ザ・シネマメンバーズが、その映画作家のフィルモグラフィにおいて外せない作品群をセレクトする特集、“エッセンシャル”シリーズ。ジム・ジャームッシュ、ウォン・カーウァイ、アッバス・キアロスタミに続く第4弾は、ハル・ハートリー。
エッセンシャル:ハル・ハートリー
出典: YouTube
ハル・ハートリーは、90年代にジム・ジャームッシュの系譜、ニューヨーク・インディーズの次世代的な存在としての登場感があったように記憶しているが、即興的、ドキュメンタリー的な作り方ではなく、舞台っぽいというのだろうか、ちゃんと稽古をしてから撮影しているような印象を作品からは受けた。加えて物語においては、古典的な要素が散りばめられており、これが彼の作品の個性となっているように思う。
チェーホフの銃
「物語の序盤で出てきた銃は、どこかで発砲される。」「伏線として回収されないような“気になる小物”は、登場させてはいけない。」という、劇作家アントン・チェーホフが様々な形で言及したことで有名な手法だ。ハル・ハートリー作品においては、この“チェーホフの銃”の要素が数多く使われている。『トラスト・ミー』での手榴弾を筆頭に、『FLIRT/フラート』や他の作品でも登場するピストル、本やナイフなどがそうだ。それ以外でも小物だけに限らず、物語の序盤で見えている要素は、後半で再び意味を持ってストーリーに働きかけてくることになる。妊娠、強盗、脱獄、親子関係などなど―。
そもそも映画というものはフィクションであるわけだし、そういった“チェーホフの銃”のような“演出”が基本としてはある。それは映画が、本当にそこで起きているわけではないことをカメラの前で起こし、それを撮影しているからなのだけれども、ハル・ハートリーはそのことをかなり意識しているのではないか。それは、彼の映画制作プロダクションの名前が「True Fiction Pictures」であることからも窺い知れる。
ハル・ハートリーの映画の中でクローズアップされた小物や登場人物の素性は、必ず物語で使われることになる。この“チェーホフの銃“を頭の片隅に置いておくと、ハル・ハートリーの作品群をより楽しめることだろう。
実はステレオタイプ???
『トラスト・ミー』は、一言でいえば、風変わりなおとぎ話だ。ボーイ・ミーツ・ガールのひっくり返しとも言えるかもしれない。水色のワンピースを着て、母親にこき使われるマリアは、シンデレラのようだ(だいぶオルタナティブだけれども)。自分の信条を曲げてでも恋人との暮らしを支えるために働く男。その現実的な選択を退屈な人と評してしまう恋人。親との確執、そこにある親離れ・子離れのテーマ。平凡な暮らしにうんざりしながらもそれを受け流していた二人が出会うことで変わるという話、テレビ嫌い、“マリア”という名前のシングルマザーなどなど、オルタナティブに見えるけれども実はよく使われてきた、ある意味ステレオタイプともいえる要素が、ストーリーにふんだんに盛り込まれている。さらに言えば、大勢の人が遠巻きに見守る中で、ヒロインが男を見送るという演出などは、ハリウッド的ですらある。
こうした、「実はそれって昔からよくある典型的なヤツだよね?」という要素や展開軸を、田舎町で、そこはかとない不満を抱えながらも平凡な日常を送る人々の物語の中に、一風変わった形で組み合わせて取り入れていることにハル・ハートリーの独自の魅力があるのではないか。まるで、歌も演奏もヘタクソだけど、ポップで愛さずにはいられないメロディーを奏でるバンドのような、そんな雰囲気が特に初期の作品にはある。
流れ者の物語
ソニック・ユースの曲でゴダールの『はなればなれに』を彷彿とさせる男女3人が並んで踊るシーンで有名な『シンプルメン』には、父親捜しという軸に、強盗、裏切り、逃走、恋という要素が盛り込まれる。お尋ね者が街にやってきて恋をし、去っていくという西部劇のような物語が現代のアメリカの田舎町で“素朴に”繰り広げられる。中間地点で停滞する様子を描きながらも、最後、去っていくのかどうか―。警官の一言は表面的な意味だけではないと感じるラストは、何度でもまた観たくなるカットだ。
『FLIRT/フラート』という、同じシークエンスを3つの都市で別々の俳優陣によって演じさせ構成する、かなり異質な作品を経て、ハル・ハートリーは年月を空けながらも『ヘンリー・フール』、『フェイ・グリム』、『ネッド・ライフル』という3部作を撮る。最初からトリロジーにするつもりだったのかどうかは定かではないが、この“ヘンリー・フール・トリロジー”においても、冒頭で「どこから来た?」「どこからでもない。俺に名前を付けるなら、“流れ者”さ」というやりとりがある通り、流れ者の物語が軸となって始まる。
「そうであろうとする者」と「そうである者」
なにかに不満を持ちながら、なんとなく折り合いをつけて生活している人たち。そこへ流れ者:ヘンリーが現れ、周囲に影響を及ぼしていく。お尋ね者が街にやってきて恋をし、去っていくというモチーフはここでも用いられるが、ハル・ハートリーのスパイスがふんだんに効いている。言いたいことをうまく話せない青年サイモンは、ヘンリーの勧めで詩を書き、そのセンセーショナルな内容が社会で賛否両論を巻き起こし、大作を執筆中のヘンリーを軽々と追い越してしまう。アウトローとしての武勇伝や骨太な生き方を自ら語るヘンリーだが、犯罪歴や本当の過去が徐々にあきらかになっていくにつれ、周囲を変えるきっかけにはなれるのに自らの才能は本物ではないという姿が見えてくる。妊娠、結婚、平凡な暮らし―。「詩人であろうとする者」は、「詩人」とは決定的に違うのだという悲哀のようなものが映し出される。そして、ヘンリーの決断によって選択されたラストシーンは、どこかレオス・カラックスの『汚れた血』を彷彿とさせるものだった。
オルタナ系大河ドラマ
そんな小さな町の小さな世界を変えた悲しきアウトローのように見えていたヘンリーは、実は「かわいそうな奴」なんかじゃなかった!というのが、続く『フェイ・グリム』、『ネッド・ライフル』の物語。『ヘンリー・フール』で、あきらかにされたように見えていたヘンリーの本当の過去は本当などではなく、様々なことが壮大なフリとして効いており、ヘンリーの永遠に未完成の駄作であったはずの著作『告白』は、強力なプロット・ガジェットとして物語に取り込まれる。
ヘンリーの過去から連綿と続く物語が妻フェイへと、そして息子ネッドへとリレーされていく家族の物語―。まさに大河ドラマと言える“ヘンリー・フール・トリロジー”は、偏執的なまでに複数のプロットが交差してつながり続け、あらゆるものが伏線だったことが判り、それが回収されていく。映画というより、ドラマのミニシリーズを観ているような気分になる異色のトリロジーだ。
だからもしかしたら、この3部作には映画的な興奮のようなものが感じられないかもしれない。それは何故なのか、うまく説明できないのだが要因はある。それは、空がほとんど映り込まない、風景を排除するかのような画面作りに代表される、ハル・ハートリーの、物語に対する向き合い方だ。目の前の光景に対してカメラが近く、人が映っている面積が多すぎる。もちろん表情のアップをしっかり撮ることなどは普通のことかもしれない。そうだとした上であえて言うなら、ハル・ハートリーがこの3部作において、その画面のなかで映し出しているのは、“筋書きのためだけに奉仕する会話とアクション”であり、“描写”ではないからなのだと思う。
そんな、「なぜこれが映画のように見えないのか?」、「映画とは何か?」について、考え始めてしまいそうになるハル・ハートリーの作品群、ご自身の目で確かめて、そして感想をシェアしていただければと思う。