苅田梨都子 連載:WORD-ROBE file7「共に生きる、遠くても大切な人」

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苅田梨都子 連載:WORD-ROBE file7「共に生きる、遠くても大切な人」

目次[非表示]

  1. はじまり・母の偉大さ
  2. レナという大切な存在
  3. 悲劇の出来事・喪失
  4. 共に生きていく
  5. 自分の意志と成長、母の光
 柔らかなピンクに包まれた桜もあっという間に葉桜に変わり、見渡す限り新緑に包まれた4月上旬。散歩をすると淡い紫色の藤が咲き始めていた。庭の雑草も元気よく、背が高くなってきた。

 昨年の丁度今頃、初めてここで映画のコラム連載が始まった。元々好きだったエリック・ロメールから始まり、初めて観た映画も幾つかあった。あれから一年が経過する。有り難いことにまた今年も一年、ここで言葉を綴らせていただく。映画の批評だけでなく、ファッションや色遣い、室内や思想についてなど私目線の日記のような連載ができたらと改めて思う。

 さて、4月1本目に選んだ作品はミカエル・アース監督の『アマンダと僕』。ポスターと表題だけぼんやり記憶にあり、いつかいつかと後回しにしていた作品。

「アマンダと僕」
©2018 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA

はじまり・母の偉大さ

 アンビエントの静寂なBGMに合わせ、青々とした葉が風に靡く。夏の日差しが眩しいパリ。ダヴィッドが姪のアマンダを学校へ迎えに行くシーンから始まる。ダヴィッドは細いボーダー柄のよれたTシャツをさらりと纏う。急いで小走りに迎えに行く。

 帰宅後、雑多に並べられたテーブルの上にはカットされた西瓜が並び、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。ダヴィッドとアマンダは楽しそうに会話をする。アマンダの母親サンドリーヌが帰宅した後、宿題を見せる。“エルヴィスは建物を出た”と書いてある表紙にアマンダは疑問を持ち質問する。意味は「望みはない、おしまい」と母親に教えてもらった。

 幼少期、私にとって母親は全てだった。母に些細なことを質問しても全ての問いに優しく返してくれた。その度に母は凄い!と目を輝かせた。自分の一番近くに居る母親は味方で、そばにいてくれることに安心した。きっとアマンダも同じような気持ちで母親に質問したのだろう。

レナという大切な存在

 その頃、ダヴィッドは深緑色のシャツを羽織ったレナという女性と出会う。身長は高くすらっとしており、きらり光るイヤーカフとラフに括ったポニーテールが似合う。レナはダヴィッドの住む向かいのアパートに住み始める。窓から会話ができる距離だ。翌日、ダヴィットの服装は深緑色のジャージを纏う。もしかしたら昨日のレナに触発され、クローゼットの中から反射的にダヴィットは選んだのだと思う。ミラーリングと呼ばれるように無意識に気になる人や、少しでも良いと感じた人のことはナチュラルに真似してしまう。

 ランニング途中のレナは、ブルーのウェアを着ている。公園で剪定をしているダヴィットは赤のTシャツと手袋を身につけている。二人が並ぶとワンシーンだけまるでエリック・ロメールの画みたいだ。少しだけ会話をして、その後レナにメールをいれる。

 夜、レナと散歩をする。散歩した後、帰り際に彼女のことが気になっているダヴィットは少しだけ引き止める。缶ビールかジュース片手に夏の夜。陽気な夏が待ち遠しくなる。互いの顔を見て微笑む二人。幸せな時間がこんな風に続くと思っていた。

「アマンダと僕」
©2018 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA

悲劇の出来事・喪失

 シュークリームを頬張り帰宅するアマンダ。お茶を飲みながら雑談し、届いたメールから新しい恋の予感を漂わせる母親。プレゼントが、と母が差し出したのは楽しみにしていたロンドンのテニス観戦チケット。ダヴィッドはレナの家へ向かい、買ったパンを差し入れに持っていく。そのままコーヒーをいただく。レナは先生で、アマンダと母に会ったという。
急いで準備する母親。娘を預けて出掛けた。20分ほど遅延する駅、おかしいと思いつつダヴィッドは自転車で移動する。たどり着いた広場で、異常を察する。何かが起こっていた。そこには横たわり血まみれの人々、泣き声、ざわめき。無差別テロだった。帰宅しても尚どんよりとする街並み。悲しみに暮れるダヴィット。隣の部屋で健やかに眠るアマンダは、まだ何も知らない。

 目覚めたアマンダに、母は居ないと告げる。まだ幼すぎるアマンダに、手を取り丁寧に昨夜の事件を説明する。もう二度と会うことができないことを教え、抱きしめる。ロンドンでテニス観戦を3人で共にする約束を果たせぬまま、優しくてニコニコ、大好きな母親が急に居なくなってしまった。

「アマンダと僕」
©2018 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA

共に生きていく

 母の喪失感や悲しみを抱えたアマンダ、勿論ダヴィッドも同様に。その後、アマンダの親権を巡る。後見人としてダヴィッドも候補にあがる。それでもまだ24歳、自分の人生も始まったばかりだ。急に自分の子でもない幼い姪の面倒をみなくてはいけなくなるなんて、受け入れられるだろうか。

 休日のため外へ遊びにいきたいアマンダと、家事や仕事に手一杯のダヴィッド。掃除機を掛けながら互いに口論し、ぶつかり合う。他人の気持ちを理解するなんて、幼少期には出来ない。ましてや大人の事情なんて、到底理解することができない。アマンダのことを、ダヴィッド自身も上手くコントロールできない。思えば24歳の頃なんてまだ子供と大人の狭間な歳だったと思う。その年齢は社会に足を踏み入れ始めたばかりで、取引先の方にも上手く振る舞うことができなかった。自身の感情も波があり、悩みも多い。ぐらぐらと予想できない未来に、この先の不安が重くのしかかる。アマンダの前では大人でも、すがる場所がないダヴィッドは話しながら思わず泣き出してしまう。

 母と子、父と子、という関係性以外でもどうにか二人は共に生きていく手段を探す。その晩、ダヴィッドは夜中に泣き出したアマンダに親のように優しい口調で「大丈夫 僕がついてる」と囁く。

自分の意志と成長、母の光

 段々と母が居なくなったことを理解していくアマンダは、物語の半ばから自分の言葉できちんと想いを伝え始める。ダヴィッドが洗面台にあった母親の歯ブラシや私物を勝手に捨てたところ、「今すぐ戻して!」と怒りながら伝える。これは私にとって大事なものだと──。今思うと、何もできない幼い子だと大人たちは見守るが、幼いながらにきちんと自分の考えがあって、ダヴィッドと同じ一人の人間だ。年齢は関係ない。彼は彼であり、わたしはわたしであることの証明。同じ空間に居ても、嗜好はバラバラでそれぞれの生活がある。大切にしているものも、どうでも良いと感じるものも異なるのだ。

 今まで泣いたりワガママを言っていたアマンダが、成長したという瞬間が幾つかあった。家の鍵がスムーズに開かず苛立つダヴィッドに、代わりに私が、と鍵を手に取り冷静に開ける姿。言い訳をするダヴィッドと対比して、大人びて見えた。玄関前の苛立ちは私も経験があり、もう少しスムーズに機嫌よく居られたらと思うことが多々ある。大人は機嫌良く居なければならないというわけでも無いが、他人に迷惑を掛けず、できるだけ機嫌良く過ごせる状態というのは大人だと感じる一つの要素だと思った。

 その後、自転車で並走するアマンダは、まるで母サンドリーヌのようにも見えた。クジラが打ち上げられたと聞き、橋から海を眺め会話をする。歳を重ねることの話や、いつまで一緒に居るかの会話。未来のことを考えるなんて、そこでもアマンダの成長が垣間見えた。

 最後に、テニスの試合に出かける。アマンダは冒頭の母の会話を思い出し、繰り返し口に出す。母はいつもアマンダの胸の中に存在し、柔らかな光で笑っている。人生は、テニスの試合のように最後までどうなるかわからない。落ち込んで希望も失くしてしまうか、諦めず小さなひかりを信じて生きていくか。

 アマンダにとって、母が今まで教えてくれたことや温もりはいつまでも存在しており、消えない。居なくなった母は、生き返ることなんて無い。だからこそいつまでも心の中に宿る母のひかりを守り続けること。亡くなった人のことは、ゼロになることなんて無いのだと改めてこの映画が教えてくれた。また、この映画ではアマンダと母親の関係だけでなく、ダヴィッドとレナの関係も並行して描きあげられた。ダヴィッドとレナは互いに好きであるが最終的には一緒に居ない決断をする。側に居られなくても大切な人であることは事実である。それぞれの心の中で祈り想うことや共に生きることは私にも、あなたにもできるのではないか。

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この記事のライター

苅田梨都子
苅田梨都子
1993年岐阜県生まれ。

和裁士である母の影響で幼少期から手芸が趣味となる。

バンタンデザイン研究所ファッションデザイン科在学中から自身のブランド活動を始める。

卒業後、本格的に始動。台東デザイナーズビレッジを経て2020年にブランド名を改める。
現在は自身の名を掲げたritsuko karitaとして活動している。

最近好きな映画監督はエリック・ロメール、濱口竜介、ロベール・ブレッソン、ハル・ハートリー、ギヨーム・ブラック、小津安二郎。

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