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PROGRAM/放送作品
(吹)Mr.BOO!ギャンブル大将
ツキに見放されたギャンブラーの運命は?マイケル・ホイを一躍スターに押し上げた『Mr.BOO!』の原点
主演のマイケル・ホイが初めて監督を務め、ドジなギャンブラー2人組の一獲千金騒動をドタバタ満載に魅せて一躍スターに。『Mr.BOO!ミスター・ブー』の前に製作されたが、日本ではシリーズ第3弾として公開。
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COLUMN/コラム2021.12.10
時代ごとにアップデートされる“A STAR IS BORN”の物語。『アリー/スター誕生』
1932年に製作された、ジョージ・キューカー監督の『栄光のハリウッド』を下敷きにして生まれた、“スター誕生=A STAR IS BORN”の物語。 最初の映画化作品は、ウィリアム・A・ウェルマン監督、ジャネット・ゲイナー、フレドリック・マーチ主演の『スタア誕生』(1937)。 続いてはジュディ・ガーランドとジェームズ・メイスン主演で、邦題も同じ『スタア誕生』(54)。こちらは、“オリジナル”である『栄光のハリウッド』のジョージ・キューカーが、メガフォンを取った。 この2作の『スタア誕生』は、舞台が映画界だった。それを音楽界に変えた3度目の映画化が、『スター誕生』(76)。監督はフランク・ピアソン、主演はミュージシャンとしても一流の、バーブラ・ストライサンドとクリス・クリストファーソンだった。 そして4度目となったのが、現代の歌姫レディー・ガガをヒロインに迎え、その相手役と監督を、ブラッドリー・クーパーが務めた、本作『アリー/スター誕生』(2018)である。こちらの舞台もまた、音楽の世界となっている。 ここで、物語の基本的なフォーマットを紹介する。才能がありながら、埋もれている女性アーティストが居る。一方で、TOPスターでありながらも、アルコールに溺れるなどで札付きとなっている、男性アーティストが居る。 偶然の出会いから、男性が女性の才能を見出して、引き上げる役割を果たす。女性がTOPスターの座に就くと同時に、愛し合うようになっていた2人は、ゴールイン!結婚生活をスタートする。 しかし女性が輝かしいスター街道を驀進するのと反比例するかのように、男性のキャリアは、下降の一途を辿る。やがて、女性が最高の栄誉を授与されるステージ(映画界→アカデミー賞/音楽界→グラミー賞)に、泥酔して現れた男性は、最悪の失態を犯してしまう。 アルコールなどへの依存から、何とか立ち直ろうとする男性だが、このままでは最愛の女性の輝かしき未来をも傷つけてしまうことを自覚。遂には、自ら命を絶つ。 悲しみの底に沈む女性だったが、やがて深く愛した男性のためにもと、再びステージに立つ…。 原題は同じ「A STAR IS BORN」4回の映画化に於いて、紹介したような物語の流れは、大きくは変わらない。しかし邦題が時代の移り変わりと共に変遷していったように、1937年、54年、76年、そして2018年と、その時代やキャストに応じてのアレンジが為されている。「37年版」と「54年版」の『スタア誕生』は、先に記した通り、映画界=ハリウッドが舞台。両作共にヒロインの名は、エスター・ブロジェットで、彼女を引き上げる男性スターの名は、ノーマン・メインである。 37年版で初代ヒロインとなったジャネット・ゲイナー(1906~1984)は、清楚で健気な印象と確かな演技力で、1920年代後半から30年代に掛けて絶大な人気を誇った、TOPスター。10代の頃に映画界に入るも、2年間は鳴かず飛ばず。しかし二十歳の時に主演作を得て、それから間もなくアカデミー賞主演女優賞を獲得している。 そんなゲイナーは、田舎からスターを夢見て、ハリウッド入りし、やがて銀幕のヒロインの座を掴むエスターの役には、ぴったりであった。逆に言えばこの作品では、ゲイナーの魅力と演技力とに頼ってしまってか、フレドリック・マーチ(1897~1975)が演じるノーマンが、エスターの俳優としての“才能”を見出すシーンが、存在しない。ただ彼女に惹かれて、情実でハリウッドに導いたようにしか見えないのが、難点と言える。 とはいえ、オープニングとエンディングで、「これこそ映画の夢の物語だ!」と明示する「37年版」は、ハリウッドというステージを舞台にした、寓話とも言える作りとなっている。そんなお固いことは、指摘するだけ野暮なのかも知れない。 2本目の『スタア誕生』=「54年版」も、ハリウッドを舞台にしたエスターとノーマンの物語である。こちらでエスターを演じたのは、ジュディ・ガーランド(1922~69)。 10代の頃に『オズの魔法使い』(39)で、少女スターとして人気を博したジュディだったが、早くから神経症と薬物中毒に悩まされるようになる。20代の頃の彼女は、撮影現場では遅刻やすっぽかしの常習犯として、トラブルメーカーとなっていた。 そのため映画出演も途絶えた彼女にとって、「54年版」は、実に4年振りの映画出演。当時の夫であるシドニー・ラフトがプロデューサーを務め、ジュディにとってはまさにカムバックを賭けた、起死回生の1作だった。 そんな背景もあって「54年版」は、エンターテイナーとしてのジュディの実力が、遺憾なく発揮される仕掛けとなっている。ヒロインのエスターは、全国を巡演するバンドの歌い手。彼女が歌と踊りを披露するステージに、ジェームズ・メイスン(1909~84)が扮する泥酔したノーマンが乱入するのが、2人の出会いとなる。 これがきっかけで、やがてノーマンは、エスターの歌声に触れることになる。「37年版」と違って、ノーマンがエスターの才能を発見する描写が、きちんとされているのだ。 やがてスターダムにのし上がった彼女が主演するミュージカル映画のシーンが、本編のストーリーと直接関係ないにも拘わらず、ふんだんに盛り込まれる。そんなこともあって、「37年版」が2時間足らずの上映時間だったのに対して、「54年版」の現行観られるバージョンは、3時間近い長尺となっている。 さて「37年版」「54年版」共に、ラストは有名な、エスターのスピーチ。亡き夫に最大限の哀悼を示す言葉として、「私はノーマン・メイン夫人です」と名乗ったところで終幕となる。これは長らく、感動的な名ラストと謳われ続けた。 邦題で“スタア”が“スター”へと変わる、「76年版」の『スター誕生』。バーブラ・ストライサンド(1942~ )とクリス・クリストファーソン(1936~ )という、当時人気・実力ともTOPクラスのミュージシャンを擁した“音楽版”としての魅力としては、コンサートなどステージでのパフォーマンスや、主人公2人が楽曲を作り上げていくシーンなどが挙げられる。前2作の“映画版”にはなかった、2人の才能のコラボを堪能できるわけだ。 それに加えて、バーブラという時代のスター、“70年代の顔”が自ら製作総指揮に乗り出し、ヒロインを演じたことによって生じた、改変が散見される。 バーブラの役名は、エスター・ホフマン。「37年版」「54年版」のヒロインから、エスターの名は残しながらも、“ホフマン”というユダヤ系に多い姓に変えている。しかも前作までのエスターが、撮影所の所長や広報マンの意見で、芸名をヴィッキー・レスターに変えられるくだりは、カット。エスターが本名のままで芸能活動を続けていくのは、バーブラ本人の“ユダヤ系アメリカ人”という、アイデンティティへのこだわりであろう。 相手役であるクリストファーソンが演じる、ノーマン・メインならぬジョン・ノーマン・ハワードの取る行動は、まさに70年代のロッカー。酒とドラッグに塗れる日々を送り、バイクでステージに乗り入れて音響装置を大破させるような無茶苦茶をやらかしてしまう。 前2作では、ジャネットとジュディのエスターは、ノーマンのやらかすことを、心配こそすれ、彼に声を荒げるようなマネは、決してしなかった。それに対しバーブラのエスターは、パートナーのジョンの無茶な行動に対し、時には怒りを爆発させ、別れを告げようとさえする。 最も大きな違いは、ラストシーン。ステージに立ったエスターは、「私はノーマン・メイン夫人です」などと名乗らない。そして2人の想い出の曲を熱唱して、〆となる。このラストが、77年の日本公開時には、かなりの論議を呼んだことを、鮮明に憶えている。ジュディの『スタア誕生』を懐かしむ者が多かった頃、バーブラの『スター誕生』を、彼女の自己主張が強く出過ぎと批判したり嫌悪する声は、決して小さくなかったのである。 いま観るとさほどのことはなく、このラストは、続く「2018年版」でも踏襲されている。しかし「76年版」が作られたのは、まだまだそんなことが論議になる、時代だったのである。 そして本作=「2018年版」の『アリー/スター誕生』。前作から実に42年の歳月を経てのリメイクとなる。これほどの間が空いたのは、“ボーイ・ミーツ・ガール”且つ、地位のある男性が年下の女性を引き立てるような古臭い物語が、もはや有効ではないと、見限られたからではなかったのか? しかしそこに、新たな息吹をもたらす者が、現れた。本作の監督であり、ミュージシャンのジャクソン(ジャック)・メインを演じた、ブラッドリー・クーパー(1975~ )である。 2010年代はじめの頃は、クリント・イーストウッド監督がビヨンセとレオナルド・ディカプリオ主演で、『スター誕生』を映画化というニュースが、大々的に流されたこともあった。結局は、『アメリカン・スナイパー』(2014)でイーストウッドの薫陶を受けたクーパーが、その企画を引き継いで、初監督に挑戦することとなった。 ヒロインのアリーに決まったのが、レディー・ガガ(1986~ )。この起用はクーパーの熱望によるものだが、その期待に応えた彼女は、歌唱やパフォーマンスのみならず、本格的な主演は初めてとは思えないほどの、見事な演技を見せる。「76年版」と同じく、“音楽版”として、主人公2人が、楽曲を作り上げていくシーンが見せ場のひとつとなる。演じるのが、プロのミュージシャン同士だった前作と違って、今作のためにブラッドリー・クーパーは、ギターとピアノ、ヴォーカルを猛レッスン。特にヴォイストレーニングには、1日4時間・週5日というペースで、半年間を費やしたという。 そのかいもあって、クーパーがレディー・ガガと共に作り上げたサウンドトラックは、多くの国で第1位を獲得するに至った。主題歌の「シャロウ 〜『アリー/ スター誕生』 愛のうた」は、アカデミー賞で歌曲賞を受賞。グラミー賞ではガガとクーパーは、“最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス”に輝いた。 そんな「2018年版」に於いて、前3作との大きな違いとして挙げられるのが、男性像が実に細やかに描かれていることである。「37年版」「54年版」のノーマン、「76年版」のジョンも、ヒロインに対しては優しい男だったが、「2018年版」のジャックは、彼ら以上に“男性的優位性”や“マッチョイムズ”とは縁遠い。それだけにヒロインに対しては、「対等」の意識を以て、より優しく振舞う。 ジャックが壊れていく背景も、明確に描かれる。まずはアルコール依存症の父に育てられたという、家庭環境。それに加えて“難聴”という、ミュージシャンにとっては致命的な疾患の進行がある。 ジャックはそうした苦悩を抱えている故に、アルコール漬けとなっていくわけだが、それははっきりと、心身を脅かす“病”として描かれている。愛するアリーの支えだけでは、どうにもならないのだ。 クーパー監督によって行われた、こうした男性側の描き方のアップデート。これこそが、古臭い物語と一蹴されかねない“A STAR IS BORN”を、現代に通じる物語に再構築する肝だったとも言える。 因みにヒロインがはっきりと、自分の才能を披露するシーンがあるのは、これまでに書いてきた通り、「54年版」「76年版」「2018年版」の3作。そのヒロインである、ジュディ・ガーランド、バーブラ・ストライサンド、レディー・ガガの3人が、それぞれの時代を代表する“ゲイ・アイコン”として、セクシャル・マイノリティの者たちから、圧倒的な支持を得る存在であったことは、単なる偶然とは思えない。 3人ともいわゆる、見目麗しい美女などではなく、その中身と才能で眩い輝きを放つタイプである。ハリウッドの歴史の中で、“A STAR IS BORN”の物語が永らえてきたのには、その時代ごとにそうしたヒロインを得てきたことも、必要不可欠な要素だったと言えよう。■ 『アリー/スター誕生』© Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
北京原人の逆襲
[PG12相当]タランティーノも絶賛!日本の特撮スタッフも製作に参加した香港版『キングコング』
ショウ・ブラザーズが『キングコング』に触発されて手がけた怪獣映画。監督は『空飛ぶギロチン』のホウ・メンホア。日本から、怪獣造形のレジェンド村瀬継蔵や東宝の特撮スタッフが加わり、迫力満点の映像を魅せる。
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COLUMN/コラム2021.11.10
“ロマコメ女王”2人を生んだ、未だ色褪せないおとなの恋愛映画『恋人たちの予感』
恋愛をテーマにしたコメディ映画“ロマンティック・コメディ”、略して“ロマコメ”。『或る夜の出来事』(1934)『ローマの休日』(53)『アパートの鍵貸します』(60)等々、ハリウッドでは古より、このジャンルから数多くの名作が生み出されている。 1989年に製作された本作『恋人たちの予感』も、そんな系譜に連なる、“ロマコメ”マスターピースの1本。この後90年代を席捲する、2人の“ロマコメ女王”を生み出したという意味でも、記念すべき作品である。 2人の“ロマコメ女王”の1人目は、もちろんメグ・ライアン(1961~ )。『トップガン』(86)『インナースペース』(87)などで若手女優として売り出し中だった折りに、本作の主演で、その人気が決定的なものとなった。 以降、『キスへのプレリュード』(92)『めぐり逢えたら』(93)『フレンチ・キス』(95)『恋におぼれて』(97)『ユー・ガット・メール』(98)『ニューヨークの恋人』(2001)といった、同ジャンルの作品に次々と主演。齢四十に至る頃まで10年強に渡って、キュートな魅力を全開に、“ロマコメの女王”の名を恣にした。 “ロマコメ女王”のもう一人は、本作の脚本を担当したノーラ・エフロン(1941~2012)である。脚本家になる前には、ホワイトハウスのインターン、「ニューヨーク・ポスト」紙の記者、コラムニストなどの多彩な職歴がある彼女だが、実は両親のヘンリー&フィービー・エフロンが、名作『ショウほどすてきな商売はない』(54)などのシナリオをコンビで書いた、有名脚本家夫婦。蛙の子は蛙と言うべきか、転身後には、アリス・アーレンと共同で脚本を書いた社会派の秀作『シルクウッド』(83)が、アカデミー賞の候補になるなど、気鋭の脚本家として注目の存在となった。 本作以降、90年代は監督としても活躍。特にメグ・ライアン主演で、エフロンが脚本・監督を担当した『めぐり逢えたら』『ユー・ガット・メール』は、本作と合わせて、エフロン&メグの“ロマコメ3部作”などと謳われる。 この2人の“女王”の誕生のきっかけを作ったのは、本作のプロデューサーであり、監督のロブ・ライナー(1945~ )。『スタンド・バイ・ミー』(86)『ミザリー』(90)といった、スティーヴン・キング原作の映画化作品などで知られるライナーのフィルモグラフィーを覗くと、本作のような“ロマコメ”の監督の印象は、ほとんどない。 ではなぜ、『恋人たちの予感』を手掛けるに至ったのか?実は本作は、彼の実体験をベースにして作られたものなのである。 ***** 1977年、シカゴ大学を卒業したサリー(演:メグ・ライアン)は、同じく卒業したてで、親友の彼氏であるハリー(演:ビリー・クリスタル)を車に同乗させて、ニューヨークへと移る旅に出る。2人の初対面は、ほぼ「最悪の部類」。18時間もの道中で会話を交わすも、何かにつけて意見が合わない。 しかしその時にハリーがサリーに言った、「男と女はセックスが邪魔をして、友達になれない」という言葉が、その後の人生に大きな影響をもたらすとは、2人とも思ってもみなかった。 5年後ニューヨークの空港で、サリーは付き合い始めたばかりの恋人の男性に見送られて出張先に向かおうとしている時に、偶然ハリーと再会。搭乗する飛行機まで同じだった2人は、5年前と同じように、機内で口論になってしまう。ハリーから近々結婚するという話を聞きながら、サリーはまたも彼と、喧嘩別れのような形となる。 更に5年後。ハリーは妻に浮気されて、やむなく離婚し、サリーも5年前から付き合っていた彼氏と、破局に至った。お互いにそんな傷心の状態にあるタイミングで、3度目の出会いが訪れた。 ようやく友達同士になれて、頻繁にデートするようになる2人だったが、話題になるのは、お互いの恋愛の悩みばかり。時にはロマンティックなムードになりかかることもあったが、“友情”を守るのが第一と、その度にお互いのそうした気持ちは振り払っていた。 そんな付き合いをずっと続けていこうと、ハリーはジェス(演:ブルーノ・カービィ)、サリーはマリー(演:キャリー・フィッシャー)という、お互いの同性の親友を紹介し合って、交際させようとする。しかし目論見は見事に外れて、ジェスとマリーが意気投合。ハリーとサリーは、お互いの親友同士が結婚することになってしまう。 そんな予想外の出来事もありながら、「セックスはしない」ことで、あくまでもお互いの友人関係を守り続けていこうとする2人。しかし遂に、一線を越えてしまう局面が訪れて…。 ***** 監督のロブ・ライナーは、自分のことを“ピーターパン・シンドローム”であると自己分析していた。即ち、彼の心の中にはいつまでも子どもでいたいという気持ちが潜んでいて、己が年をとったことをなかなか受け入れられない…。 12歳の少年が姿かたちだけ大人になってしまう、『ビッグ』(88)という作品がある。当時30代だったトム・ハンクスが演じたこの主人公のモデルとなったのが、実はライナー。そしてこの作品を作ったのは、ライナーの元妻である、女性監督のペニー・マーシャルだった。 ライナーとマーシャルの10年続いた結婚生活は、81年に終わりを告げる。“ピーターパン”である彼にとって、自分の結婚がうまくいかなかったという現実を受け入れるのは、非常に困難なことであった。 そしてそんなタイミングで、本作『恋人たちの予感』の構想が浮かび上がる。「男女の友情は成立するのか?」「そのときセックスはどうなるのか?」といったモチーフが、ライナーの中に湧き出てきたのである。 そうしたアイディアが、具体的に動き出すのは、84年。ノーラ・エフロンがライナーのチームに呼び出され、新しい映画のプロジェクトについて話し合いを持つようになってから。 幾つかの企画が挙がったが、決め手に欠けた。そんな中で、ライナーたち男性陣とエフロンの雑談中に、盛り上がった話題があった。 ライナーたちは、「女性とは絶対に友人関係になれない」と主張。その理由は、「セックスの問題が必ず入り込んで、友情関係の邪魔をする」というものだった。それに対してエフロンは、そんなはずはないと反論。両者の間で応酬が繰り広げられた。 ライナーはこの雑談の内容を受けて、「友情を育む男女の物語」を映画化しようと提案。物語を具体的に編む上で、主人公たちは親友であり続けるために、「決してセックスをしない」のを決め事にした。 その提案にエフロンが乗って、脚本作りがスタート。主人公の男の方に関しては、エフロンはライナーのキャラクターをベースにした。こうして、ひょうきんな半面、陰気で内省的な部分の持ち主でもある“ハリー”が生まれた。 一方で女性の方の“サリー”には、エフロン自身が投影されているところが多い。ライナーによればエフロンは、陽気で楽観的で、ある種の完璧主義者だった。サリーがレストランで、パンやベーコンの焼き方やマヨネーズの添え方などについて細々と注文を付けるのは、完全にエフロン本人の流儀であることを、彼女自身が認めている。 さてこのようにしてシナリオが出来上がり、キャスティングの段階になって、ライナーは必然的に、自分の身近な人間から俳優を選ぶこととなった。彼にとって、自身がモデルとなったハリー役のビリー・クリスタル(1948~ )は、長年の親友。ハリーとサリーが、それぞれのベッドから電話して慰め合うシーンがあるが、あれはライナーとクリスタルが、お互いの離婚後にやっていたことそのままだという。 ハリーの同性の親友ジェスを演じたブルーノ・カービィ(1949~2006)も、そうだ。彼はライナーが離婚で打ちのめされている時に、ジェスがハリーにしたように、優しく接してくれた人物だった。 一方でメグ・ライアンに関しては、それまでにライナーの過去作のオーディションを受けていたことが、きっかけになった。ライナーが“サリー”役に彼女はどうかと思い付き、先に決まっていたクリスタルに会わせたところ、2人の雰囲気がぴったりだったので、ヒロインに決めたという。 サリーの同性の親友マリー役に、キャリー・フィッシャー(1956~2016)を決めたのも、ライナー。こうして主要なキャスティングが、固まった。 因みに映画の冒頭から何組も出てくるのが、長年連れ添った老夫婦のインタビュー。リアルな装いなので、この部分はドキュメンタリーかと思うが、実は違う。エピソードだけを集めて、俳優たちをキャスティングして撮影した。その方が、実話の面白さをより伝えられるという判断だった。 余談はさて置き、このようにして決まった俳優陣、特にハリーとサリー役の2人が、いかに奇跡のような組み合わせであったか! エフロンの脚本、ライナーの演出を大きく広げる役割を果たした。 例えばメグ・ライアンが演じるに当たっての解釈は、「ハリーもサリーも、初めて会った瞬間からお互いに激しい恋心を抱いていたと思う。ただそのことに気づくまで11年もかかってしまっている」というもの。この考えをベースにした役作りが、長年に渡る2人の関係性の変化を描く上で、見事に機能している。 本作で最も有名だと言っても良いのが、ニューヨークのマンハッタンにあるカッツ・デリカテッセンで繰り広げられる「フェイクオーガズム」のシーンである。これは元々、脚本の打合せの際に、「女性の多くは(セックスの際に)オーガズムの“フリ”をした経験があるはず」と、エフロンが語ったことに衝撃を受けたライナーたちが、是非脚本に盛り込んでくれとオーダーしたことから生まれたもの。 しかしエフロンの脚本だと、自分とセックスした女性はすべてオーガズムに達していると自信満々に語るハリーと、それを否定するサリーという、食事中の会話止まりだった。ところが実際に撮影されたのは、店内が満席なのにも拘わらず、堂々とオーガズムでイッテるふりを演じて見せ、女性がセックス中に演技していても、男性には見分けがつかないことを、サリーがハリーに見せつけるというシーンだった。 これはメグ・ライアンが脚本を読んで、サリーが会話の最後に、その“フリ”を実演するようにしたいと提案したのを受けて、アレンジしたものだった。更にはこのシーンのオチとして、隣席の女性が「あの女性と同じものを」と注文する絶妙なギャグが入るが、これはコメディアンであるビリー・クリスタルのアイディア。因みにその女性を演じているのは、ロブ・ライナーの実の母親である。 こんなエピソードからも本作では、脚本の作成段階から撮影現場まで、今で言うジェンダー間のギャップを乗り越えようとする努力が行われていた様が窺える。80年代末という時代を考えれば、かなり先進的な試みだったと言える。そしてそれ故に本作は、「男女が出会って喧嘩して、しかし時の経過と共に離れられない間柄になっていく」という、“ロマコメ”の王道のような、ある意味古くさい構成でありながら、製作から32年経った今でも、色褪せない作品になったのである。 さて先に記した通り、ライナーの実体験を基にスタートした本作。ラストに訪れるハリーとサリーの“結末”も、撮影中にライナーの身に訪れた僥倖によって決まった。 当初ライナーは、離婚によって深く傷ついたハリーが、もう一度結婚してみようという気になるのには、あれだけの時間では無理なのではないかと考えていた。ところがライナー本人が、本作の撮影中に知り合った女性と、再婚することになったのだ。 そこで彼は、自分に出来ることならば、ハリーにも出来ないわけはないという気持ちになった。そして“ラスト”が、今の形に決まったのだという。 エフロンが書いた脚本には、こうした奇跡のような出来事を呼び起こす、魔法のような力があったのかも知れない。■ 『恋人たちの予感』© 1989 CASTLE ROCK ENTERTAINMENT. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
戦場にかける橋
巨匠デヴィッド・リーンが、第二次世界大戦下のビルマを舞台に、戦争の愚かさと人間の尊厳を描いた傑作
巨匠デヴィッド・リーンが、第二次世界大戦を背景に、戦争の愚かさと人間の尊厳を描き、作品賞を含むアカデミー賞7部門を受賞した傑作。武士道に生きる日本軍人を早川雪洲が熱演。
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COLUMN/コラム2021.10.12
エドワード・ズウィック積年の夢の実現と、それに応えて羽ばたいた日本人キャストたち『ラスト サムライ』
エドワード・ズウィックにとって、本作『ラスト サムライ』(2003)の製作は、長年抱いてきた夢だった。 1952年生まれの彼は、17歳の時に黒澤明監督の『七人の侍』(54)を観て、黒澤映画を1本残らず研究しようと決意。それが、フィルムメイカーへの道に繋がった。 ハーヴァード大学に進むと、彼を指導したのは、エドウィン・O・ライシャワー。日本で生まれ育ったライシャワーは、61年から5年間、駐日アメリカ大使を務め、ハーヴァードでは、日本研究所所長の任に就いていた。 その門下で歴史を学ぶようになったズウィックが、特に興味を持ったのが、日本の“明治維新”。ズウィック曰く、「どの文化においても、古代から近代への移行期というのはとりわけ感動的でドラマティックです…」「周りを取り巻く文化全体も混乱を極めている時代に、個人的な変容を経験していく登場人物を観察するということには、感動する何か、我を忘れるほどの魅力があるのです」 ズウィックは、『グローリー』(89)や『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(94)といった監督作、アカデミー賞作品賞を獲った『恋に落ちたシェイクスピア』(98)といったプロデュース作などで評価を得ながら、本作の構想を固めていく。そして『グラディエーター』(00)などの脚本家ジョン・ローガンと組んで、シナリオ執筆を進めた。 出来上がったシナリオを、トム・クルーズに送ると、日本人の“サムライ魂”に関心があったというトムはすぐに気に入り、主演及びプロデューサーとして、本作に参加することが決定。スーパースターを得たことで、本作の製作は、本格的に進められることとなった。 アクションには、ノースタントで挑むことで知られるトム・クルーズが、本作で演じるのは、元アメリカ軍人で日本へと渡るネイサン・オールグレン。二刀流の剣術や格闘術、乗馬をこなす必要があったため、撮影までの約1年間、毎日数時間掛けて厳しいトレーニングを行ったという。 *** 時は1870年代。かつては南北戦争の英雄と讃えられたネイサンだったが、ネイティブ・アメリカン虐殺に加担して受けた心の疵が癒えないまま、酒浸りの日々を送っていた。 そんな彼が、大金を積まれてのオファーを受けて、軍事教官として日本に赴くことに。雇い主は、誕生して日も浅い明治新政府の要人・大村(演;映画監督の原田眞人)だった。 新兵たちの訓練が行き届かない内に、政府への反乱を討伐するための、出動命令が下る。ネイサンの「まだ戦える状態ではない」との主張は退けられ、彼もやむなく同行することとなる。 反乱を率いるのは、明治維新の立役者の一人だった、勝元盛次(演:渡辺謙)。大村らを軸に近代化政策が進められる中で、かつてのサムライたちがないがしろにされていく流れに抗して、野に下っていた。 ネイサンの危惧通り、出動した部隊は、サムライたちの猛攻にひとたまりもなかった。ネイサンは孤軍奮闘するも、瀕死の重傷を負い、囚われの身となる。 山中の農村へと運ばれたネイサンは、勝元の妹たか(演:小雪)の看病を受け、次第に回復。村人たちの素朴な生活に癒され、やがてサムライたちの精神世界に魅せられていく。 剣術の鍛錬を始めたネイサンは、サムライたちのリーダー格である氏尾(演:真田広之)と手合わせを行う。はじめは歯が立たなかったが、遂には引き分けるまでに腕を上げる。 ネイサンは、勝元とも固い絆で結ばれていく。そして、信念に敢えて殉じようとする勝元たちと、最後まで行動を共にすることを決意するのだったが…。 *** ズウィックが影響を受けたことを認めているのが、日本文学研究者のアイヴァン・モリスの著書「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」。この中で取り上げられた、新政府の樹立に加担するも、やがて叛旗を翻す西郷隆盛の物語に強く惹かれたという。 本作に於ける勝元盛次が、不平士族の反乱を起こした、西郷や江藤新平をモデルにしているのは、明らかだ。舞台設定である1877年は、実際に西郷が“西南戦争”を戦い、命を落とした年である。 また敵役となる大村の名は、明治政府で兵制の近代化と日本陸軍の創設に尽力した大村益次郎から取ったものと思われる。但しキャラ設定的には、当時政商として暗躍した岩崎彌太郎と、西郷を失脚に追い込んだ大久保利通を、足して2で割ったようなイメージだが。 さてトム・クルーズ主演作であるが、本作の場合、日本人俳優のキャスティングが肝要だった。その役割を担ったのは、日本では作詞家・演出家としても著名な、奈良橋陽子。日本やアジア圏の俳優をハリウッド映画などに紹介する、キャスティング・ディレクターとしての歩みを、本格化させていった頃の仕事である。 奈良橋はズウィックに、様々な映像資料等を送付して、やり取り。彼が来日するまでにある程度の人数に絞り込んでは、オーディションのセッティングを行った。 日本でのキャスティングは、トムの参加が決まる前、即ち本作製作に正式なGOサインが出る前から、秘かに進められていた。ある時はズウィックの来日に合わせて体育館を借り切り、真田広之をはじめ殺陣ができる俳優たちを集め、ショーを見せたという。 カメラマンも一緒に来日して撮影したというこの殺陣ショーに、監督は大喜びで、「この映画を絶対に撮るんだ」と決意も新たに帰国。トムの主演が決まったのは、それから数か月後のことだった。 その後真田をはじめ、小雪や明治天皇役の中村七之助等々、キャストが次々と決まっていく。そんな中で難航したのが、最も重要な勝元役だった。 実は奈良橋は、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87)をはじめ、時代劇俳優の印象が強い渡辺を、ズウィックに最初に紹介して、京都のホテルでインタビューを受けてもらっている。しかしこの時は渡辺の印象が、なぜか監督の頭に残ることがなかった。 勝元役が決まらない中で、奈良橋はズウィックに、もう1回渡辺と会ってもらえないかと頼み、帝国ホテルのスイートルームでのオーディションをセッティングした。渡辺の英語力はまだそれほどではなかったというが、気負うことなく楽に役を演じたのが良かったか、ズウィックの目はオーディションの最中から輝き、終了して渡辺が部屋を出た瞬間には、「彼こそ勝元だ!」とガッツポーズを取ったという。 そんなズウィックが、クランクインが近づいた頃、新しい役を作ったと奈良橋に連絡してきた。その役名は“サイレント・サムライ”。農村に囚われの身となったネイサンを常に見張り、話しかけられても一切返事をしない、名前を名乗ることもない、“沈黙の侍”である。 奈良橋の著書によると、その時ふと思い浮かんだのが、福本清三だったという。東映の大部屋俳優で、その当時にして40年以上映画やTVドラマに出ては、2万回以上斬られてきたという、「日本一の斬られ役」である。 この辺り、福本にインタビューした書籍によると、彼のファンクラブのメンバーが、『ラスト サムライ』が製作されることを報じたスポーツ紙の記事を読んで、奈良橋に連絡を取り資料を送ったのが、きっかけだったという。福本本人は、そんなこととはつゆ知らず、ある時突然奈良橋から携帯に電話が掛かってきて、吃驚した。 福本は東京に呼ばれ、奈良橋の事務所で、半袖シャツにチノパンという出で立ちで、立ち回りや、彼の十八番である、斬られて海老反りで倒れるところなどを撮影。また“サイレント・サムライ”役ということで、「無表情の演技」も撮った。 そのビデオを監督に見せると、すぐに出演が決まった。東映太秦撮影所で旧知だった真田広之も、福本出演を聞いて、大喜びだったという。 さて『ラスト サムライ』は、日本でクランク・イン。姫路の圓教寺でのロケ後は、京都の知恩院で撮影を行った。 悲しいことに、日本のロケ事情の問題で、後は海外に19世紀の日本を再現しての撮影となる。ロサンゼルスのワーナー・ブラザースがスタジオ近くに持つ野外撮影用地は、普段はニューヨーク通りと言われ、西洋風の建造物が建ち並んでいる。ここを木材やファイバーグラスのタイルなど使って外観を飾り替えることで、文明開化の頃の東京、通称“エド村”を作り上げた。 “エド村”での撮影を終えると、ニュージーランドへ移動。田舎町に10億円を投じて借り切り、キャストやスタッフのための住宅を用意した。その近くの山の中には、畑、家屋、畦道まで精緻な仕上がりの、日本の農村が完成。クライマックスの戦闘シーンも、ニュージーランドでの撮影であるが、そのために日本から500人のエキストラを参加させ、本番のために数カ月間、本物の軍隊と同じ訓練を施した。 ズウィックの本作への思い入れもあってか、時代考証などは内外の専門家の意見を受けて慎重に進められた。ハリウッド映画に度々登場するような「おかしな日本」にならないように、最大限の努力を行っている。 またこの点では、真田広之の尽力も大きい。彼は出番のない日でも、セットを訪れて、衣装、小道具、美術などをチェックし、資料ではわからない着こなしや道具の使い方などのアドバイスを行ったという。 それでも「おかしな」ところは、見受けられる。例えば勝元の村に、暗殺部隊である“忍者”集団が現れたり、戦闘シーンではサムライたちが、明治時代にもなって甲冑を身に纏っていたり…。 この辺りは、監督はじめ主要スタッフも「あり得ない」ことは、理解していた。全世界で公開される“サムライムービー”として、観客のニーズに応えたと言うべきか?或いは黒澤映画の大ファンであるズウィックが、“時代劇”を撮る以上は、絶対やりたかった要素だったのかも知れない。 それから逆に考えて、なぜ日本の観客が「おかしい」と思うのかにも、思いを至らせた方が良い場合もある。当たり前のことだが、明治の日本や侍の時代を、実際に体験したことがある者は既に居ない。我々の基準は、日本のテレビや映画で観た“時代劇”から生まれている可能性が大いにある。 衣装デザイナーのナイラ・ディクソンは、素材の豊富な在り処を日本で見付け、衣装の多くをそこで作った。甲冑なども彼女の担当だったが、ある時に兜のデザインを、渡辺と真田に見せたことがある。すると2人とも、「日本にこんなものはない」という反応。そこで彼女は、分厚い写真集を持ち出して、2人に見せた。それは確かに、日本の兜だったのである。 さてご存知の方が多いと思うが、世界的に大ヒットとなったこの作品で、渡辺謙は見事アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その後は頻繁にハリウッド映画に出演する他、ブロードウェイの舞台「王様と私」に主演し、トニー賞にもノミネートされている。 真田広之もこの作品がきっかけとなって、拠点をロサンゼルスに移し、国際的な活躍を続けている。近作はジョニー・デップ主演の『MINAMATA―ミナマター』(21)だが、この作品でも舞台である1970年代の日本に見えるよう、少し早めに現場に入っては、小道具を選別したり、旗やゼッケンの日本語をチェックして自分で書いたりなどしたという。 さて本稿は、ニュージーランドでのロケ中は、他の侍役の俳優たちを呼んでは、よくカレーを作って振舞っていたという、福本清三の話で〆たい。彼が本作で演じた「サイレント・サムライ」は、先にも記した通り、とにかく無言を通す男。そんな男が、たった一言だけセリフを放つシーンがある。ここは結構な泣かせどころにして、福本の最大の見せ場である。 今年の元旦、77歳で亡くなった「日本一の斬られ役」に哀悼の意を捧げながら、皆さん心して観て下さい。■ 『ラスト サムライ』© Warner Bros. Entertainment Inc.
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PROGRAM/放送作品
(吹)ワイルド・スピード
ストリートカーレースのカリスマと潜入捜査官の友情と対決を描く大ヒットカーアクションシリーズ第1弾
西海岸を舞台に違法なチューンナップを施した日本車によるストリートカーレース“ゼロヨン”の世界と、強盗アクションを組み合わせスマッシュヒット。悪のカリスマを演じたヴィン・ディーゼルは一躍人気スターに。
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COLUMN/コラム2021.10.01
スコセッシ&デ・ニーロ。名コンビが『レイジング・ブル』でなし遂げたこと。
30代中盤を迎えたマーティン・スコセッシは、心身ともに疲弊の極みにいた。『ミーン・ストリート』(1973)『アリスの恋』(74)、そして『タクシー・ドライバー』(76)の輝かしき成功を受けて、意気揚々と取り組んだ『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)が、興行的にも批評的にも、惨憺たる結果に終わってしまったのである。私生活で2番目の妻と離婚に至ったのも、大きなダメージとなった。 どん底から這い出すきっかけとなったのは、78年9月。入院していたスコセッシを、ロバート・デ・ニーロが見舞った時のことだった。「よく聞いてくれ、君と俺とでこれをすばらしい映画にすることができる。やってみる気はないか?」 デ・ニーロが言った「これ」とは、本作『レイジング・ブル』(80)のこと。盟友の誘いにスコセッシも、「やろう」と答えたのだった。 と言っても本作の準備は、その時にスタートしたわけではない。それよりだいぶ以前から、進められていたのである。 本作の原作は、元ボクシング世界チャンピオンで、現役時代に“レイジング・ブル=怒れる牡牛”と仇名された、ジェイク・ラモッタの自伝である。それがデ・ニーロに届いたのは、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影のため、73年にイタリアのシチリア島に滞在していた時。その暴力的なエネルギーとラモッタの特異なキャラクターに惹かれたデ・ニーロは、『アリスの恋』に取り組んでいたスコセッシに、この題材を持ち込んだ。 脚本は、『ミーン・ストリート』『ニューヨーク・ニューヨーク』などで2人と組んだ、マーディク・マーティンに託された。スコセッシが当初は、デ・ニーロほどは本作に乗り気でなかったこともあって、その後しばらくはマーティンに任せっぱなしとなり、何年かが過ぎた。 77年になってから、2人はマーティンの脚本を読んで、不満を覚える。そのため執筆は、『タクシードライバー』のポール・シュレーダーへと引き継がれた。 しかし、シュレーダーが書き上げた脚本には、大きな問題があった。ラモッタの性格が暗すぎる上に、シュレーダー本人が「僕が書いた中で最高の台詞」というそれは、刑務所の独房に入れられたラモッタが、自慰をしながらするモノローグだった…。 この作品に本格的に取り組むことを決めたスコセッシと、それを促したデ・ニーロの2人で、脚本に手を加えることとなった。カリブ海に浮かぶセント・マーティン島に3週間ほど缶詰めになって、シュレーダーの書いた各シーンを再検討。必要ならばセリフを書き加えて、最終稿とした。 撮影に関してのスコセッシの申し入れに、製作するユナイテッド・アーティスツは、目を白黒させた。彼の希望は、「モノクロで撮りたい」というもの。70年代も終わりに近づいたこの時期に、正気の沙汰ではない。 この頃は『ロッキー』(76)の大ヒットに端を発した、ボクシング映画ブームの真っ最中。『ロッキー』シリーズ、『チャンプ』(79)『メーン・イベント』(79)、挙げ句はカンガルーのボクサーが世界チャンピオンと闘う『マチルダ』(78)などという作品まで製作され、続々と公開されていた。 スコセッシの希望は、当然のようにカラー作品である、それらのボクシング映画とは一線を画したいという、強い思いから生じたもの。そして同時に、当時浮上していた、カラーフィルムの褪色という、喫緊の課題に対するアピールの意味もあった。 その頃に撮影の主流を占めていた、イーストマンのカラーフィルムは、プリントは5年、ネガは12年で色がなくなってしまうという、衝撃的な調査結果が出ていた。撮影から上映まで、ほぼすべてがデジタル化した、現在の映画事情からは想像がつかないかも知れないが、映画の作り手にとっては、至極深刻な問題だったのである。「…僕はこれを特別な映画にしたいんだ。それになによりも黒白は時代の雰囲気を映画に与えてくれる」そんなスコセッシの思いは届き、ユナイトはモノクロ撮影に、OKを出した。 一時期は「これが最後の監督作」とまで思っていたスコセッシの元に、79年4月のクランク・インの日、1通の電報が届いた。差出人はシュレーダー。その文面は、“僕は僕の道を行った。ジェイクは彼の道を行った。君は君の道を行け”というものだった。 *** 1964年、ニューヨークに在るシアターの楽屋。1人のコメディアンが、セリフの暗唱を行っている。その男は、42才になるジェイク・ラモッタ(演:ロバート・デ・ニーロ)。でっぷりと肥え太ったその身体には、かつての世界ミドル級チャンピオンの面影はなかった…。 時は遡り、41年。19歳のジェイクは、デビュー以来無敗を誇っていたが、初めての屈辱を味わう。ダウンを7回奪ったにも拘わらず、判定負けを喫したのだ。 妻やセコンドを務める弟のジョーイ(演:ジョー・ペシ)に当たり散らすジェイクだったが、そんな時に市営プールで、15歳の少女ヴィッキー(演:キャシー・モリアーティ)に、一目で心を奪われる。妻がいるにも拘わらず、ジェイクはヴィッキーを口説いて交際を開始。やがて2人は、家庭を持つこととなる。 43年、無敵と謳われたシュガー・レイ・ロビンソンをマットに沈めるも、その後行われたリターンマッチでは、ダウンを奪いながらも判定負けとなったジェイク。これからのことを考えると、それまで手を組むことを拒んできた裏社会の大物トミーを、後ろ盾にする他はなかった。そして、タイトルマッチを組んでもらう見返りに、ジェイクは格下の相手に、八百長で敗れるのだった。 49年、フランスの英雄マルセル・セルダンに挑戦。TKOで、ジェイクは遂に世界チャンピオンのベルトを手に入れた。しかし栄光の座を得ると共に、異常なまでの嫉妬心と猜疑心が昂じて、ジェイクは妻ヴィッキーの浮気を執拗に疑うようになる。そしてあろうことか、公私共にジェイクを支え続けてきた弟ジョーイを妻の相手と思い込み、彼に苛烈な暴力を振るってしまう。 この一件でジョーイから見放され、やがてチャンピオンの座から滑り落ちることになるジェイク。54年には引退し、フロリダでナイトクラブの経営者となるが、ヴィッキーも彼の元を去る。 遂にひとりぼっちになってしまったジェイク。その行く手には、更なる破滅が待ち受けていた…。 *** スコセッシは言う。~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~と。 その原作者であるジェイク・ラモッタは、本作のボクシングシーンの撮影中、デ・ニーロに付きっきりで、喋り方からパンチのコンビネーションまで、自分のすべてを伝授したという。中でも口を酸っぱくして指導したのが、己のファイトスタイル。それは「絶対にホールドするな」というものだった。 本作ではデ・ニーロの共演者として、ジョーイ役のジョー・ペシとヴィッキー役のキャシー・モリアーティが、一躍注目の存在となった。ペシはデ・ニーロと同じ歳だが、それまではほとんど無名の存在。ペシの過去の出演作のビデオをたまたま目にしたデ・ニーロが、スコセッシにも観ることを勧めた。スコセッシも彼の演技に興味を引かれ、会ってみることにしたのである。 ところがその時、ペシは俳優の仕事に疲れ果てて、辞めようと決意したばかり。スコセッシのオファーを、真剣に取り合おうとしなかった。 スコセッシはペシを、何とかなだめすかして、セリフ読みをしてもらうと、その喋り方が非常に気に入ったという。更に即興演技をしてもらうと、やはり素晴らしかったため、ジョーイ役を彼に頼むことに決めた。 ジョー・ペシの起用によって、呼び込まれたのが、キャシー・モリアーティだった。1960年生まれで当時18歳だったキャシーは、高校卒業後にモデルをしながら、女優を目指していた。 ペシはキャシーの近所に住んでおり、彼女がヴィッキー・ラモッタに似ていることに気が付いた。キャシーは、ペシに頼まれて自分の写真を渡し、それをスコセッシが見たことから、本作のスクリーンテストを受けることとなったのである。そして次の日には、合格の電話を受け、見事ヴィッキーの役を射止めたのだった。 役作りに際しては、ジェイク・ラモッタ本人がベッタリ付きだったデ・ニーロとは真逆に、キャシーは自分が演じるヴィッキーと会うことを、スコセッシに禁じられたという。ヴィッキー本人がセットを訪れた際も、キャシーは顔を合わせないように、仕向けられた。演技はほぼ素人で、すべて直感で演じたというキャシーが、ヴィッキーの影響をヘタに受けないようにするための配慮であったと思われる。 さて主演のデ・ニーロ。本作での役作りこそ、彼の真骨頂と言って差し支えなかろう。チャンピオンを演じるために、タイトルマッチに挑むプロボクサー以上のトレーニングを積んだのは、まだ序の口。引退後のでっぷりと太ったラモッタを演じるため、4カ月で25㌔増量という荒技に挑んだ。 フランスやイタリアまで出掛け、お腹が減らなくとも1日3回、高カロリー食を詰め込むという苦行を繰り返す。それによってデ・ニーロは、体重を72.5㌔から97.5㌔まで増やすのに、成功したのである。 役に合わせて、顔かたちや体型まで変化させる。当時はまだそんな言われ方はしてなかったが、本作ではいわゆる“デ・ニーロ・アプローチ”の究極の形が見られる。逆に『レイジング・ブル』があったからこそ、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が生まれ、一般化したとも言える。 では、そんなデ・ニーロが挑むボクシング試合。スコセッシはどんな手法で作り上げたのか? 通常のボクシング映画では、リングの外に数台のカメラを置き、様々なアングルから捉えたものを、編集するというやり方が一般的である。ところが本作撮影のマイケル・チャップマンが回したカメラは、1台だけ。しかもその1台をリングの中に持ち込み、常にボクサーの動きに焦点を合わせた。 この撮影は、スコセッシが描いた絵コンテを、忠実になぞって行われた。それはパンチ1発から、マウスピースが飛んでいくようなところまで、各ショットごとに細かく描き込まれたものだった。 スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持つようにしたかったという。観客自身が、殴られているのは自分だという意識を持続するように。それもあって、試合のシーンでは、絶対に観衆を映さなかった。 サウンドも、リングで戦うジェイクの立場から作ることを決めていた。パンチがどんな風に聞こえるか? 観衆の声は、どんな風に届くのか? ライフルの発射音やメロンの潰れる音などを駆使して、結局ミキシングには、当初予定していた7週間の倍の時間が掛かったという。 本作で初めてスコセッシ作品に参加し、後々彼の作品には欠かせない存在になっていく、編集のセルマ・スクーンメイカー。彼女はこう語っている。「…監督があらかじめとことん考え抜いておかなければ、『レイジング・ブル』のような映画の編集は生まれてこないわ。あの映画を偉大にしているのは背後にある考え方であって、それはもちろん私のでなくてスコセッシのものなのよ」『レイジング・ブル』は、アカデミー賞で8部門にノミネートされ、デ・ニーロに主演男優賞、スクーンメイカーに編集賞が贈られた。この年はロバート・レッドフォードの初監督作『普通の人々』があったため、作品賞や監督賞は逃したものの、スコセッシの見事な復活劇となった。 ~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~ それはこの作品に全力を投じた、スコセッシにも当てはまることだった。■ 『レイジング・ブル』© 1980 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
父親たちの星条旗
[PG12相当]有名な戦争写真の真実とは?クリント・イーストウッド監督の「硫黄島2部作」第1弾
太平洋戦争の激戦“硫黄島の戦い”を、クリント・イーストウッド監督が日米双方の視点から描いた「硫黄島2部作」の第1作。ピューリッツァー賞を受賞した有名な戦争写真の真実を、帰還兵の苦悩と共に解き明かす。
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COLUMN/コラム2021.08.31
ジャームッシュの日本御目見え『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、“事件”だった!
「『ザンパラ』観た?」 1986年、大学2年の春。所属していた大学映研の部室で、合言葉のようになっていた。『ザンパラ』とは、本作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84)の略称。もう35年も前の話だが、現在文芸や映画評論の世界で活躍する諸先輩が、そうした熱をリードしていた記憶がある。 確かに本作は、“事件”だった。今や吉本興業のコヤと化した、有楽町のスバル座で単館公開されるや、社会現象となり、若者たちが話題にする作品となった。 その年の「キネマ旬報」ベストテンを見ても、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』(85)や、『蜘蛛女のキス』(85)を抑えて、“第1位”に。これは批評家など専門家が選んだものだが、読者選出、即ち映画ファンが選んだベストテンでも、ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』(86)やスピルバーグの『カラーパープル』(85)など、拡大公開されたヒット作に続いて、“第4位”にランクインしている。 さて私は『ザンパラ』にどう相対したかと言うと、その年の春は諸々事情があって、ろくに映画館に足を運べない状況。夏が近くなってスバル座での公開が終わり、国電有楽町駅を挟んで反対側の、有楽シネマという、やはり今はなき映画館へとムーブオーバーした頃、ようやく観るタイミングが訪れた。 ところがまさにその時、愛知に住む母方の祖父が重篤との報。急遽その入院先に向ったため、初公開時は遂に見逃してしまった。 結局『ザンパラ』との邂逅は、かなり後年になってから。その時私が思ったのは、『ザンパラ』は、製作時に30代はじめだった監督の、まさに「若さの勝利」だったということ。そしてやっぱり、自分が学生だったあの頃に、「時代の空気」と共に観ることこそ、「最高」だったに違いないと、口惜しい気持ちにもなった。 個人的な想い出は、このぐらいにしよう。『ザンパラ』の、3部構成から成る内容を紹介する。 *** <The New World> ハンガリー出身で、ニューヨークに住んで10年のウィリー。16歳の従妹エヴァが、ブダペストからやって来るのを、10日間ほど預かることになる。 エディという友人と、競馬やバクチで生活を立てているウィリー。エヴァが色々尋ねても、迷惑そうに受け答えする。しかし日が経ち、2人は段々と打ち解けてくる。 そしてエヴァが、クリーブランドに住むおばの元へと、出発する日が来た…。 <One Year Later> 1年後、ウィリーとエディは、いかさまバクチで儲けた金で、旅に出る。行き先は、エヴァの住むクリーブランド。 予告なしに、エヴァが暮らす、ロッテおばさんの家を訪れてから、エヴァの勤めるホットドッグスタンドへと迎えに行く。 エヴァとそのボーイフレンドと一緒にカンフー映画を観たり、ロッテおばさんとトランプをしたり、雪が降る日に何も見えない湖に行ったり。 数日間を過ごした2人は、ニューヨークに帰ることにしたが…。 <Paradise> 金がまだ残っていることに気付いたウィリーとエディは、エヴァを誘って、常夏のフロリダに向かう。 安モーテルに3人で泊まったが、男2人はいきなり、ドッグレースで有り金ほとんどを失う。しかし懲りずに、競馬で取り返すため、出掛けていく。 放っておかれたエヴァは、土産物屋で買ったストローハットをかぶり海辺へ。そこで麻薬の売人と勘違いされ、大金を渡される。 競馬に勝って帰ってきた男2人は、エヴァの置手紙を見て、空港に急ぐ。ハンガリーに帰ってしまおうかと考えたエヴァを、ウィリーは引き留めようとするが…。 *** 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』というタイトルには、「これが本当にパラダイス?」という皮肉がこめられている。初公開時の劇場用プログラムで、そう指摘しているのは、川本三郎氏。 同じプログラムには、「みなさまからハガキをいただきました」という形で、感想や推薦コメントが掲載されている。今のような“大作家”になる以前の村上春樹のコメントは、~とても面白い映画で、知人にも勧めております。ゴダールをもっとポップにした感じだけど、嫌み・臭みがないのが良かったです~というもの。 他に坂本龍一や評論家の浅田彰などのコメントが並ぶ中で、最も的を射ているように思えるのが、コラムニストの中野翠のコメント。~好意のかみ合わない3人。めぐり会わない3人。性の匂いのない3人。あらゆる否定形の中をさすらうところに「青春」をみつけ、描き出してしまったこの監督のセンスに驚く。「ない」ということをドラマにしてしまうとは!~ 本作監督のジム・ジャームッシュは、1953年生まれ。オハイオ州出身で、71年にニューヨークのコロンビア大学文学部へ入学し、作家を目指した。 大学の最終学年にパリに留学し、そこで映画にハマる。シネマテークへと通い、古今東西の作品を浴びるように観る半年間を送ったのである。 帰国後も執筆活動を続けた彼だが、書くものが、視覚的・映画的になっていることに気付く。75年には、ニューヨーク大学の映画学科に入学。本格的に映画を学び始める。 しかし課程の途中で、授業料を払う金がなくなった。ジャームッシュは中退して、学外で映画を作ろうと決心。講師の元に報告しに行くと、そこにたまたま映画監督のニコラス・レイが居た。 レイは、『大砂塵』(54)や『理由なき反抗』(55)などで知られ、ヌーヴェルヴァーグの監督たちからもリスペクトされる存在で、ニューヨーク大学では教壇に立っていた。ジャームッシュとはその時が初対面だったが、すぐに意気投合。レイの教務アシタントを務めることになったジャームッシュは、大学をやめずにすんだ。 やがてジャームッシュは、最晩年のレイの姿を捉えたドキュメンタリー映画『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(80)の手伝いをすることになる。そしてその監督を務めた“ニュージャーマンシネマ”の雄、ヴィム・ヴェンダースと出会う。 79年に恩師のレイが亡くなると、ジャームッシュは監督第1作となる、『パーマネント・ヴァケーション』(80)を撮る。この作品はヴェンダースの会社などがヨーロッパで配給し、アート系作品として話題になるも、本国では注目されることなく終わった。『ザンパラ』を撮り始めたきっかけも、やはりヴェンダース。監督作品『ことの次第』(82)で余ったフィルム、いわゆる端尺を提供し、短編映画を撮るよう促したのである。 ヴェンダースがジャームッシュに贈ったのは、高感度のモノクロフィルムで、尺は40分程度。これで10分弱ぐらいの短編が出来れば良いと、ヴェンダースは考えていたが、ジャームッシュは何と30分の作品を完成させる。それが3部構成の本作第1部に当たる、<The New World>である。 まずは友人のミュージシャンであるジョン・ルーリーと共に、ストーリーを作る。当初は男2人が、登場する物語だった。 その後ジャームッシュは、移民のアヴァンギャルド劇団のメンバーで、ハンガリーから来たエスター・バリントに出会う。そして彼女にも、自作に出演してもらいたいと考えた。 ジャームッシュは、ルーリーと作ったキャラは、そのまま彼に演じてもらうウィリーに生かし、その従妹のエヴァが登場する話に書き直した。そしてバリントに、この役を演じてもらった。 ウィリーの友人エディ―役には、ミュージシャンのリチャード・エドソンを当てた。エドソンは、ルーリーの友人だった。 即ち本作は、ストーリーを書いた時点で、誰がどの役を演じるのかが、決まっていた。キャストの3人は皆、ジャームッシュがよく知っている者たち。長い時間を一緒に過ごしており、どうコミュニケーションすれば良いか、延いてはどう演出すれば良いかも、わかっていた。 ジャームッシュ曰く、~もし俳優がひとりでも変われば、ストーリーもちがってくる~。本作以降の作品でも彼は、自分の知っている人物を当てはめないと、役柄を書くことが出来ないという。またリハーサルまでは、脚本は単なるスケッチ。出発点はあくまでも登場人物で、ストーリーはその後に来るとも語っている。 例えば監督第3作の『ダウン・バイ・ロー』(86)でも、ジョン・ルーリーはもちろん、トム・ウェイツにも、それまでに築いた関係を通じて、作り上げたキャラを演じてもらっている。『ミステリー・トレイン』(89)の日本人カップルが登場するパートも、日本映画の『逆噴射家族』(84)などを観て、工藤夕貴を念頭に置いて脚本を書いた。 フォレスト・ウィテカーのためには、『ゴースト・ドッグ』(99)、ビル・マーレイを想定しては、『ブロークン・フラワーズ』(05)と、それぞれ俳優ありきで、作品を作る。 11の作品からなるオムニバス映画『コーヒー&シガレッツ』(03)では、各エピソードに出てもらいたい俳優の組み合わせを考えて、オファー。OKが出たら、スクリプトを書くという作業を繰り返した。 話を<The New World>に戻すと、ヴェンダースの端尺をベースに、製作費8,000ドルで撮ったこの作品は、新人監督の登龍門として名高い、「ロッテルダム国際映画祭」などで評判になった。 そこで、この作品を第1部として、3部構成の1本の作品に仕立てる構想が発動。しかし無名のインディーズ監督の作品に、そう簡単に製作費は集まらない。 助け舟を出したのは、ロジャー・コーマン門下で、『デス・レース2000年』(75)などを監督した、ポール・バーテル。ジャームッシュの脚本に惚れ込み、資金提供を申し出た。 製作費12万ドルで完成した本作は、84年の「第37回カンヌ国際映画祭」で、カメラ・ドール=新人監督賞を受賞。それに止まらず、「全米映画批評家協会賞」をも手にする。 そうした欧米での高い評価を以ての、日本上陸であった。先に紹介した、劇場用プログラム掲載の、感想や推薦コメントの中には、件の中野翠氏の的確な指摘とはまた違った意味で、興味深いコメントが並んでいるので、引用する。 ~この映画は、時間の流れに従って場面を素朴に継いでいる。しかし、映画というものの本質を実に単純明快に摑んでいて、サイレント映画の手法を活用した場面と場面の黒コマの長さも適確だし、一つ一つの場面にはチャップリンを思わせる驚く程行き届いた眼が光っている。一見、プリミティーブに見えるが、大変熟練した腕前だ…~(黒澤明) ~ブラック・アンド・ホワイトの荒涼たる風景に血の色がにじみだす。一人の作家が一生に一度しか撮れない「青春映画」に特有の、あの限りなく優しく悲しい血の色が。~(大島渚) ~とても感心しました。三人の貧しい若者たちに熱い熱情のまなざしをなげかけながら、自由への憧れをせつせつと謳った作品。…~(山田洋次) 黒澤、大島、山田と、日本映画界をリードしてきた面々のコメントは、作り手達がジャームッシュの登場を、当時どう見たかという証言として見逃せない。その上で各々のコメントに、それぞれの“作家性”まで滲み出ている点が、趣深くもある。 さて『ザンパラ』で、赫赫たる成果を上げたジャームッシュには、青春映画からTVの刑事ドラマまで、監督のオファーが届くようになった。しかし本人が、「キャスティングと編集をコントロールできない映画は作らない」「雇われ監督になることに興味はない」という強い意志で、それらを退けた。 処女作から40余年。ヨーロッパや日本などからも製作資金を得ながら、ほぼインディーズ一筋で撮り続けたジャームッシュ。監督作は10数本とはいえ、そのすべてが日本公開されているというのは、なかなかスゴいことである。 しかも現在のところの最新作『デッド・ドント・ダイ』(19)に、ビル・マーレイ、アダム・ドライバー、ティルダ・スウィントンから、イギー・ポップ、セレーナ・ゴメス等々のキャストが集まったことでもわかるように、ジャームッシュ作品は低予算ながらも、結構なスター俳優が喜んで出演するようになっている。 35年前、33歳時の鮮烈な日本デビューから歳月が流れ、ジャームッシュも、68歳。しかしある世代にとっては、彼は“青春”の象徴のままと言える…。■ 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』© 1984 Cinesthesia Productions Inc.