・デ・パルマから本作の脚本を紹介されたという。 それは’70年代初頭のカリフォルニア州はマリブ。ニューヨークのサラ・ローレンス大学でブライアン・デ・パルマと自主製作映画を作っていた女優ジェニファー・ソルトは、ジョン・ヒューストン監督の『ゴングなき戦い』(’72)のオーディションで知り合った女優マーゴット・キダーと意気投合し、マリブのビーチハウスで共同生活を送るようになったのだが、そこへハリウッド進出作『汝のウサギを知れ』(’72)を解雇されたデ・パルマが転がり込んだのである。ジェニファーを姉貴分として慕っていたデ・パルマは、その同居人であるマーゴットと付き合うようになり、3人で作った映画が『悪魔のシスター』(’72)だ。で、そのビーチハウスの隣近所にたまたま住んでいたのが、ほどなくして『スティング』(’73)を大ヒットさせて有名になるプロデューサー夫婦のマイケル・フィリップスとジュリア・フィリップス。やがて両者の交流が始まると、デ・パルマとジェニファーのニューヨーク時代からの仲間であるロバート・デ・ニーロを筆頭に、スコセッシやシュレイダー、スティーブン・スピルバーグにハーヴェイ・カイテルなどなど、ハリウッドで燻っている駆け出しの若い映画人たちが続々とビーチハウスへ集まり、将来の夢や映画談義などに花を咲かせるようになったのである。 まずはそのデ・パルマに本作の脚本を見せたというシュレイダー。自分向きの映画ではないと思ったデ・パルマだが、しかし彼らなら関心を示すだろうと考え、フィリップス夫妻とスコセッシにそれぞれ脚本のコピーを渡したという。フィリップス夫妻はすぐに1000ドルで脚本の映画化権を買い取り、これは自分が映画にしないとならない作品だと直感したスコセッシは彼らに自らを売り込んだが、しかし当時のスコセッシは映画監督としての実績が乏しかったため、遠回しにやんわりと断られたらしい。そこで彼は編集中の『ミーン・ストリート』のラフカット版をフィリップス夫妻やシュレイダーに見せたという。ニューヨークの貧しい下町の掃きだめで、裏社会を牛耳る叔父のもとで成り上がってやろうとする若者チャーリー(ハーヴェイ・カイテル)と、無軌道で無責任でサイコパスな親友ジョニー・ボーイ(ロバート・デ・ニーロ)の破滅へと向かう青春を描いた同作は、いわば『タクシードライバー』の精神的な姉妹編とも言えよう。これを見てスコセッシとデ・ニーロの起用を決めたフィリップス夫妻とシュレイダーだったが、しかし脚本の内容があまりにも暗くて危険だったためか、どこの映画会社へ企画を持ち込んでも断られたという。 ところが…である。フィリップス夫妻は『スティング』でアカデミー賞の作品賞を獲得し、スコセッシも『アリスの恋』(’74)がアカデミー賞3部門にノミネート(受賞は主演女優賞のエレン・バースティン)。さらにデ・ニーロも『ゴッドファーザーPARTⅡ』(’74)の若きヴィトー・コルレオーネ役でアカデミー賞助演男優賞に輝き、シュレイダーは『ザ・ヤクザ』(’74)の脚本で高い評価を受けた。ほんの数年間で関係者の誰もがハリウッド業界の有名人となったのである。こうなると話は違ってくるわけで、ジュリアの知人でもあったコロンビア映画の重役デヴィッド・ビゲルマンからの出資を獲得し、映画化にゴーサインが出たのである。ちなみにこのビゲルマンという人物、芸能エージェント時代にクライアントだったジュディ・ガーランドの無知につけ込んで彼女の財産をごっそり横領し、本作の翌年には会社の資金横領と小切手の偽造で逮捕されてコロムビア映画を解雇されるという筋金入りの詐欺師。それにも関わらず、長年に渡って各スタジオの重役を歴任したというのだから、ハリウッド業界というのもろくなもんじゃありませんな。まあ、最終的には自身の制作会社の倒産で多額の借金を抱えて拳銃自殺してしまうわけですが。 賛否両論を呼んだジョディ・フォスターの起用静かに狂っていくトラヴィスの心象風景をトラヴィスの視点から映し出すことで、映画全体がまるで白日夢のごとき様相を呈している本作。あえてカメラが主人公をフレームの外へ追い出し、一見したところ全く関係のないような風景を捉えることでセリフにない深層心理を浮き彫りにするなど、既存の型に囚われない自由でトリッキーな演出は、どちらもゴダールの熱烈なファンを自認するスコセッシと撮影監督のマイケル・チャップマンがヌーヴェルヴァーグにインスパイアされたものだという。ほかにもヒッチコックの『間違えられた男』(’56)のカメラワーク、ファスビンダー作品の率直さ、フランチェスコ・ロージ作品の手触り、マリオ・バーヴァ作品やヴァル・リュートン作品の怪奇幻想ムードなど、過去の様々な名作群に学んでいるところは、さすがフィルムスクール出身のスコセッシらしさだと言えよう。 撮影準備が始まったのは’75年の初旬。当時ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』(’76)の撮影でヨーロッパにいたデ・ニーロは、週末ごとにニューヨークへ戻ってタクシー運転手の研修を受けてライセンスを取得し、同作がクランクアップするとすぐに帰国して10日間ほど、実際にニューヨークで流しのタクシー運転手として働いたという。ある時は運転席の身分証を見てデ・ニーロだと気付いた乗客から、「オスカーを獲っても役者の仕事にあぶれているのか?」とビックリされたのだとか。それにしてもまあ、役になりきることを信条とするメソッド・アクター、デ・ニーロらしいエピソードではある。ただし、いよいよ狂気を暴走させ始めたトラヴィスのモヒカン刈りは、次回作『ラスト・タイクーン』(’76)で映画プロデューサー役を演じることが決まっており、実際に頭髪を刈り上げるわけにはいかなかったため、特殊メイク担当のディック・スミスが制作したカツラを着用している。これが全くカツラに見えないのだから、さすがは巨匠ディック・スミス!と言わざるを得まい。 理想の美女ベッツィ役にシュレイダーが「シビル・シェパードのような女優を」と注文付けたところ、その話を聞いた彼女のエージェントから「シビル本人ではいかがでしょうか?」と打診があって本人の起用が決定。当時の彼女は『ラスト・ショー』(’71)に『ふたり自身』(’72)に本作にと重要な映画が続き、まさにキャリアの絶頂期にあった。そのベッツィの同僚トム役には、当初ハーヴェイ・カイテルがオファーされていたものの、しかし本人の希望でポン引きスポーツ役をゲット。当時ニューヨークの悪名高き危険地帯ヘルズ・キッチン(現在は高級住宅街)に住んでいたカイテルにとって、スポーツみたいなポン引きは近所でよく見かけたので演じやすかったようだ。その代わりにトム役を手に入れたのは、後に『ブロードキャスト・ニュース』(’87)でオスカー候補になるコメディアンのアルバート・ブルックス。このトムという役柄はもともとオリジナル脚本にはなく、リハーサルで監督と相談しながら作り上げていく必要があったため、即興コメディの経験があるブルックスに白羽の矢が立てられたのである。また、ポルノ映画館の売店でトラヴィスが言い寄る黒人の女性店員は、本作での共演がきっかけでデ・ニーロと結婚した最初の奥さんダイアン・アボットだ。 しかしながら、恐らく本作のキャストで最も話題となり賛否両論を呼んだのは、未成年の娼婦アイリスを演じた撮影当時12歳の子役ジョディ・フォスターであろう。もともとスコセッシ監督の前作『アリスの恋』に出演していたジョディ。その監督から「娼婦役を演じて欲しい」と電話で連絡を受けた彼女の母親は、「あの監督は頭がおかしい」とビックリ仰天したそうだが、それでも詳しい話を聞いたうえで納得して引き受けたという。とはいっても本人は未成年である。子役を映画やドラマに出演させる際、当時すでにハリウッドでは厳しいルールが設けられており、教育委員会の許可を得る必要があったのだが、しかし娼婦という役柄が問題視されて肝心の出演許可が下りなかった。そこで制作サイドは弁護士を立て、この役を演じるに問題のない精神状態かどうかを精神科医に判定して貰い、さらに性的なニュアンスのあるシーンは8歳年上の姉コニーが演じるという条件のもとで教育委員会の許可を得たという。 そんなジョディに対してスコセッシ監督が細心の注意を払ったのが、終盤の血生臭い銃撃シーンである。なにしろ、銃弾で指が吹き飛んだり脳みそが飛び散ったりするため、まだ子供のジョディがショックを受けてトラウマとならぬよう、特殊メイク担当のディック・スミスが全ての仕組みを懇切丁寧に説明したうえで撮影に臨んだらしい。ただ、このシーンは「残酷すぎる」としてアメリカ映画協会のレーティング審査で問題となり、色の彩度を落として細部を見えづらくすることで、なんとかR指定を取ることが出来たのだそうだ。 ちなみに、アイリス役にはモデルとなった少女がいる。ポール・シュレイダーがたまたま知り合った15歳の娼婦だ。撮影の準備に当たってスコセッシ監督やジョディにも少女を紹介したというシュレイダー。パンにジャムと砂糖をかける習慣や、妙に大人びた独特の話し方など、ジョディの芝居には少女の特徴が取り入れられているという。劇中ではアイリスがトラヴィスのタクシーで轢かれそうになるシーンが出てくるが、そこでジョディの隣にいる友達役がその少女である。 そして忘れてならないのは、本作が映画音楽の巨匠バーナード・ハーマンの遺作でもあることだろう。それまで自作の音楽には既成曲しか使っていなかったスコセッシにとって、作曲家にオリジナル音楽を依頼するのは本作が初めて。ハーマンが手掛けたヒッチコックの『めまい』(’58)や『サイコ』(’60)の音楽が大好きだったスコセッシは、最初から彼にスコアを付けてもらうつもりだったようだ。当時のハーマンはハリウッド業界に見切りをつけてロンドンへ拠点を移していたのだが、『悪魔のシスター』と『愛のメモリー』(’76)でハーマンと組んだデ・パルマから連絡先を聞いたスコセッシは、短気で気難しいと評判の彼に国際電話をかけて相談をしたのだが、即座に「タクシー運転手の映画などやらん!」と断られたのだそうだ。最終的にロンドンへ送った脚本を読んで引き受けてくれたわけだが、しかし当時のハーマンはすでに心臓が弱っており、ロサンゼルスでのレコーディングに参加するための渡航が大きな負担となってしまった。そのため、実際にスタジオでタクトを振ったのは初日だけ。翌日からは代役がオーケストラ指揮を務め、レコーディングが終了した’75年12月23日の深夜、ハーマンは宿泊先のホテルで就寝中に息を引き取ったのである。まるで主人公トラヴィスの孤独と絶望に寄り添うような、ダークでありながらもドリーミーで不思議な温かさのあるジャジーなサウンドが素晴らしい。■ 『タクシードライバー』© 1976, renewed 2004 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2023.12.29
バイオレンス映画の巨匠ペキンパーが執念で撮りあげた遺作『バイオレント・サタデー』
キャリアのどん底だったペキンパー監督 ご存知、『ワイルド・バンチ』(’69)や『ゲッタウェイ』(’72)などの傑作アクションを大ヒットさせ、「バイオレンス映画の巨匠」として没後40年近くを経た今もなお、世界中で根強い人気を誇る映画監督サム・ペキンパー(1925~84)。その一方で、頑なに己の美学を追求するあまり映画会社やプロデューサーと度々衝突し、そのストレスもあってアルコールやドラッグに依存して問題行動を繰り返したため、扱いづらい監督として業界内に悪名を馳せたトラブルメーカーでもあった。 しかも『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(’73)以降は興行的な失敗作が続き、そのうえ心臓にペースメーカーを入れるという健康問題も抱えていた。いくら才能があるとはいえ、商業映画を任せるにはリスクが高すぎるとして、映画会社やプロデューサーから敬遠されても仕方なかろう。実際、久しぶりに当たりを取った『コンボイ』(’78)が、自身のキャリアで最大の興行収入を稼ぎ出したにもかかわらず、それっきり仕事を干されてしまったペキンパー。そんな彼にとって、実に5年振りの監督復帰作となったのが、結果的に遺作ともなってしまったスパイ映画『バイオレント・サタデー』(’83)だ。 原作は「ジェイソン・ボーン」シリーズでもお馴染みのスリラー作家ロバート・ラドラムが、’72年に発表した小説「バイオレント・サタデー(旧邦題:オスターマンの週末)」。もともと映画化権はギミック映画の帝王ウィリアム・キャッスルが獲得し、主演にはチャールトン・ヘストンの名前も挙がっていたが実現しなかった。その後、ラリー・ジョーンズにマーク・W・ザヴィットというプロデューサー・コンビに権利が移ったものの、彼らもまた脚本の段階で手をこまねいていたらしい。要は原作小説を上手く映画用に翻案することが出来なかったのだ。 そんな折に知り合ったのが、若手プロデューサー・コンビのピーター・S・デイヴィスとウィリアム・N・パンザー。ジョーンズから「映画化権を手放そうと考えている」と聞いた2人は、ならば自分たちが買い取りたいと申し入れたのである。『ハイランダー 悪魔の戦士』(’86)に始まる「ハイランダー」シリーズをフランチャイズ展開したことで知られるデイヴィスとパンザーだが、しかし当時は『スタントマン殺人事件』(’77)や『超高層プロフェッショナル』(’79)などの低予算B級アクションが専門。2人はこれがAクラスのメジャー映画を作る絶好のチャンスだと考えたという。なにしろ、原作は人気ベストセラー作家の小説である。大手スタジオが企画に関心を示すだろうことは想像に難くなかった。 とりあえず、まずは脚本を準備せねばならない。そこでデイヴィスとパンザーは、小説の題材でもあるCIAやKGBなどスパイの世界に精通した専門家イアン・マスターズに脚本の土台を書かせ、そのうえでロバート・アルドリッチの『ワイルド・アパッチ』(’72)やアーサー・ペンの『ナイトムーブス』(’75)で知られる硬派な名脚本家アラン・シャープに仕上げを任せた。ただ、そのシャープ自身は脚本の出来に満足しておらず、まさか本当に映画化されるとは思わなかったそうだ。再び彼に声がかかったのは、それからおよそ2年後のこと。映画化にゴーサインが出たことをエージェントから知らされたシャープは、あのサム・ペキンパーが監督に抜擢されたと聞いて驚いたという。 実は当初から、企画会議でペキンパーの名前が挙がっていたらしい。確かに問題のある監督だが、しかし非情なスパイの世界を描いたハードなアクション映画という題材にはうってつけだし、なによりもB級映画製作者のイメージを払拭したいデイヴィスとパンザーにとっては、既に半ば伝説と化した巨匠ペキンパーのネームバリューは非常に魅力的だった。折しも、彼は恩師ドン・シーゲル監督のコメディ映画『ジンクス!あいつのツキをぶっとばせ!』(’81)の第二班監督として久々に現場復帰し、12日間という短いスケジュールではあったが問題なく撮影を完遂したばかり。少なくとも仕事は出来る状態だ。なおかつ、誰よりも本人が監督としてのカムバックを熱望していた。そこで一肌脱いだのがタレント・エージェントのマーティン・バーム。ペキンパーにとって最大の理解者であり協力者だったバームが、最後まで職務を全うさせるべくプロデューサーとの仲介役を務めることになったのである。 こうして現実となったサム・ペキンパーの監督復帰。その噂はすぐにハリウッド業界を駆け巡り、有名無名に関係なく大勢の俳優たちが出演を希望した。おかげでキャスティングは非常にスムース。ルトガー・ハウアーやジョン・ハートのような当時旬の役者から、バート・ランカスターのようなハリウッドのレジェンドまで、実に多彩な豪華キャストが揃うこととなった。しかも、彼らは普段より安いギャラでの出演契約に応じたという。「サムの健康状態はみんな知っていたから、これが遺作になるかもしれないと思った」と後に女優キャシー・イェーツが語っているが、恐らくペキンパー映画に出れるチャンスはこれが最後かもしれないと考えた人も多かったのだろう。そんなところからも、サム・ペキンパーというネームバリューの大きさが伺えよう。 ただその一方で、ペキンパーが監督に起用されたことでメジャー・スタジオからの資金提供は期待できなくなった。それゆえ、デイヴィスとパンザーは国外市場向けに配給権を先行販売するプリセールス、個人投資家からの投資などで製作費をかき集めなくてはならなかったという。これには良い面もあって、国外のディストリビューターは完成品を受け取るだけだし、投資家は最終的に利益さえ出ればオッケーなので、メジャー・スタジオのように作品内容について注文や横やりの入る心配がない。その代わり、予算とスケジュールは厳守せねばならず、その点においてペキンパーは不安要素が多かった。実際、本作でも脚本や編集を巡ってペキンパーとプロデューサー陣は対立することとなるのだが、それでも予算と納期だけはちゃんと守ったらしい。やはりペキンパーとしては、映画監督として健在であることを世に示す方が優先だったのだろう。 撮影は’82年11月~’83年1月にかけての約3カ月(実働54日間)、予算は前作『コンボイ』の1200万ドルを大きく下回る700万ドルと、実はそれほど大作映画というわけではなかったが、それでもアメリカ本国およびイギリス、日本ではメジャー・スタジオの20世紀フォックスが配給を担当。特にヨーロッパでの客入りは好調だったそうで、批評家からの評価はあまり芳しくなかったものの、しかし興行的には十分な成功を収めることが出来たのである。 トレードマークのスローモーションをフル稼働したバイオレンス描写 最愛の妻(メリート・ヴァン・カンプ)をソ連のKGBに殺されたCIA諜報員ローレンス・ファセット(ジョン・ハート)。実は、この暗殺事件は彼の上司であるダンフォース長官(バート・ランカスター)も関わっていたのだが、その事実を知らないファセットは復讐のため犯人捜しに乗り出し、その過程で米国内におけるソ連スパイの極秘ネットワーク「オメガ」の存在に気付く。彼が突き止めた「オメガ」のメンバーは3人。株式仲買人のジョセフ・カルドン(クリス・サランドン)、形成外科医のリチャード・トレメイン(デニス・ホッパー)、そしてTVプロデューサーのバーナード・オスターマン(クレイグ・T・ネルソン)である。彼らは大学時代からの親友で、いずれも金銭的な問題からKGBの協力者になったようだ。「オメガ」の全貌を解明し、米国内のソ連スパイ網を一網打尽にすべきだと主張するファセット。ダンフォース長官は何食わぬ顔でミッションを許可する。 ファセットの考えた計画はこうだ。3人の裏切り者を逮捕するだけでは、「オメガ」の全貌を暴くのは難しいだろう。それよりも、彼らの全員もしくは1人でも寝返らせ、本人の意思でCIAの捜査に協力させた方が得策だ。そこでファセットが白羽の矢を立てたのは、3人の共通の親友である有名なテレビ・ジャーナリスト、ジョン・タナー(ルトガー・ハウアー)だ。正義感の強い熱烈な愛国者のタナー。彼が司会を務めるトーク番組は、アメリカのタブーにズバズバと斬り込んで大変な人気を博している(「愛国=国家の健全化や国民の利益のために政府の悪事や不正を暴く」という姿勢は、昨今の某国の欺瞞に満ちた疑似愛国者様たちとは大違いですな!)。弁の立つ彼ならば、友人たちを説得することも出来るだろうと踏んだのだ。ファセットから詳しい事情を説明されても、まさか親友たちがソ連のスパイだとはにわかに信じられないタナー。しかし、動かぬ証拠となる監視カメラ映像を見せられ、CIAの作戦に力を貸すことにする。交換条件はダンフォース長官の独占TVインタビューだ。 タナーと親友たちは年に1回、誰かの自宅に夫婦で集まって、仲良く週末を過ごすという習慣がある。それを彼らは、発起人の名前にあやかって「オスターマンの週末」と呼んでいた。今年はL.A.郊外にあるタナーの大豪邸で開かれることに。そこで、CIAはタナー宅の各所に監視カメラを仕込んでゲストたちの行動を逐一監視し、裏山の中継車に隠れたファセットがそれを見ながらタナーに指示を出すことになる。家族に身の危険が及ぶことを恐れたタナーは、妻アリ(メグ・フォスター)と息子スティーヴ(クリストファー・スター)を旅行へ行かせようとするが、しかしかえってKGBの工作員に妻子が狙われる羽目となり、ファセットの助言に従って家族も一緒に週末を過ごすことにする。何も知らずに集まってくるゲストたち。トレメインとコカイン中毒の妻ヴァージニア(ヘレン・シェイヴァー)、カルドンと計算高い妻ベティ(キャシー・イェーツ)、そして唯ひとり独身のオスターマン。緊張しつつも友人たちを説得するチャンスを窺っていたタナーだが、しかし事態は全く予想しなかった方向へと展開していく…。 東西冷戦の時代を背景に、表向きは対立しているはずの米ソ諜報機関が実は裏で繋がっており、お互いの利益のために持ちつ持たれつの関係をキープしている。そうした中、有名ジャーナリストが東側陣営の協力者を西側へ寝返らせようというCIAの極秘作戦に関わったところ、この作戦自体が実は目くらまし的な茶番劇で、その仕掛人には全く別の思惑があった…というお話。切り抜かれた映像や断片的な情報を巧みに利用したプロパガンダや印象操作の危険性は、SNSが発達した21世紀の現在の方がより説得力を持つだろう。そういう意味で非常に興味深い映画ではあるのだが、惜しむらくは多重構造的で複雑なプロットの交通整理が上手く出来ていないこと。アラン・シャープ自身が指摘する通り、欠点の目立つ脚本と言わざるを得ないだろう。そこはペキンパーも同意見だったようで、脚本の出来に不満を漏らしていたとも伝えられる。しかし、それでも本作の演出を引き受けたのは、ひとえに「なんとしてでも現役復帰したい」という執念ゆえだったのかもしれない。 恐らく、だからなのだろう。スローモーションをたっぷり使って描かれる、銃撃戦やカーチェイスなどの派手なアクション・シーンの数々は、さながら「ザ・ベスト・オブ・ペキンパー」の赴き。おのずと『ワイルド・バンチ』や『ゲッタウェイ』といった代表作を思い浮かべるファンは少なくなかろう。脚本の欠点を得意のバイオレンス描写で補おうという狙いもあったに違いない。 巨匠のもとに集まって来た名優たち 主人公タナー役のルトガー・ハウアーは、これがハリウッドでの初主演作。母国オランダで主演したポール・ヴァーホーヴェン監督の『女王陛下の戦士』(’77)や『SPETTERS/スペッターズ』(’80)がアメリカでも評判となり、当時は『ナイトホークス』(’81)と『ブレードランナー』(’82)の悪役でハリウッド進出したばかりだった。本作はペキンパー監督直々のご指名。オーディションどころかカメラテストすらナシで出演が決まり、そのうえペキンパーからは「どれでも好きな役を演じていい」と言われたのだそうだ。よっぽど気に入られたのだろう。そこで彼が選んだのがタナー役。当時は悪役が続いていたため、「また悪役を演じても面白みがないだろう」ということで、あえてタイプキャストから外れたヒーロー役に挑んだのである。 ちなみに、冒頭でファセットの妻を演じているブロンド美女メリート・ヴァン・カンプは、ハウアーと同じくオランダ出身の元ファッションモデル。これが女優デビューだったそうで、本作の直後にはリンゼイ・ワグナーやステイシー・キーチ、クラウディア・カルディナーレなどの豪華スター陣と共演した、テレビの大型ミニシリーズ『プリンセス・デイジー』(’83)のヒロイン役に大抜擢されている。 一方、悪い奴ばかり出てくる本作の中でも最大の悪人がCIA長官ダンフォース。演じるバート・ランカスターは、反権力志向の強い筋金入りの左翼リベラルだ。そのため、『カサンドラ・クロス』(’76)のマッケンジー大佐や『狂える戦場』(’80)のクラーク将軍など、アメリカの欺瞞や矛盾を体現するような権力者を好んで演じていたが、本作のダンフォース長官もそのひとつと言えよう。そのほか、『ミッドナイト・エクスプレス』(’78)や『エレファント・マン』(’80)で高い評価を得たジョン・ハートに『狼たちの午後』(’75)でオスカー候補になったクリス・サランドン、『イージー・ライダー』(’69)のデニス・ホッパーと豪華名優陣が脇を固める中、ちょっと意外なのがクレイグ・T・ネルソンだ。 オカルト映画『ポルターガイスト』(’82)シリーズの父親役で知られるネルソンだが、しかし映画での代表作はそれくらい。後に大ヒット・シットコム『Coach』(‘89~’97・日本未放送)でエミー賞の主演男優賞に輝くものの、当時はほぼ無名に近い地味な脇役俳優だった。そんな彼は、当時ドキュメンタリーのナレーションを吹き込むため、L.A.市内のサンセット・ゴウワー・スタジオにいたのだが、そこで偶然にもサム・ペキンパーを見かけたのだという。というのも、同スタジオは本作の屋内シーンの撮影場所。ペキンパーはその下準備のために訪れていたのだ。憧れのペキンパー監督が目の前にいる。しかも新作を撮るらしいじゃないか。そこでネルソンは思い切ってペキンパーに自らを売り込み、おかげで見事にオスターマン役をゲットしたのである。とはいえ、周りを見回せば名のある俳優ばかり。やはり初めのうちは居心地の悪さを覚えたようだ。 女優陣で最も印象深いのはタナーの妻アリ役のメグ・フォスター。’70年代から低予算のインディーズ映画をメインに活躍していた彼女は、主演ドラマ『女刑事キャグニー&レイシー』(‘82~’88)のキャグニー役を、たったの6話で降ろされたばかりだった。そのフォスターの無名時代のパートナーは、ペキンパー監督の『昼下がりの決斗』(’62)で若者ヘックを演じた俳優ロン・スター。2人の間に出来た息子が、本作で彼女の息子役を演じているクリストファー・スターだった。そのことをオーディションでペキンパーに話したところ、親子揃って抜擢されたのだそうだ。なお、ベティ役のキャシー・イェーツは、ペキンパーの前作『コンボイ』に引き続いての登板である。 もともとペキンパー監督自身のディレクターズ・カットは2時間近くあったものの、しかし無駄なシーンや意味不明な映像処理が目立つとして、プロデューサー陣の判断で100分強に再編集されてしまった。『ダンディー少佐』(’65)や『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』でも同じような目に遭ったペキンパーは「またかよ!忌々しいプロデューサーどもめ!」と憤慨したそうだが、とにもかくにも映画監督復帰という目標は見事に果たしたのである。その後、ジュリアン・レノンのヒット曲「ヴァロッテ」と「トゥー・レイト・フォー・グッドバイ」でミュージック・ビデオの演出に初挑戦し、次回作『On The Rocks』の準備も進めていたというペキンパー監督だが、しかし惜しくも心不全のため’84年12月28日に帰らぬ人となってしまった。■ ◆『バイオレント・サタデー』撮影中のサム・ペキンパー監督 『バイオレント・サタデー』© 1983 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
-
COLUMN/コラム2023.12.25
霧の中から現れる怨霊の恐怖!巨匠J・カーペンターによるゴシック・ホラーの隠れた名作『ザ・フォッグ』
モダン・ホラー全盛の時代に登場したクラシカルな正統派ホラー 来るべき’80年代スラッシャー映画ブームの原点にして、’70年代モダン・ホラー映画の金字塔『ハロウィン』(’78)。僅か30万ドル強という低予算のインディペンデント映画だった同作は、しかし興行収入およそ7000万ドルという驚異的な数字を叩き出し、演出・脚本・音楽を手掛けたジョン・カーペンター監督は一躍ハリウッドの注目の的となる。 ’70年代は『悪魔のいけにえ』(’74)や『ゾンビ』(’78)など、従来ならドライブイン・シアターやグラインドハウスで上映されたようなインディーズ系ホラー映画が、メジャー級のメガヒットを飛ばすようになった時代。加えて、『エクソシスト』(’73)や『キャリー』(’76)など、現代社会の日常に潜む不条理な恐怖を描くモダン・ホラーが人気を博した時代でもあった。アメリカのどこにでもある平和な田舎町で、連続殺人鬼マイケル・マイヤーズが繰り広げる無差別な殺戮を描き、劇場公開時に米インディペンデント映画史上最高の興行成績を記録した『ハロウィン』は、そうした時代のトレンドを象徴するような作品だったと言えよう。この歴史的な偉業を成し遂げたカーペンター監督が、今度は一転して古式ゆかしいゴシック・ホラーの世界に挑んだ映画。それが本作『ザ・フォッグ』(’80)だった。 舞台はカリフォルニア北部の沿岸にある小さな田舎町アントニオ・ベイ。深夜の海岸では町の長老マッケン氏(ジョン・ハウスマン)が、焚火を囲んで子供たちに怪談話を聞かせている。あと5分で日付は1980年4月21日へと変わり、アントニオ・ベイは創立100周年を迎える。実はこの町には昔から不思議な言い伝えがあった。それはまさに今から100年前のこと。沖へ近づいた大型帆船エリザベス・デイン号は、海岸の焚火を灯台の光と間違えて難破し、乗組員は全員死亡してしまった。それ以来、アントニオ・ベイの沖合に濃い霧が立ち込めるたび、幽霊船となったエリザベス・デイン号が霧の中から姿を現すというのだ。 時間は午前1時。人々が寝静まった深夜のアントニオ・ベイで、建物が揺れたり自動車が勝手にクラクションを鳴らしたりなどの怪現象が一斉に発生。ちょうどその頃、ひとりで酒を飲んでいた地元教会のマローン神父(ハル・ホルブルック)は、壁の中に隠されていた一冊の本を発見する。それは亡き祖父が書き残した100年前の日記帳だった。そこに記されていたのはエリザベス・デイン号難破事件の真相。実は、船に乗っていたのはハンセン病を患った大富豪ブレイク氏と患者仲間たちで、彼らは当時まだ小さな集落に過ぎなかったアントニオ・ベイの近くにハンセン病患者の居留地を作ろうとしていたのだ。しかし、これに反対したマローン神父の祖父ら6名の集落代表は、わざと焚火を灯台の光と間違えて船が難破するよう仕向けてブレイク氏らを殺害。それがまさに100年前の4月21日、午前1時のことだったのだ。しかも、彼らは船に積まれた大量の金を盗み出し、それを元にしてアントニオ・ベイの町を創立したという。忌まわしい過去の歴史を初めて知ったマローン神父は思わず戦慄する。 その同じ時刻、灯台の上から番組を放送しているローカル・ラジオ局の女性DJ、スティーヴィ・ウェイン(エイドリアン・バーボー)は、いつも天気情報を提供してくれる気象台員ダン・オバノン(チャールズ・サイファーズ)から沖合に濃霧が発生したとの報告を受ける。なるほど、海岸へ向けて移動している霧峰が灯台からも確認できる。しかも、これが不思議なことに光って見えるのだ。いずれにしても、沖合の漁船に警戒を促さなくてはいけない。スティーヴィの濃霧注意報を聴いて周囲を確認する漁船シー・グラス号の乗組員たち。すると霧の中から幽霊船エリザベス・デイン号が出現し、ブレイク氏らの怨霊によって乗組員3人は皆殺しにされる。 やがて朝が訪れ、町では創立100周年を祝う記念行事の準備が進められる。イベントの主催を任された不動産業者キャシー(ジャネット・リー)は、秘書サンディ(ナンシー・ルーミス)を伴って町中を駆け回っている。一方、漁に出たまま戻らないシー・グラス号を心配した地元住民ニック・キャッスル(トム・アトキンス)は、仲良くなったヒッチハイカー女性エリザベス(ジェイミー・リー・カーティス)と一緒に捜索に乗り出す。ほどなくして海上を漂流するシー・グラス号の中から乗組員の遺体を発見。不可解なことに検視結果は溺死だった。それも1週間以上は経っているような状態だという。その頃、幼い息子アンディが海岸で拾った木の板を手にしたスティーヴィは、それが100年前に難破したエリザベス・デイン号の一部であることに気付く。板に浮かび上がる「6人に死を」という文字にショックを受けるスティーヴィ。いつしか夜の帳が下り、祝賀行事で盛り上がるアントニオ・ベイの町。そこへ不気味に光る濃霧が沖合より立ち込め、霧の中から現れた怨霊たちが町の人々を殺し始める…。 これはアメリカ版の『八つ墓村』!? これぞまさしくアメリカン・ゴシック!先祖の犯した忌まわしい罪に対する呪いが、100年後の子孫に降りかかる…という設定は、マリオ・バーヴァ監督の傑作『血ぬられた墓標』(’60)を例に出すまでもなく、古典的な怪談物語の王道と呼ぶべきものであろう。筆者は高校時代に都内の名画座で本作を初めて見たのだが、当時の感想は「なにこれ、『八つ墓村』じゃん!」だった(笑)。まあ、さすがに『八つ墓村』には怨霊など出てこないものの、しかし基本的なプロットはかなり似ているものがあるし、本作に登場する怨霊たちも『八つ墓村』で村人に殺された落ち武者のイメージを想起させる。この手の恐怖譚が大衆に好まれるのは、恐らく古今東西を問わないのだろう。そんな普遍性の高い「呪い」と「復讐」のゴースト・ストーリーを、古き良きアメリカの伝統を今に残す風光明媚な海辺の田舎町を舞台に描くことで、本作はエドガー・アラン・ポーやH・P・ラヴクラフトにも相通じるアメリカン・ゴシックの世界を作り上げているのだ。 脚本を手掛けたのはジョン・カーペンター監督と、彼の公私に渡るパートナーだったプロデューサーのデブラ・ヒル。2人は’77年に『ジョン・カーペンターの要塞警察』(’76)のプロモーションでイギリスを訪れた際、ストーンヘンジの周辺が濃い霧に包まれる様子を目の当たりにしたことから、「霧の中から何か恐ろしいものが現れる」という設定を思いついたのだという。スティーブン・キング原作の『ミスト』(’07)を彷彿とさせるアイディアだが、もちろん本作が元ネタというわけでは全くない。なにしろ、キングの原作小説が発表されたのは本作の劇場公開と同じ’80年である。そもそも、本作のはるか以前にも「霧の中から何か恐ろしいものが現れる」映画は存在した。それが「霧の中から巨大な目玉のお化けが現れる」という英国産ホラー『巨大目玉の怪獣~トロレンバーグの恐怖』(’58)。実際、カーペンター監督は『ザ・フォッグ』を作るにあたって同作を参考にしたと語っている。 ほかにも、ヴァル・リュートンが製作した『私はゾンビと歩いた!』(’43)や『吸血鬼ボボラカ』(’45)などのRKOホラーを筆頭に、2人が敬愛するクラシック・ホラーの数々からインスピレーションを得たというカーペンターとヒル。また、’50年代に人気を博したECコミックの恐怖漫画からも多大な影響を受けている。『ハロウィン』と一線を画すムード重視のゴシック・スタイルは、やはり初めから意図したものだったようだ。ただ、こうした古典回帰路線を意識し過ぎたせいで、実は最初に完成したラフカット版は怖くもなんともない退屈な仕上がりだったらしい。折しも、当時は特殊メイクを駆使した刺激的なスプラッター映画が台頭し始めていた時期。ホラー映画ファンはゴア(残酷描写)を求めていた。そこでカーペンターとヒルの2人は、改めて予算を増やして追加撮影を決行。怨霊たちが犠牲者を殺害する場面の直接的な残酷描写や、冒頭の焚火を囲んだプロローグなど、最終的に完成した本編の約3分の1が追加撮影シーンだという。 カーペンター・ファミリーで固められたスタッフ&キャスト陣 ヒロインのラジオDJ、スティーヴィ役に起用されたのは、当時カーペンター監督と新婚ホヤホヤだった女優エイドリアン・バーボー。もともとテレビの人気シットコム『Maude』(‘72~’78)のレギュラーとして注目された彼女は、『ハロウィン』よりも前に撮影されていたカーペンター監督のテレビ映画『姿なき脅迫』(’78)に出演。当時カーペンターはデブラ・ヒルと付き合っていたが、しかしこれがきっかけでバーボーと急接近し、『ハロウィン』の完成後にヒルと破局することになった。ハリウッド・ヒルのカーペンター宅で、彼とヒルの2人から別離を知らされたジェイミー・リー・カーティスは、ショックのあまりその場で号泣したそうだ。ただ、本人たちは十分に納得したうえでの結論だったらしく、実際にカーペンターとヒルは本作以降もビジネス・パートナーとして仕事を続けることになる。 そのジェイミー・リー・カーティスは、『ハロウィン』に続いてのカーペンター作品出演だ。先述した通り、記録的な大ヒットとなった『ハロウィン』。主演女優であるカーティスは「これで映画の仕事が次々舞い込む」と期待したそうだが、しかし実際はその反対だったらしい。要するに、『ハロウィン』以前と変わらず全く仕事が来なかったのだ。辛うじて、テレビドラマのゲスト出演で食いつなぐ日々。それを気の毒に思ったカーペンターが、彼女のためにヒッチハイカーのエリザベスという役柄を用意してくれたのだという。そのうえ母親のジャネット・リーまで起用。カーペンターとヒルのことを「私にとっては映画界の父親と母親」と呼ぶカーティスだが、文字通り家族ぐるみの親しい付き合いだったのだろう。 そもそもカーペンター監督は映画界の友人や仲間をとても大切にする人物。本作のキャストやスタッフも、その多くがカーペンター・ファミリーと呼ぶべき常連組で固められている。例えば、気象台員ダン役のチャールズ・サイファーズは『ハロウィン』のブラケット保安官役でお馴染み。『ジョン・カーペンターの要塞警察』で演じた死刑囚を護送する刑事役も印象深い。そういえば、『ハロウィン』の続編『ブギーマン』(’81)と『ハロウィンKILLS』(’21)でもブラケット保安官を演じていたっけ。不動産屋秘書サンディ役のナンシー・ルーミスも、『ハロウィン』のブラケット保安官の娘アニー役や『ジョン・カーペンターの要塞警察』の警察署の女性職員役で知られ、『ブギーマン』と『ハロウィン3』(’83)にも顔を出していた。ニック役のトム・アトキンスと漁師トミー役のジョージ・バック・フラワーは、本作をきっかけにカーペンター映画の常連となる。また、撮影監督のディーン・カンディも『ハロウィン』から『ゴーストハンターズ』(’86)に至るまで、カーペンター映画に欠かせないカメラマンだった。 さらに本作が興味深いのは、登場人物の役名にまで友人の名前が使われていること。トム・アトキンス演じるニック・キャッスルはカーペンターの学生時代からの大親友で、『ハロウィン』の初代マイケル・マイヤーズを演じたことでも有名な脚本家が元ネタだし、気象台員ダン・オバノンはカーペンターの処女作『ダーク・スター』(’74)や『エイリアン』(’79)でお馴染み脚本家、家政婦コービッツさんはテレビ映画『姿なき脅迫』で世話になった製作者リチャード・コービッツへのオマージュだ。また、漁師トミー・ウォーレスは数々のカーペンター作品で美術や編集などを手掛けた、幼馴染の映画監督トミー・リー・ウォーレスのこと。本作でも美術と編集を担当したウォーレスは、さらにブレイク氏の怨霊役を特殊メイク担当のロブ・ボッティンと2人で演じ分けている。ちなみに、女優ナンシー・ルーミスとウォーレスは当時夫婦で、劇中に出てくるサンディの家は2人が住んでいた自宅だという。 なお、『ジョン・カーペンターの要塞警察』の死刑囚ナポレオン・ウィルソン役で強烈な印象を残す俳優ダーウィン・ジョストンが、ドクター・ファイブスという名前の検視医役で登場するのだが、この役名はカルト映画『怪人ドクター・ファイブス』(’71)でヴィンセント・プライスが演じたマッド・ドクターのこと。伝説の映画製作者にしてオスカー俳優のジョン・ハウスマンが冒頭で演じるマッケン氏は、H・P・ラヴクラフトやスティーブン・キングにも影響を与えた怪奇小説家アーサー・マッケンから引用されている。また、ジョン・カーペンター自身も教会の用務員ベネット・トレイマー役でカメオ出演。この役名も実はカーペンターの学生時代の友人である同名脚本家から取られており、『ハロウィン』にもベン・トレイマーというキャラクターが出てくる。 かくして、本来は’79年のクリスマスシーズンに全米公開を目指していたものの、大幅な撮り直しをせねばならなくなったため、’80年1月に封切時期がずれ込んだ『ザ・フォッグ』。興行成績は前作『ハロウィン』に遠く及ばなかったとはいえ、それでも110万ドルの予算(+広告費300万ドル)に対して2000万ドル強の売り上げは十分に健闘したと言えよう。ただし、批評家からの評価は決して良いとは言えなかった。カーペンター監督自身も最近でこそ本作を「ちょっとした古典」と呼んでいるが、しかし公開当時はその出来栄えにかなり不満があったそうだし、ジェイミー・リー・カーティスも仕事のない時期にオファーしてくれたカーペンター監督に感謝しつつ、「個人的に好きな映画ではない」とハッキリ断言している。そんな殺生な…『ブギーマン』は良い映画だ、過小評価されていると言ってたのに!?と愚痴りたくなるってもんだが(笑)、まあ、確かに地味な映画ではある。しかし、あからさまなショック演出やスプラッターに頼ることなく、夜霧に包まれた田舎町の禍々しいムードを煽りながら、じわじわと恐怖を盛り上げていくカーペンターの演出は、それこそジャック・ターナーやロバート・シオドマク、マーク・ロブソンといったクラシック・ホラーの名匠たちにも引けを取らないだろう。もっと評価されて然るべき隠れた名作だと思う。■ 『ザ・フォッグ』© 1979 STUDIOCANAL
-
COLUMN/コラム2023.12.04
元祖『ミッドサマー』と呼ぶべきカルト映画の傑作『ウィッカーマン』
英国ホラーの衰退期に誕生した異色作 海外では「ホラー映画の『市民ケーン』」とも呼ばれている伝説的なカルト映画である。タイトルのウィッカーマンとは、古代ケルトの宗教・ドルイド教の生贄の儀式に使われた木製の檻のこと。それは巨大な人間の形をしており、中に生贄の動物や人間を入れたまま火をつけて燃やされたという。いわゆる人身御供というやつだ。ただし、本作の舞台は現代のイギリス。行方不明者の捜索のため田舎の警察官が小さな島を訪れたところ、島民たちはキリスト教でなくドルイド教を今なお信仰しており、やがて余所者である警察官は恐るべき伝統行事の渦中へと呑み込まれていく。 そう、これぞ元祖『ミッドサマー』(’19)!アリ・アスター監督が本作から影響を受けたのかどうかは定かでないものの、しかし『ホステル』(’05)シリーズのイーライ・ロスや『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』(’12)のジェームズ・ワトキンス、『ハイ・ライズ』(’15)のベン・ホイートリーなど本作の熱烈なファンを公言する映画監督は少なくないし、結果としてオリジナルには遠く及ばなかったものの、ニコラス・ケイジ主演でハリウッド・リメイクされたこともある。恐らく、全く知らなかったということはなかろう。 本作の企画を発案したのは、ヒッチコック監督の『フレンジー』(’72)や自ら書いた舞台劇を映画化した『探偵スルース』(’72)、『オリエント急行殺人事件』(’74)に始まるアガサ・クリスティ・シリーズでも知られるイギリスの大物脚本家アンソニー・シェファー。実はもともと大のホラー映画ファンだったという彼は、ハマー・プロ作品のように吸血鬼やミイラ男やゾンビが出てくる古典的な怪奇映画ではなく、もっと知的で洗練されたモダン・ホラーを作ってみたいと考え、当時映画会社ブリティッシュ・ライオンの幹部だったピーター・スネルに相談したという。ちょうど当時は、『フランケンシュタインの逆襲』(’57)や『吸血鬼ドラキュラ』(’58)の大ヒットで火の付いた、英国ホラー映画ブームの勢いが急速に失われていった衰退期。ハマー・フィルムはエロス路線やサスペンス路線などを模索するが低迷し、アミカスやタイゴンもホラー映画からの脱却を試みるようになっていた。もはや古き良きゴシック・ホラーは通用しない。イギリスのホラー映画に新規路線が求められているのは明白だった。 そこでシェファーとスネルが辿り着いたのは古代宗教。イギリスではキリスト教が伝搬する以前にドルイド教が信仰されていた。しかし、ホラー映画に出てくる宗教といえばキリスト教ばかりである。これは題材として新しいだろう。そんな彼らが主演俳優として想定したのが、シェファーの友人でもあったホラー映画スター、クリストファー・リー。ハマー・プロの作品群によってホラー映画の帝王としての地位を確立したリーだが、しかしそれゆえにオファーされる仕事の幅も著しく狭められていた。いっそのこと長年に渡って培ってきたハマー・ホラーのイメージを返上し、もっとユニークな映画で興味深い役柄を演じてみたい。この切なる願いにはシェファーやスネルも大いに賛同し、リーをメインキャストに据えるという大前提で企画が進行することになったという。さらに、過去にシェファーとテレビ制作会社を共同経営していたこともあるロビン・ハーディ監督が加わり、およそ3年近くの歳月をかけて完成させたのが本作『ウィッカーマン』(’73)だったのである。 孤島に脈々と伝わる古代宗教と消えた少女の行方 スコットランド西岸のヘブリディーズ諸島。その中の小さな島サマーアイルに、本土からニール・ハウイ巡査部長(エドワード・ウッドワード)が訪れる。島に住む12歳の少女ローワン・モリソンが行方不明になったので探して欲しいと、ハウイ巡査部長宛てに匿名の捜索願が届いたのだ。サマーアイル島は領主であるサマーアイル卿(クリストファー・リー)が所有する私有地で、それを理由に島民たちはハウイ巡査部長の上陸を拒んだが、しかし彼は警察の捜査権を主張して強引に乗り込んでいく。ローワンの写真を見せても知らぬ存ぜぬを繰り返し、捜査に対して明らかに非協力的な島の人々。母親のメイ・モリソンも知らないのか?と詰め寄ると、渋々ながら島の住人であることを認めるが、しかし写真の少女はメイ・モリソンの娘じゃないと言い張る。 初っ端から島民たちの態度に不快感を覚えるハウイ巡査部長。島で唯一の郵便局を営むメイ・モリソンのもとを訪ね、娘ローワンの行方に心当たりがないのか問いただすが、しかし彼女もまた同じ答えを繰り返す。その子は私の娘なんかじゃないと。狐につままれたような心境で困惑を隠せないハウイ巡査部長。とりあえず島に留まって捜索を続けるため、地元の宿で小さな部屋を取るのだが、しかし1階のパブに集まる島民たちは酔っぱらって卑猥な歌を大合唱し、外へ散歩に出れば公園の暗がりで大勢の若い男女がセックスに興じ、部屋へ戻ると宿屋の主人マクレガー(リンゼイ・ケンプ)の娘ウィロー(ブリット・エクランド)が彼を誘惑する。敬虔なキリスト教徒で生真面目な禁欲主義者のハウイ巡査部長は、乱れ切った島民たちの倫理観に怒りを通り越して呆れてしまう。 翌朝、ローワンの通っていた学校へ聞き取り調査に向かうハウイ巡査部長。学校では五月祭の準備が進められていたのだが、祭りで使用されるメイポールを男根崇拝の象徴だと、女教師ローズ(ダイアン・シレント)が生徒たちに教える光景を見て憤慨する。そんな汚らわしいことを子供に教えるとは何事だ!というわけだ。しかも、生徒名簿にローワンの名前があるにも関わらず、教師も生徒もそんな子は知らないと白を切る。この島の住人は大人も子供も嘘つきばかりじゃないか!怒り心頭の巡査部長に対し、ようやく女教師ローズがローワンの存在を認めるも、しかしその行方については答えをはぐらかす。 こうなったら領主サマーアイル卿に問いただすしかなかろう。サマーアイル卿の邸宅に乗り込んでいったハウイ巡査部長。彼の到着を待ち受けていたサマーアイル卿は、島の住人たちが古代宗教を信仰していることを明かす。かつてこの島は食物の育たない不毛の地だったが、古代宗教の儀式を復活させたところ土地が豊かになり、リンゴの名産地として栄えるようになったのだという。現代のイギリスに異教徒の地が存在すると知って驚愕するハウイ巡査部長。やがて彼は、ローワンが昨年の五月祭で豊作を願う儀式の女王(メイクイーン)に選ばれていたこと、しかし結果的に昨年が過去に例のない凶作だったことを知り、彼女が神への生贄として殺されるのではないかと推測する。だから島民たちは終始一貫して嘘をついているのだろう。そう考えたハウイ巡査部長は、明日に控えた五月祭の儀式に潜入してローワンを救い出そうと考えるのだが…? 見る者の価値観や道徳観が問われるストーリーの本質 原作は作家デヴィッド・ピナーが’67年に発表したミステリー小説「Ritual」。ただし、そのまま映画化するには難しい内容だったため、警察官が捜査のため訪れた田舎で古代宗教の生贄の儀式が行われていた…という基本プロットを拝借しただけで、それ以外の設定やストーリーはほぼ本作のオリジナルだという。それゆえ、本編には原作クレジットがない。 アンソニー・シェファーの脚本が巧みなのは、同時代の社会トレンドや価値観の変化を物語の背景として随所に織り込みながら、見る者によって解釈や感想が大きく違ってくる作劇の妙であろう。当時は、’60年代末にアメリカで生まれた若者のカウンターカルチャーが世界へと広まった時代。ラブ&ピースにフリーセックス、反体制に反権力、自然への回帰にスピリチュアリズム。まさしくサマーアイル島の人々のライフスタイルそのものである。反対に主人公ハウイ巡査部長は、原理主義的なクリスチャンでガチガチに潔癖主義のモラリスト。そのうえ、警察権力を笠に着て島民のプライバシーを土足で踏み荒らす権威主義者だ。 なので、最初のうちは正義の味方である警察官が閉鎖的な島へ迷い込み、邪教信者の島民たちによって恐ろしい目に遭う話なのかと思っていると、だんだんとハウイ巡査部長の横柄な偽善者ぶりが鼻につくようになり、やがて気が付くと島民の方に肩入れしてしまうのだ。もちろん、そうじゃない観客もいることだろう。なので、見る者の価値観や道徳観によって受け止め方も大きく違ってくる。衝撃的なクライマックスも、人によっては恐怖よりもある種のカタルシスを強く覚えるはずだ。 また、本作の魅力を語るうえで外せないのが、ポール・ジョヴァンニによる劇中の挿入歌や伴奏スコア。なにしろ、もはや半ばミュージカル映画のようなものじゃないか?と思うくらい、本作では音楽が重要な役割を占めているのだ。ケルト音楽をベースにした牧歌的で美しいメロディは、それゆえにどこか不穏な空気を醸し出す。幾度となくCD化もされたサントラ盤アルバムはフォーク・ロック・ファンも必聴だ。 ちなみに、本作には大きく分けて3種類のバージョンが存在する。というのも、完成直後に製作会社のブリティッシュ・ライオンがEMIに買収され、プロデューサーのピーター・スネルがクビになってしまったのだ。解雇された映画会社重役の置き土産が、後継者によって杜撰な扱いを受けるのは業界アルアル。この手の映画に理解のあるアメリカのロジャー・コーマンに命運を託そうと、スネルはコーマンのもとへオリジナル編集版のフィルムを送付したが、しかし残念ながら配給契約は成立しなかった。結局、100分の本編はブリティッシュ・ライオンの指示で89分へと短縮。ハウイ巡査部長の人となりが分かる本土での仕事ぶりや生活ぶりを描いたシーンや、ブリット・エクランド扮する妖艶な美女ウィローが若者の筆おろしをするシーンなどが失われ、カットされたフィルムは廃棄されてしまったと言われる。 しかし、ロジャー・コーマンが保管していたオリジナル編集版フィルムを基に、ロビン・ハーディ監督自身が’79年に最も原型に近い99分バージョンを製作。これがディレクターズ・カット版として流通している。さらに、ハーヴァード大学のフィルム・アーカイブで本作の未公開バージョン・フィルムが発見され、それを基にした94分のファイナル・カット版も’13年に発表されている。今回、ザ・シネマで放送されるのは劇場公開時の89分バージョンだが、機会があれば是非、ディレクターズ・カット版やファイナル・カット版もチェックして頂きたい。本作が描かんとした文化対立的なテーマの本質を、より深く考察できるはずだ。■ 『ウィッカーマン』© 1973 STUDIOCANAL FILMS Ltd - All Rights Reserved
-
COLUMN/コラム2023.11.29
元CIA職員が描く冷酷非情なロシアン・スパイの世界!『レッド・スパロー』
ソ連時代のロシアに実在した「スパロー」とは? 『ハンガー・ゲーム』シリーズのヒロイン、カットニス役でトップスターとしての地位を不動にした女優ジェニファー・ローレンスが、同シリーズのフランシス・ローレンス監督と再びタッグを組んだスパイ映画『レッド・スパロー』(’18)。ちょうどこの時期、シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』(’17)に韓流アクション『悪女/AKUJO』(’19)、リブート版『チャーリーズ・エンジェル』(’19)にリュック・ベッソン監督の『アンナ』(’19)など、いわゆる女性スパイ物が相次いで話題となっていたのだが、その中で本作が他と一線を画していたのは、一切の荒唐無稽を排したウルトラハードなリアリズム路線を貫いたことであろう。 なにしろ、原作者ジェイソン・マシューズは元CIA職員。表向きは外交官としてヨーロッパやアジアなど各国を渡り歩きながら、その裏で工作員のリクルートおよびマネージメントを担当していたという。33年間のCIA勤務を経て引退した彼は、退職後のセカンド・キャリアとして小説家を選択。国際諜報の世界に身を置いていた時代の知識と経験を基に、初めて出版した処女作が大ベストセラーとなったスパイ小説「レッド・スパロー」だったのである。 テーマはスパロー(雀)と呼ばれるロシアの女性スパイ。彼女たちの役割は敵国の諜報員にハニー・トラップを仕掛け、自らの美貌と肉体を駆使してターゲットを誘惑し、巧みな心理戦で相手を意のままに操ること。主人公のドミニカ・エゴロワというキャラクターそのものは完全なる創作だが、しかしマシューズによるとソ連時代のロシアにはスパローの養成学校まで実在したそうだ。当時はアメリカでも同様の試みがなされたが、しかし倫理的な問題から実現はしなかったとのこと。さすがにソ連解体後のロシア諜報機関にはスパローもスパロー・スクールも存在せず、よって本作のストーリーも過去の事実を基にしたフィクションと見做すべきだが、それでもプロの女性を外部から雇ったロシアのハニー・トラップ工作は今もなお行われているという。 国家によって武器へと仕立てられた女性のサバイバル劇 舞台は現代のロシア、主人公のドミニカ・エゴロワ(ジェニファー・ローレンス)は世界的に有名なバレリーナだ。ボリショイ劇場の舞台で華やかなスポットライトを浴びるドミニカだが、しかし私生活は極めて質素なもの。ソ連時代に建てられた郊外の古い集合住宅で、病気の母親(ジョエリー・リチャードソン)と2人きりで暮らしている。そんなある日、舞台の公演中に起きた事故で片脚を骨折した彼女は再起不能に。自分の名声を妬んだライバルの仕業と知ったドミニカは、相手を半殺しの目に遭わせて復讐を遂げるものの、しかしバレリーナとしてのキャリアが断たれたことで生活が立ち行かなくなる。そこで彼女が頼ったのは、亡き父親の年の離れた弟、つまり叔父に当たるワーニャ(マティアス・スーナールツ)だった。 KGB第1総局を前身とする諜報機関、ロシア対外情報庁(SVR)の副長官を務めるワーニャ叔父さん。アパートの家賃や母親の治療費と引き換えに、彼が姪のドミニカにオファーした仕事というのが、悪徳実業家ディミトリ・ウスチノフに色仕掛けで取り入るというハニトラ工作だった。ところが、相手の携帯電話をすり替えるだけの簡単な任務だったはずが、途中から加わったSVRの殺し屋マトリンがウスチノフを殺害。結果的に要人の暗殺現場を目撃してしまった彼女は、ワーニャ叔父さんの指示に従ってスパイ養成学校へ送られることとなる。さもなければ、国家に不都合な目撃者として抹殺されてしまう。例の復讐事件で姪に工作員の素質があると見抜いた叔父は、彼女をスパイの世界へ引きずり込むための罠を仕組んだのである。 ドミニカが送り込まれたのは、ハニー・トラップ専門の工作員「スパロー」を育成する第4学校。冷酷非情な監督官(シャーロット・ランプリング)によって、美しさと強さを兼ね備えた若い男女が、己の頭脳と肉体を武器にした諜報テクニックを叩きこまれていく。中でもドミニカの成長ぶりは目覚ましく、その才能に注目したSVRの重鎮コルチノイ(ジェレミー・アイアンズ)の抜擢によって、彼女は国際諜報の最前線へ羽ばたくこととなる。その最初の任務は、SVR上層部に潜むアメリカとの内通者を炙り出すことだった。 実はドミニカがボリショイの舞台で事故に見舞われたのと同じ頃、モスクワ市内のゴーリキー公園でスパイ事件が発生。表向きはアメリカの商務参事官として米国大使館に勤務しつつ、その裏で諜報活動を行っていたCIA捜査官ネイト・ナッシュ(ジョエル・エドガートン)が、ロシア現地の内通者と接触している現場をパトロール中の警官に見つかったのである。ギリギリで米国大使館へ逃げ込んだナッシュは、外交官特権を使ってアメリカへと帰国。ロシア側は公園から立ち去った内通者がSVR内部の重要人物と睨むが、しかし身元を割り出すまでには至らなかったのだ。 そのナッシュが再び内通者と接触を図るべく、ハンガリーのブダペストに滞在中だと知ったSVRは、ドミニカを現地へ送り込むことに。ナッシュを誘惑して内通者の正体を聞き出すため、身分を偽って接触を図ったドミニカだったが、しかしすぐにSVRの工作員であることがバレてしまい、反対に二重スパイの取引を持ち掛けられる。自身と母親の身柄保護および生活保障を条件に、CIAの諜報工作に協力してSVRを出し抜こうとするドミニカだが…? ソ連時代のロシアで筆者が身近に感じたスパイの存在とは? 生き馬の目を抜く全体主義的なロシア社会にあって、国家の武器として利用され搾取されてきた女性が、自らの生き残りを賭けてロシアとアメリカの諜報機関を手玉に取っていく。多分に冷戦時代の香りがするのは、先述した通りソ連時代のスパイ工作が物語の下敷きとなっているからであろう。ハンガリーのブダペストやスロバキアのブラティスラヴァ、さらにウィーンやロンドンでも撮影されたエレガントなロケーションも、往年のスパイ映画を彷彿とさせる。ロングショットの多用やシンメトリーを意識した折り目正しい画面構図によって、冷酷非情なスパイの世界の心象風景を描いたフランシス・ローレンス監督の演出も極めてスタイリッシュだ。中でも、ドミニカの骨折事故とナッシュのスパイ事件が、インターカットによって同時進行していくプロローグの編集処理は圧巻!ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(’51)をお手本にしたそうだが、ドミニカとナッシュが何者であるのかを観客へ的確に伝えつつ、やがて両者の運命が交錯していくことも暗示した見事なオープニングである。 そんな本作で何よりも驚かされるのは、昨今のハリウッド・メジャー映画としては極めて珍しい大胆な性描写と暴力描写であろう。なにしろセックスを武器にしたスパイの話である。そもそも原作小説の性描写や暴力描写が過激だったため、製作陣は最初からR指定を覚悟して企画に臨んだという。中でも主演のジェニファー・ローレンスには、一糸まとわぬヌードシーンが要求されたため、撮影された映像は真っ先にジェニファー本人のチェックを受けたそうで、それまではラッシュ映像の試写すら行われなかったらしい。 さらに、主人公ドミニカが元バレリーナという設定であるため、演じるジェニファーもバレエの猛特訓を受けたという。ボリショイ劇場のシーンはブダペストのオペラ座で撮影。スティーブン・スピルバーグ監督のリメイク版『ウエスト・サイド・ストーリー』(’21)も手掛けた、ニューヨーク・シティ・バレエのジャスティン・ペックが振付を担当している。ジェニファーのダンスコーチに任命されたのはダンサーのカート・フローマン。1日3時間、週6日間のレッスンを3カ月も続けたという。とはいえ、さすがにボリショイ級のレベルに到達するのは不可能であるため、ジェニファー本人のパフォーマンスは主にクロースアップショットで使用。ロングショットではアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパル、イザベラ・ボイルストンが代役を務めている。 なお、バレエ・ファンにとって要注目なのは、その卓越したテクニックと美しい容姿から日本でも絶大な人気を誇るウクライナ人ダンサー、セルゲイ・ポルーニンが、ドミニカにケガをさせるダンス・パートナー役で顔を出していることであろう。また、七三分けのクリーンカットでワーニャ叔父さんを演じるベルギー人俳優マティアス・スーナールツが、恐ろしいくらいロシアのプーチン大統領と似ているのも興味深いところ。ご存知の通り、プーチン氏はSVRの前身であるKGBの元諜報員だった。ローレンス監督曰く、特定の人物に似せるという意図は全くなかったらしいが、普段は髪が長めで髭を伸ばしているマティアスの外見を整えたところ、意外にも「ある人物」に似てしまったのだそうだ(笑)。 ちなみに、ソ連時代のモスクワで育った筆者にとって、スパイは割と身近な存在だった。なんといっても筆者の父親はマスコミの特派員。情報を扱う仕事である。当然ながら自宅の電話には盗聴器が仕掛けられ、父親が外出すればKGBの尾行が付き、家の中も外から監視されていた。なので、父親が現地の情報提供者などと電話でコンタクトを取る際は、外国人が宿泊する市内の高級ホテルの公衆電話から英語ないし日本語で連絡してもらう。また、当時は日本の本社との通信手段として、国際電話と電報とテレックスを使い分けていた時代。ただし、国際電話は盗聴されているため、ソ連当局に都合の悪い内容の場合は途中で切られてしまう。ゆえに、短い連絡は電報で、長い文章はテレックスで。もしくは、ホテルで近日中に帰国する日本人を探して原稿入りの封筒を託し、羽田もしくは成田の空港でポストに投函してもらう。時には、うちの母親が子供たちを連れて旅行へ行くふりをし、父親に車で駅まで送り届けさせる。そのままKGBの尾行は父親の車を追いかけていくので、その隙を狙って母親が電報局から日本へ電報を打つなんてこともあったそうだ。 また、日本人のみならずモスクワに住む外国人の多くが、現地のメイドや運転手などを雇っていたのだが、その外国人向け人材派遣も実はKGBの管轄だった。筆者の家でも父親の秘書や子供の面倒を見るメイドさん、ピアノ教師などを雇っていたのだが、もちろん彼ら自身がスパイというわけではない。あくまでもKGBが管理しているというだけなのだが、その代わりに勤務先の外国人家庭や外国企業オフィスなどで見聞きしたことを上に報告する義務があったらしい。それでも、筆者の家に出入りしていたメイドのシーマは孫のように我々子供たちを可愛がってくれたし、日本語の達者な秘書オーリャも明るくて愉快な女性だった。なにか悪いことをされたという記憶は殆どない。とはいえ、その一方で現地職員を装った工作員によるものと思われる日本大使館での食中毒事件なども実際に起きていたので、当然ながらダークな部分もあることは子供ながらに認識していた。今になって振り返ると異質な世界だったとは思うが、当時はそれが当たり前だったため大きな違和感はなかったのである。ほかにも、モスクワ在住時代のスパイ・エピソードは、思いがけないトラブルも含めて多々あるのだが、それはまた別の機会に…。■ 『レッド・スパロー』© 2018 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.
-
COLUMN/コラム2023.10.31
アメリカ社会の分断を痛烈に風刺した衝撃の問題作!『ザ・ハント』
※注:以下のレビューには一部ネタバレが含まれます。 人間狩りの獲物はトランプ支持者!? トランプ政権以降のアメリカで進行するイデオロギーの極端な二極化。右派と左派がお互いへの敵意や憎悪をどんどんとエスカレートさせ、社会の分断と対立はかつてないほど深刻なものとなってきた。それを率先して煽ったのが、本来なら両者の溝を埋めねばならぬ立場のトランプ元大統領だったというのは、まるで趣味の悪いジョークみたいな話であろう。そんな混沌とした現代アメリカの世相を、ブラックなユーモアとハードなコンバット・アクション、さらには血みどろ満載のバイオレンスを交えながら、痛烈な皮肉を込めて風刺した社会派スプラッター・コメディが本作『ザ・ハント』(’20)である。 物語の始まりは、とあるリッチなビジネス・エリート集団のグループ・チャット。メンバー同士の他愛ない会話は、「領地(マナー)で哀れな連中を殺すのが楽しみ!」という不穏な話題で締めくくられる。その後、豪華なプライベート・ジェットで「領地(マナー)」へと向かうエリート男女。すると、意識のもうろうとした男性が貨物室から迷い出てくる。驚いてパニックに陥る乗客たち。男性を落ち着かせようとした医者テッドは、「予定より早く起きてしまった君が悪い」と言って男性をボールペンで刺し殺そうとし、プライベート・ジェットのオーナーである女性アシーナ(ヒラリー・スワンク)が男性の息の根を止める。「このレッドネックめ!」と忌々しそうに吐き捨てながら、遺体を貨物室へ戻すテッド。すると、そこには眠らされたまま運ばれる人々の姿があった。 場所は移って広い森の中。猿ぐつわをかませられた十数名の男女が目を覚ます。ここはいったいどこなのか?なぜ猿ぐつわをしているのだろうか?自分の置かれた状況が理解できず戸惑う人々。よく見ると草原のど真ん中に大きな木箱が置かれている。中を開けてみると、出てきたのは一匹の子豚と大量の武器。直感で事態を悟り始めた男女は、それらの武器をみんなで分ける。するとその瞬間、どこからともなく浴びせられる銃弾、血しぶきをあげながら次々と倒れていく人々。これで彼らは確信する。これは「マナーゲートだ!」と。 マナーゲートとは、ネット上でまことしやかに噂される陰謀論のこと。アメリカの富と権力を牛耳るリベラル・エリートたちが、領地(マナー)と呼ばれる私有地に集まっては、娯楽目的で善良な保守派の一般庶民を狩る。要するに「人間狩り」だ。やはりマナーゲートは実在したのだ!辛うじて森からの脱出に成功した一部の人々は、近くにある古びたガソリン・スタンドへと逃げ込む。親切そうな初老の店主夫婦によると、ここはアーカンソー州だという。店の電話で警察へ通報した彼らは、そこで助けが来るのを待つことにする。ところが、このガソリン・スタンド自体が人間狩りの罠だった。 あえなく店主夫妻(その正体は狩る側のエリート)に殺されてしまう男女。すると、そこへ一人でやって来た女性クリスタル(ベティ・ギルピン)。鋭い観察力と判断力でこれが罠だと見抜いた彼女は、一瞬の隙をついて店主夫妻を殺害し、やがて驚異的な戦闘能力とサバイバル能力を駆使して反撃へ転じていく。果たして、この謎めいた女戦士クリスタルの正体とは何者なのか?狩りの獲物となった男女が選ばれた理由とは?そもそも、なぜエリートたちは残虐な人間狩りを行うのか…? リッチでリベラルな意識高い系のエリート集団が、まるでトランプ支持者みたいなレッドネックの右翼レイシストたちを誘拐し、人間狩りの獲物として血祭りにあげていく。当初、本作の予告編が公開されると保守系メディアから「我々を一方的に悪者と決めつけて殺しまくる酷い映画だ!」と非難され、トランプ大統領も作品名こそ出さなかったものの「ハリウッドのリベラルどもこそレイシストだ!」と怒りのツイートを投稿。ところが、蓋を開けてみるとエリート集団の方も、傲慢で選民意識が強くて一般庶民を見下した偽善者として描かれており、一部のリベラル系メディアからは「アンチ・リベラルの右翼的な映画」とも批判されている。言わば左右の双方から不興を買ってしまったわけだが、しかし実のところどちらの批判も的外れだったと言えよう。 本作にはトランプ支持者を一方的に貶める意図もなければ、もちろんリベラル・エリートの偽善を揶揄するような意図もない。むしろ、彼らの思想なり信念なりを劇中では殆ど掘り下げておらず、その是非を問うたりすることもなければ、どちらかに肩入れしたりすることもないのである。脚本家のニック・キューズとデイモン・リンデロフがフォーカスしたのは、左右の双方が相手グループに対して抱いている「思い込み」。この被害妄想的な間違った「思い込み」が、アメリカの分断と対立を招いているのではないか。それこそが本作の核心的なメッセージなのだと言えよう。そう考えると、上記の左右メディア双方からの批判は極めて象徴的かつ皮肉である。 陰謀論を甘く見てはいけない! そもそも、本作のストーリー自体が「思い込み」の上に成り立っている。きっかけとなったのは「マナーゲート」なる陰謀論。「エリートが庶民を狩る」なんて極めてバカげた荒唐無稽であり、実のところそんなものは存在しなかったのだが、しかしその噂を本当だと思い込んだ陰謀論者たちが特定の人々をやり玉にあげ、そのせいで仕事を奪われたエリートたちが復讐のために陰謀論者をまとめて拉致し、本当に人間狩りを始めてしまったというわけだ。まさしく「思い込み」が招いた因果応報の物語。しかも、主人公クリスタルが獲物に選ばれたのも、実は「人違い」という名の思い込みだったというのだから念が入っている。なんとも滑稽としか言いようのいない話だが、しかしこの手の思い込みや陰謀論を笑ってバカにできないのは、Qアノンと呼ばれるトランプ支持の陰謀論者たちが勝手に暴走し、本作が公開された翌年の’21年に合衆国議会議事堂の襲撃という前代未聞の事件を起こしたことからも明らかであろう。 ただ、これを大真面目な政治スリラーや、ストレートな猟奇ホラーとして描こうとすると、社会風刺という本作の根本的な意図がボヤケてしまいかねない。そういう意味で、コミカル路線を採ったのは大正解だったと言えよう。血生臭いスプラッター・シーンも、ノリは殆んどスラップスティック・コメディ。その荒唐無稽でナンセンスな阿鼻叫喚の地獄絵図が、笑うに笑えない現代アメリカの滑稽なカオスぶりを浮かび上がらせるのだ。脚本の出来の良さも然ることながら、クレイグ・ゾベル監督の毒っ気ある演出もセンスが良い。 さらに、本作は観客が抱くであろう「思い込み」までも巧みに利用し、ストーリーに新鮮なスリルと意外性を与えることに成功している。例えば、冒頭に登場する獲物の若い美男美女。演じるのはテレビを中心に活躍するジャスティン・ハートリーにエマ・ロバーツという人気スターだ。当然、この2人が主人公なのだろうなと思い込んでいたら、ものの一瞬で呆気なく殺されてしまう。その後も、ならばこいつがヒーローか?と思われるキャラが早々に消され、ようやく本編開始から25分を過ぎた辺りから、それ以前に一瞬だけ登場したけどすっかり忘れていた地味キャラ、クリスタルが本作の主人公であることが分かってくる。すると今度は、それまでの展開を踏まえて「やはり彼女もそのうち殺されるのでは…?」と疑ってしまうのだから、なるほど人間心理って面白いものですな。映画の観客というのはどうしても先の展開を読もうとするものだが、当然ながらそこには過去の映画体験に基づく「思い込み」が紛れ込む。本作はその習性を逆手に取って、観客の予想を次々と裏切っていくのだ。 その主人公クリスタルを演じているのは、女子プロレスの世界を描いたNetflixオリジナル・シリーズ『GLOW:ゴージャス・レディ・オブ・レスリング』(‘17~’19)で大ブレイクした女優ベティ・ギルピン。アクション・シーンの俊敏な動きとハードな格闘技は、3年に渡って女子プロレスラー役を演じ続けたおかげなのかもしれない。しかしそれ以上に素晴らしいのは、劇中では殆ど言及されないクリスタルの人生背景を、その表情や佇まいやふとした瞬間の動作だけで雄弁に物語るような役作りである。タフで寡黙でストイック。質素な身なりや険しい顔つきからも、相当な苦労を重ねてきたことが伺える。それでいて、鋭い眼差しには高い知性と思慮深さが宿り、きりっと引き締まった口元が揺るぎない意志の強さを物語る。恐らく、恵まれない環境のせいで才能を発揮できず、辛酸を舐めてきたのだろう。夢や理想を抱くような余裕もなければ、陰謀論にのめり込んでいるような暇もない。そんな一切の大義名分を持ち合わせていないヒロインが、純然たる生存本能に突き動かされて戦い抜くというのがまた痛快なのだ。 本作が劇場公開されてから早3年。合衆国大統領はドナルド・トランプからジョー・バイデンへと交代し、いわゆるQアノンの勢いも一時期ほどではなくなったが、しかしアメリカ社会の分断は依然として解消されず、むしろコロナ禍の混乱を経て左右間の溝はなお一層のこと深くなったように思える。それはアメリカだけの問題ではなく、日本を含む世界中が同じような危機的状況に置かれていると言えよう。もはや映画以上に先の読めない時代。より良い世界を目指して生き抜くためには、分断よりも融和、対立よりも対話が肝心。ゆめゆめ「思い込み」などに惑わされてはいけない。■ 『ザ・ハント』© 2019 Universal City Studios LLLP & Perfect Universe Investment Inc. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2023.10.30
元祖カンフー映画スター、ジミー・ウォングの代表作は、荒唐無稽&血まみれ上等のB級エンターテインメント!『片腕ドラゴン』
天皇巨星と呼ばれた伝説のスター、ジミー・ウォング ジャッキー・チェンの前にブルース・リーあり、そしてブルース・リーの前にジミー・ウォングあり。香港映画界の歴史に燦然と輝く元祖カンフー映画俳優にして、畏敬の念を込めて「天皇巨星」と呼ばれた伝説のスーパースター、ジミー・ウォングの、これは名刺代わりとも言うべき代表作である。といっても、近ごろは「ジミー・ウォングって名前くらいなら聞いたことあるけれど…」という映画ファンも少なくないだろう。後輩であるブルース・リーやジャッキー・チェンの世界的な名声によって、すっかりその存在がかき消されてしまった感は否めない。実際、’22年4月5日に79歳でこの世を去った時も、残念ながら日本ではあまり大きな話題にはならなかった。そこでまずは、唯一無二にして不世出の映画スター、ジミー・ウォングの華麗なる足跡を辿ってみたい。 生まれも育ちも中国の上海というジミーは、まだ18歳だった’61年に香港へと移住。高校時代から水泳および水球の選手として活躍し、香港の大学でも水球チームに所属していたのだが、しかし公式戦でルール違反を起こして1年間の出場停止を食らってしまう。おかげで何もすることがない。溢れんばかりのエネルギーと暇を持て余してしまった若きジミー。そんな折、彼の目に飛び込んできたのが、香港最大の映画会社ショウ・ブラザーズが新人俳優を募集しているとの新聞記事だったのである。 ‘58年にラン・ラン・ショウとランメ・ショウの兄弟が設立した映画会社ショウ・ブラザーズ(以下、ショウブラと省略)。当初、伝統的な中国歌劇の要素を取り入れた歌謡時代劇=黄梅調映画に力を入れていた同社だが、やがて中国版チャンバラ時代劇、いわゆる武侠映画への路線変更を模索するようになり、当時はそのためのニューフェイスを探していたのである。オーディションに集まった応募者は4000名以上。その中から最終的に選ばれたのが、後に渋い名脇役となるチェン・ライ、『キング・ボクサー/大逆転』(’72)でもお馴染みのロー・リエ、そして我らがジミー・ウォングの3名だった。 かくして、俳優養成所での訓練を経て’65年に映画デビューを果たし、翌年には当時まだ無名だったチャン・チェ監督の武侠映画『虎侠殲仇』(‘66・日本未公開)で初主演を果たしたジミー・ウォング。しかし彼の名声を一躍高めたのは、同じくチャン・チェ監督と組んだ『片腕必殺剣』(’67)だったと言えよう。不幸な出来事によって右腕を失った若き天才武道家が、親代わりである師匠とその一門を邪悪な勢力から救うべく、秘伝の片腕剣法を極めて敵に立ち向かっていく。チャン・チェ監督らしいストイックかつマッチョなヒロイズムと、黒澤明作品など日本の時代劇映画からの影響も色濃いハードなバイオレンス描写は、それまでの様式化されマンネリ化した武侠映画のジャンルに新風を吹き込み、なんと香港映画として初めて国内興収が100万香港ドルを突破する大ヒットを記録。同時期に公開されたキン・フー監督の傑作『大酔侠』(’67)と並んで、’60年代武侠映画ブームの起爆剤となったのである。 この『片腕必殺剣』の大成功によって、一躍ショウブラの看板スターとなったジミーは、引き続きチャン・チェ監督との名コンビで『大女侠』(’68)や『続・片腕必殺剣』(’69)などの武侠映画でヒットを連発。こうして地位と名声を固めた彼は、満を持して映画監督へ進出するべく、自ら書いた脚本を社長ラン・ラン・ショウと恩師チャン・チェ監督のもとへ持ち込む。それが、剣術ではなく格闘技をメインに据えたアクション映画=カンフー映画の元祖と呼ばれる『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』(’70)だった。 全盛期が長続きしなかった理由とは? ところが、この初監督企画にショウ社長もチャン監督も揃って難色を示す。当時まだ20代半ばだったジミーの若さと経験不足を心配したショウ社長。一方、チャン監督は格闘技映画なんて流行らない、今まで通りの武侠映画でいいんじゃないかと再考を促したらしい。もともと香港には格闘技映画の伝統もあり、中でも実在した伝説的な格闘家ウォン・フェイホンを題材にしたカンフー映画が’50年代に大流行したのだが、しかしやはり様式化とマンネリ化で若い世代からそっぽを向かれるようになり、’60年代にはすっかり下火となっていたのである。それでも信念を曲げなかったジミーは台湾移住をほのめかし、看板スターを失うことを恐れたショウ社長は渋々ながらも『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』の企画にゴーサインを出したというわけだ。 道場破りの柔道家と日本から来た空手家に師匠や仲間を殺され、自らも瀕死の重傷を負った若き格闘家が、空手に対抗する秘術・鉄沙掌と軽功の鍛錬を極めて復讐に立ち上がる。チャン・チェ監督譲りの血生臭いバイオレンス描写に加えて、天井や壁を突き破って縦横無尽に暴れまくるという、ジミー・ウォング監督の劇画的でケレン味たっぷりの荒唐無稽なアクション演出はインパクト強烈で、蓋を開けてみれば『片腕必殺剣』を遥かに凌ぐ興行収入200万香港ドルのメガヒットを記録。これがきっかけとなって、’70年代の香港映画界はカンフー映画ブームが席巻することになる。 その一方で、本作をアメリカで見たブルース・リーが「こんなのは格闘技じゃない!」と憤慨し、それが香港へ戻って本格的なカンフー映画に出演する動機のひとつになったとも伝えられているように、ブルース・リー以降のリアルな格闘技アクションを見慣れた現代の観客からすると、一連のジミー・ウォング作品で披露されるカンフー技は単なるダンスにしか見えないだろう。まあ、それは仕方あるまい。確かに学生時代は水球選手として活躍し、アスリートとしての素地はあったジミーだが、しかし格闘技に関しては殆んど素人も同然。そのうえ、可愛らしいベビーフェイスで体格も華奢なため、なるほど動きこそ俊敏かつシャープであるものの、しかし残念ながら全く強く見えないというのが玉に瑕だった。 それゆえ、武術指導者として道場まで持っていたブルース・リーやスタントマン出身のデヴィッド・チャン、詠春拳の心得があるティ・ロンなど「本物」のカンフー・スターたちが台頭すると、あっという間に人気を取って代わられてしまう。もちろん、黒社会との癒着や傷害事件などのスキャンダルが足を引っ張ったという側面もあったろう。とはいえ、『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』がなければカンフー映画ブームは起きず、ブルース・リーが香港映画を足掛かりに世界へ羽ばたくこともなかったかもしれない。生前のジミー・ウォング自身、「遅かれ早かれ、誰かがこういう映画を作っていただろうとは思う。それでも、このタイミングで自分がこの映画を作らなかったら、もしかするとブルース・リーが活躍することもなかったかもしれない」と語っている。 とにもかくにも、『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』でカンフー映画の新規路線を開拓し、俳優としてのみならず監督としても輝かしい名声を手に入れたジミー・ウォング。ところが、当時のショウブラとの契約は月給制で、ジミーほどの大スターでも月額2000香港ドルという薄給のままだった。これに不満を募らせた彼は、’71年にライバル会社ゴールデン・ハーヴェストへと移籍する。当時まだ新興スタジオだったゴールデン・ハーヴェストは、ショウブラの元製作本部長レイモンド・チョウが設立した会社。ジミー・ウォング曰く、映画界入りした当初から最も世話になったのがチョウ氏だったそうで、そのチョウ氏に対する忠誠心とショウ社長やチャン監督への不信感が彼に移籍を決意させたようだ。 ところが、当然ながらショウブラ側はこの背信行為に激怒。裁判の結果、ジミーは香港での活動が不可能になってしまう。そこで、レイモンド・チョウの助言もあって台湾へ移住した彼は、主に同地を拠点としながらゴールデン・ハーヴェストや中小プロダクションの映画へ出演するようになる。その新天地で再びジミー・ウォングが監督・脚本・主演の3役にチャレンジし、当時まだ創業して間もないゴールデン・ハーヴェストに初めての成功をもたらした作品が、香港・台湾はもとより欧州やアメリカでも大ヒットしたカルト映画『片腕ドラゴン』(’72)だった。 インパクト強烈なヴィランたちにも要注目! 質実剛健で礼儀を重んじる正徳武館に、金儲けのためなら麻薬密売や売春も厭わない鉄鈎門という、相対する武道流派が勢力を二分する小さな町が舞台。街頭で森下仁丹の広告が見受けられることから察するに、恐らく大日本帝国を含む列強諸国による半植民地化が進んだ北京政府時代の中国本土という設定なのだろう。ある日、罪もない一般庶民に暴力を振るう鉄鈎門一味の狼藉を見るに見かねた正徳武館の二番弟子ティエンロン(ジミー・ウォング)は、一緒にいた弟弟子たちと共に連中をコテンパンに成敗してしまう。メンツを潰された鉄鈎門のザオ師匠(ティエン・イエー)は一門を引き連れて正徳武館へ殴り込みをかけるも、今度は正徳武館のハン師匠(マー・チ)に撃退されてしまった。 どうにも腹の虫がおさまらないザオ師匠。そこで彼は、麻薬密売の売上金をエサにして、諸外国の格闘家を殺し屋として雇うことにする。その頂点に立つのが、ケダモノのような牙が生えた日本の空手家・二谷太郎(ロン・フェイ)、その愛弟子である長谷川と坂田。そのほか、同じく日本の柔道家・高橋にテコンドー師範の朝鮮人キム、ムエタイ選手のタイ人兄弟ナイとミー、インドのヨガ師匠モナにチベットのラマ僧ズオロンとズオフーなど、いずれ劣らぬ凶暴な極悪人ばかりだ。 かくして、金で集めた殺し屋軍団を従えて正徳武館を襲撃するザオ師匠の鉄鈎門一味。外国の格闘技に知識のない正徳武館の面々は劣勢に立たされ、門下生たちはおろかハン師匠まで皆殺しにされてしまう。唯一、奇跡的に生き残ったティエンロンも、怪力の二谷に右腕をもぎ取られてしまった。瀕死の状態を通りがかった町医者親子に救われ、医者の娘シャオユー(タン・シン)の献身的な介護のおかげで回復したティエンロン。しかし、片腕だけでは殺された師匠や仲間たちの復讐もできない。生きる気力を失ったティエンロンだったが、そんな彼にシャオユーが言う。古くから伝わる薬草を使って秘伝の片腕拳法「残拳」を修得すれば、石を割るほどの破壊力を持つ鋼鉄の拳を手に入れることが出来るというのだ。そのために左腕の神経を焼き切り、血の滲むような猛特訓を重ねたティエンロンは、鉄鈎門の一味と殺し屋軍団にたった一人で立ち向かっていく…。 基本的なあらすじは『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』とほぼ一緒。そこに『片腕必殺剣』で確立した片腕アクションの要素を盛り込んだだけである。いやあ、なんというか、セルフ・パロディならぬセルフ・コピー(笑)。要は使い回しってやつですな。ちなみに、『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』のあらすじは、チャン・チェ監督も『キング・ボクサー/大逆転』でちゃっかりとパクっている。これはジミーのゴールデン・ハーヴェスト移籍に腹を立てたチャン監督が、ジミーへの腹いせとしてパクったとも言われているが、いずれにせよこの『キング・ボクサー/大逆転』が結果として、欧米でヒットした初めての香港カンフー映画となったのだから皮肉なもんである。 閑話休題。『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』で劇画的な荒唐無稽を打ち出したジミー・ウォング監督だが、本作ではさらにその傾向がエスカレート。もはや格闘技とは呼べないような超人技が次々と飛び出し、血飛沫の乱れ飛ぶ阿鼻叫喚の肉弾バトルが異常なテンションで展開していく。指一本の片腕逆立ちでピョンピョン飛び跳ねるなんてのは、『柔道一直線』の足の指先で「猫ふんじゃった」をピアノ演奏する近藤正臣も真っ青の離れ業(笑)。そう、基本的なノリは『柔道一直線』なのですよ。それもウルトラ・バイオレントな!なので、アジア各国から集まった殺し屋の格闘家たちもマンガ的なキャラばかり。いや待てよ、ヨガって格闘技だったっけ!?と突っ込む間もなく、個性豊かなヴィランたちが次々と登場する。 中でも特に強烈なのが日本の空手家・二谷太郎。吸血鬼のごとき牙の生えた御面相は、もはやケダモノというよりはバケモノである。『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』に出てくる日本の空手家3人組もなかなか異様だったが、しかし本作はその比じゃないだろう。そういえば、二谷太郎役の俳優ロン・フェイは、本作の続編『片腕カンフー対空飛ぶギロチン』(’76)でも日本人の悪役を演じていた。当時の香港のカンフー映画において、悪役といえば日本人、日本人といえば悪役が定番。かつての大日本帝国は、アジア近隣諸国の人々に恨まれて当然の悪事をしでかしたのだから、まあ、こればかりは仕方あるまい。当時は日本占領時代を経験した香港人も大勢存命だったろうしね。 ただ、そうした中において本作がユニークなのは、日本人のみならずタイ人や朝鮮人、チベット人にインド人など外国人全般を脅威として描くことで、香港のナショナリズムを煽るような意図が少なからず感じられることだろう。この傾向は続編『片腕カンフー対空飛ぶギロチン』にも引き継がれる。ジミー・ウォング作品といえば女性キャラの扱いが男尊女卑的だったりもするのだが、その辺を含めて彼の作家性みたいなものが何となく垣間見えるようにも思う。 なお、本作のタイトル・クレジットのBGMを聴いてビックリする人もいるだろう。なにしろ、ハリウッド映画『黒いジャガー』(’71)のテーマ曲が堂々と鳴り響くのですからね(笑)!その後も、ここぞという見せ場で繰り返し『黒いジャガー』のテーマが流れてくるのだが、もちろん著作権無視の無断使用。『キング・ボクサー/大逆転』の『鬼警部アイアンサイド』のテーマも有名だが、既存の有名な映画音楽やヒット曲などを勝手に使うのは、当時の香港映画の常とう手段みたいなものだったのである。 ということで、グラインドハウス映画的ないかがわしさがプンプンとする極上のB級アクション・エンターテインメント。相変わらずジミー・ウォングの格闘技も胡散臭いのだけど、なんだか妙に可愛らしくて憎めないのだよね(笑)。このそこはかとなく漂う場末感こそが、’70年代の香港カンフー映画の大きな魅力ではないかとも思う。■ 『片腕ドラゴン』© 2010 Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved.
-
COLUMN/コラム2023.10.02
ティム・バートン印のポップでキッチュでブラックなSFコメディの傑作!『マーズ・アタック!』
それは友情から始まった 1950年代のB級SF映画と1970年代のディザスター映画にオマージュを捧げた、ティム・バートン監督のシュールでクレイジーな愛すべきSFコメディ映画である。劇場公開時は文字通り賛否両論。アメリカでは3週間で上映が打ち切られるほど客入りが悪かったが、しかしヨーロッパでは反対にロングランの大ヒットを記録。筆者の記憶だと日本でも評判はとても良かったはずだ。まあ、いかにもティム・バートンらしいオタク趣味丸出しのポップでキッチュなビジュアルや、時として残酷なくらいシニカルなブラック・ユーモアのセンスは、なるほど確かに見る人を選ぶであろうことは想像に難くない。 元ネタになったのはベースボール・カードの老舗トップス社が、1962年にアメリカで発売した子供向けトレーディング・カード「Mars Attacks!」。グロテスクな火星人の造形やリアルな残酷描写が子供たちに受けたものの、それゆえ保護者からの猛反発を食らって呆気なく販売が中止されてしまった。その後、「Mars Attacks!」は人気のコレクターズ・アイテムとなり、高額のプレミア価格で取引されるようになったことから、トップス社は’84年と’94年に復刻版をリリース。その’94年の復刻版を購入して、ティム・バートンにプレゼントしたのが脚本家ジョナサン・ジェムズだったのである。 イギリスの著名な劇作家パム・ジェムズを母親に持ち、マイケル・ラドフォード監督の『1984』(’84)と『白い炎の女』(’87)の脚本で頭角を現したジョナサン・ジェムズ。実はティム・バートン監督の出世作『バットマン』(’89)の脚本修正にノークレジットで携わっていた。ロンドン郊外のパインウッド・スタジオで撮影された『バットマン』。撮影中に幾度となく脚本修正の必要が生じたものの、当時ちょうど全米脚本家組合がストライキの最中だったため、オリジナル脚本を手掛けたサム・ハムが手を加えることは許されず、代わりに英国人の脚本家たちが修正に駆り出された。ジェムズはその中のひとりだったのだ。 お互いに趣味や好みの似ていた2人はたちまち意気投合。ほどなくしてロサンゼルスへ活動の拠点を移したジェムズは、バートン監督のもとで幾つも脚本を書いているのだが、残念ながら『マーズ・アタック!』以外は全てお蔵入りになっている。また、バートン監督と恋人リサ・マリーのキューピッド役を務めたのもジェムズ。ロンドンのモデル時代からリサ・マリーを知っているジェムズは、たまたま共通の友人を介してロサンゼルスで彼女と再会し、バツイチの独身だったバートン監督と引き合わせたという。いずれにせよ、当時の2人は無二の親友も同然だったようだ。 ストーリーの下敷きは『タワーリング・インフェルノ』!? 時は1994年の8月。バートン監督への誕生日プレゼント(8月25日が誕生日)を探していたジェムズは、ロサンゼルスのメルローズ通りにあるギフトショップへ入ったところ、そこでトップス社の「Mars Attacks!」と「Dinosaurs Attack!」のトレカ・ボックスを発見。これはティムの好みに違いない!と思った彼は両方とも購入してプレゼントしたという。それから1週間ほどしてバートン監督から連絡を受けたそうだが、当初は「Dinosaurs Attack!」の方を映画化するつもりだったらしい。巨大な恐竜がロサンゼルスの街を破壊するなんて最高にクールじゃん!?と。しかし、打ち合わせを進めるうちに2人は気が付いてしまう。それが『ジュラシック・パーク』の二番煎じであることに。そこでバートン監督は「Mars Attacks!」の映画化に鞍替えし、まずは映画会社ワーナーに提案するためのシノプシスを書くようジェムズに依頼したのである。 その際にバートン監督から指示されたのは、’70年代にアーウィン・アレンが製作したディザスター映画群、中でも『タワーリング・インフェルノ』(’74)を参考にすること。そこから「人々が醜悪な火星人に追いかけられて右往左往するオールスター・キャスト映画」という基本コンセプトが出来上がったという。すぐさま、ハイランド大通りにあった有名なレンタル・ビデオ店ロケット・ビデオで『タワーリング・インフェルノ』のVHSをレンタルしたというバートン監督とジェムズの2人。特に印象的だったのは、ロバート・ワグナーが火だるまになって死ぬシーンだったという。悪役でもない主演級の大物スターが悲惨な死に方をするなんて最高にクールじゃん?と感動したジェムズは、『マーズ・アタック!』でもオールスター・キャストの大半を悲惨な方法で殺すことに(笑)。さらに、『大地震』(’74)や『スウォーム』(’78)などをお手本にして、アメリカ各地に暮らす様々な社会階層の人々が登場する大規模な群像劇に仕上げたのである。 ストーリーは極めてシンプル。ある日突然、火星からのUFO軍団が地球へと飛来する。果たして火星人の目的は何なのか?友好の使者なのか、それとも侵略者なのか。この状況を政治利用しようとするアメリカ大統領、核爆弾による先制攻撃を主張するタカ派軍人、火星人ブーム(?)に乗って一儲けしようとするビジネスマンなど、様々な人々の思惑が交錯する中、いよいよ火星人とのファースト・コンタクトが実現。なんだ、むっちゃ友好的じゃん!とみんながホッと胸をなでおろしたのも束の間、たちまち本性を現した火星人たちの地球侵略攻撃が始まる。 火星人のキャラ造形が極端にグロテスクであることから、地球人のキャラクターも極端なカリカチュアとして描けば、うまい具合にバランスが取れると考えたというジェムズ。メインの登場人物だけでおよそ20名、幾つものプロットが同時進行するという脚本の構成は複雑だが、そこはスタンリー・クレイマー監督のコメディ巨編『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)が大いに参考になったという。 テーマはズバリ「権力者を信用するな」。米国大統領にせよ、科学者にせよ、軍人にせよ、はたまたテレビの人気司会者にせよ、本作に登場する権力者たちは揃いも揃って、愚かで浅はかでバカで軽薄なクズばかり。世界の危機を救うどころか事態を悪化させ、いずれも自業自得の悲惨な最期を遂げる。むしろ世界を救うのは、家庭に居場所のない孤独な少年や老人ホームに追いやられた老婆、借金返済のためカジノで働く元プロボクサーなど、名もなき普通の人々。要するに、どこにでもいる平凡で善良なアメリカ市民こそが真のヒーローなのだ。 ギクシャクし始めたスタジオとの関係 およそ1週間でプレゼン用のシノプシスを書き上げたというジェムズ。『マーズ・アタック!』の企画は無事に通り、ワーナーは’95年8月の撮影開始、’96年8月の封切というスケジュールを立てたのだが、しかし制作陣はすぐに大きな壁にぶつかってしまう。というのも、レイ・ハリーハウゼンの特撮映画を熱愛するバートン監督は、本作の特撮もストップモーション・アニメでやろうと考えたのだ。当初は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(’93)のヘンリー・セリックに任せるつもりだったが、しかし当時のセリックは『ジャイアント・ピーチ』(’96)に取り掛かっていたため都合がつかず、セリックの推薦でイギリスのアニメ作家バリー・パーヴスに白羽の矢が立ったという。 しかし、英国人のパーヴスがアメリカでスタッフを集めて工房を作り、さらにテストフィルムを製作するまでに予想以上の時間がかかってしまった。おかげで、予定していたスケジュールが押してしまうことに。そこでプロデューサーのラリー・フランコがサンフランシスコへ飛び、ジョージ・ルーカスの特撮工房ILMと直談判。ストップモーション風のCGアニメを開発してもらうこととなる。本当にそんなことが出来るのか?とバートン監督は半信半疑だったが、しかしテスト映像の仕上がりを見て大いに納得。結局、CGを使うことでアニメ制作の時間短縮が可能になったが、その代わりに予算も膨れ上がってしまい、この頃から製作陣とワーナーの関係がギクシャクし始めたようだ。 さらに、脚本家ジェムズとワーナーの対立も表面化していく。撮影に向けて脚本のドラフトを書き始めたジェムズ。ワーナー経営陣には「クリエイティブ・チーム」と呼ばれる人々がおり、原稿は全て彼らのチェックを受けなくてはならなかったのだが、そこで様々な意見の相違が出てきたのである。それ自体はよくあることなのだが、しかしあるシーンを巡ってお互いが絶対譲らなくなってしまう。それが、本編冒頭の「燃える牛軍団」シーン。のどかな田舎で火の付いた牛の群れが暴走するという場面なのだが、これをクリエイティブ・チームは「動物愛護法に反する」としてNGにしたのだ。しかし、当然ながら実際に撮影で牛を燃やすわけじゃない。当たり前だが特撮で処理をする。「なにをバカなこと言ってるんだ!?」と呆れたというジェムズ。このシーンは観客にインパクトを与えるためにも絶対に必要だ。そう考えた彼は、何度NGを出されても無視し続けたそうだが、その結果ワーナーからクビを言い渡されてしまった。 ドラフト原稿を提出すること12回。すっかり疲れ切っていたジェムズは、むしろクビになってホッとしたという。代役には『エド・ウッド』(’94)の脚本家コンビ、スコット・アレクサンダーとラリー・カラゼウスキーを推薦。ところが、今度はワーナー経営陣の意向通りに修正した彼らの脚本をバートン監督が気に入らず、クビになってから5週間後にジェムズは呼び戻される。バートン監督の自宅で専用部屋を用意された彼は、なんとたったの5日間で新たな修正版を完成。「燃える牛軍団」シーンもシレッと復活させたのだが、どういうわけかこれが最終的に通ってしまったという。全く、いい加減なもんである(笑)。 あの役は本来ならディカプリオが演じるはずだった! こうしてなんとか脚本を完成させたバートン監督とジェムズだったが、今度はオールスターのキャスティングに難航する。スムースに決まったのは、科学者役のピアース・ブロスナンと大統領補佐官役のマーティン・ショート。どちらもナンセンスで毒っ気のある脚本の趣旨を理解し、最初から出演にとても前向きだったという。世界を救うフローレンスお婆ちゃんは、もともとシルヴィア・シドニーを念頭に置いた役柄。シルヴィア・シドニーと言えば、’30~’40年代にパラマウントの看板スターだった清純派のトップ女優。その一方で、かの大女優ベティ・デイヴィスをして「ハリウッドには私よりもタフな女優が2人だけいる。アイダ・ルピノとシルヴィア・シドニーよ」と言わしめたほどの女傑である。『ビートルジュース』(’88)でもシドニーと組んだバートン監督は、まるで自分の祖母のように彼女を敬愛していたそうだ。 しかし、それ以外のキャストはなかなか決まらなかった。アメリカ大統領役はウォーレン・ベイティに決まりかけたが、しかしワーナーが難色を示したため白紙撤回。成金の不動産業者役をオファーされたジャック・ニコルソンが、アメリカ大統領役も兼ねることで落ち着いた。このニコルソンの出演が決まった途端、ハリウッド中のスターが手のひらを返したように出演を希望するようになったという。恐らく、一歩間違えるとキワモノになりかねない映画だけあって、みんな様子を窺っていたのだろう。 ちなみに、フローレンスお婆ちゃんの孫リッチー役は、なんとレオナルド・ディカプリオが演じるはずだったが、しかし撮影スケジュールが押したせいで出演が不可能になったという。そのディカプリオが代役として推薦したのがルーカス・ハースだった。また、最後のギリギリまで見つからなかったのがフランス大統領役の俳優。撮影前日に「どうしよう!誰か知らない!?」とバートン監督から連絡を受けたジェムズは、たまたまご近所さんだった名匠バーベット・シュローダー監督を推薦。厳密にはスイス人だけとフランス国籍だし、見た目もド・ゴール大統領に似ているから適任だと考えたらしい。ダメもとで連絡してみたところ、自宅まで迎えの車が来るならオッケーとの返答。バートン監督はシュローダーが何者か全く知らなかったらしいが、あまりの芝居の上手さに舌を巻いたそうだ。 こうして当初の予定よりも大幅に遅れたものの、’96年12月に全米公開されることとなった『マーズ・アタック!』。疲労困憊したティム・バートン監督は恋人リサ・マリーとインド旅行へと出かけ、ジョナサン・ジェムズはロサンゼルスで宣伝キャンペーンが始まるのを待っていたが、しかし封切の3週間前になっても何も起こらなかったという。不安になったジェムズはワーナーに問い合わせるも、向こうは「宣伝なら1000万ドル規模の予算をかけてますから!」の一点張り。ようやく1週間前になってサンセット大通りに看板が掲げられ、映画館やテレビでも予告編が流れるようになったが、しかしジェムズに言わせれば遅すぎた。まるで自社作品を潰しにかかっているようだ。そういえば、プレビュー試写でも一般客から大好評だったにもかかわらず、同席したワーナー経営陣の反応は冷ややかだった。最初から売るつもりなどなかったんじゃないか?とジェムズは疑ったが、しかしその理由はいまだに見当がつかないという。 まあ、CGの使用による予算の増額や、脚本を巡るジェムズとの対立などで、ワーナー経営陣の心証を悪くした可能性はあるが、しかしだからといって多額の予算を投じた自社作品の宣伝をあえて放棄するようなことはしないだろう。恐らく、「ワーナー宣伝部はこの映画の売り方を分からなかっただけだ」というバートン監督の見解が正しいかもしれない。たとえ出来損ないの映画でも宣伝が上手ければ成功するが、反対にどれだけ出来の良い映画でも宣伝が下手ならば失敗する。今も昔も変わらぬ鉄則である。■ 『マーズ・アタック!』© Warner Bros. Entertainment Inc.
-
COLUMN/コラム2023.09.29
マブリーの魅力が炸裂する韓流クライム・アクション・シリーズ!『犯罪都市』『犯罪都市 THE ROUNDUP』
遅咲きのスーパースター、マ・ドンソクとは? 今や韓国を代表する国際的スターへと成長した俳優マ・ドンソク(ハリウッドではドン・リー名義)。ボクシング仕込みの人並外れたマッチョな体格と、親しみやすくて愛らしい個性のギャップから、韓国ではマブリー(マ・ドンソク×ラブリー)という相性も定着。「気は優しくて力持ち」なヒーローを演じたら右に出る者はなく、アクション映画だけでなくコメディや人間ドラマもいけるところが強みだ。諸外国では「韓国のドウェイン・ジョンソン」と呼ばれているそうだが、しかしどこか昭和の映画スター、勝新太郎を彷彿とさせるような泥臭い魅力もある。その辺りが日本でも絶大な人気を誇る理由かもしれない。 生まれも育ちも韓国のソウルで、15歳の時に見た映画『ロッキー』に触発されてプロ・ボクサーを目指すものの、しかし父親の事業が傾いて家庭が困窮したことから、18歳でモンタナ州に住む親戚を頼って渡米。アメリカの大学で体育学を学びつつ、レストランの皿洗いからビルの清掃員、雑貨屋のレジ係から粉ミルクのセールスマン、さらにはナイトクラブの用心棒にフィットネスジムのトレーナーなど、数えきれないほどの職を転々とした苦労人だ。 総合格闘家のマーク・コールマンやケヴィン・ランデルマンのパーソナル・トレーナーを経て、’02年にオーディションを受けて合格したSF歴史大作『天軍』(’05)で本格的に俳優へ転向。あいにく同作の完成が遅れたため、出演2作目に当たる『風の伝説』(’04)がデビュー作となったものの、いずれにせよ「アクション俳優になる」という少年時代の夢を叶えるためとはいえ、30歳を過ぎてからのキャリア・チェンジは大きな決断だったはずだ。さらに、規格外の体型ゆえに適した役がなかなかなく、俳優として軌道に乗るまで時間もかかってしまった。 ・『犯罪都市』('17) 大きなブレイクを果たしたのは、世界的な大ヒットを記録したゾンビ映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(’16)。見た目は厳ついけど心優しくて正義感が強い男性で、身重の妻を守るためゾンビの犠牲になるという役どころはまさに「儲け役」で、これを機に韓国のみならず世界から注目を集めることになる。以降、アメリカでのリメイクも決まった韓流ノワール『悪人伝』(’18)などの主演作が続々と作られ、マーベル映画『エターナルズ』(’21)では念願のハリウッド進出も果たしたマ・ドンソク。そんな彼の代表作にしてライフワークとも呼べるのが、韓国の年間興収ランキングで3位をマークした『犯罪都市』(’17)に始まるバイオレンス・アクション映画「犯罪都市」シリーズである。 実は苦労人同士の友情から生まれた企画だった! まずは記念すべき1作目から振り返ってみよう。 舞台は’04年のソウル。クムチョン警察の凶悪犯罪対策部署「強力班」に所属するマ・ソクト副班長(マ・ドンソク)は、相手が屈強な男でもパンチ一撃で失神させるほどの怪力の持ち主だ。彼が管轄とするのはカリボンドン地区のチャイナタウン。ここは’90年代に中国から大勢の同胞が移住した街で、今では乱立する朝鮮族の暴力団が縄張りを巡って争っている。基本的に、警察とヤクザは持ちつ持たれつの間柄。血気盛んな暴力団員たちが一線を超えぬよう睨みをきかせつつ、パワーバランスの均衡とチャイナタウンの平和を守るのが強力班の主な役割だ。ところが、そんな折に朝鮮族系暴力団・毒蛇組の組長がバラバラ死体で発見され、地域最大の韓国系暴力団の縄張りまで荒らされてしまう。 犯人は中国のハルビンを根城にする朝鮮族系チャイニーズ・マフィア、黒竜組のボス、チャン・チェン(ユン・ゲサン)。幹部2人と借金の取り立てに密入国したチャンは、毒蛇組の組長を殺害して組織を乗っ取り、チャイナタウンで乱暴狼藉の限りを尽くしていく。その狂犬のごとき残忍さと無鉄砲な横暴さには、さすがのマ副班長も手を焼いてしまうのだった。警察上層部から一刻も早い解決を迫られる強力班。そこでマ副班長はチャイナタウンの住民たちに協力を仰ぎ、チャンに乗っ取られた毒蛇組の一斉検挙に乗り出そうとするのだが…? ・『犯罪都市』('17) いやあ、これはまんま’70年代東映の実録ヤクザ路線ですな!その辣腕で暴力団組織と真っ向から対峙しつつ、一方で賄賂や接待も平然と受けている不良刑事役のマ・ドンソクは、さながら『県警対組織暴力』(’75)の菅原文太である。必要とあれば、暴行尋問に不法侵入などの違法捜査なんぞ朝飯前。清廉潔白なヒーローとは口が裂けても言えないが、しかしその反面、部下思いで女性や子供にも優しく、杓子定規なルールよりも人情を重んじる懐の深い刑事だ。しかも、ハンパなく強いのだよね!どれだけ凶暴かつ凶悪なヤクザだろうとも、マ副班長の超重量級パンチや背負い投げを食らったらひとたまりもない。『イコライザー』シリーズのデンゼル・ワシントン同様、絶対に負けない男だ。マ・ドンソクが最も得意とする「気は優しくて力持ち」を極めたような、最高に愛すべきスーパー・ダーティ・ヒーロー。このキャラクターを主人公に据えた時点で、本作の成功は約束されたも同然だったと言えよう。 2004年のクムチョン警察による朝鮮族系組織の一掃作戦を基にしたフィクション、と冒頭テロップで解説されている通り、実際に起きた事件からヒントを得た作品。ただし、劇中の黒竜組のモデルになったチャイニーズ・マフィア、黒死病組の検挙は’07年のことだったという。恐らく、現実には映画よりも長いスパンがかかったのだろう。チャイニーズ・マフィアの連中がカラオケボックスで従業員の片腕を切り落としたのも、チャイナタウンの住民が警察の捜査に協力したのも実話。そういう意味でも、本作は韓国版・実録ヤクザ映画と呼ぶに相応しいだろう。 監督と脚本を手掛けたのはマ・ドンソクと同い年で、お互いに無名時代からの親友だったカン・ユンソン。’98年に留学先のアメリカで撮った短編映画が釜山国際映画祭などで高く評価されたカン監督は、韓国の投資会社から出資の申し出を受けてメキシコを舞台にした長編映画を企画するものの、あろうことか投資会社の会長が逮捕されたために断念。その後、再び持ち上がった長編映画のプロジェクトも投資会社の倒産でお蔵入りし、奥さんと衣料品店を経営しながら映画製作のチャンスを待ち続けたところ、準備に3年をかけた本作『犯罪都市』で念願の長編デビューを果たしたという苦労人だ。まさに3度目の正直というヤツですな。そもそも、本作の企画自体がマ・ドンソクの提案だったそうなので、恐らく長年の親友の監督デビューを手助けしたいという気持ちもあったのだろう。清濁併せ呑んだマ副班長ら強力班チーム面々の、少々荒っぽくも人間味があって憎めない魅力は、世の酸いも甘いも噛み分けたカン監督だからこそ、説得力を持って描くことが出来たのかもしれない。 ちなみに、実際のカリボンドンのチャイナタウンは賑やかな商店街で、さすがに映画のロケ撮影を行うのは難しかったため、ちょうど再開発中だったシンギルドン地区の空き地に本物ソックリのチャイナタウンを丸ごと再現したのだそうだ。さすがは韓国映画、やることが大胆である。 ・『犯罪都市 THE ROUNDUP』('22) 2作目はユーモアもバイオレンスも格段にスケールアップ! 先述したように、韓国ではその年の年間興収ランキングで3位という大ヒットを記録した『犯罪都市』。実は、マ・ドンソクによると当初からシリーズ化の構想はあったらしく、自身が韓国で設立した製作会社ビッグ・パンチ・ピクチャーズも制作に加わり、マ副班長と強力班メンバーのその後を描いた続編『犯罪都市 THE ROUNDUP』(’22)が完成する。 前作から4年後の2008年。かつてカリボンドンの宝石強盗事件に関わった下っ端のチンピラ、ジョンフンが、なぜか逃亡先であるベトナムのホーチミンで自首したとの報告が入り、クムチョン警察強力班のマ・ソクト副班長(マ・ドンソク)は、上司のチョン・イルマン班長(チェ・グィファ)の付き添いとして、凶悪犯罪者の引き渡しのために現地へ赴くことになる。「いやあ、海外出張なんて久しぶりだね!」「休暇を兼ねて思い切り羽を伸ばそうぜ!」とルンルン気分の2人。しかし、実際にジョンフンを目の前にしたマ副班長は、優秀なベテラン刑事としての鋭い勘が働く。こいつ、何か隠してやがるな。白を切り続けるジョフンにイラっとした彼は、チョン班長の積極的な黙認のもとで得意の暴行尋問を決行。その結果、ジョンフンがベトナムで韓国人の誘拐殺人事件に関わっていたことが判明する。 韓国では年間300人を超える犯罪者が海外へ逃亡し、その多くは東南アジアに潜伏。同胞の韓国人を狙った犯罪を引き起こしているという。ジョンフンもそんな逃亡犯のひとり。今回、ベトナムに潜伏していた彼は、同じような韓国人逃亡犯カン・ヘサン(ソン・ソック)と組んで、ベトナムで派手に金を使っていた韓国の青年実業家チェ・ヨンギを誘拐したのだが、しかし残忍極まりないサイコパスのカンは逃げようとした人質を呆気なく殺害。その後先を考えない凶暴さに恐れをなしたジョンフンは、韓国領事館に自首することで自分の身を守ろうとしたのだ。そうと知ったマ副班長とチョン班長は、韓国警察に捜査権のないベトナムで勝手に独自の捜査を開始。すると、チェ・ヨンギを含む4名の遺体が発見される。カンは他にも人を殺していたのだ。 その頃、カンはチェ・ヨンギが既に死んでいることを隠し、その父親である大企業経営者チェ・チャンベクに身代金を要求。しかし裏社会に通じたチェ社長は脅しに屈する相手ではなく、それどころか反対にカンを抹殺するべくプロの殺し屋組織をベトナムへ送り込んでいた。潜伏先のアパートを見つけ出し、カンとその相棒に襲い掛かる殺し屋一味。ところが、狂犬のようなカンたちは見境なく暴れまくり、たった2人で大勢の敵を皆殺しにしてしまう。そこへ乗り込んできたマ副班長とチョン班長だが、あと一歩のところでカンを取り逃がしてしまった。彼が韓国へ密入国したとの情報を得た2人は、すぐさま帰国して捜査網を張り巡らせるのだったが…? 『犯罪都市 THE ROUNDUP』('22) 国際規模にスケールアップしたシリーズ第2弾。前作と同様、今度もストーリーの元ネタとなった実際の事件がある。それが’08~’12年にかけてフィリピンで起きた韓国人の連続誘拐殺人事件。フィリピンへ逃げた韓国人の殺人犯たちが誘拐グループを組織し、同胞である韓国人の旅行者を誘拐しては身代金を要求していたという。事件として表面化した犯行は19件だが、実際はそれを遥かに上回る未発覚の余罪があるとのこと。一部の被害者は身代金の支払い後に解放されたが、しかし殺されてしまった被害者も多かったそうで、その正確な数はいまだに掴めていないらしい。 演出は前作のカン・ユンソン監督から、その助監督だったイ・サンヨンへとバトンタッチ。要するに、2作続けて新人監督が演出を担当している。シニカルなブラック・ユーモアとハードなバイオレンスを絶妙なバランスで交えつつ、いかにもアジア的で湿度の高い義理人情の世界を描いていた前作に対し、本作はよりハリウッド的とも言えるドライなアプローチが印象的だ。中でも、ルール無視の暴れん坊刑事・マ副班長と、なにかと愚痴をこぼしながらも意外と積極的に協力する上司・チョン班長の、『リーサル・ウェポン』さながらの名コンビっぷりは最高だ。何を考えているのか全く分からない狂犬カン・ヘサンの、未知の怪物的な得体の知れなさも強烈である。 なお、ストーリー前半でベトナムを舞台にしている本作だが、実は撮影に入る前の段階でコロナ感染が拡大してしまい、当初予定されていたベトナム・ロケを一旦延期。海外スタッフを集めた現地の撮影部隊を別途編成し、イ・サンヨン監督ら韓国のメイン部隊がリモートで指示を送り、その通りに撮影されたベトナムの風景映像に役者をCGで合成して仕上げたという。つまり、従来の意味における現地ロケは行っていないのである。いやあ、これは全く気付きませんでしたな! かくして、韓国歴代興行収入ランキング3位という前作以上の大ヒットを記録し、コロナ禍の影響で停滞していた韓国映画界が再び活性化する起爆剤になったとも言われる『犯罪都市 THE ROUNDUP』。本国では既に青木崇高や國村隼も出演している3作目『犯罪都市3』(‘23・邦題未定)も公開済み。来年には4作目の公開も控えている。最終的にはシリーズ8本、スピンオフ2本の合計10本が作られる予定で、韓国版『ワイルド・スピード』的なフランチャイズ化を目指しているのだそうだ。■ 『犯罪都市』© 2017 KIWI MEDIA GROUP & VANTAGE E&M. ALL RIGHTS RESERVED『犯罪都市 THE ROUNDUP』© 2022 ABO Entertainment Co., Ltd. & BIGPUNCH PICTURES & HONG FILM & B.A.ENTERTAINMENT CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED.