今年の5月ごろ、飯田橋駅にあるアンスティチュ・フランセ(東京日仏学院)内の小さな映画館でシャンタル・アケルマンの『アメリカン・ストーリーズ 食事・家族・哲学』を鑑賞した。その頃、私は精神的にかなり不安定な時期で、外出もままならなかった。でもどうしてもアケルマンの作品を映画館で鑑賞したく、久しぶりに外出した。この作品は、精神的に弱っているときに観るとさらに衰退していくような気持ちになる人もいるだろうし、逆に前向きになれるひともいるだろう。鑑賞側の心に変化を与えるようなパワーがあり、ストレートに伝わってくるものがあった。
私はそんな観る側の心境や状況で意見が一人一人異なること自体、映画鑑賞の醍醐味として興味がある。自分が感じることのできない部分を他人を通して知りたい。特にこの作品は個々の感想を丁寧に伺いたくなるような、そんな作品である。
冒頭は、アケルマンの別作品『家からの手紙』の終幕から連続する。霧がかった海に浮かぶ船と波の音、眩しい朝日と怪しげなグラデーションカラー。だんだんとニューヨークの街並みが姿を現す。
本作は米国への移民時に苦労したユダヤ人のルーツに迫りながら、ドキュメンタリー風に話は進む。監督であるアケルマンも同じくポーランド系ユダヤ人である。アケルマンの母方の祖父母はポーランドの強制収容所で死去しており、アケルマン自身は映っていないが合間に寸劇も挟み、怒りや苦しみ、悲しみを作品を通してユニークに訴えかける。
複数の老若男女たちが家族や愛している人、自分の状況についてなどリレーのように淡々と語っていく。年齢も幅広い。はじめて鑑賞した時、夢の中と現実を行き来している気持ちになった。映画館では時々眠ってしまうような感覚にも陥った。また、あまりにも残酷で受け止めきれない話も幾つかあり、戸惑っている自分も居た。自分が体験していないことでも、つい胸が苦しくなってしまうことや考えてもどうしようもない記憶を、鑑賞中にただただなぞって不安になった。だからこそ、そんな繊細な一人一人の持つ物語に関心を持った。
近頃、日々SNSを通して他人のライフスタイルや思想に以前より当たり前に触れているような気がする。しかし、インターネット上の情報は解像度が低く、改めて人と対話することの尊さや面白さをいつも感じている。
『アメリカン・ストーリーズ 食事・家族・哲学』という作品は、映画ではあるが、ドキュメンタリー風をあしらい、そんな“人”としての生感だったり記憶や出来事、赤裸々な事実について映画のスクリーンを通して私たちに投げかけているようだ。スクリーンが隔てているものの、アケルマンやキャストの方と同じ場所にいるような感覚に陥る。
全体を通して約10人弱のエピソードが流れた。ここでは特に気になったエピソードを二つ紹介してみる。
他人と共に食事をする喜び
【No.1】
一番最初に語ってくれたピンク色のブラウスにカーリーなロングヘアスタイルの彼女。一部台詞を抜粋する。
一番最初に語ってくれたピンク色のブラウスにカーリーなロングヘアスタイルの彼女。一部台詞を抜粋する。
母は17歳で好きでもない男と結婚させられー
次第に親密になったけどー
父が死んでも生活はそのまま
幼かった私にはそう見えた
窓から飛び降りたかった、でもやめたの
自殺しても二度と彼とは食事できない
彼はー
寝室のベッドで安らかに横たわってた
私は彼女の発した「自殺しても二度と彼とは食事できない。」という台詞に対して強く引っかかった。冒頭で少し触れたように、鑑賞時の私は精神的に不安定だった。正直、生きているか死んでいるかわからないような感覚で、なんで生きているのかわからない日々が続いていた。けれど自死してしまったら大切な人と、愛している人と、笑い合える友人と共に美味しい食事を取ることさえできなくなってしまうんだと思うと、悲しみと同時に今の自分の考えは「なんてくだらないんだ」と思えたのだ。一人でする食事も勿論悪くはないけれど、誰かに「美味しいね」と言える、朗らかな瞬間を想像することさえ忘れていたのかもしれない。この喜びを感じることができなくなってしまうなんて嫌だなと思った。私は好きなひと、愛くるしいひとたちと食事をまだまだ囲みたい。このストーリーに私は助けられたのだ。
人生はパズルのピースがなかなか上手くはまらない
【No.2】
ラストから二番目に話してくれた、少女について。
ラストから二番目に話してくれた、少女について。
13歳までポーランドの田舎で育った後、ユダヤ人迫害の初期に両親は殺されてしまったというブロンドヘアに黒い服の少女が語る。覚えているのは焦げる臭いや静かな廃墟に横たわっていたことくらいで、記憶がない。そんな彼女は孤独で、心が癒えずにいた。しかし数ヶ月後に優しくて繊細な男性に出会い、惹かれる。たちまち両思いになるも、自分の過去の出来事や家柄など相手のことを思うとプロポーズにイエスと言えない。好きだけど、ただ好きなだけではいけない自身のバックボーンについてまだ彼に話せていない。かなり勇気のいることだけど、彼にきちんと話したい。
彼女の強いまなざし、低い声、最後の伏せ目の沈黙が浸ったことのない感情の箱に心を持っていかれた。彼女自身に非は無いのに、背負っている重すぎる事実。例えば平和で好きに恋愛ができる場所や立場でも、両思いになることが難しい例もある。また、両思いになっても片方がその気で無くなったら破綻してしまう。そんな風にパズルのピースが上手くはまらない場所が一つでもあると苦しい。全てが思い通りにいくことなんて、もしかしたら無いのかもしれないと改めて思った。簡単に願うように人生が進んだら、もしかしたらつまらないかもしれない。彼女の場合は、ただただ幸せになって癒えない傷が少しでも回復するよう願うばかりだ。
何のために生きている?
ラストは音楽が流れ、場面が大きく切り替わる。夜になり、枯れ草に複数のカフェテーブルが並んでいる。
文句を言うわがままなお客。無茶なお客のオーダーに答えるシェフ。お金がないと言っていたのにサーモン・フィレのマヨネーズ添えを食べているお客。なんだか傲慢な人たちばかりにみえるが、生きるのって一苦労だ。迷惑をかけていい時と場所は選ばなくてはいけないが、もうここは自制しなくても良い場所だ。
サーモンのマヨネーズ添えは―
金がないと食べられない
でも金を見つけたのに―
サーモンも食えないと?
なら聞くが―
いつ食える?
皆死んでるのに なぜ生きる?
記憶のために生きるのか?
飛び交う台詞に、生と死のはざまを考えているわたしにとって自分に直接問いかけて来るようだと感じた。皆は何のために生きている?
仮にタイトルをつけるならば
表題につけた『個々のストーリーズ 衣・茶・休』は、この作品を観た後に私の感想や日常にタイトルをつけるならばとつけたタイトルである。個々の生の物語をもっと知りたいし。また、私にとって衣・食・住は永遠のテーマであるが、少しアレンジして“衣”の他に“茶”と“休む”を選んだ。
“衣”
生きることに対してファッションは大きなエネルギー源であるし、救いでもある。デザインすることも、着ることも、鑑賞することも。
“茶”
茶は食事と似ているが、私らしさを表すならと。茶器や茶葉を集めたり、一人用のお茶を挿れたり、友人と茶をしばくことは高揚する。生きていることも実感するし、前向きで楽しいこと。
“休”
私は休むことが大好きだ。皆が思ってるよりゴロゴロしているし、布団も好きだ。休息は本当に大事だし、回復もする。仕事、仕事な日本人だけど、本当は休みが好きなんじゃないの?と素直になってみる。休んでばかりじゃつまらないから働くけれど、ああなんて休みは最高何だとくつろぐ自分を大好きで居ていい。そんなふうに休を選んだ。
生きることに対してファッションは大きなエネルギー源であるし、救いでもある。デザインすることも、着ることも、鑑賞することも。
“茶”
茶は食事と似ているが、私らしさを表すならと。茶器や茶葉を集めたり、一人用のお茶を挿れたり、友人と茶をしばくことは高揚する。生きていることも実感するし、前向きで楽しいこと。
“休”
私は休むことが大好きだ。皆が思ってるよりゴロゴロしているし、布団も好きだ。休息は本当に大事だし、回復もする。仕事、仕事な日本人だけど、本当は休みが好きなんじゃないの?と素直になってみる。休んでばかりじゃつまらないから働くけれど、ああなんて休みは最高何だとくつろぐ自分を大好きで居ていい。そんなふうに休を選んだ。
『アメリカン・ストーリーズ 食事・家族・哲学』をこれから観る人は、タイトルをつけるならば何だろうと思いながら是非鑑賞してほしい。
P.S.できれば映画の“映”も入れたかったな。
P.S.できれば映画の“映”も入れたかったな。