楠木雪野のマイルームシネマ vol.10「車窓から見つめるもの」

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楠木雪野のマイルームシネマ vol.10「車窓から見つめるもの」
 2015年に友人のイラストレーターと一緒に映画をテーマにした二人展を行った。映画「荒野の七人」をもじって「荒野の二人展」というタイトルにして、その後2017年にはこれも映画の続編タイトルに倣って「続・荒野の二人展」、2019年にも「新・荒野の二人展」と銘打って開催してきた。会場は京都のレティシア書房というギャラリースペースを備えた本屋さんで、このレティシアという店名は映画「冒険者たち」でジョアンナ・シムカスが演じていたヒロインの役名に由来している。映画好きのご夫妻が営まれており、本のラインナップもことごとくツボを突いてきて、行けば唸って必ず何冊か買ってしまうお店だ。

 その2017年に行った第二回目の「続・荒野の二人展」では、サブタイトルを「〜私たちのするめ映画〜」として、二人それぞれ自分にとっての“するめ映画”を6本ずつ選び、イラストにして展示した。この“するめ映画”とは、「地味で渋くてゆるゆるなんだが噛めば噛むほど味の出る“するめ”のような映画の総称」であり、同時に「埋もれた魅力を掘り起こしたくなる映画」のことである。愛読していた、作家・エッセイストの吉本由美さんの本、『するめ映画館』(文藝春秋/2010年)からコンセプトを拝借した。そのときに自分の“するめ映画”の一本に選んだのが、フェリーニの「青春群像」だった。本当に何度観ても味わい深い、心酔するほど大好きな作品だ。

 ところで、私は映画を観るときはネタばれを目にしてしまわないように、極力事前情報を遮断して何も知らずに観たい派である。簡単なあらすじやさわりを知るのはもちろん構わないのだが、世の中にはそれを言っちゃってどうするのという映画紹介も少なくない。「ラストの大どんでん返しが…」とか「驚愕のラストシーンが…」なんて書かれた日には憤りを感じてしまう。大どんでん返しがあることを知った上で観る大どんでん返しなんて、なんの意味があるのか。どれだけ感動も驚きも減ってしまうことか。
 
 だからいつもこの連載を書く時、映画を未見の方が読んだ場合にのちの鑑賞時の感動や楽しみを減らしてしまいそうな、少なくとも「大どんでん返し」みたいなことやラストの重要な顛末については書かないように努めてきた。…のだが、今回の「青春群像」については、信条に反してでも、ラストについて具体的に触れずにはいられない。それどころか思いっきり丸々熱く語りたい。

 なのでできれば、「青春群像」を観ようと思っている方は読むのを一旦ここでとめて、ぜひ先に映画をご覧いただきたい。その後で、一緒に感想を語り合うような気分でこの続きを読んでいただければと思う。以下、ラストについてのかなり詳細な記述を含みます。


 この映画はフェリーニの自伝的作品と言われており、北イタリアの田舎町を舞台に、いい歳して仕事に就こうともせず毎日仲間とつるんでブラブラしている5人の青年の人生のひとときが描かれている。5人は「青春群像」というタイトルから想像していたよりはるかに歳がいっている。うち1人が「俺はもう30なんだ!」とわめくシーンがあるが、おいおい30なのかよ仕事しろよと思ったものだ。原題の「I Vitelloni」は翻訳すると「牛」と出てくるが、これは「乳離れできないでいる仔牛」という意味で、フェリーニの生まれ育ったイタリアのリミニでは「のらくら者」のことをこう呼んでいたという。

 5人のうち、最年少(といってもたぶん27〜28歳くらい)のモラルドだけはちょっと真面目で、仲間と過ごす無為な日々に時折とまどいを感じている。そしてその気持ちは、おそらくまだ10歳前後なのに早朝から駅で働く少年・グイドと出会ったことにより、さらに揺れ動いていく。

 物語はモラルドの妹であるサンドラと結婚したファウスト(5人のリーダー格で、ひどい浮気症)の話を軸に、他の仲間のエピソードも織り込まれて進んでゆく。一悶着あり、なんやかんやでそれが収まったあとに、モラルドは誰にも告げずひとり街を出る決心をする。ラストシーンは、モラルドが駅で汽車を待つ場面から始まる。
 汽車が来て乗り込むところに、前述した駅で働く少年グイドが気付いて駆け寄る。「どこへ?当てはないの?」当てはないけどとにかく行くんだと答えるモラルド。グイドは出発する汽車を走りながら追いかけ、最後は笑顔で手を振りモラルドを見送る。ここまででも既にとてもいいシーンなのだが、圧倒されたのはそのあとだ。モラルドが窓から外に顔を向けると、残してきた4人がベッドで眠っている姿が順に映し出される。揺れ動く車窓から眺めているように、だんだんと遠ざかるように映すカメラワークで。これがもうなんとも素晴らしく、たまらなく切なく、痛いほど胸を締め付けられるのだ。そして妹のサンドラとファウストと赤ちゃんが眠る姿は、映す時間が少し長いのだ。

 この最後の演出で全部持っていかれて、フェリーニは天才だと思った。最後の最後はカメラはまた駅に戻ってグイドを映し、そこにニーノ・ロータによる哀愁たっぷりで甘美なテーマ曲がかぶさって終わっていく。


 さよならを言わない別れ以上に決意の固い別れはない。残された人々はあとから、なぜ何も言ってくれなかったのかと思うことだろう。しかし旅立つ者はそのとき、心の中では何度も繰り返しさよならと叫んでいるはずである。「青春群像」のラストシーンは見事にそのつらさや切なさがあらわされ、なおかつ最後は少年の美しく光るような表情と去っていく後ろ姿で希望をもたせてくれる。

 物語ではこの前にもう一人、家を捨てて街を出て行く人物が描かれる。5人のうちの1人、お調子者のアルベルトの姉のオルガである。繰り返し観るごとに、その存在や描写もこの映画でとても効いていると思うようになった。青春の終わりとは年齢で決められるものではなく、それまで無意識に居られた慣れ親しんだ世界から、モラルドやオルガのように、自分で決めて出て行くときのことを言うのかもしれない。

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この記事のライター

楠木雪野
楠木雪野
楠木雪野 くすききよの
イラストレーター。1983年京都生まれ、京都在住。会社勤めを経てパレットクラブスクールにてイラストレーションを学び、その後フリーランスに。エリック・ロメールの『満月の夜』が大好きで2015年に開催した個展の題材にも選ぶ。その他の映画をモチーフにしたイラストも多数描いている。猫、ビールも好き。

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