映画の思考徘徊 第5回 5時間のあとで―― 『夢の涯てまでも』の道程

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第5回 5時間のあとで―― 『夢の涯てまでも』の道程

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  1. 『夢の涯てまでも』までの長い旅
  2. その映画、旅にあって旅にあらず
 ヴィム・ヴェンダースは“旅の映画(ロードムービー)”の作家であるといわれる。たしかに彼はのちに“ロードムービー3部作”として知られることになる3作品──『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』──でその名を知らしめ、以後のキャリアを決定づけた。加えて、1976年に立ち上げた自らの製作会社には「ロード・ムーヴィーズ」と名付けてすらいる。しかし、本当にそうなのだろうか。いつまでもひとつ覚えのように“ロードムービーの映画作家”という認識で良いのだろうか。
 このたび、長らく容易には見ることができなかった“究極のロードムービー”──本人の言──、封印されていた『夢の涯てまでも』ディレクターズカット版=約5時間(厳密には4時間48分)バージョンがとうとう陽の目を見る。“陽の目”とは言っても、これまでも見る“手段”自体は存在していた──作り手の意図に反して158分の作品として1991年に封切られた本作だが、1993年には既に長尺版が完成し世界各地でたびたび特別上映がされており、2005年にはドイツで3枚組のDVD(映像信号がPAL方式のため279分となっている)が発売、また一昨年には米クライテリオン社から決定版といえるBlu-rayがリリースされている。しかし、この長大な5時間もの作品が、本邦においても容易に見ることができるようになったという事実は、じつに喜ばしい、すばらしい快挙と言えるだろう。
 ほかでもない私自身、つい先ほど本作を見終えたばかりである。今は日付を跨いだばかりの真夜中で、キーボードを前にしてはいるものの、いまだ脳内は整理されていない──書きたいことは山ほどある。けれど、今回の記事ではまだ作品を見ていない人が読んでも支障がない範囲の記述に留めておきたい。というのも、いざ鑑賞が“可能”になったからといって、5時間もの上映時間はそう易々と見始め/終えられるものではないからだ。本腰を入れて休日に一気に見る人もいれば、幾度となく中断を挟みながら毎日少しずつ断続的に鑑賞を試みる人もいるだろう。食指が動くまでは、敢えて急がずに取っておくという人も。しかし、そんな誰もがひとまず読むことができる記事を目指したい。
 1977年に初の英語作品『アメリカの友人』を制作してから、『夢の涯てまでも』実現に至る1991年までの約15年間のヴェンダースの道程は、“未来”のいま顧みると、どの作品もすべてが相互に影響を与え合い不可分に結びついているかのように見える。作品の一作一作、あるいは関わった人物の一人一人の存在が代替不可能な運命づけられたもののように思え、たとえ僅かにでも何かが異なったならば、いずれの作品も生まれることはなかっただろうとすら思えるのだ。なので、まず最初に『夢の涯てまでも』が作られた経緯を確認しておこう。少々長くなるが、ご容赦いただきたい。

『夢の涯てまでも』までの長い旅

 1977年にパトリシア・ハイスミスの同名小説(原題は”Ripley's Game”)を映画化した『アメリカの友人』を完成し、ゲーテ・インスティテュートのプログラムで世界各地を回ったあと、最終的にオーストラリアを訪れたヴェンダースは、その地に魅了/啓発され、人里離れた砂漠の中で世界の終わりについてのSF作品の脚本を書き始める──これが、『夢の涯てまでも』の萌芽だった。しかし、そこに電報……「ジョー・ゴアズの『ハメット』を映画化してくれないか?」、それは『アメリカの友人』を見て大いに気に入ったのだという、アメリカン・ゾエトロープ──フランシス・フォード・コッポラが立ち上げた製作会社である──の製作者フレッド・ルースからの打診だった。ゴアズの小説『ハメット』は、『血の収穫』などでお馴染みのハードボイルド作家ダシール・ハメットを主人公=探偵役としたミステリで、ハメットのファンだったヴェンダースはこの企画を引き受ける。書き始めたばかりの脚本の実現にはまだ時間がかかるのだから、と。しかし、これが長い悪夢の始まりだった。
 翌78年の春に渡米し準備作業に入っていたヴェンダースだったが、9月にめでたく撮影開始……して間もなくコッポラの意向で唐突に撮影中断を余儀なくされる。脚本の第1稿は原作者ゴアズ自身の手によるものだったが、それも中断に伴いボツ。仕方なくヴェンダースは新たに加わった脚本家トム・ホープと必死に第2稿を書き上げるものの、撮影再開前に内容把握を望んだコッポラがそれを基にラジオドラマ版を制作し、お気に召さずにまたもボツ。延期に次ぐ延期で再始動の目処は立たず、配役は入れ替わりに入れ替わり、痺れを切らしたヴェンダースは第3稿の執筆作業をデニス・オフラハティに任せ、別の作品に取り掛かることにする──『アメリカの友人』に演者として出演してもらった敬愛する監督であるニコラス・レイと再会し、「近いうちに何かやろう」という話になっていたのだ。しかもレイは癌に侵されており余命幾ばくもない状況、自分の映画は凍結状態、となれば今しかないというわけだ。ヴェンダースとレイが自ら“被写体”となって、現実と虚構を混在させつつ関係性を記録した映画『ニックス・ムーヴィー』の撮影は、1979年3月29日に開始され5月3日にはひとまず終了。しかしこの後、レイは死ぬ。本作の編集は難航し、完成には翌年まで待たねばならない。
 1980年2月、やっと『ハメット』は撮影再開を迎えるが、またしてもコッポラの一声で4月に制作中止──真偽の程は定かではないが一説によると、当時のヴェンダースの妻であり、当初はスー・アラバマ役(完成版ではマリルー・ヘナーが演じる)で出演予定でもあったロニー・ブレイクリーがやたらと口を挟んだことが一因だという。そもそもヴェンダースとブレイクリーが結婚したのは『ハメット』制作開始後すぐの時期だったが、この頃には早くも既に離婚しており、配役変更の原因は夫婦関係破綻によるものだったのかもしれない。新たに呼ばれたロス・トーマスが第四稿と格闘しているあいだに『ニックス・ムーヴィー』の編集を終えたヴェンダースは、その時点でもまだ撮影再開の兆しが見えなかったため“恋人” ──にしても、いつごろ知り合ったのだろうか……のちに結婚、そして離婚──イザベル・ヴェンガルデンに電話をかける。すると、出演中のラウル・ルイス監督作品『The Territory』の現場でフィルムを使い果たしてしまい、ポルトガルで撮影中断していると言うではないか。もちろん、すぐさまヴェンダースは駆けつけた。自宅の冷蔵庫に保管していたフィルムのストックを抱えて。カンパである。
 支援の甲斐あり『The Territory』は撮影再開、そのときヴェンダースは彼らの状況を見て「お金がなくて撮影できない映画制作者たち」についての映画を作ったら面白いのではないかと閃いた。そして偶然にも、『ハメット』塩漬け状態はまたも2ヶ月延長が決まったばかりだった。ポルトガルも気に入った。スタッフは『The Territory』組をそのまま雇ってしまえばいい。思いついたが吉日とばかりに制作を即決し、手探り上等スタイルにより3ヶ月で撮り上げる──これが、のちの『ことの次第』である。
 1981年11月、当人は「三度目の正直」と思っていたわけではあるまいが、第4稿をベースに撮影が再開し、今回はとうとう完成まで漕ぎ着ける。最終的に4名の脚本家の手によって書かれた脚本は32本に及び、完成した作品に残っている場面の8割は3度目の撮影で撮りなおされたものだという。当初のロケ中心撮影計画はどこへやら、結局は悲しいことに全編スタジオ撮影となった。とはいえ、この時点で企画開始から4年もの歳月が経過しており、ここまで本当に長かった……と胸を撫で下ろしたに違いない。翌82年、『ハメット』の上映のために訪れたカンヌのホテルで映画人取材ドキュメンタリー『666号室』を撮影、また同年『ことの次第』はヴェネチア国際映画祭にて金獅子賞を受賞した。
 ここで少し時間を遡ろう。不本意な制作を強いられた『ハメット』の現場におけるヴェンダースにとって唯一の収穫は、俳優/劇作家のサム・シェパードと知り合えたことだった。当初のロケ撮影計画が頓挫し不満タラタラなスタジオ撮影であったが、ちょうど隣のスタジオの撮影作品にシェパードが出演していたのだ。そもそも面識こそなかったものの、当初ヴェンダースは『ハメット』にシェパードの出演を望んでおり一度は配役が検討されてもいた(製作陣の判断によって叶わず)わけで、その事実を踏まえると随分奇妙な偶然が起きたものである。『ハメット』は2人の協働の場とはならなかったが、むしろより親密なコラボレーションの機会を用意したことになる。隣り合うセットの狭間で意気投合し、仲を深めた2人は「いつか一緒に仕事をしよう」と誓い合う。
 1973年、『ハメット』が完成し、もはや行く手を阻むものはない。シェパードが書いた物語『モーテル・クロニクル』を下敷きに、2人は『パリ、テキサス』の脚本執筆を開始する。4月に一旦ロケハンを切り上げて、第1回ドイツ映画祭のゲストとして来日し、のちの『東京画』の素材を撮り溜めたりもしつつ、9月には撮影を開始した。完成脚本がない状態で撮影に突入し、順撮りで進められた『パリ、テキサス』の制作は、撮影が脚本に追いついてしまうなどの困難にも見舞われたものの、12月に撮影終了し、翌年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを授与されることになる。
 1984年のカンヌは、ヴェンダースに新たな出会いをもたらした──のちに『ベルリン天使の詩』『夢の涯てまでも』でヒロインを演じることになる女優ソルヴェイグ・ドマルタンと知り合い、公私にわたるパートナーシップが始まるのである。逸話によれば、2人が出会ったのはヴェンダースがパルムドールを獲得してから1時間経過した頃で、そのときドマルタンはピンボールをしていたという。
 1986年、ヴェンダースは次回作として『夢の涯てまでも』の準備に入り、共同脚本として関与し始めたパートナーのドマルタンと共に世界中を旅しながら2年間の準備期間を過ごしていた。しかし「この映画は複雑で費用がかかった。それで86年の夏に少なくとも1年は延期しようと決めた。当時僕の会社では2年製作の仕事がなかったので、社員のために映画を作る必要があった」という判断から『ベルリン・天使の詩』を制作することになる。同作は翌87年のカンヌで監督賞に輝いた。
 この時点で、ヴェンダースの名声は構想を得た10年前とは比べ物にならないほどに高まっていた。肝入りの企画である『夢の涯てまでも』は少しずつ動いていたものの、なかなか実現には漕ぎ着けない。そんな中、ポンピドゥーセンターからの依頼でファッション題材映画の制作を依頼されたヴェンダースは、『ベルリン・天使の詩』のラストでヒロインが身を包んだ赤いドレスがYOHJI YAMAMOTOだったという縁で、服飾デザイナーの山本耀司についてのドキュメンタリー『都市とモードのビデオノート』を作ることにする。撮影は主に1989年に行われたが、交友は本作の後も続き、山本は『夢の涯てまでも』にも衣装デザインで参加することになる。
 1990年、ついに期は熟した。温めているあいだに80年代が丸ごと終わり、構想から13年目にとうとう『夢の涯てまでも』は撮影を迎える。世界中を股にかけ、6ヶ月に渡って撮影は敢行された。撮影の後も膨大なポスト・プロダクション作業が続き、完成/公開は1991年。構想からもうすぐ15年が経とうとしていた。渾身の企画であったにもかかわらず、『夢の涯てまでも』の興行/批評は悲惨な結果となった。
 映画を見終えると流れ始めるエンドロールには数えきれぬほど沢山の人名が並んでいる。そのことからも明らかな通り、あらゆる映画は“人的交流”の結晶である。そして、作品の集積=フィルモグラフィもまた“人的交流”の織物と言っていい。『アメリカの友人』の成功によって依頼された『ハメット』を引き受けなければ、『ことの次第』や『ニックス・ムーヴィー』が撮られることはなかっただろうし、きっとサム・シェパードとも知り合うことはなかった。シェパードとの関係なくして『パリ、テキサス』は生まれず、84年のカンヌに赴くこともなければソルヴェイグ・ドマルタンとの出会いもなかったし、『ベルリン・天使の詩』も作られなかったろう。合間に撮られた『東京画』や『都市とモードのビデオノート』がなければ『夢の涯てまでも』に日本は登場しなかったかもしれない──この2作の撮影は、『夢の涯てまでも』日本パートの研究旅行としての役割を果たしたと考えられる──し、登場したとしても現状とは大きく異なった形になっていたはずだ。そもそも『パリ、テキサス』と『ベルリン・天使の詩』の成功なくして、莫大な製作資金はまず集まらなかった。どれも欠けることが許されない構成要素である。運命づけられたような経路を辿って、77年のアイデアは80年代の経験を丸ごと養分にすることで実現したのだ。

その映画、旅にあって旅にあらず

 上にも書いた通り、これだけの年月を費やした念願の企画でありながら、結果的に『夢の涯てまでも』は“失敗作”の烙印を押されることになる。というのも、本来ワークカットの時点では20時間/内輪の試写段階でも9時間あったにもかかわらず “契約”に基づいて2時間半に縮めることを迫られ、ヴェンダース自身、悔しさを滲ませて「リーダーズ・ダイジェスト」と呼ぶこのバージョンが、当時公開されて“悲惨な結果”となったものだ。まさに文字通り“ダイジェスト”と呼ぶほかない、編集に切り刻まれ、かろうじて骨と皮だけが残った無残なフィルム。この状態で、“失敗作“評価を避けることは不可能だっただろう。
 しかし、回避不能な“失敗”を予期したヴェンダースは、秘密裏に自腹を切って複製したポジフィルムを使って劇場公開版を作成/提出するいっぽう、密かにネガを保管、数年かけて自らが納得のいくカッティングで長尺版を作り上げていた──いずれ来るであろう披露/名誉挽回の機会を信じて。
 さて、約2倍に復活膨張したディレクターズカット版はいかに? 本稿の冒頭でも引いた“究極のロードムービー”という表現がヴェンダース自身によるものだということは既に書いた。恥ずかしげもなく自作について「究極」形容とは、なんという自信…と思わぬでもないが、『パリ、テキサス』の折に「最後のアメリカ映画」と説明していたことを踏まえれば、少々行き過ぎた惹句使用も初めてのことではない──頷ける。
 しかし、いざ見てみるとそもそも“ロードムービー”ではないことに驚いた。確かに本作の主人公たちは旅をする。しかも大陸を股にかけて忙しなく世界中を動き回る。だが、そこに“ロード”への眼差しは欠如している。冒頭こそ、ソルヴェイグ・ドマルタン演じる女性が独り車を走らせる長い場面が提示されるものの、その後は“移動”描写自体に比重が置かれないのだ。ある地を後にしたかと思えば、長距離移動は編集で省かれ、すぐさま次の土地に到着している。そもそも、移動がロード=陸路ではないことも少なくない。
 よくよく考えてみると、当たり前のように“ロードムービー”と称されている『パリ、テキサス』についても、それが本当に正しい分類なのかは疑問が残る。この映画では、たしかに“移動”が丁寧に描かれるが、旅の目的は明白であり無為な時間は存在しない。手段でこそあれ、目的ではないのだ。もちろんジャンルの定義は適宜柔軟に考えれば良いという向きもあろう。しかし少なくとも狭義の“ロードムービー”では、手段であると同時に目的でもあるという路上の“移動”こそが主題であってほしい。とするならば、つまり製作会社ロード・ムーヴィーズは(狭義の)ロードムービーを1本も作らなかったことになる。
 しかしながら『夢の涯てまでも』の上映時間は、その長さゆえに、“ロードムービー”的な緩慢さをしっかりと感じさせるところが面白い。“移動”は尊重されず、半ば紀行映画のように世界各地を巡るばかりだというのに。
 本作の上映時間の3分の2は、世界規模の壮大な追いかけっこに費やされる。開幕早々、目的もなく各地を転々としていた女性が、なにやら事情があって追われているらしい謎の男と出会い、以後はひたすら彼の逃避行を追跡するのだ。追いついたと思えば騙され逃げられ、また追いついても簡単には信用してはもらえない。まさに文字通り“付かず離れず”、いやむしろ“くっついたり離れたり”を世界各地で反復し、ゆるりゆるりとマイペースにロマンスを深めていく。
 物語が終盤3分の1に差し掛かったあたりで、舞台は“構想”の地オーストラリアに行き着く。物語上は“辿り着いた”地だが、製作の長い道程を知っていると“戻ってきた”ように思える。まるで、作り手の創作過程と作品世界の人物が混然となって、ひとつの『オッデュッセイア』を構成しているかのようだ──やっと帰ってきた。“終盤”とは言えど、少なからず上映時間は残された状態で、唐突に“旅”は終わる。舞台は据え置かれ、“滞在”が始まるのだ。何が起きるかは書かない。しかし、ここで物語はガラリと方向を変えることになるだろう。
 この映画を見終えた時の感覚は、とても不思議なものだった。
 本作のような、長いあいだ鑑賞困難だった作品に光が当たるとき、多くの場合は肯定的評価によって“再発見”が促されることになるし、実際そうしたくなる気持ちはよくわかる──「早すぎた傑作に時代が追いついた」! だが、少なくとも私にとって、本作はそんな誘惑とは無縁だった。『夢の涯てまでも』は、世紀の駄作でもなければ、呪われた傑作でもなかった。さほど古びてはいなかったが、特段新しさを感じもしなかった。足りないとも、満足とも思わなかった。“ロードムービー”ではなかったが、体感だけは不思議と“ロードムービー”に似ていた。“旅”はあったが、“旅の映画”ではなく、むしろ“物語”に従属/奉仕しているようにも感じる一方で、その“物語”も結局のところ世界各地を人物が旅するという形式のために誂えられた土台のようにも感じるのだった。思い浮かぶ限りの対照的二項の中間で、尽くどっちつかずでいる芯のない空洞のような映画といっていい。
 約15年もの歳月をかけて執念で実現させた“渾身”の企画とは思えない、捉えどころのなさ。しかし、だからこそ“いま”見られる意義があるのかもしれない。当時の“失敗作”の烙印から遠く離れて、正しく各々の鑑賞者の中で位置づけ直されること。そしてそれこそが、あまり注目されることのない近年のヴェンダース作品について改めて再考する契機にもなるだろう──本作の後のヴェンダースのフィルモグラフィは、まるで憑き物が落ちたかのようだ。『夢の涯てまでも』の終盤、舞台が固定化されたあとの展開が“内面の旅”と呼べるものだったように、映画の鑑賞体験もまた一種の旅である。映画はいつ見ても変わらぬ存在だが、5時間の旅を終えたあと、きっとあなたの認識は変わっていることだろう。


『夢の涯てまでも』【ディレクターズカット版】
© 1994 ROAD MOVIES GMBH – ARGOS FILMS
© 2015 WIM WENDERS STIFTUNG  – ARGOS FILMS

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この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

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