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PROGRAM/放送作品
復讐の記憶
60年越しの復讐を誓った老人が突き止めた真実は?本格サスペンス『手紙は憶えている』を韓国でリメイク
2015年のアトム・エゴヤン監督作『手紙は憶えている』を、韓国に舞台を置き換えリメイク。日本統治時代に家族を殺された老人の復讐計画を、旅に同行する青年との軽妙なやり取りを交えてスリリングに描き出す。
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COLUMN/コラム2023.03.01
『ゴースト/ニューヨークの幻』を名作にした奇跡のコラボと、日本での歪な愛され方
最も美しい瞬間、眩しいほどの輝きを放っているタイミングを、スクリーンに映し出すことが出来たら、その俳優は幸せだと思う。その上で、その作品がいつまでも人々の間で語り続けられるようなものになったら、まさに役者冥利に尽きるだろう。 本作『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990)のヒロインを演じた、デミ・ムーア。彼女にとってこの作品は、正にそんな位置にあるのではないか? 1962年生まれのデミは、『セント・エルモス・ファイア』(85)出演を機に、80年代ハリウッドの青春映画に出演した若手俳優の一団、いわゆる“ブラット・パック”の1人として、注目を集めるようになった。 プライベートでは、『セント…』の共演者エミリオ・エステベスとの婚約破棄を経て、87年にブルース・ウィリスと結婚。翌年には一子をもうけた。 本作の撮影が行われたのは、89年の夏から秋に掛けて。デミが27歳になる前後であるが、私生活の充実も反映してか、最高にキュートに映える。今や40年以上に及ぶ彼女のキャリアを振り返っても、「一生の1本」と言えるだろう。 こうした“タイミング”のデミを得たことも含めて、『ゴースト/ニューヨークの幻』には、「奇跡的」とも言っても良い、幾つかのマッチングが作用。アメリカ映画史、恋愛映画史で語り続けられる作品となったのである。 ***** 舞台はニューヨーク。銀行員のサム(演:パトリック・スウェイジ)と、新進の陶芸家モリー(演:デミ・ムーア)は、同棲を始める。 サムの同僚カールの手伝いで、引っ越しを終え、幸せいっぱいの2人。「愛してる」という言葉に、「同じく」としか返さないサムに、モリーはちょっとした不満を抱くが…。 そんなある日サムは、口座の金の流れに不審な点を見付ける。カールの手助けを断わり、サムはひとりで洗い出しを進める…。 観劇に出掛けたサムとモリー。その帰路で、「結婚したい」とモリーが告げた時に、暴漢が2人に襲いかかる。モリーを守ろうと、サムは抵抗。一発の銃声が響く。 逃げていく暴漢を追うのを諦め、振り返ったサムが目の当たりにしたのは、血まみれになった自分を抱きかかえ、「死なないで」と叫ぶモリーの姿だった。 幽霊になったサム。悲嘆に暮れるモリーには彼の姿は見えず、声も届かない。カールの慰めで、モリーが気晴らしの外出をした際、幽霊のサムしか居ない部屋に、彼を襲った暴漢が忍び込み、家捜しを始める。 怒り狂うサムが、暴漢に殴りかかっても、拳は空を切るばかり。しかし何とか、目的のものが見付からなかったらしい暴漢の後を追って、その居場所を突き止めた。 その近所で、“霊能力者”の看板を見付けたサムは、思わず吸い込まれる。そこの主オダ・メイ(演:ウーピー・ゴールドバーグ)は、インチキ霊媒師。霊の声が聞こえるフリをして、客から金を巻き上げていた。 そんな彼女だったが、なぜかサムの声は本当に聞こえた。嫌がるオダ・メイを脅しながらも、何とか説き伏せ、モリーに危機を伝えるように、協力してもらうことになる。 死して尚モリーを想うサムの気持ちは、彼女に伝わるのか?そして、サムを死に追いやった者の正体とは? ***** パトリック・スウェイジは、87年の全米大ヒット作『ダーティ・ダンシング』で人気を博して以来、主演スターの地位を固めつつあった頃に、本作に主演。タイトルロールである“ゴースト”として、深い悲しみを抱えた、ロマンティックな役どころもイケることを、知らしめた。 “インチキ霊媒”だったのに突如本物の霊能力に目覚めてしまった、オダ・メイ役のウーピー・ゴールドバーグは、稀代のコメディエンヌの実力を発揮。大いに笑わせながらも、幽霊のサムとモリーの“再会”に力を貸すシーンでは、観客の涙を絞るきっかけを作る。彼女にこの年度のアカデミー賞助演女優賞が贈られたのは、至極納得である。 デミ・ムーアを含めた、こうした演じ手たちのアンサンブルも素晴らしかったが、本作に於いて最高の“化学反応”を起こしたのは、脚本家と監督の組み合わせ。脚本家は、ブルース・ジョエル・ルービン、そして監督は、ジェリー・ザッカーである。 ルービンは本作脚本の執筆について、こんなことを語っている。「ある人が自分の感情や感覚が現世から霊の世界へ、つまり新しい別の世界へと移動できることを知り、なんとかそれを脚本の中に活かそうとアイディアをしぼった」 つまりルービンの“死後の世界”への想いは、ガチなのである。彼のフィルモグラフィーを鑑みれば、本作以前に手掛けた『ブレインストーム』(83)『デッドリー・フレンド』(86)から、本作以降の『ジェイコブス・ラダー』(90)『幸せの向う側』(91)『マイ・ライフ』(93)まで、ズラッと“死”にまつわる物語が並ぶ。 そんな「死に取り憑かれた」ルービンの脚本を映画化するに当たって、プロデューサーが起用した監督が、ジェリー・ザッカーだった。その名を聞いたルービンは、驚きと困惑、そして落胆を隠せなかったと言われる。 ザッカーはそれまで、ハリウッドでは「ZAZ(ザッズ)」の一員として知られていた。「ZAZ」とは、兄のデヴィッド・ザッカー、友人のジム・エイブラハムス、そしてジェリーの3人の名字の頭文字を並べての呼称。彼らのチームが作ってきた作品と言えば、『ケンタッキー・フライド・ムービー』(77)『フライング・ハイ』(80)『トップシークレット』(84)『殺したい女』(86)『裸の銃を持つ男』(88)と、コメディばかり。それもそのほとんどがおバカ満載、全編に渡ってパロディギャグを釣瓶打ちする内容の作品だった。 自分の渾身の脚本が、一体どうされてしまうのか?ルービンが不安に襲われたのも、無理はない。しかしこのコラボが、映画を大成功へと導く。 本作は開巻間もなくは、若い男女のラブロマンスが展開する。ところがサムが殺されて幽霊になってからは、サスペンスの色を帯びる。更にその先には、コメディリリーフのようにオダ・メイが登場。ところどころ笑いを交えながらの展開となる。クライマックスに近づくに従って、再びサスペンスの色が濃くなるが、大団円は、純愛ラブストーリーとして昇華する。 こうしたジャンルの横断は、ジェリー・ザッカーが、それまでに培ってきたテクニックを、大いに生かしたものと考えられる。とにかく観客を笑わそうと、シーン毎にギャグを詰め込むのが、「ZAZ」の作風。ザッカーはこの手法を応用し、ルービンの脚本の展開を、一つのジャンルに捉われることなく、ブラッシュアップしていったわけである。 もしも、“シリアス系”の監督が起用されていたら?恐らく本作は、もっと陰々滅々とした、ダークなタッチの作品になっていたであろう。 実はデミ・ムーアが演じるモリーは、当初は彫刻家という設定であった。それを陶芸家へと変えたのも、ザッカーのアイディア。この変更はどう考えても、ストーリー上の必然性とかではない。ずばり、サムとモリーのラブシーンを、効果的に演出するためだったのだろう。 同棲を始めたばかり。眠れない夜に、モリーがろくろを回していると、それに気付いたサムが、上半身裸のまま彼女の後ろに座る。バックに哀切な響きの、ライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディー」が流れる中で、2人は手を重ねながらろくろの上の粘土を触っているが、やがて………。 実に、情熱的且つロマンティック。映画関連の雑誌やサイトなどが選ぶ、「映画史に残るキスシーン」で、『地上より永遠に』(53)や『タイタニック』(97)などと共に、度々上位に選ばれているのも、むべなるかな(本作の翌年、ジェリーが脚本で参加している「ZAZ」作品、『裸の銃を持つ男 PART2 1/2』で、早々にこのシーンのパロディをやっているのには、「さすが!」という他なかったが…) 何はともかく、ある意味正反対の資質を持つ脚本家と監督が組んだことによって、奇跡のバランスが生まれ、そこに“旬”のキャストが加わった。こうして本作は、語り継がれる“名作”となったのである。 『ゴースト』は興行的にも、映画史上に残る“スリーパー・ヒット”=予想外の大ヒットとなった。アメリカ公開は、1990年の7月13日。実はこの7月の興行は、本作に先んじて4日に公開されたアクション大作、『ダイ・ハード2』が暫し独走するものと思われていた。ところが『ゴースト』は、公開初週で『ダイ・ハード2』を上回る成績を上げ、TOPに躍り出たのだ。 ブルース・ウィリスの代表的な人気シリーズ第2弾を、その妻であるデミ・ムーアの主演作が抜き去った形である。トータルで見れば、『ダイ・ハード2』も、北米での総興収が1億1,700万㌦、全世界では2億4,000万㌦と、当時としては十分“メガヒット”と言って差し支えない成績だった。しかしながら『ゴースト』は軽くこれを上回り、北米だけで2億1,700万㌦、全世界では5億㌦以上を売り上げたのである。『ダイ・ハード2』の製作費は7,000万㌦だったのに対して、『ゴースト』はその3分の1以下の、2,200万㌦。2011年4月にアメリカの経済ニュース専門局「CNBC」が発表した「利益率の高い映画トップ15」では、堂々の第10位にランクイン!製作費に対するその利益率は、何と1,146%というものだった。 『ゴースト』は、日本でも大ヒットした。配給収入は、37億5,000万円。細かいことは抜きに、これは興行収入ベースだと、60~70億円に達す。 本邦でも、いかに愛される作品となったか、その証左として挙げられるのが、本作の設定をパクった恋愛ドラマが、数多く製作されたこと。例えばフジテレビの「月9」枠で92年に放送された、「君のためにできること」。吉田栄作演じる主人公が自動車事故で死ぬが、自分を轢いた加害者の身体を借りて、恋人の石田ゆり子の前に現れる。ちょっと『天国から来たチャンピオン』(78)風味も入っているが、紛れもなく、本作のエピゴーネンであった。 本作から30年以上経った現在も、こうした流れはまだまだ残っている。今年1月から放送されている、井上真央と佐藤健主演のTBSドラマ「100万回 言えばよかった」。スタート早々からSNSなどで、「これ『ゴースト』じゃん」などと、突っ込みが入りまくっている。『ゴースト』は“ミュージカル化”されて、2011年からロンドン、12年にはブロードウェイでも上演された。実は日本ではそれに先駆けて、2002年に「世界初」の『ゴースト』舞台化が行われている。主演は宝塚出身の愛華みれと沢村一樹。こちらはミュージカルではなく、ストレートプレイであった。『ゴースト』関連で、今年に入って伝わってきたのが、現在チャニング・テイタムが、自らの主演で本作のリメイク企画を進めているとのニュース。それを聞いて思い出したが、実はリメイクも、日本が先行して行っていたという事実だった。 もう覚えている方も少ないと思うが、2010年11月に公開された『ゴースト もういちど抱きしめたい』が、その作品。 こちらは松嶋菜々子と、ソン・スンホンが主演。オリジナルとは男女の役割を逆転し、松嶋が女性実業家で、韓国人の陶芸家スンホンと恋に落ちるも、事件に巻き込まれて命を落としてしまう…。 そんな設定でわかる通り、ろくろを2人で回すラブシーンも、もちろん再現されている。詳細は省くが、色々と無理のある展開からこのシーンになだれ込むのだが、バックには何と、「アンチェインド・メロディー」が…。そしてそのヴォーカルは、…平井堅。マスコミ試写では、“失笑”が起こった。 この日本版リメイク、興収9億円という記録が残っているので、観客はそこそこ集まったわけである。しかしオリジナルと違って、現在ではわざわざ、口の端に上げる者も居まい。 チャニング・テイタムはリメイクに臨むに当たって、わざわざ“陶芸レッスン”を受けながら、雑誌のインタビューに応じたという。ということはやはり、「映画史に残るラブシーン」の再現に。敢えて挑戦することになるのだろうか? テイタムが鑑賞しているとは思えないが、日本版リメイクを「他山の石」として、くれぐれも同じ失敗を繰り返さないことを、願ってやまない。■ 『ゴースト/ニューヨークの幻』™ & Copyright © 2023 Paramount Pictures. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)バイオハザード:ザ・ファイナル
[PG12]女戦士アリスの長く過酷な戦いがついに完結!すべての謎が明かされる人気シリーズ最終章
大ヒットゲームの映画化シリーズ第6弾で完結編。シリーズの始まりの地であるハイブに舞台を移し、アリスの壮絶な死闘を描くとともに、彼女の出生の秘密など衝撃の事実を描く。日本からローラが女戦士役で出演。
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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED
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PROGRAM/放送作品
(吹)新Mr.BOO!アヒルの警備保障
止まらないギャグの連射に捧腹絶倒!ホイ三兄弟のユーモアがパワーアップした『新Mr.BOO!』第1弾
『Mr.BOO!』シリーズ通算4作目で、日本では『新Mr.BOO!』第1弾として公開。警備会社を舞台にハチャメチャギャグを連発するアップテンポな展開から、香港で“ダック・ムービー”と名付けられた。
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COLUMN/コラム2022.06.30
2001年のチャ・テヒャンとチョン・ジヒョンだからこその、傑作ラブコメディ!『猟奇的な彼女』
インターネットが普及した、1990年代後半。韓国は積極的にIT政策を推進したこともあって、「ネット先進国」と謳われるようになる。本作『猟奇的な彼女』の原作は、まさにそんなムーブメントの中で生まれた、ネット小説だった。 1999年8月、あるパソコン通信の掲示板に、小説「猟奇的な彼女」の連載がスタートした。主人公は、徴兵から戻ったばかりの男子大学生キョヌ、そして具体的な名前は最後まで語られない、“彼女”。 見目は麗しい“彼女”だが、泥酔して地下鉄内で吐いたり、「ぶっ殺されたい?」などと汚い言葉で罵っては、やたらと殴りつけてくる。そんな“彼女”に出会ってからのキョヌの怒濤の日々が、一人称で語られる。 原作者のキム・ホシクが、実体験をベースに書いたというこの小説は、絵文字などを駆使した“インターネット体”とでも言うべき文体で、ユーモラスに綴られていく。タイトルにある「猟奇」という言葉は、日本語を解する者ならば、“猟奇殺人”などのおどろおどろしいイメージを抱く場合がほとんどだろう。韓国の辞書にもその語意は、「奇怪なことや物に興味を持って楽しみ訪ね歩くこと。奇怪な、異様な、気味の悪い」などと解説されていた。 原作者はそんな「猟奇」という言葉を、辞書で引くこともなく、正確な意味も知らないままに、使った。「…ちょっと変わった、常識を外れたという意味で、人間が表現しにくいもの、人間の中の奥深くにあるものを、自然に表現するというような…」意図で。 このネット小説は当時の若者たちに受け、すぐに爆発的な話題となった。翌2000年には単行本化し、“前半戦”“後半戦”に分けられた上下2巻は、韓国内で10万部以上というベストセラーに。その際にはこの小説が、長く「男尊女卑」の傾向が強かった韓国社会の、新しい潮流を表わしているとの分析が、広く見られたという そして出版の翌年=2001年には、映画化に至る。 ***** 大学生のキョヌはある晩、地下鉄でベロベロに酔った“彼女”と出会った。“彼女”はぶっ倒れる際に、目の前に居たキョヌに、「ダーリン」と呼びかける。そのため周囲の視線もあって、放っておけなくなったキョヌは、仕方なく“彼女”をおぶって近場のラブホテルへ。そこで“彼女”を介抱するも、誘拐と勘違いされ、留置所で一晩過ごすことになる。 その夜の記憶がない“彼女”に呼び出され、釈明するハメになったキョヌは、どこまでもワイルドな態度の“彼女”に圧倒される。しかし酒が入った途端、「きのう好きな人と別れたの」と、“彼女”は泣き出し、またも気絶。そのため同じラブホで、再び介抱することとなる。 その日以来、“彼女”の勝手な都合で呼び出されては、振り回される日々を送ることとなったキョヌ。罵詈雑言や暴力に辟易としながらも、次第に“彼女”に惹かれていく。 “彼女”の誕生日、キョヌは夜の遊園地でサプライズを仕組むが、そこで脱走兵と遭遇。銃を突きつけられ、2人は人質になってしまう。しかし“彼女”の真心の籠もった説得に、脱走兵は投降。2人は救われる。 翻弄されっ放しのキョヌに対して、曖昧な態度をとり続ける“彼女”。ある夜、親に強制的にセッティングされた見合いの席に、キョヌを呼び出す。そこでキョヌが見せた真心に、“彼女”も大きく心を動かされる。 同時に“彼女”は、キョヌと出会って以来、隠してきた“秘密”のため、悩み苦しむ。 お互いへの想いを籠めた手紙をタイムカプセルに入れて、キョヌと“彼女”は、別れることに。2年後の再会を誓って…。 ***** 本作の脚本と監督を担当したのは、クァク・ジェヨン。独立したエピソードが羅列されるような形で構成されていた原作を脚色し、演出するに当たって、キョヌと“彼女”の感情の流れ、即ち2人の気持ちが段々と変化していく様を、どのように見せるかに腐心したという。 完成した本作『猟奇的な彼女』は、500万人以上を動員。当時としては、韓国の歴代4位、ラブストーリー映画の歴代№1ヒットとなった。 ベストセラーに次ぐ、映画の大ヒットで、「猟奇」という言葉は、流行語に。本来の「奇怪な、異様な、気味の悪い」といった意味から転じて、「ちょっと変わってイケている、突拍子もない」といった、前向きな意味合いで使われるようになったのである。 成功の要因としてまず挙げられるのは、キャスティングであろう。キョヌ役のチャ・テヒャン、“彼女”役のチョン・ジヒョンの2人が、これ以上にないハマり役だった。 1976年生まれ、映画公開時は25才だったチャ・テヒャンは、放送局のオーディションで芸能界入り。ドラマやバラエティで活躍し、その親しみやすいキャラで売れっ子になった。本作は、映画初主演。 1981年生まれのチョン・ジヒョンは、高校1年の時に女性誌のカバーガールとなったのをきっかけに、TVドラマに出演するように。99年にCMやMVでブレイクし、2000年には映画の初主演作『イルマーレ』で、百想芸術大賞の新人賞を受賞している。そして19才の時に、本作に臨んだ。 お人好しのダメ男キョヌ役は、テヒャンにとっては、パブリック・イメージに沿った役どころと言えた。一方でジヒョンは、本作の“彼女”役で、それまでの可憐で清純なイメージを、完全にひっくり返した。 テヒャンとジヒョンは、TVドラマで共演。ゴルフ仲間でもあり、気心が知れた仲だった。以前にロケ現場でジヒョンの「…意外に男性的な性格で、どちらかというと猟奇的」な側面に触れていたというテヒャンは、本作でジヒョンが“彼女”を演じると聞いて、「絶対ウマくいく」と確信したという。 この2人のそれぞれの個性と相性の良さを、存分に引き出したクァク・ジェヨン演出も、賞賛に値するだろう。テヒャンの持ち味を引き出すためには、カメラ2台を回して、間とアドリブを重視した。 ジヒョンが演じた“彼女”という役に関しては、原作をアレンジ。明かせない過去を持ち、心の痛みを持っている女性という設定に変えた。その上でジヒョンには、「強さの中に優雅な部分を持ち、乱暴だけどすごくカワいい」という、二面性のある演技をリクエストしたのである。 すでに40代で、本作が8年振りの監督作品になるジェヨンに対し、テヒョンは当初、そんな監督が「こんなラブストーリーを撮るなんて、大丈夫か?」と思った。しかし実際に撮影に臨むと、作業すればするほど、「持ち味を引き出してくれる」監督だったと、後に賞賛している。 ジェヨンの最大の功績は、ラストの改変。原作では、2人がお互いの手紙を入れたタイムカプセルを木の下に埋めたところで、“前半戦”“後半戦”の2部構成の物語は、終幕となる(これは余談だが、原作者も“彼女”のモデルとなった女性とは別れてしまい、別の女性と結婚している…)。 しかし監督は、「ふたりを再会させてあげたい」と思い、原作にはない、“延長戦”を付け加えた。そして我々は、物語が感動的なラストを迎えた瞬間に、監督がオリジナルの発想で、物語の序盤から伏線を張っていたことを知るのである。 見事なる換骨奪胎!ベストセラーの映画化作品『猟奇的な彼女』は、こうして社会現象まで引き起こす、成功へと導かれた。 さて2001年に製作された本作は、韓国では2017年に、時代劇にアレンジしたTVシリーズが制作されて話題になったが、それ以前に日本やアメリカなど国外で、ドラマや映画としてリメイクする試みが相次いだ。しかし概して、失敗に終わっている。 韓国という風土からの移植がうまく出来ていないのも大きいが、それ以上にチャ・テヒャンが、日本やアメリカには居なかった。ましてや、19歳時のチョン・ジヒョンに匹敵する女優などは…である。 付け加えれば2016年には、チャ・テヒャンのキョヌが再登場する続編『もっと猟奇的な彼女』が製作されている。こちらは冒頭で前作の“彼女”が頭を丸めて仏門に入ってしまい、失意のキョヌの前に、幼き日の初恋の相手が現れて…というお話。チョン・ジヒョンの不在に加えて、本作の続編にする必要性をまったく感じさせないのが、致命的であった。早々に続編としての存在が、「なかったことにされている」印象である。 改めて振り返れば、本作『猟奇的な彼女』は、2001年の韓国という時勢にピタリとハマったストーリーと出演者を得た、奇跡的な作品だったのかも知れない。■ 『猟奇的な彼女』© 2001 Shin Cine Communication Co.,Ltd. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)Mr.BOO!インベーダー作戦
TV局の内幕をブラックユーモア満点に暴露!ホイ三兄弟の爆笑チームプレーが光る『Mr.BOO!』第2弾
大ヒット作『Mr.BOO!』に続いて日本で公開されたシリーズ第2弾。マイケル・ホイが自ら経験した理不尽な契約を基に、TV局の異常な実態を体を張ったドタバタギャグとブラックユーモアを交えて描き出す。
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COLUMN/コラム2022.06.07
ハインリヒ・ハラーの「チベットの七年」は、いかにしてジャン=ジャック・アノーの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』になったか!?
本作『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)の主人公で、ブラピことブラッド・ピットが演じるハインリヒ・ハラーは、実在の人物である。1912年にオーストリアのケルンテルンに生まれ、グラーツ大学で地理学を専攻した。 36年にはスキーヤーとして、オリンピック選手団の一員に。翌年には世界学生選手権の滑降競技で優勝を飾った。 そして38年、アルプスのアイガー北壁の登攀に成功。その功績によって、当時オーストリアを支配していた、ナチス・ドイツのヒマラヤ遠征隊への参加を認められる。映画のストーリーが始まるのは、ここからである。 ***** 1939年秋、オーストリアの登山家ハラーの頭は、ヒマラヤ遠征のことでいっぱいだった。傲慢な性格の彼は、妊娠中の妻のことを顧みず、家庭不和を抱えたまま旅立つ。 ハラーが参加したドイツの遠征隊は、“魔の山”とも呼ばれる高峰ナンガ・パルバットに挑む。しかし雪崩のために、中途で断念せざるを得なくなる。 折しも第2次世界大戦、イギリスがドイツに宣戦布告したタイミング。イギリスの植民地であるインドに居た遠征隊一行は捕らえられ、捕虜収容所へと収容される。幾度となく脱走を図るハラーだったが、失敗が続いた。 そんな彼に、妻から手紙が届く。その封筒には、“離婚届”が同封されていた。 収容から2年経った42年、ハラーは遠征隊の仲間と共に、ようやく脱走に成功した。そこからは単独行を選ぶが、やがて遠征隊の隊長だったアウフシュタイナー(演:デヴィッド・シューリス)と再会。2人は衝突を繰り返しながらも、逃避行の旅を助け合った。 45年、2人は外国人にとっては禁断の地、チベットの聖都ラサに辿り着く。政治階層のツァロン(演:マコ岩松)、大臣秘書のンガワン・ジグメ(演:B・D・ウォン)らが、救いの手を差し伸べてくれた。 持てる知識と技術を提供しながら、素朴なチベットの人々と風土に、心が癒やされていく、ハラー。そんな時チベットの政治・宗教の最高権威者であるダライ・ラマ14世(演:ジャムヤン・ジャムツォ・ワンジュク)が、ハラーの存在に興味を持つ。 ハラーはダライ・ラマに謁見。その日から、まだ10代の少年だったダライ・ラマとの交流が始まる。ハラーは、ダライ・ラマを敬いつつも、故郷のまだ会ったことのない息子への思慕を代替するかのように、彼のことを慈しむのだった。 しかしやがて、毛沢東によって建国された、中華人民共和国の軍靴の音が、チベットの平穏を揺るがしていく…。 ***** 原作はハラー自らが著した、「チベットの七年」。映画は前半、若き野心家だったハラーの冒険行と挫折、そして命懸けの逃亡生活を描く。後半はタイトル通り、「チベットの七年=セブン・イヤーズ・イン・チベット」。チベットで暮らし、若きチベット仏教の法王との間に友情を育て、やがて故郷に帰るまでの物語である。 ジャン=ジャック・アノー監督が、この題材に惹かれた理由は、想像に難くない。フランス人である彼だが、そのデビュー作『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』(76)は、第一次世界大戦時のアフリカが舞台。続いて、『人類創世』(81)で旧石器時代、『薔薇の名前』(86)で14世紀北イタリア、『子熊物語』(88)でロッキー山脈、『愛人/ラマン』(92)で1929年の仏領インドシナ、『愛と勇気の翼』(95)では1930年代のアルゼンチン、『スターリングラード』(00)で独ソ戦、『トゥー・ブラザーズ』は1920年代のカンボジアといったように、そのフィルモグラフィーには1本たりとも、フランス本土を舞台にした作品がないのである。時制が“現代”である作品も、見当たらない。 異境の地、そして今ではない時代に、登場人物が歴史のうねりに翻弄されながらも、運命に抗わんとする姿を、スケール感たっぷりの大作仕立てで描く。アノー作品のこうした特徴を記すと、デヴィッド・リーンがキャリアの後半に手掛けた、大作群に重なるところもある。実際に80年代後半から2000年代前半までは、アノーを語る際には、“巨匠”と冠することも、少なくなかった。 そんなアノーにとって、ハインリヒ・ハラーの、1940年代前後の軌跡は、正に「格好の題材」であったのだ。アノーは本作公開時のインタビューで、次のように語っている。 ~ハインリヒ・ハラーの本に心が惹かれたのは、500ページに及ぶ、7年間の生活の記録が書かれているけれども、彼の心情については触れられていないことだ。…脚本家のベッキーには、実在のハインリヒや映画会社の誰にも束縛されることなく、自由にわれわれの感じたことを表現して欲しいと頼んだ~ 結果としてそれが、ハラーの実像に近づくことに繋がったなどと、アノーは結論づけている。しかしこれはあくまでも「表向き」のことで、額面通りに受け取れない。というのは、「誰にも束縛されることなく、自由に」脚色を行った際に、実在のハラーが“独身”だったのを、本作では、まだ会えぬ我が子に思いを寄せる“父親”に改変してしまっているのである。 原作「チベットの七年」は、第2次世界大戦前後の激動の時代に、秘境の地チベットを訪れた冒険記や日記文学として、主に価値が見出されている。それをアノーと脚本家のベッキー・ジョンストンは、大胆に再構成。わがまま勝手で罪深い若者が、異郷での辛苦と癒やしを経て、自らを再発見。ダライ・ラマとの出会いから救済を得て、やがて実の我が子とも邂逅。新しい人生を歩んでいこうとする物語に、仕立て上げてしまった。 詳細は観て確認していただきたいが、チベットを去るハラーに対し、ダライ・ラマが贈る感動的な言葉も、即ち映画に於ける創作ということになる。 史実を改変することが、どこまで許されるのか?本作で、監督が描かんとする方向に舵を切るため、実在の人物に、架空の妻子を持たせてしまったことなど、賛否は付きまとうであろう。この辺りの是非の判断は、観る方1人1人にお任せする。 いずれにしても「チベットの七年」という題材を生かして、アノーがやりたかったことは、正にコレだったのだ!それが、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画作品である。 本作で、スターと言える出演者は、主演のブラピただ1人。ブラピは、アノーとの最初のミーティングからノリノリで、撮影現場でも文句ひとつなく、時には危険なスタントも、自らやってのけた。 この背景には、彼の前作『デビル』(97)が、トラブル続きだったこともある。共演のハリソン・フォードとの、自尊心の強いスター同士の意地の張り合いや、脚本の相次ぐ変更などによって、撮影が大幅に遅れてしまったのである。 それに対して本作では、製作費の1割以上が自分のギャラとして用意された。共演のデヴィッド・シューリスとも、山登りをはじめ様々なトレーニングを共にしながら、終始良好な関係だったという。 因みに本作のキャストは、プロの俳優と言える者は、ごく一部。ダライ・ラマ役の少年をはじめ、ほとんどが、インドなど世界各地から集められた、演技面では素人のチベット人たちだった。 本作は、チベットを侵略した中国を批判する内容であるため、その支配下となっていたチベットでは、もちろん撮影はできない。そのためロケ地として白羽の矢が立てられたのは、ダライ・ラマ14世が、1959年以来亡命生活を送るインドだった。しかしインド政府は、友好関係にある中国に気を使い、撮影を拒否。 そこで、インドからは地球の裏側に当たる、アルゼンチンにチベットの聖都ラサを再現し、そこでメインの撮影を行うこととなった。多くのチベット人たちは、世界中から南米へと運ばれて、撮影に参加したのである。 その上でアノーは更に、冒険的な試みを行っている。それはスタッフ及びブラピとシューリスのそれぞれ代役を、チベットに潜入させ、自らはアルゼンチンからFAXや電話で指示を出しての極秘撮影。こうして本作中には、かなり多くの部分で、本物のチベットのシーンを収めることに成功した。 中国関連以外にも、本作には政治的な問題が付きまとった。公開が近づいた頃、ドイツのニュース雑誌「シュテルン」が、原作者のハラーがかつてナチスの親衛隊員で、曹長に当たる階級だったことを、写真付きですっぱ抜いたのである。 この件では、ナチスの戦犯追及で有名な「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が調査に乗り出した。その結果、ハラーがドイツによるオーストリア併合を支持し、ヒトラー個人にも好意的な内容の手紙を送っていたことが判明。そのため、ユダヤ系団体から本作の内容に対する批判や、上映ボイコット騒動が沸き起こった。 その一方で、ハラーは一介のスポーツ・インストラクターに過ぎず、ユダヤ人に対する残虐行為に加担した証拠がないことも、明らかになった。これらを受けてハラー本人は、「私の良心は一点の曇りもない」と、コメント。アノーやブラピはこの件に関しては、ただただ沈黙を守る他はなかったが。 ハインリヒ・ハラーは2006年、93歳でこの世を去った。お互いチベットを離れた後も、度々友情を温め合う機会を持ったダライ・ラマは、この時ハラーに、哀悼の言葉を捧げている。 中国によるチベット支配はいまだ強権的に続けられ、弾圧は止む気配がない。そんな中で本作によって、中国側のブラックリストに載った筈のジャン=ジャック・アノーは、2015年に中国に招かれ、『神なるオオカミ』という作品を監督している。 文革期の1967年、内モンゴルの草原を舞台に、下放された北京出身の知識人の青年が主人公であるこの作品は、題材的には確かにアノー向きと言える。しかしチベットに於いて、深刻な人権蹂躙が続く中で、一体どんな事情と心境の変化があって、この作品を引き受けたのだろうか? 心境の変化という点で言えば、アノーの最新作は、今年3月にフランスで公開された、『Notre-Dame brûle』。タイトル通り、2019年4月15日に起こった、パリのノートルダム大聖堂の火災を題材にした作品である。そしてこれがアノーにとっては初めて、“フランス本土”そして“現代”を舞台にした作品となった。 アノーは、“変節”したのか?それとも、70代にして、まだまだ転がる石ということなのか?最新作を含め、2000年代後半以降にアノーが監督した4作品中3作品が、今のところ日本未公開故、判断は保留せざるを得ないが。■ 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』© 1997 Mandalay Entertainment. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)Mr.BOO!ミスター・ブー
アジアで一躍大ブームに!ホイ三兄弟が笑撃の日本デビューを果たした『Mr.BOO!』シリーズ第1弾
マイケル、サミュエル、リッキーのホイ三兄弟が絶妙な爆笑コンビネーションを魅せ、日本では『Mr.BOO!』シリーズ第1弾として大ヒット。ジョーズの顎骨と腸詰めヌンチャクの対決などズッコケギャグが満載。
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COLUMN/コラム2022.03.25
スティーヴ・マックィーン晩年の素顔も投影された遺作『ハンター』
もう40年以上の歳月が、流れてしまった。1980年11月7日…稀代のアクションスター、スティーヴ・マックィーン死去が報じられた際の衝撃を、今の若い映画ファンに伝えるのは、もはや至難の業かも知れない。 家庭環境に恵まれない不良少年だったマックィーンは、折り合いの悪かった継父によって、少年院に送り込まれる。退所後は数々の職を経て、海兵隊に入隊。3年間の軍隊生活を送った。 彼が演劇の勉強を始めたのは、20代になってから。そして30前後からスター街道をひた走り、やがて“キング・オブ・クール”と異名を取る、世界的な人気者となった。 1930年生まれ。思えばクリント・イーストウッドと、同い年である。マックィーンは「拳銃無宿」(58~61)、イーストウッドは「ローハイド」(59~65)という、それぞれTVの西部劇シリーズで世に出て、その後『ブリット』(68)『ダーティハリー』(71)という、それぞれに刑事アクションの歴史を塗り替える、大ヒット作のタイトルロールを演じた。 齢90を超えて未だに監督・主演作をリリースする、イーストウッドの驚くような頑健さ。それを思うと、マックィーンの享年50という短命には、改めてもの悲しい気分に襲われる。 筆者はマックィーンの、それほど熱心なファンだったわけではない。しかし70年代中盤から映画に夢中になった身には、マックィーンは、「絶対的なスター」と言える存在であった。 各民放が毎週ゴールデンタイムに劇場用映画を放送していた、TVの洋画劇場の全盛期。その頃確実に視聴率を取れる“四天王”と言われたのが、アラン・ドロン、ジュリアーノ・ジェンマ、チャールズ・ブロンソン、そしてスティーヴ・マックィーンだった。 マックィーンの他にポール・ニューマンやウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイら大スター競演のパニック映画超大作『タワーリング・インフェルノ』(74=日本公開は翌75年)以来、新作の日本公開が途絶えても(1976年にヘンリック・イプセンの戯曲『民衆の敵』を映画化した作品の製作・主演を務めたが、アメリカ本国でもまともに公開されず、日本では83年までお蔵入りとなった)、TVや名画座で彼と会うことは、困難ではなかった。筆者はまだビルになる前の池袋の文芸坐で、『荒野の七人』(60)『大脱走』(63)という、彼の代表作2本立てを楽しんだ記憶がある。 そんなマックィーン待望の新作が、5年振りに、しかも立て続けに日本公開されたのが、1980年だった。4月に『トム・ホーン』、そして12月に本作『ハンター』。しかし『ハンター』が公開された頃には、マックィーンはもう、この世の人ではなかったのだ…。 ***** 現代社会を生きる“バウンティ・ハンター=賞金稼ぎ”のラルフ・ソーソン、通称“パパ”。彼はロサンゼルスから逃げ出した犯罪者を追って、アメリカ各地へと赴いては逮捕し、ロスに戻って警察に引き渡すのが、主な仕事である。 彼の依頼主は、犯罪者に保釈金を貸し付ける業務を行っている、リッチー。逃亡されて、保釈金がパーになることを防ぐため、ソーソンに依頼を行うのである。 ソーソンの家は、いつも多くの人間が集まっては、ポーカーに勤しんでいる。時には、まったく面識のない者まで。 そんなザワついた家で、ソーソンを優しく迎えてくれるのは、彼よりかなり年下の女性ドティー。小学校の教師である彼女は、現在ソーソンの子どもを妊っている。 粗暴な大男、爆弾魔の兄弟、逃亡中に電車をジャックする凶悪犯、日々そんな者たちと、命を危険に晒しながら渡り合っているソーソンの悩みは深い。こんな自分が、父親になって良いのだろうか? 臨月を迎えて出産目前のドティーとソーソンの関係が、ギクシャクし始める。そんな時に、彼の命を狙う者が現れた。かつてソーソンがムショ送りにした男、ロッコだ。 ある夜、仕事を終えて自宅に戻ったソーソンは、ドティーがロッコに連れ去られたことを知る。その監禁先は、彼女が教壇に立つ小学校。 急ぎ車を飛ばすソーソンは、愛する女性と、生まれてくる我が子を救うことは、できるのか? ***** アメリカでは、西部の開拓時代さながらに、現代でも“賞金稼ぎ”という職業が認めらている。そして本作でマックィーンが演じる、ラルフ“パパ”ソーソンは、実在の“賞金稼ぎ”である。 マックィーンは“ディスレクシア=難読症”で、読書は苦手であったが、76年に出版されたソーソンの伝記は、むさぼるように一気に読み上げたという。そして彼を演じたいという気持ちを、強く持った。「少なくとも50年生まれてくるのが遅かった」と、常々口にしていたというマックィーン。その晩年に生活を共にした、3番目の妻であるバーバラは、彼のソーソンを演じたい気持ちには、「…善悪がはっきりしていた、あまり複雑ではなかった古い時代に戻りたいというロマンチックな考えが影響していたのではないか…」と分析している。 実際のソーソンは、マックィーンよりだいぶ大柄で髭面の巨漢。本作には、セリフもあるバーテンダーの役で登場しているが、バーバラは、ソーソンとマックィーンには、多くの共通点があることを指摘している。曰く、「カリスマ性」「年齢も同じぐらい」「誰からも軽く見られることを許さない」「自分独自のルールで行動する反逆児」等々。 いずれにしてもマックィーンがこの題材に惹かれたのには、彼のキャリアも大いに関係あるだろう。若き日の彼をスターダムに押し上げるきっかけとなったTVシリーズ「拳銃無宿」の主人公ジョッシュ・ランダルは、まさに開拓時代の“賞金稼ぎ”。それから20年が経ち、現代に生きる初老の“賞金稼ぎ”を演じることを決めたわけである。こうしてマックィーンの栄光のキャリアは、奇しくも“賞金稼ぎ”で始まり、“賞金稼ぎ”で幕を下ろすこととなったのだ。 『ハンター』の監督は、当初ピーター・ハイアムズが務める予定だった。ハイアムズは『破壊!』(74)『カプリコン1』(77)『アウトランド』(86)『シカゴ・コネクション/夢みて走れ』(86)など、一級のアクション演出で知られる監督。 ところが稀代のアクションスターであると同時に、稀代のトラブルメーカーとして知られるマックィーンとは、意見がぶつかってしまった。マックィーンは打合せの席で銃をぶっ放し、ハイアムズは脚本のみを残して、敢えなく降板となった。 後を受けたのが、バズ・クーリック。本作は、実際にソーソンが遭遇した事件をベースに、脚色してアクションを加味した構成となっているが、主にTVシリーズやTVムービーの監督として活躍してきたクーリックのアクション演出の腕前は、ハイアムズに遠く及ばない。そのため本作が、激しいアクションシーンを見せ場にしながらも、些か切れ味に欠け、ヌルく見える構成になったのは、否定できない。 時は80年代の頭、間もなくシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーの時代が訪れる直前。60年代から70年代をリードしたアクションスター、マックィーンの遺作が、こんな形になってしまったのは、ある意味象徴的とも言える。 しかし案外、本作はマックィーン本人がそんな作りを望んだのではないかと思わせる部分も、多い。ソーソンは若い女性をパートナーにしながら、古い自動車やおもちゃをこよなく愛するという設定。これは実際のソーソンをベースにしながらも、25歳下のバーバラと暮らし、アンティーク玩具のコレクターであったマックィーンの私生活も投影されている。 そうした意味で本作に於けるソーソンと、そのパートナーであるドティーや周囲の人物とのやり取りを追っていくと、他作品ではあまり見られない、マックィーンの柔和な表情が横溢していることがわかる。こうなると、微温的でヌルく見える構成・演出が、心地よく感じられるようにもなる。 本作の撮影中マックィーンは、ロケ地のシカゴで知り合った、家庭環境に恵まれない10代の少女の保護者になったり、田舎町でのロケでは、農場の夫婦と家族のような交流をしたり。これらの心温まるエピソードは、後年バーバラが明らかにしたことだが、その一方で死の影が、彼の肉体を確実に蝕み始めてもいた。 俳優人生を通して、多くのスタントシーンを自分自身で演じてきたことに、マックィーンは誇りを持っていた。しかし本作撮影に当たっては、「スタントをするには年を取り過ぎたし金を持ち過ぎた…」と、走る高架鉄道のパンタグラフにぶら下がる有名なシーンなどに取り組むのは、スタントマンに譲った。 異変が現れたのは、逃げる犯罪者を走って追いかけるシーンを、マックィーン自らが演じた際。シーン終わりには、ぜいぜいと息を切らして、そのまま立っていられなくなった。撮影後半の数週間は、絶えず咳き込んでいる状態であったという。 79年9月から始まった本作の撮影が一段落した12月、バーバラとの約束通りマックィーンが検査を受けると、右肺に大きな腫瘍が見つかり、致死性の高いがんである“中皮腫”であることがわかった。 翌80年春には、タブロイド紙が彼の余命が僅かであることを、すっぱ抜く。マックィーンは怪しげな民間療法も含めて、がんと戦い続けた。 随時伝えられる彼の病状に、世界中のファンがヤキモキしながら生還を祈った。しかしその願いもむなしく、マックィーンは、末期がんと判明して1年も経たない11月7日に、力尽きてこの世を去ったのである。 人生の最期に彼を慰めたのは、25歳下の若妻バーバラと、晩年に改宗して熱心に信仰した、福音主義教会。彼の遺灰は太平洋へと散骨されたが、バーバラと共に、ニール・アダムス、アリ・マッグロウと、別れた妻2人も列席したという…。■ 『ハンター』TM & Copyright © 2022 by Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.