とある田舎町。父の営む牧場で生れ育ったアルマンドは自然と動物を愛するナイス・ガイだ。いい歳こいて恋に疎いのが欠点だったが、それも真実の愛を求めているがゆえだった。 

 そんなある日、弟のラウルが美しい婚約者ソフィアを連れて都会から帰ってくる。父は大喜びで結婚式の準備を進めるが、彼の帰郷の目的はドラッグ・ディーラーとして力を振るうオンザからシマを奪うことにあった。しかもオンザとソフィアの間には隠された因縁があったのだ。ラウルとソフィアの結婚式は、オンザの手下の殺し屋たちによって一転、血の海となり、父は息を引き取ってしまう。復讐に燃えるラウル。だがその一方でアルマンドとソフィアの恋心が燃え上がり……。

 『俺たちサボテン・アミーゴ』のプロットを書き出してみると一見、シリアスドラマのようである。でも実際に観てみると、真面目な要素がなにひとつ存在しないことに気づくはずだ。
カントリー界のスーパースターであり、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』や『天国の門』の主演俳優でもあるクリス・クリストファーソンによる冒頭のナレーション「これはスペイン語で話されているからスペイン映画ってことだ。それでは始めよう」からしてふざけている。本作の舞台はスペインではなくメキシコだからだ。

 クリスティーナ・アギレラがスペイン語で歌う主題歌(彼女の父はエクアドル人なのでスペイン語の発音はパーフェクト)はホットだけど、本編の作りはえらくチープ。本来オーケストラで演奏すべきスコアは、シンセのペナペナの音で演奏されているし、街の俯瞰撮影は建物が模型で、走る車はミニカーをコマ落としで撮影している。主人公を導くスピリチャルな存在であるヤマネコもCGではなく、ぬいぐるみであることがモロバレだ。

 何よりおかしいのは、本来ラテン系イケメンが演じるべきアルマンドを、白人そのもののコメディアン、ウィル・フェレルが演じていること。しかも彼は全編にわたってスペイン語でセリフを喋りまくる。そう、本作は安っぽいメキシコのドラマを一見真面目に作ることで醸し出される笑いを狙ったコメディ映画なのだ。

 元ネタになっているのはスペイン語で「テレビ小説」を意味する<テレノベラ>というテレビドラマのジャンル。メキシコをはじめとした中南米各国で製作されているこれらのドラマは、美男美女の主人公が家族の反対や周囲の嫉妬を乗り越えて結ばれるまでが延々描かれる。要はメロドラマなのだが、セリフ回しが大袈裟でやたらと死人が出ることも特徴だ。

 そのためキワモノ扱いされることも多いけど、メキシコを代表する女優サルマ・ハエックも元はテレノベラ出身だ。サルマがプロデュースして脇で出演もしていたテレビドラマ『アグリー・ベティ』(06〜10年)を覚えているだろうか? ニューヨークのファッション雑誌編集部を舞台に、イケてない編集長秘書の奮闘を描いたコメディだったけど、メキシコで製作されたオリジナル版の『ベティ〜愛と裏切りの秘書室』(99〜01年)は邦題でもわかる通り、もっとドロドロのテレノベラだった。サルマはそれをアメリカでも通用するようにオリジナル版の泥臭さを抜き去ってアレンジしたのだ。

 そんな『アグリー・ベティ』と比べると、『俺たちサボテン・アミーゴ』にはむしろ泥臭さを強調するかのようなアレンジがされている。ポイントは時代設定。最近はテレノベラもそれなりに洗練されてきてはいるのだけど、『俺たちサボテン・アミーゴ』は70〜80年代の作品をベースにしていることが、ファッションや小道具からビンビン伝わってくる。一体フェレルたちはどうしてこんなマニアックな遊びをやりたくなったのだろうか?

 ぼくが推測する動機は<単に好きだったから>。というのも、地域によってはアメリカでも普通にテレノベラを観ることが出来るからだ。『アグリー・ベティ』では、主人公の父がテレノベラをテレビで観るのを楽しみにしている描写があった。ニューヨーク市の人口の約29%がヒスパニック(第一言語がスペイン語の中南米系の人々)のため、彼らに向けて娯楽番組をオンエアするテレビ局が多数存在するからだ。ニューヨーク市だけではない。ウィル・フェレルの故郷カリフォルニア州に至ってはヒスパニックの割合は37.6%にも及ぶ。

 日本の小学生が再放送されていたドロドロの大映ドラマを偶然観てハマってしまうみたいに、チャンネルを回していて偶然テレノベラを観て、ハマってしまった白人の子どもは相当数いたに違いない。『俺たちサボテン・アミーゴ』はそんな同好の士に向けて作られた作品なのだ。

 そんな本作の屈折した遊び心を象徴しているのが、それぞれオンザとラウルを演じているメキシコ人俳優ガエル・ガルシア=ベルナルとディエゴ・ルナだ。幼馴染でもある彼らが一躍世界的に知られるようになったきっかけは『天国の口、終りの楽園。』(01年)という青春映画だった。この作品でふたりはヴェネチア国際映画祭で最優秀新人賞にあたるマルチェロ・マストロヤンニ賞をダブル受賞。ベルナルはテレビコメディ『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル』(14年〜)に主演、ルナも『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(16年)に出演するなど、世界的なスター俳優として活躍している。

 また『天国の口、終りの楽園。』によって、監督のアルフォンソ・キュアロンが映画作家として認められたことを皮切りに、彼の親友アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥとギレルモ・デル・トロも傑作を連発。同作の撮影監督だったエマニュエル・ルベツキやロドリゴ・プリエトといったカメラマンも世界中の監督から引っ張りだこの売れっ子になった。
つまり現在のメキシコとは、世界の映画シーンの最先端を走るクールな国なのだ。なのに、こうしたムーヴメントの立役者たちが、敢えてベタベタな<古臭いメキシコ>のメロドラマで田舎のギャングを演じているのだから、これにはもう笑うしかない。

 というわけで本作、肩の力を抜きまくって観るのにふさわしいコメディではあるのだけど、何気に飛び出す鋭いセリフに注目してほしい。劇中でラウルのドラッグ商売の相手がアメリカ人だと聞いたアルマンドが発する言葉がそれだ。
「アメリカ人は借金をして車や家を買ってしまう。まるで何でも欲しがる赤ん坊だ。道理が分からない赤ん坊に無責任に飴を売りつけるのはよせ」
ドラッグを欲しがる奴がいるからこそ売る人間が出て来る。それなのに全ての責任をメキシコに押し付けようとするアメリカという国への、これは痛烈な皮肉だ。このセリフには後年リーマン・ショックの真相を描いた『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(15年)を監督することになるプロデューサー、アダム・マッケイの主張が感じられる。

 出生率をベースにした試算によると、アメリカでは2050年にヨーロッパ系白人の割合が50%を切ってしまうという。その際にマジョリティとなる有色人種サイドで最大の勢力となるのはメキシコ系を筆頭とするヒスパニックだ。

 メキシコの文化は既にアメリカの一部であり、未来においてはマジョリティになることが運命づけられている。だから未来に作られるコメディが『俺たちサボテン・アミーゴ』みたいな映画だらけになっても、ちっともおかしいことではないのである……多分。

アダム・マッケイ
68年生まれ。ウィル・フェレルがレギュラーだった時代の『サタデー・ナイト・ライブ』でヘッドライター(ギャグの責任者)として活躍。フェレルのハリウッド進出に伴って行動を共にし、一連のフェレル主演作で製作、監督、共同脚本を一手に引き受けた。フェレルと主宰するサイト「Funny Or Die」で後進を育てるほか、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』ではアカデミー脚色賞を獲得している。

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