青野賢一 連載:パサージュ #19 羊水での微睡から醒める──『溺れゆく女』

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青野賢一 連載:パサージュ #19 羊水での微睡から醒める──『溺れゆく女』

目次[非表示]

  1. 父親=知らない人
  2. ソヴァニャック家を飛び出してパリへ
  3. 兄との再会、アリスとの出会い
  4. アリスのひと言で失神するマルタン
  5. 精神を脅かす父親の概念
  6. 無意識下の感情の発露
  7. マルタンと水のイメージ
 1969年に映画監督としてのキャリアをスタート、1985年の『ランデヴー』でカンヌ国際映画祭監督賞を、1994年の『野生の葦』でセザール賞作品賞、監督賞、脚本賞などを受賞したアンドレ・テシネ。今回取り上げる『溺れゆく女』(1998)は『ランデヴー』で主演を務めたジュリエット・ビノシュをふたたびフィーチャーした作品だ。

父親=知らない人

 マルタンは美容室を営む母・ジャニーヌ(カルメン・マウラ)と暮らす少年。あるときジャニーヌは「何日かお父さんの家に行かない?」とマルタンに話す。マルタンの実の父は地方で工場を営むヴィクトル・ソヴァニャック(ピエール・マグロン)なのだが、彼とジャニーヌに婚姻関係はない。ヴィクトルには家庭があり、マルタンは婚外子なのである。10歳のマルタンにとってヴィクトルは「知らない人」であり、ジャニーヌのこの提案を嫌だと断るものの「あんたの将来のため」と一方的にヴィクトルを家長とする一家に送り込まれてしまった。こちらの家庭には父の工場で働く長男フランソワ、政治学院に通う次男のフレデリック、そしてやんちゃで先行き未定の三男バンジャマンというマルタンにとっての異母兄弟がいる。10年ものあいだ一緒だった母と離れ、高圧的な父のもとで暮らすことはマルタンにとって苦痛以外の何ものでもなかった。それから10年のときが経過し、物語は本筋へと展開してゆく。

「溺れゆく女」

ソヴァニャック家を飛び出してパリへ

 ソヴァニャック家の屋敷を飛び出し、何かから逃げるように走り去る男──彼こそが成人したマルタン(アレクシ・ロレ)だ。どこかの湖にたどり着いた彼は、自殺を試みようとしたのか服を脱いで入水するもゴホゴホとむせるだけ。ふたたび走り出したマルタンは山間部の廃屋に身を潜めた。荷物を持たず着の身着のままでここまでやってきたマルタンは、空腹をしのぐために近くの農場に忍び込んで果物や鶏卵を盗んで食す。鶏小屋で生卵を貪るその様は、どこかゴヤ《我が子を食らうサトゥルヌス》を彷彿させるものがある(我が子ではないが)。しかしそんな彼の所業は農場主に見つかってしまい、あえなくお縄。ソヴァニャック家が農場主に示談金を支払うことで勾留を免れたマルタンだったが、飛び出した家には帰りたくない。そこでマルタンはヒッチハイクをして、パリにあるバンジャマンのアパルトマンへと向かった。

兄との再会、アリスとの出会い

「溺れゆく女」

 マルタンが部屋を訪ねると、出てきたのはアリスという女性(ジュリエット・ビノシュ)。バンジャマン(マチュー・アマルリック)の同居人だ。アリスはヴァイオリン奏者で、グループで演奏したりコンクールに出場したりしているが、いわゆる売れっ子ではない様子。バンジャマンは働きながら舞台俳優を志している。アリスの言葉通り、ふたりは単なる同居人。バンジャマンはホモセクシャルなのだ。バンジャマンが働くレ・アールの「フナック」(書籍やCDなどを扱うフランスの書店)を訪れたマルタンは久しぶりにバンジャマンと再会。バンジャマンの休憩時間までカフェで彼を待っていると、マルタンはなんとモデルにスカウトされた。「カネになるならやるさ」とバンジャマンに話すマルタン(ちなみにマルタン役のアレクシ・ロレはもともとファッション・モデルで本作が映画初出演だ)。この会話のなかでマルタンが家を飛び出したときのことが明らかになる。バンジャマンが母から聞いた「親父が転落して頭蓋骨を割った 居合わせたお前は錯乱して走り去った 行方不明だと」ということがバンジャマンの口から語られるのだ。普通に考えたら、父親が瀕死(いや即死かもしれない)という状況であったら「錯乱して走り去った」りはしないだろう。彼がなぜ逃亡したかは、物語が進むと明らかになるのでここでは一旦おいておくことにする。

アリスのひと言で失神するマルタン

 順調にモデルの仕事をするマルタンだったが、私生活では次第にアリスに興味を抱くようになる。あとをつけ回してみたり、演奏している店に足を運んだり。あるとき、マルタンはアリスに告白する。「初めて本気で欲しいと思った」。「わからない 何が欲しいの?」と返すアリスにマルタンはこういった。「あなただ」。アリスの表情には明らかに戸惑いの色が浮かんでいた。そののち、アリスはマルタンの撮影現場に出向き、シューティングが終わった彼にこう告げた。「もし…まだ私が欲しいなら受け入れる」。そうしてふたりは撮影の控え室で行為に及び、やがてアリスはバンジャマンとの同居を解消し、マルタンと暮らすようになるのだった。
 ここからしばらく、舞台はパリを離れる。マルタンの撮影でスペイン・グラナダを訪れるふたり。観光で訪れたアルハンブラ宮殿を出て、アリスは妊娠したことをマルタンに話した。「終りだ 俺は」と呟くマルタンに「父親になりたくない?」とアリスが聞くと、彼は寝転び、そのまま気を失ってしまった。昏睡状態で病院に運ばれたマルタンだったが、身体的な異常は見当たらず、医師の見解は精神障害だろうと。ほどなくして退院し、療養のため南スペインに赴き、そこで家を借りたふたり。マルタンはすっかり無気力になり、海で泳いでばかりだ。そんな日々が二週間続き、銀行預金は底をついてしまった。

精神を脅かす父親の概念

「溺れゆく女」

 さて、すっかり精神的に脆くなってしまったマルタンだったが、何が彼をそこまで追い詰めているのだろうか。大きな原因はグラナダで告げられたアリスの妊娠であることに間違いない。しかし実際彼の精神を揺さぶったのは妊娠という事実よりも、それを契機として浮かび上がってきた「父親」という概念だろう。10年間ほったらかしで、その後の10年間はこれでもかとばかりに父親上位を押し付けてきた––––そんな父親たるヴィクトルにおさらばして家から逃亡したはずなのに、ここにきて亡霊のように現れる父親の概念。これがマルタンを苦しめているのである。ヴィクトルはフランスの田舎で自分の工場を基盤に財を成し、地域では名の知れた存在。その名声に傷がつくようなことは、たとえ家族であっても力ずくで押さえ込む。家父長制の悪い部分全開の父親である。それと同時に女性関係はだらしがなく、その結果生まれたマルタンをジャニーヌがなんとか認知させたのだった。こう考えて行くと、《我が子を食らうサトゥルヌス》ではないがヴィクトルは息子たちが自分と家を脅かすことを危惧し、抑圧していたのかもしれない(実際、長男は自死というかたちで「食われた」)。

無意識下の感情の発露

 こうした経験から、マルタンにとって父親とは忌むべき存在であったのだろう。ヴィクトルに喜んでもらおうと努力はしたがどれもうまくいかず、劣等感は膨れあがるばかり。加えて、生みの親たるジャニーヌと継母という二重の母親がマルタンのなかには大きく横たわっている。マルタンはふたりの母親のいずれとも物理的、心的距離があり、そのことから彼は母親からの愛情をまっとうに受けられていないと感じているようだ。そして、そんな状況を生み出したヴィクトルに対し、エディプス・コンプレックス的感情を抱いても何ら不思議ではないだろう。つまりマルタンの無意識下にあったこれらの感情が、アリスのひと言で表面化したのである。
 南スペイン滞在中、マルタンは自分が家を飛び出す直前の出来事をアリスに語り、すべてを了解したアリスは一緒にパリへ戻ることを提案。その後、マルタンは自分の意志でパリから少し離れた精神科の病院に入院する。その間アリスは、ジャニーヌを訪れたり(このときにジャニーヌが洗髪、セットしたアリスの髪型がなかなか面白い)、ソヴァニャック家の人々と会ったりして、他者の目を通したマルタンの姿を知り、ある決意をするのだった。

マルタンと水のイメージ

「溺れゆく女」

 ところで、湖や海など、マルタンには水のイメージが終始つきまとっているが、これは明らかに胎内回帰願望だろう。現実を知れば知るほど、ソヴァニャック家に歓迎されない婚外子としてこの世に生まれる以前の静かな微睡の時間が永遠に続いていたら––––そんな思いが映像に投影されているようだ。また、アリスとの関係をはじめ、現実世界で宙ぶらりんなマルタンの態度もそこには現れているように思う。物語の最終局面の前まで、マルタンは終始子どものようであり、それによっておそらくは無意識にことごとく責任を回避する(このこともある意味宙吊り状態だ)方向へと事態を運ばせる。このような状況から抜け出すには自分でどうにかするしかない。その意味で本作はマルタンの成長譚であり、邦題にある「溺れゆく女」はどこにも登場しない。水のイメージに溺れそうな男を救うアリスという女性がそこにいるだけである。

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この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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