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COLUMN/コラム2020.09.02
カロルコ!ヴァーホーヴェン!そしてシャロン・ストーン!! 90年代ハリウッドに咲いた仇花的作品『氷の微笑』
今年8月、女優のシャロン・ストーンが、「ザ・ビューティー・オブ・リビング・トゥワイス」なるタイトルの、自らの回想録を執筆し、来年3月に出版することを発表した。 そのニュースを伝える、日本での記事の見出しは、~「氷の微笑」シャロン・ストーン回想録執筆し出版へ~。本文中での彼女の紹介も、~米映画「氷の微笑」(92年)などで知られる元祖セクシー女優シャロン・ストーン(62)~というものであった。 本文では、マーティン・スコセッシ監督の『カジノ』(95)で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたことなども記されてはいた。しかしシャロン・ストーンと言えば、やっぱり『氷の微笑』。彼女の女優としてのキャリアが、本作1本で語られがちなのは、否めない事実であろう。 逆に言えば彼女は、この1本で30年近く経った今でも、語られる存在になっているわけである。それほど、公開当時のインパクトは凄かった。 本作幕開けの舞台は、サンフランシスコに在る豪邸の一室。豪奢な真鍮のベッドの上で、激しくもつれ合う男女の姿があった。女の髪はブロンドだが、その顔の詳細は映し出されない。 女は男の上にまたがり、ベッドサイドから白いシルクのスカーフを取り出す。そして男の両腕を、ベッドの支柱へと結び付ける。 SMチックな趣向に益々高まった2人が、そのままオーガニズムに達するかと思った瞬間、女はシーツの下から、今度はアイスピックを取り出して、いきなり男の喉元へと振り下ろす。快楽の絶頂から、苦痛と恐怖のどん底に突き落とされた男に、女はあたり一面を血の海にしながら、何度も何度も、鋭利な刃を突き立てるのであった…。 この猟奇殺人の捜査に乗り出したのは、サンフランシスコ市警殺人課の刑事ニック・カラン(演:マイケル・ダグラス)。捜査線には、被害者のセフレで、ミステリー作家のキャサリン・トラメル(演:シャロン・ストーン)が、浮かび上がる。何と彼女は、事件の数カ月前、今回の殺人の手口がそっくりそのまま描かれた、ミステリー小説を発表していたのである。 事件の謎を追う中で、新たな殺人が起こる。更にはキャサリンの過去にも、様々な疑惑が生じていく。キャサリンを犯人と睨んだニックは、真相に迫っていく中で、やがて彼女の危険な魅力に吸い込まれ、溺れていくのであった…。 オープニングの、ショッキングなSEX殺人。そしてキャサリン・トラメル=シャロン・ストーンが、警察の取り調べを受ける際に、椅子に座って足を組みかえるシーンが、世間の耳目を攫った。そのシーンのシャロンが、タイトスカートでノーパンという装い故に、「ヘアが映る」「股間が見える」というのが、センセーショナルな話題となったのである。 本邦の場合、本作公開の前年=1991年から、宮沢りえの「サンタフェ」をはじめ、いわゆる“ヘアヌード写真集”のブームが巻き起こっていた。そのブームに、うまくリンクした部分もあったと思う。 至極、下世話な話ではある。だが本作の公開は当時紛れもなく、ちょっとした“事件”だったのだ。 そして『氷の微笑』は、全米での興行成績が1億2,000万ドルに迫り、全世界では3億5,000万ドルを稼ぎ出した。日本でも配給収入で19億円、興行収入に直せば40億円前後を売り上げた。 斯様に世界的な大ヒットとなった本作は、プリプロダクション=製作準備の段階から、何かと話題となっていた。まずは、脚本である。 手掛けたのは、『フラッシュダンス』(83)『白と黒のナイフ』(85)などのヒット作がある、ジョー・エスターハス。彼が書き上げた本作の脚本の獲得に、8人ものプロデューサーが名乗りを上げて、争奪戦が起こった。 値段はどんどん吊り上がり、買い手は一人また一人と脱落していく。そんな中で、最終的に300万ドルという、当時としては「史上最高」となる脚本料が付いて、落札となった。 本作脚本を詳細に検討した場合、ディティールの粗さなど、果して「史上最高」の価値があったのかどうかは、大いに議論となるところである。しかしその脚本料故に、ハリウッドでの本作への注目度が、端から並大抵のものでなかったことは、事実である。 「史上最高」の300万ドルを支払ったのは、独立系の映画製作会社「カロルコ・ピクチャーズ」であった。「カロルコ」は、マリオ・カサールとアンドリュー・G・ヴァイナによって76年に設立され、82年に、シルベスター・スタローン主演の『ランボー』第1作から製作活動を本格化。90年には『トータル・リコール』、91年には『ターミネーター2』と、絶頂期のアーノルド・シュワルツェネッガーを主演させた、メガヒット作を立て続けに放っていた。 本作の製作が本格化して、まずは殺人課の刑事ニック役に、マイケル・ダグラスが決まった。大スターであるカーク・ダグラスの長男であるマイケルは、アカデミー賞で作品賞を含む5部門に輝いた、『カッコーの巣の上で』(75)のプロデューサーとして注目された後、俳優としても、『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(84)『危険な情事』(87)『ブラック・レイン』(89)などのヒット作に主演。オリバー・ストーン監督の『ウォール街』(87)では、父は生涯手にすることが叶わなかった、“アカデミー賞主演男優賞”を獲得している。 このように80年代、名実ともハリウッドのTOPスターの1人となったマイケル。年齢的には40代後半という円熟期を迎えて、90年代最初の主演作に選んだのが、本作であった。 続いては監督が、ポール・ヴァーホーヴェンに決まる。オランダで数々の問題作を発表後、80年代後半にアメリカ映画界へと渡ったヴァーホーヴェンは、『ロボコップ』(87)『トータル・リコール』(90)と、監督作が連続ヒットを記録。本作を手掛けた辺りが、ハリウッドに於ける絶頂期だった。 「カロルコ」!マイケル・ダグラス!ヴァーホーヴェン!90年代はじめのハリウッドに於いては、まさにブイブイ言わせている面々が集まって、いよいよ物語の“肝”となる、キャサリン・トラメル役を決める段となった。 ヴァーホーヴェンの意中の女性ははじめから、監督前作の『トータル・リコール』に出演していた、シャロン・ストーンだったという。『トータル…』でのシャロンは、シュワルツェネッガー演じる主人公の妻にして、実は敵の回し者という役どころ。アクションシーンでは、2カ月間の空手の特訓の成果を見せ、強い印象を残していた。 ところが「カロルコ」側からは、「もっと大スターを使いたい」との注文がついた。当時のシャロンは、デビュー以来10年以上もブレイクしないまま、三十路を迎えた、“B級ブロンド女優”に過ぎなかったのである。 また、シャロンが89年に主演したスペイン映画『血と砂』を観たマイケル・ダグラスも、「カロルコ」の主張に与した。「あんなひどい映画に出ている女優と共演すると自分の人気に傷がつく」というのが、その理由だった。 そのためヴァーホーヴェンは、100人もの女優と面接するハメになった。イザベル・アジャーニ、ジュリア・ロバーツ、キム・ベイシンガー、ミシェル・ファイファー、ニコール・キッドマン、ジーナ・デイヴィス等々、錚々たる顔触れが並んだが、裸のシーンが多く、悪女のイメージが強いキャサリン・トラメルを演じるのに、前向きになる者は少なかった。 そこでヴァーホーヴェンは、4カ月掛けてプロデューサーたちを説得。遂にはシャロンの起用に成功した。 この役がダメだったら、女優をやめようと考えていたというシャロンにとって本作は、まさに「最後の挑戦だった」。ヒッチコックの『裏窓』(54)のグレース・ケリーをイメージして役作りを行った彼女は、ヴァーホーヴェンやダグラスと撮影中に頻繁にディスカッション。時には衝突しながらも、撮影に1週間を要した、激しいセックスシーンなどで、迫真の演技を見せたのである。 さて先にも記したが、本作で特に話題になったのが、ノーパン&タイトスカートでの足の組み換えシーン。このシーンも、シャロンのアイディアによるものと、劇場用プログラムには記されている。ところが公開キャンペーンで来日した際の、ヴァーホーヴェンのインタビューでは、自分が大学生だった23歳の時の実体験に基づいて、生み出されたシーンだとしている。 友人の奥さんが、いつも座っている時に下着をつけていないので、「見えるというのが分かっているんですか?」と質問した。すると彼女は、「もちろん。目的があって、履いてないんだもん」と答えたのだという。ヴァーホーヴェンはそれをずっと覚えていたので、本作に使ったという説明である。 しかしこれも、リップサービスの可能性がある。シャロン説とヴァーホーヴェン説の、どちらが正しいのか?その謎は、公開から22年経った、2014年に解き明かされた。当時報じられた、シャロンの言をそのまま引用する。 「撮影した時、それはノーパンであることを暗示するシーンになるはずだったの。でも監督が『君の下着の白い色が見えてしまう。脱いでもらわなきゃいけない』と言うから、『見えるのはイヤです』と答えたの。すると監督は『いや、見えることはないから』と言うの。だから私は下着を脱いで彼に渡したわ。『じゃあ、モニターを見よう』と彼が言うから見たの。当時は、いまのようになんでもハイビジョンではなかったから、モニターを見た時には本当になにも見えなかったのよ。だから映画館で大勢の人に囲まれてあのシーンを見た時にはショックを受けたわ。上映が終わると監督の頬にビンタをお見舞いして、『私が1人の時にまず見せるべきだったんじゃないの』と言ってやったわ」 この監督の騙し討ちこそが、映画の世界的ヒットの原動力になったというわけだ。 さて冒頭に記した通りシャロン・ストーンは、本作1本で、長く語り継がれる存在になった。逆に、他に何の作品に出ていたのかは、ほとんど記憶に残らない女優人生でもある。 渡米後の監督作が、本作で3本続けてメガヒットとなった、ポール・ヴァーホーヴェンは、その後に手掛けた『ショーガール』(95)が大コケ。続く『スターシップ・トゥルーパーズ』(97)『インビジブル』(00)も期待した成績を上げられず、21世紀には母国オランダに帰って、活動を続けている。 そして「カロルコ・ピクチャーズ」。90年代初頭には毎年のようにメガヒット作を出しながらも、本作脚本に300万ドルの値付けを行ったことに代表されるような、放漫経営が祟って、95年には倒産の憂き目に遭っている。 さすれば本作は、1992年のハリウッドに咲いた仇花、一瞬の夢のような作品だったとも言える。 そして14年後、「カロルコ」崩壊後もプロデューサーを続けたマリオ・カサールらが、再びシャロン・ストーン=キャサリン・トラメルを引っ張り出して製作したのが、『氷の微笑2』(2006)である。しかし、そこにはマイケル・ダグラスの姿はなく、ヴァーホーヴェンも、メガフォンを取ることはなかった。 『2』製作に当たっては、前作時には30万ドルと言われたシャロンのギャラは、1,400万ドルまで膨張。1作目にマイケルが手にしたギャラとほぼ同額になっていた。 しかしその出来栄えも世間の注目度も、「兵どもが夢の跡」という他はなく、ただただ「世の無常」を感じさせられる作品であった。■『氷の微笑』(C) 1992 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2020.09.02
「スピルバーグの時代」へのカウントダウン開始!『激突!』
製作費42万5,000ドル、撮影日数16日間…。本作『激突!』は、1970年代初頭にアメリカで製作されたTVムービーとしては、ごくごく普通の製作規模と言える作品だった。 しかしそれが、スティーヴン・スピルバーグ(1946~ )の巨匠への道を切り開く、伝説的な作品となったのだ。 以前『ジョーズ』(75)についてのコラムを書いた時にも触れたことだが、少年時代から父の8mmカメラを奪って映画を作っていたスピルバーグは、18歳の夏、ロサンゼルスの「ユニバーサル・スタジオ」の観光ツアーに参加。その最中に抜け出して、立ち入り禁止のサウンドステージや編集室などを見て回った。 その際にスピルバーグは、スタジオに出入り自由のパスを、ちゃっかりゲット。そのまま「ユニバーサル」へと、足繁く通うようになった。パスの期限が切れても、顔見知りとなったガードマンの黙認で、連日のスタジオ入り。そんなことを続けている内に、撮影所スタッフから、諸々雑用なども言いつかるようになった。 やがてスピルバーグは、自ら監督した24分のインディーズ作品『アンブリン』(68)で、スタジオのお偉方にアピール。「ユニバーサル」の親会社「MCA」の会長だった、シド・シャインバーグに気に入られ、TVドラマの監督として、7年契約を結ぶこととなった。それはスピルバーグ、二十歳の時だった。 その際シャインバーグは、スピルバーグに約束した。「私は、あなたが失敗したときでも、成功したときと同様に強力なサポートをする」と。この時点でスピルバーグの将来を見越したような、シャインバーグの慧眼には、驚く他はない。スピルバーグはこの「約束」があったからこそ、自信が持てたという。 そうして、TVシリーズの一編などを監督するようになった。その中でも、お馴染み「刑事コロンボ」の1エピソード「構想の死角」(71)などは、日本でも繰り返しオンエアされているので、ご覧になったことがある方も、多いであろう。 20代前半の若造としては、順風満帆に思える。しかしスピルバーグの胸中は、とにかく一刻も早く、「劇場用映画を撮りたい」という想いで、いっぱいだった。 そんなある日、スピルバーグの女性秘書が、雑誌「プレイボーイ」の1971年4月号に掲載された短編小説を読むように、彼に薦めた。それがリチャード・マシスンの筆による、「激突!」であった。 マシスンは、TVシリーズの「トワイライト・ゾーン」(1959~64)をはじめ、数多くのTVドラマや映画の脚本を手掛けていることで有名である。そして作家としても、SFホラーやファンタジー、更にはウエスタンやノンフィクションまで、ジャンルを横断する活躍を長年続けた。あのスティーヴン・キングをして、「私がいまここにいるのはマシスンのおかげだ」と語るような、偉大な存在である。 マシスンはハイウェイで車を運転中に、トラックの凶暴な運転に巻き込まれて、死ぬ思いをした経験がある。そこから着想したのが、「激突!」だった。 妻の尻に敷かれた平凡な中年セールスマンが、取引相手の元に急ぐ際、ごく軽い気持ちで大型トラックを追い越す。しかしそれが、恐怖の一日の始まりとなる。 トラックはセールスマンの車を執拗につけ狙い、やがて彼は相手が、自分の命を奪おうとしていることに気付く。警察や周囲に訴えても、その声は思うように届かず、あまつさえ異常者扱いさえされてしまう。 必死の逃走劇を繰り広げる中で、遂に覚悟を決めた彼は、真正面から、この異常者が操る巨大なトラックと対決することを、決意する…。 スピルバーグはこの短編小説を一読するや、「完全に参ってしまった」という。そしてこの作品を、自らの手で「映画化」するべく動き出す。その権利は幸いなことに、「ユニバーサル」が押さえていたので、スピルバーグは、先に挙げた「刑事コロンボ」のフィルムなども持参しながら、プロデューサーへのプレゼンを行った。そしてプロジェクトが動き始めた…ことになっている。 『激突!』は、“脚本化”もマシスン本人が行っているが、彼の話は、スピルバーグの話とは、些か食い違っている。マシスン曰く、スピルバーグと会うよりもずっと前に、脚本を書いていたというのだ。 また、「ユニバーサル」の郵便仕分け室に勤めていたスピルバーグの友人が、プロデューサー間で回覧されていた『激突!』の脚本の存在を、スピルバーグに伝えたのが、始まりだったとする説もある。この辺り諸説紛々なのは、『激突!』そしてスピルバーグが、後に伝説化した存在になったから故と、言う他はない。 さて実際に「映画化」に向けて動き出すと、やはりスターが必要だという話になった。そこでスピルバーグが脚本を送ったのが、『ローマの休日』(53)『アラバマ物語』(62)などで有名な、グレゴリー・ペック。 しかしペックは、この役に興味を示さなかった。実はこのことが、スピルバーグにとっては幸いだったとも言われる。もしもペックのような大スターの出演がOKになったら、企画全体が、それに見合った規模に修正される。そうなると、ペック主演作を手掛けるにふさわしい有名監督が呼ばれ、スピルバーグは、「お呼びでない」状態になる可能性が高かった。 結局『激突!』は、新人監督がメガフォンを取るには適正規模の、TVムービーとして製作されることになった。 主演に決まったのは、デニス・ウィーヴァー。日本では「警部マクロード」(70~77)の主役としてお馴染みだった、TVスターである。この起用もまた、スピルバーグがオーソン・ウェルズ監督の『黒い罠』(58)での彼の演技を思い出してオファーした説と、単にスタジオ側からあてがわれた説の両方がある。 いずれにせよ、ごく平凡で勇敢さのカケラもない男が、最後には勇気を振り絞って、命懸けで“怪物”に立ち向かっていくという物語である。ペックが演じるよりも、ウィーヴァ―の方が適役だったのは、間違いない。この辺り後年『ジョーズ』で、はじめに主演の警察署長役の候補になったスティーブ・マックイーンやチャールトン・ヘストンよりも、実際に演じたロイ・シャイダーの方が、明らかに適役だったパターンと酷似している。 こうして陣容が揃い、『激突!』は1971年秋にクランクイン。ロケ地は、カリフォルニア州のモハベ砂漠を貫くハイウェイとその近辺で、11日間の撮影予定だった。スケジュールがタイトだったため、ハイウェイ全体の地図にカメラを置く位置を書き込んだものを使って、撮影は進められた。 はじめに記した通り、撮影はトータルで16日間まで延びた。編集作業から放送までは3週間程度しか確保出来なかったため、4人の編集マンを使って、急ピッチで仕上げ作業が進められた。 そうして第1次の完成を見た『激突!』には、この4年後に全世界を席巻することとなる、『ジョーズ』と共通する要素が、多く見受けられる。 先にも挙げたように、それまで想像もしなかった“脅威”と期せずして対決することになるのは、ごく平凡で勇敢さには欠ける男。そして彼が助けを求めて訴えても、周囲には邪険にされる。 『激突!』に於けるトラック、『ジョーズ』に於ける人喰い鮫の描き方にも、大きな共通項がある。『激突!』の主人公が目にするトラック運転手の姿は、手や足元のみ。その容貌などは、一切見えない。一方『ジョーズ』の鮫は、クライマックス近くまで、背びれ以外を見せることがなく、恐怖を煽る。 そして終幕!トラックと鮫の断末魔の叫びは、共に『大アマゾンの半魚人』(54)のサウンドトラックから、怪物の鳴き声を持ってきているのである。 『ジョーズ』公開時に、「これは『激突!』のリメイクである」と、指摘する向きもあった。それは言い過ぎにしても、スピルバーグが『激突!』で成功した手法を、『ジョーズ』で大いに援用したことは、紛れもない事実だ。 『激突!』は製作費として30万ドルを予定していたものが、42万5,000ドルまで膨らんだ。しかしこのバジェットの超過分など、ものともしないような成果を上げることとなる。 まずは1971年11月13日に「ABC」で放送されると、高視聴率と高評価を勝ち取った。それまではスピルバーグと顔見知り程度だったジョージ・ルーカスは、その日フランシス・コッポラ宅のホームパーティに出ていた。その席を外して「十分か十五分くらい見てやろう」と、『激突!』を見はじめたら、やめられなくなった。そして「この男はすごく出来る…」「もっとよく知りたい…」と思ったという。後のライバルにして盟友関係は、ここから始まったとも言える。 大きな話題となったことに気を良くした「ユニバーサル」は、『激突!』を海外では、“劇場用映画”とすることを決定。そのためスピルバーグに追加撮影を行わせ、元は74分の作品を、90分まで伸ばすこととした。 そしてヨーロッパで、映画祭にエントリーしたり、劇場公開するなどの展開を行っていく。「第1回アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭」でグランプリを受賞するなどの成果を上げると同時に、スピルバーグは、偉大なる先人たちと知己を得る、栄誉に俗した。 イタリアでは、巨匠フェデリコ・フェリーニと会食。イギリスでは、己が最も尊敬するデヴィッド・リーンから、「どうやらじつに才能あふれる新人監督があらわれたようだ」と絶賛されたのである。 こうして「スピルバーグの時代」の幕開けまで、秒読み態勢に入った。この後スピルバーグは、『続・激突!/カージャック』(74)で、正式に“劇場用映画”デビュー。それに続く『ジョーズ』で、全米そして全世界で№1ヒット監督となったのである。『激突!』(C) 1971 Universal City Studios, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.08.28
日本では劇場未公開となった フランスの名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の遺作
今回ご紹介する映画『囚われの女』 (68年)は、巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の作品です。クルーゾー監督といえば、ニトログリセリンを運ぶトラックのハラハラ映画『恐怖の報酬』(53年)や、妻と愛人が共 謀してクソ夫を殺す『悪魔のような女』(55年)という2本のサスペンス 映画が全世界で大ヒットしました。 どちらもハリウッドでリメイクされましたが、オリジナルの面白さには 及びませんでした。 そのクルーゾーの遺作が『囚われの女』です。1960年代末のパリを舞台に“ポップ・アート”の芸術家ジルベ ール(ヴェルナール・フレッソン)と その妻ジョセ(エリザベート・ウィネル)、それにポップ・アートの画商スタン(ローラン・テルジェフ)の3人の三角関係を描いています。 画商スタンが売っているアート作品は縞々です。この縞々が目の錯覚でチラチラ動いて見える。これをオップ・アートと呼びました。オプティカル(光 学的)アートの略です。当時、大変な話題になって、縞模様の服も流行し、『ウルトラマン』(66〜67年)に登場した三面怪人ダダの体の縞模様にまで影響を与えました。 あと、スタンはキネティック・アート=動く彫刻、いわゆる“モビール”も売ってます。これもインテリアとして大流行しました。つまりポップ・アートとは、アートの大衆消費化です。 また、この映画でポップ・アートに関わる主人公たちは、自分や相手に結婚相手がいようがいまいが、おかまいなしにセックスします。これも1968 年当時流行していた「フリー・ラブ」です。結婚に縛られないで好きな人と 恋愛やセックスをしてもいい、という考え方です。 『囚われの女』は、ポップ・アートとフリー・ラブという当時の流行に、製 作当時61歳だったクルーゾー監督が「それって本当のアート?」「それって 本当の愛?」って因縁をつけてるよう な映画です。 ところが、最後のほうで、「それはいくらなんでもいきなりすぎる」と言いたくなる展開に転げ落ちて、僕は大爆笑してしまいました。 もっと驚いたのは、これがもともと、 あのマルセル・プルーストの大長編小説『失われた時を求めて』の映画化として企画された映画だったということですね。 どこがだよ! と言いたくなる、巨匠の知られざる遺作、お楽しみに! (談/町山智浩) MORE★INFO.・本作は1964年の撮影中に、主演者とアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督自身までもが心臓発作で未完となった『L'enfer(地獄)』を、監督がリトライした作品。・名優ミシェル・ピコリ、ピエール・リシャー ル 、 さ ら に ジ ョ ア ン ナ ・ シ ム カ ス ら が ノ ン・ クレジットでカメオ出演。・冒頭場面は『サスペリアPART2』(75年) の手袋をした謎の殺人鬼が人形を触る場面 に影響を与えている。・クルーゾー監督の死後、『L'enfer』の脚本 を元に、クロード・シャブロル監督が新たに 演出した『愛の地獄(』94年)が作られた。・『L'enfer』の残されたフィルムを復元+物語を補足する映像の追加+当事者の証言で 構成された『アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの地獄』が2009年に発表されている。 (C) 1968 STUDIOCANAL - Fono Roma
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COLUMN/コラム2020.08.06
血で血を洗うバイオレンスの応酬で描かれるデ・パルマ流ギャング映画『スカーフェイス』
ギャング映画の古典を現代にアップデート 劇場公開時は相当な物議を醸した作品である。ホラー&サスペンスの巨匠ブライアン・デ・パルマ監督にとって初めてのギャング映画。セックスとドラッグとバイオレンスが満載の過激な内容は、当時まだ高校生だった筆者を含めて若い世代の映画ファンからは熱狂的に受け入れられたものの、その一方で良識(?)ある評論家や大人たちからは眉をひそめられ、「不愉快だ」「冒涜的だ」「見るに堪えない」などと激しく非難された。そういえば、デ・パルマは『殺しのドレス』(’80)の時も同様の理由で叩かれまくったっけ。しかし、蓋を開けてみればどちらの作品も興行的には大成功。特に本作は、デ・パルマのキャリアにおいて『アンタッチャブル』(’86)や『カリートへの道』(’93)へと繋がる重要な通過点となった。今では映画史上最も優れたギャング映画のひとつに数えられている名作だ。 ご存じの通り、本作はハワード・ホークス監督によるギャング映画の古典『暗黒街の顔役』(’32)のリメイクに当たる。ストーリーの基本的な要素はオリジナル版とほぼ一緒。貧しい移民のチンピラが裏社会でのし上がり、一大犯罪帝国を築き上げて我が世の春を謳歌するものの、やがて金と権力がものをいう弱肉強食の世界に自らが呑み込まれて破滅する。恐らく最大の違いは、オリジナル版の主人公が禁酒法時代のシカゴで密造酒ビジネスを手掛けるイタリア系移民であったのに対し、本作の主人公トニー・モンタナはコカイン戦争真っ只中のマイアミを舞台に麻薬ビジネスで財を成すキューバ系移民であるという点であろう。 南米のコロンビアやボリビアから大量に密輸されるコカインが、深刻な社会問題となった’80年代のアメリカ。その入り口が常夏の避暑地マイアミを擁するフロリダ州であった。そして、そんなフロリダ州と海を挟んで目と鼻の先に位置するのがキューバ共和国。社会主義国家であるキューバは、当時まだアメリカと国交を断絶していたのだが、1980年4月20日に国家元首フィデル・カストロがアメリカへの亡命希望者に対してマリエル港からの出国を許可すると発表したことから、同年9月26日にマリエル港が閉鎖されるまでの5カ月間に渡って、実に12万5000人以上ものキューバ人がフロリダ州へと上陸した。その大半はカストロ体制を嫌う一般人や文化人だったが、中にはキューバ政府が厄介払いしたい犯罪者も含まれており、およそ2万5000人に逮捕歴があったとも言われている。本作はこうした当時の社会情勢をストーリーの背景として巧みに反映させており、ありきたりなリメイク映画とは一線を画する秀逸なアップデートが施されているのだ。 金もコネも学歴もないチンピラの成り上がり物語 物語の始まりは1980年の5月。マリアナ港から難民ボートでマイアミへ上陸した前科者トニー・モンタナ(アル・パチーノ)は、弟分マニー(スティーブン・バウアー)やアンヘル(ペペ・セルナ)らと共に難民キャンプへ強制収容されるものの、そこで麻薬王フランク・ロペス(ロバート・ロジア)の依頼を受けてカストロ政権の元幹部を殺害。その見返りとしてグリーンカードを取得し、晴れてアメリカ市民となる。 とはいえ、金もコネも学歴もないチンピラのトニーやマニーに出来る仕事と言えば、せいぜい飲食店の皿洗いが関の山。目の前で美女をはべらせ高級車を乗り回すスーツ姿のリッチなヤンキー男を眺めながら、俺だってああいう生活がしたい!こんなところで燻っていられるもんか!アメリカは誰にだってチャンスのある国じゃないか!と息巻くトニーは、持ち前の知恵と度胸とビッグマウスを武器に裏社会での立身出世を目論む。まず手始めにロペスの右腕オマール(F・マーリー・エイブラハム)から大口の麻薬取引代行を請け負ったトニーとマニー。ところが、お膳立てが整っているはずのコカインと現金の交換は、コロンビア人ギャングによる罠だった。 安ホテルでの壮絶な殺し合いの末にコカインを奪ったトニーだったが、しかし仲間のアンヘルが犠牲になってしまう。あのオマールって奴は信用ならない。ボスであるロペスのもとへコカインと現金を届けたトニーは、交渉の結果ロペスから直接仕事を引き受けることとなり、みるみるうちに裏社会で頭角を現していく。そんな彼を上手いこと利用するつもりでいたロペスだったが、しかしボリビアの麻薬王ソーサ(ポール・シェナー)との商談を独断で取りまとめ、自分の情婦エルヴァイラ(ミシェル・ファイファー)に公然と手を出そうとするトニーの大胆不敵な態度が目に余るように。このままでは自分の立場が脅かされる。そう感じたロペスは、殺し屋を差し向けてトニーを亡き者にしようとするも失敗。すぐさまトニーは仲間を集めて組織の事務所を襲撃し、ロペスだけでなく彼と癒着していた麻薬捜査官バーンスタイン(ハリス・ユーリン)をも殺害する。 かくして組織を乗っ取り新たなボスの座に君臨したトニーは、ソーサの強力な後ろ盾を得てビジネスを拡大していく。夢だった大豪邸も手に入れ、高根の花だったエルヴァイラとも結婚。貧しい暮らしをしていた大切な妹ジーナ(メアリー・エリザベス・マストラントニオ)にも贅沢をさせられるようになった。しかし、他人を蹴落として頂点に登りつめた者だからこそ、いつどこで誰に足を引っ張られるか分からない。猜疑心を深めるトニーは自らも麻薬に溺れるようになり、やがてエルヴァイラをはじめ周囲の人々との間にも亀裂が生じていく。そんな折、脱税容疑で窮地に立たされた彼は、ソーサから依頼された仕事で致命的な判断ミスを犯してしまう…。 デ・パルマとオリバー・ストーンのコラボレーション これぞまさしくアメリカン・ドリームの光と影。社会主義国キューバからやって来た貧しい移民が、資本主義社会における競争の原理を実践したところ、束の間の栄光の果てに破滅の道を辿ることになるという皮肉。確かに主人公トニーは犯罪者という分かりやすい悪人だが、しかし果たして彼のやっていることの本質は、アメリカの富を牛耳る一部の資本家や銀行家、政治家などと大して違わないのではないか。脚本を手掛けたオリバー・ストーンは、裏社会の栄枯盛衰という極めてドラマチックなストーリーを通して、物質的な豊かさばかりを追求するアメリカ型資本主義の歪んだ価値観に疑問を呈する。そこには、過度な自由競争を促して格差社会を広げる、当時のレーガン大統領の経済政策レーガノミックスに対する批判も見え隠れするだろう。そういう意味では、この4年後にオリバー・ストーンが監督する『ウォール街』(’87)とテーマ的に相通ずるものがあるようにも思える。 とはいえ、あくまでも本作が前面に押し出すのは、人間の浅ましい欲望と欲望がぶつかり合うセックス&バイオレンスの世界。堕落した資本主義の成れの果てのような虚飾の裏社会で、札束とドラッグに溺れる人々が更なる富を求め、醜い殺し合いを繰り広げていく。その露骨で赤裸々なこと!おかげで、最初に監督として白羽の矢が立っていたシドニー・ルメットは降板してしまう。実はイタリア系移民というオリジナル版の設定をキューバ系移民に変更したのもルメットのアイディア。しかし、どうやら彼は政治的なメッセージ性の高い社会派映画を目指していたらしい。ところが、仕上がって来た脚本は『仁義なき戦い』も真っ青のストレートなバイオレス映画。どう考えたってルメットの柄ではない。 そこで代役に指名されたのがブライアン・デ・パルマ。『悪魔のシスター』(’72)にしろ、『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)にしろ、はたまた『キャリー』(’76)にしろ、それまで手掛けてきた作品のジャンルこそ違えども、観客にショックを与えて物議を醸すような映画は彼の十八番だ。本作の監督としては適任。しかも、前作『ミッドナイト・クロス』(’81)が不発に終わったデ・パルマは、ちょうど映像作家としての新たな方向性を模索していた。なるほど、彼にとって本作は文字通り「渡りに船」だったわけだ。 血で血を洗うような凄まじいバイオレンスの応酬、成金趣味丸出しのけばけばしい美術セットや衣装、’80年代を代表するヒットメーカーのジョルジオ・モロダーによる煌びやかなダンス・ミュージックを散りばめながら、ハイテンションで突っ走っていくデ・パルマの演出。放送禁止用語のFワードだって226回も登場する。こうした下世話なまでのトゥー・マッチ感こそが本作の醍醐味であり、オリバー・ストーンの脚本が描き出そうとしたレーガノミックス時代のアメリカの醜悪さそのものだと言えよう。 ただ、改めて今見直してみると、当時さんざん非難された暴力シーンも実はそこまで残酷じゃない。例えば、安ホテルのバスルームを舞台にした有名なチェーンソー惨殺シーンだって、実際はほとんど何も見せていないに等しい。スクリーンに映し出されるのは、犠牲者の苦悶の表情と大量に飛び散る血糊、そこから目を背けようと必死にもがくアル・パチーノの姿だけ。それらの間接的要素を矢継ぎ早に畳みかけることで、観客は正視に耐えないような光景を直接目撃したように錯覚するのだ。これこそが演出の力、映画のマジック。近ごろの『ゲーム・オブ・スローンズ』や『ハンニバル』のようなテレビ・シリーズの方が遥かに残酷だ。 そして、まるでイタリアン・オペラさながらのグランド・フィナーレ。屋敷へなだれ込んできた無数の殺し屋部隊を相手に、トニーが機関銃をぶっ放しまくる壮大な銃撃戦の圧巻なこと!オリジナル版の呆気ないクライマックスとは大違いだ。ちなみに、このシーンの撮影ではアル・パチーノが火薬を使って熱くなった小道具の銃に誤って触れてしまい、そのせいで左手に火傷を負ったことから、2週間の休養を余儀なくされたという。しかし、かといって撮影を中断するわけにもいかないため、その間にトニーと銃撃戦を演じる殺し屋たちをまとめ撮りしたそうなのだが、実はその際にスティーブン・スピルバーグが撮影に参加している。 スピルバーグとデ・パルマはお互いに無名時代からの仲間。かつて最初のハリウッド進出に失敗したデ・パルマは、大学時代の先輩である女優ジェニファー・ソルトとその親友マーゴット・キダーが同居するビーチハウスに半年ほど居候していたのだが、そこはマーティン・スコセッシやハーヴェイ・カイテルなどの若手映画人が将来の夢を語り合う溜まり場と化しており、その常連組の中にスピルバーグもいたのである。当初は見学だけのつもりで『スカーフェイス』のセットを訪れたスピルバーグだが、4台配置されたカメラのうち1台を彼が回すことになったという。ただ、具体的にどのカットがスピルバーグの撮ったものかはデ・パルマもハッキリと覚えていないそうだ。 ジョルジオ・モロダーの音楽とヒップホップ・カルチャーへの影響 もともとリメイクの企画を思いついたのはアル・パチーノ。かねてから『暗黒街の顔役』の評判を聞いていた彼は、たまたま通りがかったL.A.の名画座劇場で同作を初めて鑑賞したところ、主役を演じるポール・ムニの芝居にすっかり感化されてしまった。自分もトニー役をやってみたいと考えたパチーノは、『セルピコ』(’73)や『狼たちの午後』(’75)などで組んだプロデューサー、マーティン・ブレグマンに相談を持ちかけ、そこから本作の企画が始動したのだという。それだけに、トニー役を演じるパチーノの気迫は並大抵のものじゃない。賞レースではゴールデン・グローブ賞の主演男優賞候補のみに止まったが、むしろなぜオスカーから無視されたのか不思議なくらいだ。 そのトニーの相棒マニー役に起用されたのが、当時はまだ全くの無名だったスティーブン・バウアー。制作サイドの思い描いていたマニー像と驚くほど一致したため、実質的にオーディションなしの一発合格だったという。しかも、彼は3歳の時にマイアミへ移住したキューバ移民2世。これ以上望むことのない理想のキャスティングだったと言えよう。本作で一躍注目されたバウアーだが、しかしあまりにもマニー役のイメージが強すぎたせいで、その後のキャリアが伸び悩んだのは残念だった。それでもなお、現在に至るまで息の長い役者生活を続けているのだから立派なもの。テレビ『ブレイキング・バッド』で演じたメキシコ麻薬王役などは、この『スカーフェイス』あってこその仕事だったはずだ。 一方、裏社会の男たちに翻弄されるトロフィー・ワイフ、エルヴァイラ役のミシェル・ファイファーも好演。金と女と権力への欲望をたぎらせた男だらけのホモソーシャルな世界で、ただの性的なオブジェクトとしての役割しか与えられず、何か物申そうものなら「女のくせに」と頭ごなしでバカにされる。そんな屈辱的な日常を黙って受け入れているように見えつつ、次第に我慢しきれなくなり壊れていくエルヴァイラは、一見したところ地味に思えて実はかなり難しい役柄だ。当初、デ・パルマやパチーノが推したのはグレン・クローズだったそうだが、プロデューサーのブレグマンが最後まで粘ってファイファーをキャスティングしたという。これはどう考えたってブレグマンが大正解。動くバービー人形のようなミシェル・ファイファーでなければ全く説得力がない。 そのほか、ジーナ役のメアリー・エリザベス・マストラントニオにロペス役のロバート・ロジア、オマール役のF・マレー・エイブラハムにソーサ役のポール・シェナーと、脇を固める役者たちのどれもがはまり役。トニーの母親を演じるミリアム・コロンは、プエルトリコ系の有名な舞台女優で、『片目のジャック』(’61)と『シエラマドレの決斗』(’66)ではマーロン・ブランドと共演している。若い頃はえらく綺麗な女優さんだった。 なお、『フラッシュダンス』(’83)や『フットルース』(’84)の大ヒットにとって、オムニバス形式のサントラ盤ブームが巻き起こった当時だけあって、本作のサウンドトラックにも複数のアーティストが参加しているのだが、基本的に全ての楽曲でジョルジオ・モロダーが作曲・プロデュースを手掛けている。中でも要注目なのは、『アメリカン・ジゴロ』(’80)の主題歌でモロダーと組んだブロンディのリード・ボーカリスト、デビー・ハリーが歌う「ラッシュ・ラッシュ」。トニーが初めてディスコ「バビロン・クラブ」に足を踏み入れるシーンで使用されている。また、難民キャンプのシーンで流れるトロピカルなラテン・ナンバーを歌っているのは、『ダブルボーダー』(’87)や『バトルランナー』(’87)、『プレデター2』(’90)のヒロイン役で有名な女優マリア・コンチータ・アロンソ。実は彼女、もともと母国ベネズエラで歌手としてデビューしており、アメリカへ拠点を移してからも数々のラテン・ヒットを放っている人気ボーカリストだった。 そういえば音楽絡みの話題で忘れてならないのは、本作がその後のヒップホップ・カルチャーに少なからず影響を及ぼしていることだろう。アントン・フークアやイーライ・ロスといった映画人たちと並んで、ナスやリル・ウェインなど本作をこよなく愛し、自作でオマージュを捧げるラッパーが実は結構多いのだ。恐らく、社会の最底辺から裸一貫で成り上がっていくトニー・モンタナのストーリーに、我が身を重ねて共感するものがあるのだろう。■ 『スカーフェイス』(C) 1983 Universal Studios. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.08.06
『戦争の犬たち』 フレデリック・フォーサイスの原作の背景と、クリストファー・ウォーケン主演によるアレンジについて
本作『戦争の犬たち』(1980)の原作は、イギリスの作家フレデリック・フォーサイスが著し、1974年に出版された同名の小説である。フォーサイスと言えば、現実の国際情勢に基づいた題材を取り上げ、アクチュアルに描いたベストセラーを、数多く世に放ってきたことで知られる。 ジャーナリスト出身の彼が書いた小説の第1作が、かの有名な「ジャッカルの日」。1962年から63年に掛けて、「ロイター通信」の特派員としてパリ駐在時に、当時のドゴール大統領の動きを、日々追った経験を基に書き上げた、サスペンススリラーの傑作である。 ドゴール大統領暗殺を狙う、正体不明のスナイパー“ジャッカル”と、それを阻止しようとする国家権力の虚々実々の戦いを描いた「ジャッカルの日」は、71年に出版されてベストセラーになった。巨匠フレッド・ジンネマン監督による、その映画化作品も、73年に公開されて世界的に大ヒット!今でも“暗殺映画”のマスターピースとして、高く評価されている。 「ジャッカルの日」の出版契約に当たって版元は、作家としては無名の新人であったフォーサイスに、「小説三作の契約」を結びたいと申し入れた。そこでフォーサイスが、ジャーナリストとして見聞きしたことを基に考え出したのが、「オデッサ・ファイル」と「戦争の犬たち」だった。 「ジャッカルの日」に続く第2作となったのは、「オデッサ・ファイル」。フォーサイスが冷戦時の東ベルリンに駐在していた時、耳にした噂が起点となっている。それは、元ナチスのメンバーが、戦後に司直の手から逃れるために作った、謎の組織が存在するというものだった。 この噂話をベースに、綿密な取材を行って執筆した「オデッサ・ファイル」は、72年に出版。74年にジョン・ヴォイトが主演した映画化作品が、公開された。 そしてフォーサイスの第3作となったのが、「戦争の犬たち」である。こちらは彼が、「ロイター」から「BBC=英国放送協会」に転職した後、アフリカに赴いた時の経験から、発想した内容。ナイジェリアの内戦=「ビアフラ戦争」の取材を通じて、自分が知ったアフリカのこと、そしてそこで戦う白人傭兵たちについて描くことを、思い付いたとしている。 小説「戦争の犬たち」に登場するのは、独裁者であるキンバ大統領が君臨する、アフリカの架空の国ザンガロ。ここにプラチナの有望な鉱脈があることを知った、イギリスの大企業が、クーデターでキンバを倒すことを企てる。その上で、自分たちが立てた傀儡を大統領に据え、プラチナを独占しようという算段であった。 そこで雇われたのが、イギリスの北アイルランド出身の傭兵シャノン。彼は観光客を装ってザンガロを訪れ、綿密な調査を行う。そして、外部からの急襲作戦によって、政権打倒が可能であるとのレポートを提出した。 そのまま、クーデターの計画立案から、武器や兵員の調達や輸送、戦闘まで任されたシャノンは、気心が知れた傭兵仲間を招集。ヨーロッパの各地で準備を進め、やがて計画は実行に移される。 シャノンが率いる傭兵部隊は、犠牲を出しながらも、独裁者を倒すことに成功。手筈通り、黒幕の大企業の使者と、傀儡政権のトップを出迎える。 しかし実はシャノンは、大国や一部の富者の思惑や謀略によって、アフリカの国家やその住民たちが蹂躙される様を、傭兵生活の中で幾度も目撃し、憤りを覚えるようになっていた。そして彼の雇い主たちには、思いもよらなかった行動に出る…。 さて、処女作「ジャッカルの日」から「戦争の犬たち」まで、いずれもフォーサイスの、ジャーナリスト時代の見聞から拡げた物語であることは、先に記した通りである。その辺りをフォーサイス本人が詳述しているのが、2015年に出版された自伝「アウトサイダー 陰謀の中の人生」。そしてその中でフォーサイスは、自分がイギリスの秘密情報部「MI6」の協力者であったことも、明かしている。 それによると、「MI6」のエージェントが、フォーサイスに初めて接触してきたのは、1968年。「BBC」を辞めてフリーランスの記者として、「ビアフラ戦争」の取材を続けている時だった。この戦争によって、多くの子どもたちが餓死している惨状を、フォーサイスはエージェントに伝え、イギリス政府がこの戦争に対して取っている政策を、揺り動かそうとしたという。 アフリカに関してはその後、70年代に過酷な人種差別政策で知られた「ローデシア」の政権の動向を探ったり、80年代、「南アフリカ」が密かに保有していた核兵器に関する情報を収集したりなどの、協力を行ったとしている。 また同書によれば、73年には東ドイツを訪問。そこで、イギリスの協力者となっているソ連軍の大佐から紙包みを受け取り、西側に持ち出すというミッションまで敢行している。 そんなこともあって、新作の小説を発表する際には、フォーサイスは機密を知る人間として、「書きすぎた部分」はないか、「MI6」のチェックを受けていたとする。しかしこの自伝に関しては、私は些か眉唾との思いを、抱かざるを得ない。 秘密情報部からの依頼のみに止まらず、ジャーナリストとしての戦場取材や、小説を書くための裏社会のリサーチなどに於いて、あまりにも命懸け、危機一髪で死地をくぐり抜けるエピソードが多いのである。しかも時によっては、彼にとっては敵方に当たる東側の女性工作員とのアバンチュールもあったりする。まさに、ジェームズ・ボンドさながらである。 また東ドイツ駐在時に、彼のスクープによって、危うく「第三次世界大戦」の引き金を引きかけるくだりがある。そんなこんなも含めて、元ネタになった経験は実際にあったとしても、「話を盛ってるなぁ~」という印象が、拭えない。 しかし、当代随一のスパイ小説の書き手が、自らの人生を綴る中でも、旺盛なサービス精神を発揮したと思えば、それほど大きな問題はないのかも知れない。元々国際情勢の現実に則りながらも、エンタメ要素を加える手法が、高く評価されてきた作家であるわけだし。 だがこの「アウトサイダー」では、フォーサイスの歩みを知る者としては、一体どんな風に記すのか興味津々だった部分が、書かれていなかったりする。それは1972年、アフリカの小国「赤道ギニア共和国」で、フォーサイスがクーデターを支援するために傭兵部隊を雇い、政権転覆を企てたという、かなり有名な逸話についてだ。 このクーデターの資金は、「ジャッカルの日」の印税で、主たる目的は、フォーサイスが「ビアフラ戦争」で肩入れしていた、反乱軍の兵士たちのため。「ナイジェリア」を追われた彼らに、国を与えようとしたと言われる。 しかしこの計画は、船に武器を積み込む予定だったスペインで、傭兵隊長が身柄を拘束されて失敗に終わった。そしてこれらの経験を盛り込んで書かれたのが、「戦争の犬たち」だという。小説の中ではクーデターは成功し、フォーサイスの所期の目的も果たされる。 このクーデター未遂事件は、6年後の78年に、イギリスの新聞「サンデー・タイムズ」に報じられ、大きなニュースとなった。但しフォーサイス自身はこの件に関しては、作戦会議を取材しただけで、傭兵達が自分を首謀者だと思い込んだのだと、関与を否定しているが…。 虚実は、はっきりしない。しかしいずれにせよ、アクチュアルながらも、フィクションである物語を数多紡いできた、フォーサイスらしい逸話と言っても、良いのではないか? さて、そんな小説を映画化した本作『戦争の犬たち』は、原作のエッセンスは残しながらも、ストーリーをかなり省略。更にオリジナルの設定も、多分に盛り込んだ作りとなっている。 シャノンが、ザンガロへの調査の旅で、逮捕されて拷問に遭ったり、原作には登場しない、別れた妻との愁嘆場があったり。なぜこうした作りになったかと言えば、シャノンを演じるのが、クリストファー・ウォーケンだったからではないだろうか。 ウォーケンが一躍注目を集めたのは、今から42年前=1978年、彼が30代半ばの時に公開された、マイケル・チミノ監督のベトナム戦争もの『ディア・ハンター』。戦場で心を病み、ロシアン・ルーレットで命を落とす青年ニック役で、繊細且つ凄絶な演技を見せ、アカデミー賞助演男優賞を受賞した。 それに続く出演作は、80年に公開された2本。チミノ監督作への連続出演となる、『天国の門』、そして本作『戦争の犬たち』である。当時のウォーケンは、大作の“主演級スター”として、猛売り出し中だった。 また近年は、“個性派”或いは“怪優”といった印象が強いウォーケンだが、当時は女性ファンも多い、“二枚目”俳優であった。『戦場の犬たち』に、出世作『ディア・ハンター』を想起させるような“拷問”シーンや、切なさを醸し出す“ラブシーン”が用意されたのは、当時のウォーケンならではだったと思える。 しかし『天国の門』は、空前の失敗作扱いをされ、製作の「ユナイテッド・アーティスツ」を破綻に追い込んだのは、多くの方がご存知の通り。『戦争の犬たち』も興行成績がパッとせず、ウォーケンが“A級作品”の主役を演じるのは、83年の『ブレインストーム』や『デッドゾーン』辺りで、打ち止めとなる。まあ今になって考えると、大作の“主演”も“二枚目”扱いも、柄じゃなかったという気がしてくるが。 そしてウォーケンは、『007 美しき獲物たち』(85)で、当初デヴィッド・ボウイにオファーされていた悪役を、彼の代わりに演じた辺りから、「クセが強い」役柄が多い俳優となっていく。 余談になるが、ダニエル・クレイグがボンドを演じる現在、『007』シリーズの悪役は、ハビエル・バルデム、クリストフ・ヴァルツ、ラミ・マレックと、いつの間にかオスカー男優の定席となってしまった。だが実は、それ以前にオスカー受賞者で『007』の悪役を演じたのは、ウォーケンただ一人である。 最後に話をまとめれば、原作者が実際に起こそうとしたクーデターをベースに書いたと言われる物語を、当時は“二枚目”で“主演級”だった現“怪優”向けにアレンジしたのが、本作『戦場の犬たち』である。そう思うとこれは、1980年というタイミングだからこそ、作り得た作品とも言えるだろう。■ 『戦争の犬たち』(C) 1981 JUNIPER FILMS. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2020.08.06
巨匠ビリー・ワイルダーの巧妙な物語術に惑わされる傑作法廷サスペンス『情婦』
裁判の行方を根底から揺るがす容疑者の妻の証言とは…? ハリウッドの巨匠ビリー・ワイルダーによる、それは見事な法廷サスペンスである。『お熱いのがお好き』(’59)や『アパートの鍵貸します』(’60)を筆頭に、『麗しのサブリナ』(’54)に『七年目の浮気』(’55)、『あなただけ今晩は』(’63)などなど、師匠エルンスト・ルビッチ譲りの洗練されたコメディが日本でも親しまれているワイルダーだが、しかしその一方で出世作『深夜の告白』(’44)や『失われた週末』(’45)、『サンセット大通り』(’50)など、意外にダークでシリアスな作品も実は多い。まさしく硬軟合わせ持つ芸術家。彼が「ハリウッド黄金期における最も多才な映画監督のひとり」と呼ばれる所以だ。本作などは、そんなワイルダーの「多才」ぶりが遺憾なく発揮された映画だと言えよう。 舞台はロンドン。法曹界に名の知られた老弁護士ウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)は、心臓に大病を患い入院していたものの、看護婦ミス・プリムソル(エルザ・ランチェスター)の付き添いを条件に退院が許可される。久しぶりに事務所へ戻ったウィルフリッド卿だが、大好物の葉巻もウィスキーも禁じられているうえ、なにかと口うるさいミス・プリムソルにも辟易。すると、そんなところへ旧知の事務弁護士メイヒュー(ヘンリー・ダニエル)がやって来る。未亡人殺人事件の最重要容疑者と目されている男性レナード・ヴォール(タイロン・パワー)の弁護を、ウィルフリッド卿に引き受けて貰えないかというのだ。 それは、裕福な初老の未亡人エミリー・フレンチ(ノーマ・ヴァーデン)が自宅で何者かに撲殺されたという事件。自称発明家であるレナードは、ひょんなことからエミリーと親しくなり、彼女からの出資を期待して自宅へ出入りしていたらしい。自分は無実だと主張するレナードだったが、しかし未亡人の女中ジャネット(ユーナ・オコナー)が最後にエミリーと面会した人物は彼だと証言しており、なおかつ死後に発見された遺言書には8万ポンドの遺産相続人としてレナードが指名されている。はたから見れば遺産目的の殺人。明らかに状況は彼にとって不利だ。最初は病気を理由に弁護を断るつもりでいたウィルフリッド卿だったが、弁護士としての長年の勘からレナードが無実であると信じて引き受けることにする。 そうこうしていうちに警察が到着し、レナードは逮捕・起訴されることに。すると、入れ替わりでレナードの妻クリスチーネ(マレーネ・ディートリヒ)が弁護士事務所へ現れる。夫が殺人事件の容疑者として逮捕されたにも関わらず、顔色一つ変えることなく落ち着き払ったクリスチーネに違和感を覚えるウィルフリッド卿。ドイツ人の元女優である彼女は、終戦直後の貧しいベルリンで場末のキャバレー歌手として働いていたところ、当時駐留軍の兵士だった年下のレナードに見初められたという。夫のアリバイを証明するつもりのクリスチーネだったが、しかし被告人の婚姻相手の証言は裁判で疑われやすい。それに、彼女には重大な秘密があった。豊かなイギリスへ移住するため重婚を隠してレナードと結婚していたのだ。ウィルフリッド卿は不安要素の多いクリスチーネを証言台に立たせないことにする。 かくして、ロンドンの中央刑事裁判所オールド・ベイリーで始まった未亡人殺人事件の裁判。検察側は証人を巧みに誘導して裁判を有利に進めようと画策するが、老練なウィルフレッド卿は鋭い洞察力で次々と切り返していく。まさしく互角の戦い。むしろ、弁護側が優勢のように見えたのだが、しかし検察側はとっておきの隠し玉を準備していた。なんと、クリスチーネを証人として呼んでいたのだ。これはさすがのウィルフレッド卿も計算外。しかも、証人席に立ったクリスチーネから驚くべき発言が飛び出す。未亡人を殺したのはレナードだ、自分は夫から偽証を強要されたというのだ。どよめきに包まれる法廷。これにてレナードの有罪は動かしがたいものとなったと思われたのだが…? 原作は「ミステリーの女王」が手掛けた舞台劇 ネタバレ厳禁の作品ゆえ、これ以上のことをレビューに書けないのは惜しまれるが、とにかく終盤のどんでん返しに次ぐどんでん返しは圧巻で、数多のミステリーやサスペンスを見慣れた映画ファンでも驚きを禁じ得ないだろう。原作はアガサ・クリスティの戯曲「検察側の証人」。もともと短編小説として発表したものを、クリスティ自身が’53年に舞台劇として脚色した。細部まで徹底的に計算し尽くしたストーリー構成は、やはり「ミステリーの女王」たるクリスティの腕前であろう。とはいえ、作品全体としては明らかに「ビリー・ワイルダーの映画」に仕上がっている。 病院を退院して事務所へ戻ったウィルフリッド卿と看護婦ミス・プリムソルによる、夫婦漫才的な丁々発止のやり取りを軸としながら、最終的にウィルフレッド卿がレナードの弁護を引き受けるに至るまでの冒頭30分間の、スリリングかつ軽妙洒脱でリズミカルな展開の素晴らしいこと!これが単なる法廷サスペンスでもなければ犯罪ミステリーでもない、あらゆる要素を詰め込んだエンターテインメント映画であることを如実に印象づける。しかも、随所にフラッシュバック・シーンを織り交ぜてはいるものの、しかし全編を通して主な舞台は弁護士事務所と裁判所の2か所。それにもかかわらず、最後まで一瞬たりとも退屈したり間延びしたりすることがない。ウィルフリッド卿の眼鏡や魔法瓶、薬のタブレットなどの小道具をきちんとストーリーに活かした、細部まで遊び心を忘れない演出にも舌を巻く。映画的なストーリーテリングとはまさにこのことだ。 実は、クリスティの原作舞台劇にはウィルフリッド卿が病み上がりという設定も、看護婦ミス・プリムソルというキャラクターも登場しない。これらは映画版の脚本を手掛けたワイルダーとハリー・カーニッツ(『暗闇でドッキリ』『おしゃれ泥棒』)のアイディアだという。しかし、このウィルフリッド卿とミス・プリムソルこそが、欺瞞と虚構に彩られた本作における「真実」と「良心」の象徴であり、ストーリーそのものを牽引していく中核的な存在だ。恐らく、クリスティの原作をそのまま映像化していたら、ここまで面白い作品にはなっていなかっただろう。サプライズはあっても感動がなければ映画は成立しないのである。 もちろん、役者陣の卓越した芝居に負う部分も大きい。中でも、頑固でへそ曲がりだが人間味に溢れるウィルフレッド卿役のチャールズ・ロートンと、世話女房のように口うるさいがチャーミングで憎めないミス・プリムソル役のエルザ・ランチェスターは見事なもの。演技の息は完璧なくらいにピッタリ。さすが実生活で夫婦だっただけのことはある。撮影当時43歳と決して若くないものの、しかし母性本能をくすぐるダメ男レナード役にタイロン・パワーというのも適役。彼はこの翌年にスペインで心臓麻痺のため急逝し、結果的に本作が遺作となってしまった。 そして、クリスチーネ役のマレーネ・ディートリヒである。そもそも、彼女はビリー・ワイルダーが演出することを条件に本作のオファーを引き受けたと伝えられているが、フラッシュバックではミュージカル・シーンに加えて自慢の美脚まで披露するというサービスぶり。法廷シーンでの気迫に満ちた大熱演も見ものだし、ネタバレゆえ本稿では詳しく触れられないシーンの怪演にも驚かされる。本来ならばアカデミー賞ノミネートも妥当だったはずだ。 ―――ここから先は本編鑑賞後にお読みください――― ちなみに、そのディートリヒの怪演が光る鉄道ヴィクトリア駅のシーンだが、実はこれ、丸々全てスタジオのサウンドステージに作られたセットである。パッと見では分からないが、奥に映っている列車ホームは大きく引き伸ばされた写真だ。美術デザインを担当したのはフランス映画『霧の波止場』(’38)や『天井桟敷の人々』(’44)で知られるアレクサンドル・トローネル。『昼下りの情事』(’56)以降のワイルダー作品に欠かせないスタッフとなったが、一見したところロケ撮影としか思えない見事な仕事ぶりを披露している。もちろん、中央刑事裁判所もスタジオで再現されたセットだ。 なお、本作は当時からヒッチコック監督作品と誤解されることが多かったという。確かに、作品の雰囲気やストーリーはヒッチコックの『パラダイン夫人の恋』(’47)と似ている。あちらも主な舞台はロンドンの中央刑事裁判所で、セットの作りはほぼ同じだった。しかもチャールズ・ロートンまで出ている。ディートリヒは同じヒッチコックの『舞台恐怖症』(’50)でも、悪女的な役どころを演じていたっけ。なるほど、間違えられても無理はないかもしれない。■ 『情婦』(C) 1957 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2020.07.29
巨匠チャン・イーモウが、この時撮らなければならなかった、“武侠映画”第2弾!『LOVERS』
アメリカの西部劇や日本の時代劇と同じように、中華圏の映画には“武侠もの”という、伝統的なジャンルがある。それは、1920年代に中国で初めて製作され、60年代後半から70年代前半にかけては、イギリス統治下の香港で隆盛を極めた。 中国を舞台に、剣の達人たちが超能力のようなパワーを発揮し、宙を舞ってチャンバラを繰り広げる。伝統のワイヤー・アクションに、近年はCGやVFXも駆使されて、中国大陸では、“武侠もの”のTVドラマ大作シリーズの製作も、盛んに行われている。 そんな“武侠もの”を、中国映画界の巨匠チャン・イーモウ監督が初めて手掛けたのが、『HERO』(2002)。それに続く、イーモウの“武侠もの”第2弾が本作、2004年に公開された、『LOVERS』である。 本作が、『HERO』の興行的な成功を受けて成立した企画というのはもちろんだが、それだけではない。様々な側面から見て、イーモウにとっては、このタイミングに撮らなければならなかった。そしてこのタイミングでなければ、撮ることが出来なかった作品のように思える。 西暦859年。唐の大中13年― 凡庸な皇帝と、政治の腐敗で各地に反対勢力が台頭。 その最大勢力「飛刀門」は貧者救済で支持を集めた。 朝廷は飛刀門の撲滅を命じ、県の捕吏と飛刀門の死闘が続いていた…。 捕吏のリウ(演:アンディ・ラウ)とジン(演:金城武)が目を付けたのは、遊郭の踊り子である、シャオメイ(演:チャン・ツィイー)。生まれつき盲目ながら、見事な舞いを見せる彼女は、「飛刀門」の前頭目の娘と思われた。 「飛刀門」の本拠地を探るため、リウとジンは、シャオメイを罠に掛ける。リウが捕えたシャオメイを、無頼の徒を装ったジンが、救出。2人は、逃亡の道行きとなる。 リウは2人の後をつけて、道々でジンと連絡を取り合う。その際にリウは、「シャオメイに、本気になるなよ」と、ジンに何度も釘を刺すのであった。 しかしこの逃亡劇には、幾重もの謀が張り巡らされていた。ジンの正体を知らない、朝廷からの追っ手も掛かり、絶体絶命の窮地に陥る中で、ジンとリウ、そしてシャオメイ、2人の男と1人の女の運命は? 「北京電影学院」での学友チェン・カイコー監督の『黄色い大地』(84)『大閲兵』(85)などで撮影を担当したのが、中国映画界に於ける、チャン・イーモウのキャリアのスタートだった。その後、『古井戸』(86)に主演。俳優としての演技も経験してからの1987年、初監督作の『紅いコーリャン』を発表した。 この処女作から、自らが見出した女優コン・リーをヒロインに、中国の近代から現代までを舞台にした様々な“人間ドラマ”を手掛ける。そしてイーモウは、「ベルリン」「ヴェネチア」「カンヌ」などの、国際映画祭を席捲する存在となっていった。 妻子持ちのイーモウにとって、不倫の関係であった、コン・リーとの二人三脚は、『活きる』(94)で一旦解消となる。その後の作品も含めて、90年代までのイーモウ作品には、“アクション”のイメージはほとんどない。それ故に21世紀を迎えて、“武侠もの”である『HERO』を手掛けた際は、大きな驚きを持って迎えられた。 『HERO』は紀元前の中国、戦国時代を舞台に、英語タイトル通りに、ジェット・リーが演じる男性剣士を主人公とした物語。彼は、“義”に生きて“義”に死んでいく…。 一方『LOVERS』の主要登場人物3人は、“義”よりも“愛”に生きる。そして、“愛”に流されて“愛”に滅ぼされていく…。 『恋する惑星』(94)『天使の涙』(95)といったウォン・カーウァイ監督作品でスターになった金城武は、ちょうど30代に突入した頃。一方80年代後半より“四大天王(香港四天王)”と言われ、TOPスターとして走ってきたアンディ・ラウは、21世紀を迎えて、『インファナル・アフェア』シリーズ(02~03)が大ヒットとなった直後であった。それぞれにとって『LOVERS』は、キャリアのピークに近い頃の出演作と言える。 しかし本作の眼目は、やはりチャン・ツィイーにある!コン・リーがイーモウの元を去った後、『初恋の来た道』(99)のヒロインとして、イーモウに発掘された彼女にとって『LOVERS』は、『HERO』に続く、イーモウ作品3本目の出演。この頃のツィイーは、正にイーモウ監督のミューズと言える存在だった。 ここで注目すべきは、『初恋の来た道』の直後に、ツィイーが出演した作品である。それはアン・リーが監督した“武侠もの”『グリーン・ディスティニー』(00)。 この作品はアメリカをはじめ、各国で大ヒットとなった。そして中国語作品でありながら、本家「アカデミー賞」では、作品賞はじめ10部門でノミネート。その内、撮影賞、美術賞、作曲賞、そして外国語映画賞の4部門で、見事に受賞を果した。 台湾出身のアン・リーによる“武侠もの”が、世界的な大評判となったことが、イーモウのハートに火を付けたことは、想像に難くない。“武侠もの”を手掛けることはイーモウ本人が言う通りに、以前からの「念願」であったのかも知れない。しかしそれ以上に、中国を代表する監督として、アン・リーに後れを取ったままではいかないという、強烈な意識があったかと思われる。 イーモウの自負心の源は、氏育ちと関係あるだろう。彼の父親は、蒋介石率いる「国民党」の軍人だった。「国民党」は国共内戦に敗れ、台湾へと逃避したわけだが、イーモウの父は、中国に残った。そのため「中華人民共和国」成立後、「中国共産党」支配の下でイーモウの一家は、“最下層”の生活を余儀なくされた。 評論家の川本三郎氏のインタビューに応え、映画を志した理由を、イーモウは次のように語っている。 ~率直にいって映画が好きだったから北京電影学院に行ったわけではありません。私にとって、国民党の軍人の子どもという境遇から抜け出すことが大事だったんです。だから体育大学でもよかった…~ ~よくインタビューで「いつから映画に惹かれたか」と聞かれるんですが、答えようがないんですよ。映画でも体育でも美術でも、自分の境遇を変えられるものだったらなんでもよかったんですから。たまたま、それが映画になっただけなんです。~ ~映画が私の人生を変えたのではなく、私は生きのびるために人生を変えていったんです。それが最終的に映画監督という道につながったんです~ 一瞬、映画へのこだわりが、実は薄かったのかと、勘違いさせかねない物言いだ。いや、そんなことはないだろう。“映画”の才能こそを最大の武器にして、成功者となったわけである。“映画”こそ、イーモウの生きる術に他ならない! 近年のイーモウが、2008年の「北京オリンピック」開会式の演出を手掛けたり、“南京大虐殺”を取り上げた『金陵十三釵』(11/日本未公開)を撮ったことなどを指して、“国策監督”と揶揄する向きも少なくない。それを否定する気は毛頭ないが、彼が生半可な道を歩んで、ここまでのし上がってきたわけでないことは、覚えておいた方が良い。 建国の父・毛沢東の誤った政策であり、イーモウ自らも青春期に悲惨な目に遭った、「文革=文化大革命」の時代を取り上げた監督作品である『活きる』が、中国国内では「上映禁止」の憂き目に遭ったこともある。それにも拘わらず、「文革」の時代に振り回される庶民の物語を、『初恋のきた道』『サンザシの樹の下で』(10)『妻への家路』(14)と、折に触れては繰り返し映画化する辺り、たとえ“国策監督”であっても、凡庸ならざる存在である。 アン・リーの『グリーン・ディスティニー』は、「中国を代表する監督」という、イーモウの自負心を刺激しただけには、止まらなかったと、私は見る。自らが手塩に掛けたチャン・ツィイーの、“アクション女優”としての魅力を、先に引き出されてしまったことも、彼を“武侠もの”の実現へと、大きく動かすことになったのであろう。 イーモウとツィイーの関係は、とかく噂になっていたが、実際に「男女の仲」だったのかどうかは、寡聞にしてわからない。だが映画監督という立場からは、ツィイーがイーモウにとっては、「俺の女」という存在であったのは、間違いなかろう。 とにかくイーモウはツィイーで、“武侠もの”を!それも、『グリーン・ディスティニー』を超える作品を、どうしても撮らなければならなかったのではないか? とはいえ『HERO』は、先にも挙げたように、ジェット・リーが主演の“英雄”の物語である。脇を固める、トニー・レオン、マギー・チャン、ドニー・イェンら中華圏の大スター達と、ツィイーも同格の活躍を見せるものの、彼女がヒロインというわけではない。 この作品を経て、本作『LOVERS』へと行き着くわけだが、先に述べた通り、主要な登場人物たちの方向性は、『HERO』とは180度転換。“義”よりも“愛”を選ぶ者たちとしたのは、正にヒロインとしての“ツィイー”の魅力を、最大限に引き出すための仕掛けと言えるだろう。 またツィイー演じるシャオメイは、遊郭の踊り子として登場するわけだが、これもまさに、彼女のための設定。8歳から舞踏を始めたツィイーは、11歳から「北京舞踊大学附属中学」でダンスを学び、14歳の時には「全国桃李杯舞踏コンクール」で演技賞を受賞している。そんな彼女の実力と魅力を存分に見せる舞いが、本作序盤の大きな見せ場となっているのである。 それにしてもイーモウの、『グリーン・ディスティニー』への対抗意識の激しさたるや!ジンとシャオメイを狙って、朝廷の兵士たちが“竹林”の上方から攻撃を仕掛けるシーンがある。これはキン・フ―監督の『侠女』(71)という、伝説的な“武侠もの”へのオマージュであるのだが、『グリーン・ディスティニー』にも同様に、『侠女』へのオマージュとして、“竹林”での戦いのシーンがある。イーモウ監督は、「アン・リーよりも凄いシーンを見せてやる」とばかりに、敢えて“竹林”を舞台に、物量を以って驚くべき戦闘シーンを作り出している。 さて結果的に『LOVERS』は、『グリーン・ディスティニー』を超えることが出来たのか?本作でのツィイーは、アン・リー作品よりも魅力的に映っているのか?それに関しては、世評や興行の結果はさて置いて、観る者の判断に委ねたいと思う。 いすれにせよ最初に記した通り、イーモウにとって本作は、このタイミングに撮らなければならなかった。そしてこのタイミングでなければ、撮ることが出来なかった作品だったのである。 『LOVERS』は今のところ、イーモウがチャン・ツィイーと組んだ、最後の作品となっている。それから14年経って、イーモウが久々に手掛けた“武侠もの”第3弾『SHADOW/影武者』(18)の出演陣に、ツィイーの顔はない。 『LOVERS』は唯一無二のタイミングで、イーモウが渾身の力を振り絞って、自らのミューズの輝きを、最大限に引き出さんとした試みだったのだ。■ 『LOVERS』(C)2004 Elite Group(2003)Enterprises Inc.
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COLUMN/コラム2020.07.28
セックスと残酷描写満載で南部の醜い現実を叩きつけようとした“呪われた映画”
今回は『マンディンゴ』(75年)という凄まじい映画を紹介します。マンディンゴとは、南北戦争前のアメリカ南部で、白人たちが最高の黒人奴隷としていた種族というか“血統”です。 これはアメリカ映画史上最も強烈に奴隷制度を描いた映画です。公開当時には大ヒットしたんですが、映画評論家やマスコミから徹底的に叩かれ、DVDも長い間、発売されませんでした。それほど呪われた映画です。 映画は南部ルイジアナ州の“人間牧場”が舞台です。アメリカはずっと黒人奴隷を外国から輸入してたんですが、それが禁止されてから、奴隷をアメリカ国内で取引・売買するようになりました。そこでマクスウェル家の当主ウォーレン(ジェームズ・メイソン) は、黒人奴隷たちを交配して繁殖させ、出来た子供を売ることで莫大な利益を得ています。 また、奴隷の持ち主たちは黒人女性を愛人にしていましたが、彼らの奥さんには隠してませんでした。しかも、 奴隷との間に生まれた子も平気で奴隷 として売っていたんです。 なぜなら、南部の白人たちは、黒人制度を正当化するために“黒人には魂 がない”と信じていました。そうしないと、「すべての人は平等である」と書かれた聖書に反してしまうからです。南部の人は黒人を人間と思っていなかったので、普通の医者ではなく獣医にみせていました。 しかしマックスウェル家の息子ハモンド(ペリー・キング)はそれが間違っていることに気づいていきます。きっかけは 奴隷の黒人女性エレン(ブレンダ・サイクス)を愛したこと。それに、マ ンディンゴの若者、ミード(ケン・ノートン)と友情を結んだからなんです。しかし、白人の妻(スーザン・ジョージ) がミードの子を妊娠して......。 原作はベストセラーでした。でもハリウッドではだれも映画化しようとせず、イタリアの大プロデューサー、デ ィノ・デ・ラウレンティスが製作しま した。彼は製作するときに“仮想敵” を掲げていました。『風と共に去りぬ』(39年)です。南部の奴隷農園をロマンチックに美化した名作映画に、醜い現実を叩きつけようとしたのです。 この番組では巨匠たちの“黒歴史” 映画を積極的に紹介してるんですが、本作もその1本。監督はリチャード・ フライシャー。『海底二万哩』(54年)、『ドリトル先生不思議な旅』(67年)、『トラ・トラ・トラ!』(70年) などを作ってきた天才職人です。彼は、「今までの南部映画はヌルすぎる。俺はこの映画で真実を全部ぶちまける」と考え、セックスと残酷描写満載の『マンディンゴ』を撮り、世界中で大当たりしました。 でも、「アメリカの恥部をさらした」 と言われ、『マンディンゴ』は長い間、「なかったこと」にされてきましたが、 90年代、あのクエンティン・タラン ティーノが「『マンディンゴ』は傑作 だ!」と言ったことでDVDが発売され、再評価されました。 そしてタランティーノが『マンディンゴ』へのオマージュとして撮ったのが『ジャンゴ繋がれざる者』です。 というわけで南部の真実を描きすぎて呪われた傑作『マンディンゴ』、御覧ください! (談/町山智浩) MORE★INFO.●原作の『マンディンゴ』(1957年/河出書房)は、本国で450万部を超えるベストセラーで、1961年には舞台劇化もされている。農園から名前を取った原作の“ファルコンハースト”シリーズは全部で15作もある。●父ウォーレン役は最初チャールトン・ヘストンにオファーされたが断られ、英国人俳優ジェームズ・メイソンが演じた。彼は後年、「扶養手当を支払う ために映画に出ただけだ」とインタビューで語っている。●息子ハモンド役は、オファーされたボーとジェフのブリッジス兄弟、ティモシー・ボトムズ、ジャン・マイケル・ヴィンセントらに次々と断られ、ペリー・キングに。●シルヴェスター・スタローンがエキストラ出演している。●映画から15年後を描いた続編に『ドラム』(76年/監:スティーヴ・カーヴァー)がある。 (C) 1974 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2020.07.03
‘50年代SF映画ブームの起爆剤となったジョージ・パルの代表作『宇宙戦争(1953)』
ハリウッドでは過小評価され続けたSF映画 ご存じ、スティーブン・スピルバーグ監督×トム・クルーズ主演によって、’05年にリメイクもされたSF映画の金字塔である。火星人による地球侵略の恐怖とパニックを、当時の最先端の特撮技術を用いて描いたスペクタクルなSF大作。ハリウッドでは’50年代に入ってSF映画の本格的なブームが到来するが、その象徴とも呼ぶべき作品がこの『宇宙戦争』だった。 そもそも、フランスが生んだ映像の魔術師ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(’02)や、ドイツの巨匠フリッツ・ラングによる『メトロポリス』(’26)、H・G・ウェルズ自らが脚本を書いたイギリス映画『来るべき世界』(’36)など、ヨーロッパではサイレントの時代から正統派のSF映画が脈々と作られてきた。しかし、一方のハリウッドへ目を移すと、純然たるSF映画は戦後まであまり見当たらなかったと言えよう。 ざっくりとSF映画にジャンル分けされる当時のアメリカ映画を振り返っても、例えば子供たちに人気を博した『フラッシュ・ゴードン』(’36)シリーズや『バック・ロジャーズ』(’39)シリーズなどは基本的にヒーロー活劇だし、『フランケンシュタイン』(’31)や『キング・コング』(’33)などもSFというよりはモンスター・ホラー、『失はれた地平線』(’37)や『明日を知った男』(’44)辺りになると完全にファンタジーである。しかも、一部を除いて大半は低予算のB級映画で、空想科学(Science Fiction)の「科学」だってないがしろにされがち。要するに、SFというジャンル自体がハリウッドでは成立しづらかったのである。 しかし、第二次世界大戦後になるとテクノロジーの飛躍的な進化とともに、アメリカ国民の宇宙開発や最先端科学への関心も急速に高まっていく。もはや、科学をおろそかにした空想科学映画は通用しない時代になりつつあった。そうした世相を背景に、いち早く本格的なSF映画として勝負に打って出たのが、ハリウッドにおける特撮SF映画のパイオニアであるジョージ・パルが製作した『月世界征服』(’50)。これはハリウッド史上初めて科学的根拠に基づいて宇宙旅行を描いたSF映画であり、大々的な宣伝キャンペーンも功を奏してスマッシュ・ヒットを記録、アカデミー賞の特殊効果賞やベルリン国際映画祭の銅熊賞を獲得するなどの高い評価を得た。 さらに、その翌年にはエイリアンの地球侵略を題材にした『遊星よりの物体X』(’51)と『地球の静止する日』(’51)が相次いで大ヒット。当時のアメリカでは東西冷戦の緊張の高まりを背景に、自国がソビエトによって侵略されるかもしれないとの不安が広まり、それがジョセフ・マッカーシー上院議員の扇動する共産主義者への人権弾圧、いわゆる「赤狩り」のパラノイアを生み出したわけだが、これらのSF映画はそうした社会不安の時代に上手くマッチしたのだろう。 以降、ハリウッドのSF映画はエイリアンによる地球侵略物を中心に盛り上がり、たちまち「SF映画黄金時代」の様相を呈してく。その空前とも言えるブームの頂点を極めた作品が、『月世界征服』と『地球最後の日』(’51)に続いてジョージ・パルがプロデュースした『宇宙戦争』だったのである。 SF映画の歴史を変えた製作者ジョージ・パル ジョージ・パルはもともとハンガリー出身のアニメーション作家。ナチス・ドイツの台頭を逃れてアメリカへ移住し、友人だったアニメーター、ウォルター・ランツ(ウッディー・ウッドペッカーの作者)の助けで米国籍を取得してパラマウントで働くようになる。アメリカではドイツ在住時代に自身が開発した人形アニメ、パル・ドールの技術を改良し、子供向けの御伽噺を映像化した短編ストップモーション映画「パペトゥーン」シリーズを’42~’47年にかけて製作。その功績が評価され、’44年にはアカデミー特別賞を獲得した。 その一方で実写劇映画への進出を目論んでいたパルは、イギリスの映画会社ランクオーガニゼーションのアメリカ支社に当たるイーグル=ライオン社の出資を取りつけ、2本の実写映画を立て続けに制作する。それがパペトゥーンの技術を生かしたコメディ映画『偉大なルパート』(’50)と、先述したSF特撮映画『月世界征服』。この成功を足掛かりに、パルはパラマウントで『地球最後の日』を制作するのだが、しかしSFジャンルに懐疑的なスタジオ側は十分な予算を与えず、パルにとっては不本意な仕上がりとなってしまう。そんな彼が次に取り組んだ企画が、SF小説の大家H・G・ウェルズの代表作『宇宙戦争』の映画化だった。 1897年にイギリスの雑誌「Pearson’s Magazine」に連載されたH・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』は、その後アメリカの「New York Evening Journal」でも連載されて大評判となり、後世のSF小説に多大な影響を及ぼすことになった。ハリウッドでは1924年にパラマウントの社長ジェシー・ラスキーが映画化権を獲得。しかし、具体的に映画化されることなく歳月が流れ、その間にセシル・B・デミルやアルフレッド・ヒッチコックらが関心を示すものの実現はしなかった。あのレイ・ハリーハウゼンも『宇宙戦争』の映画化を切望し、テスト・フィルムまで製作してジェシー・ラスキーに売り込んだが、出資者が見つからずに頓挫した。唯一の例外は、1938年のハロウィンに放送されてアメリカ中に衝撃を与えた、鬼才オーソン・ウェルズの脚色・演出・ナレーションによるラジオ・ドラマ版だ。あまりにも真に迫った内容だったため、本当に宇宙人が攻めてきたと勘違いした全米のリスナーがパニックを起こしてしまったのである。 閑話休題。とりあえず『宇宙戦争』の映画化権がパラマウントにあると知ったジョージ・パルは、数々のフィルムノワール作品で知られるバー・リンドンに脚色を依頼し、それを携えてパラマウントの重役に企画を売り込むものの、その場で脚本をゴミ箱に捨てられてしまったという。脚本を読みもせず門前払いしようとする重役に食ってかかったパルだったが、その騒ぎを聞いて仲裁に駆け付けた別の重役が映画化を約束。最終的に200万ドルという莫大な予算を与えられることになるものの、このエピソードだけでも当時のハリウッドの大手スタジオが、SF映画をどれだけ過小評価していたのかよく分かるだろう。 宇宙人の地球侵略に人類はどう対抗するのか…!? 原作の舞台設定はビクトリア朝時代のイギリスだが、ジョージ・パル版では現代の南カリフォルニアへと変更されている。ある日、世界各地で隕石が飛来。カリフォルニアの小さな町にも隕石が墜落し、たまたま近くにいた高名な科学者フォレスター博士(ジーン・バリー)は、ロサンゼルスからやって来た科学研究所パシフィック・テックの職員シルヴィア(アン・ロビンソン)らと共に、隕石の調査をすることとなる。ところがその翌晩、隕石の中から不気味なアーム状の物体「コブラ・ヘッド」が飛び出し、駆けつけた州兵や科学者、マスコミ関係者へ対して攻撃を始めるのだった。 すぐさま近隣の米軍が総動員されるものの、しかしコブラ・ヘッドから放たれるビーム光線の強大な破壊力には敵わない。そればかりか、コブラ・ヘッドの下からUFO状の飛行物体「ウォー・マシーン」が出現。総攻撃を仕掛ける軍隊だったが、透明シールドに守られたウォー・マシーンはビクともせず、遂には最前線の基地が木っ端みじんに破壊されてしまう。辛うじて脱出したフォレスター博士とシルヴィアだったが、飛び乗ったセスナ機が途中で墜落してしまい、急いで逃げ込んだ民家でエイリアンに遭遇する。 シルヴィアに襲いかかったエイリアンを斧で撃退したフォレスター博士。そこで敵の血液サンプルと偵察用カメラを手に入れた2人は、ロサンゼルスのパシフィック・テック本部にそれを持ち込み、エイリアンを迎え撃つ策を練る。しかし、既に世界各地の都市が陥落しており、ロサンゼルスが敵の攻撃に晒されるのも時間の問題。そこで米政府は、最終兵器である原子力爆弾の使用に踏み切るが、期待も空しくまるっきり歯が立たなかった。いよいよロサンゼルスへと迫りくるウォー・マシーン軍団。果たして、このままアメリカ西海岸もエイリアンの手に堕ちてしまうのか…!? 企画段階ではレイ・ハリーハウゼンも関わっていた…? 本作が成功した最大の要因は、火星人による地球への侵略という突拍子もない設定を大真面目に捉え、当時の科学的知識や軍事的戦略をしっかりと織り交ぜることで、それまでのSF映画にありがちな荒唐無稽を極力排した、シリアスな「戦争映画」として仕上げている点にあるだろう。第一次世界大戦と第二次世界大戦のモノクロ記録映像で幕を開けるオープニングなどはまさにその象徴。さらに、まるで本物の天体写真かと見紛うばかりに精密な火星や土星などのマットペイントを駆使し、高度な文明を有しながらも感情を持たない火星人が、どのような事情で故郷の惑星を捨てて地球への侵略計画を進めてきたのか、ドキュメンタリーさながらのリアリズムで丹念に説明をする。これがまた、にわかに信じがたい物語に独特の説得力を持たせるのだ。 ちなみに、このマットペイントを担当したのが、フランスのルシアン・ルドーと並ぶ「現代スペース・アートの父」と呼ばれ、その作品がアメリカの国立航空宇宙博物館にも展示されている有名な画家チェズリー・ボーンステル。彼はオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(’40)や『偉大なるアンバーソン家の人々』(‘42)のマットペイントも手掛け、ジョージ・パルとは『月世界征服』と『宇宙征服』(’55)でも組んでいる。 また、特殊効果マン出身のバイロン・ハスキンを監督に起用したのも正解だった。ワーナー・ブラザーズで『真夏の夜の夢』(’35)や『女王エリザベス』(’39)、『シー・ホーク』(’40)などの特殊効果を手掛け、アカデミー賞にも4度ノミネートされた実績のあるハスキンは、当時の原始的な技術を用いた本作の特撮シーンを、いかにリアルかつスペクタクルに見せるかという演出のツボを心得ている。中でも、爆撃によって立ち込める煙の中から「ウォー・マシーン」がゆっくりと姿を現すシーンなどは、ミニチュアを吊り下げる無数のピアノ線を煙で隠すという本来の目的を果たしつつ、人類の英知を結集した武器をもってしても敵わない「ウォー・マシーン」の無敵感と恐怖感を存分に煽って効果的だ。 そのウォー・マシーンをデザインしたのは、セシル・B・デミルも御贔屓だった日系人美術デザイナーのアル・ノザキ。H・G・ウェルズの原作では三脚型のトライポッドとして描かれ、スピルバーグ監督のリメイク版もそれに準じているが、本作では技術的な問題からUFO型の飛行物体へと変更された。原作と違うのはウォー・マシーンだけではない。火星人のキャラクター・デザインも同様だ。ウェルズの描いた火星人はタコに似た姿をしていたが、実物大の着ぐるみとして登場させるため、やはりアル・ノザキが独自に火星人をデザインし、特殊メイク・アーティスト兼スーツ・アクターのチャーリー・ゲモラが着ぐるみを制作した。 なお、先述したレイ・ハリーハウゼンのテスト・フィルムでは、原作通りのタコ型エイリアンがストップモーション・アニメで描かれている。そもそも実は、ジェシー・ラスキーに売り込んだ『宇宙戦争』の企画が頓挫した後、『月世界征服』を見たハリーハウゼンはジョージ・パルのもとへテスト・フィルムを持ち込んでいるのだ。しかし当時、既にパルは『宇宙戦争』の映画化をパラマウントと交渉中だったのだが、そのことをハリーハウゼンには隠して企画資料とテスト・フィルムを受け取ったという。さらに、パルは映画『親指トム』の企画売り込みに例のテスト・フィルムを使いたいとハリーハウゼンに持ち掛け、実現した暁には彼にストップモーション・アニメを担当させることまでほのめかしたそうだ。 しかし、そのまま何カ月も音沙汰がなく、ようやくかかってきた電話でパルは、『宇宙戦争』も『親指トム』も売り込みに失敗したとハリーハウゼンに告げたという。それが’51年のこと。ところがどっこい…である。その2年後にジョージ・パル製作の『宇宙戦争』が公開され、さらに7年後には『親指トム』も映画化された。まあ、映画の企画というのは実現までに紆余曲折あるのが当たり前なので、決してパルがハリーハウゼンを騙して利用したというわけではないのだろうが、それにしても皮肉な話ではある。 かくして、’53年7月29日に公開されたジョージ・パル版『宇宙戦争』は、スタジオの期待を遥かに上回るほどの大ヒットを記録し、アカデミー賞でも特殊効果賞を獲得。これを機にディズニーの『海底二万哩』(’54)やワーナーの『放射能X』(’54)、ユニバーサルの『宇宙水爆戦』(’55)、MGMの『禁断の惑星』(’56)など、各メジャー・スタジオが次々と本格的なSF大作を手掛けるようになり、ブームが一気に加速することとなったわけだ。といっても、もちろん低予算のB級作品の方が数的には遥かに多かったのだけれど。 ちなみに、先述したようにウォルター・ランツと親友だったジョージ・パルは、恩人でもあるランツが生み出したアニメ・キャラ、ウッディー・ウッドペッカーを、いわばラッキー・チャーム(縁起物)として自作に登場させることが多い。この『宇宙戦争』も御多分に漏れず。最初に隕石が墜落する夜の森林シーンで、画面中央に位置する木のてっぺんをよく見ると、ウッディらしき鳥の姿が確認できる。■ 『宇宙戦争(1953)』(C) Copyright 2020 Paramount Pictures Corporation. 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COLUMN/コラム2020.07.03
韓国発!テン年代“初恋映画”の決定版!! 『建築学概論』
2012年3月、韓国で1本の映画が公開され、“恋愛映画”としては当時の歴代№1ヒットとなった。410万人もの観客動員を記録した、それが本作『建築学概論』である。 日本では、翌13年5月に公開。韓国のような、特大ヒットとまではいかなかったが、数多の熱烈なファンを生み出した。 ソウルの建築事務所に勤める、30代中盤の建築士スンミン(演:オム・テウン)。そこにある日突然、大学で同級だったソヨン(演:ハン・ガイン)という女性が訪れる。15年ぶりの再会であった。 ソヨンは、「郷里の済州島に、家を建ててほしい」と、スンミンにオーダーした。彼女の父は病床にあり、余命いくばくもない。そんな父と暮らすための、家である。 スンミンは、設計図を引き建築を進めていく中で、1990年代前半=大学1年の時の記憶が甦っていく。それは甘酸っぱくもほろ苦い、“初恋”の想い出だった。 建築学科のスンミン(ダブルキャスト=イ・ジェフン)と音楽学科のソヨン(ダブルキャスト=スジ)の出会いは、「建築学概論」という講義。教室に飛び込んできたソヨンに、スンミンは一目で惹かれる。 スンミンの実家とソヨンの下宿先が、偶然近所だったことから、2人は仲良くなる。そして楽しい時を、共に過ごすようになっていく。 CDウォークマンのヘッドフォンを片チャンネルずつ分けて、ヒット曲を聴いたり、近所の廃屋を、2人だけの秘密の城に改装したり。ソヨンの誕生日、ピクニックに出掛けた帰り、スンミンは眠っているソヨンの唇に、そっと口づけをしてしまう。 「初雪の日に会おう」と、指切りまでして交わした約束。しかしそれは、果されることがなかった。不幸な行き違いと幼さ故の臆病から、ある時2人の距離は、決定的に遠ざかってしまうのだった…。 こうした、大学1年時の思い出の描写と、30代中盤に差し掛かってからの再会の物語が、交互に進んでいく。 ヨーロッパなどで上映された際は、大学時代のスンミンに対して、「彼は変態か!?」という疑問の声が上がったという。どう見たって、ソヨンの気持ちが自分にあるのはわかるだろうに、手出しできずにうじうじくよくよする姿が、理解不能だったらしい。 “恋愛”に関しての、彼我の差という他はないだろう。それに対して、韓国や日本の観客の多くにとっては、『建築学概論』の“初恋”の描写は、「あるある」「わかるわかる」というものだった。 私は本作を観た直後、自分が大学1年の時に好きだった女の子のことが、頭に浮かんだ。2人で映画を観に行ったり、公園を裸足で散歩したりといった、想い出と共に。 もう、35年も前のことである。それなのに、彼女の一挙手一投足にドギマギしたことを、今でも鮮明に想い出せる。そして私もこの恋に対しては、うじうじくよくよして、甚だふがいなかった。本作の公開時の惹句、「みんな 誰かの初恋だった―。」が、ただただ胸に染み入る…。 余談はさて置き、本作で描かれる“初恋”や“青春時代”が、かくもキラキラと輝いて映るのには、韓国という国の風土や歴史も、無視できない。本作の監督・脚本を手掛けたイ・ヨンジュ曰く、「韓国では大学1年生は最も輝いている瞬間」「大学1年生の頃の思い出は、いつも夏の日のよう。すべて美化される」。 監督は主人公と同じく、90年代前半に大学に通い、「建築学」を専攻している。自らの経験に基づく、実感が籠った言である。 日本以上に厳しい受験戦争を経て、勝ち取った解放感と共に、韓国では大学生になると、高校までは地元中心だった交友関係や活動範囲が、劇的に広がるという。またこの時期は、男性に義務付けられている徴兵まで、幾ばくかの猶予があることも、大きいのであろう。 「90年代前半」という時代背景も、ポイントである。韓国では、軍事独裁政権が長く続いた後、「ソウル五輪」の前年=87年になって漸く、「民主化宣言」が行われた。その後97年12月に、深刻な「IMF危機」に襲われるまでの10年ほどは、多くの若者たちにとって、“青空”が果てしなく広がっていた時代と言える。 もちろん、その時代に“青春”を過ごした者たちの中にも、個人差はある。しかし韓国と同様、長きに渡る“戒厳令”が終わった後、“民主化”された台湾の、90年代の高校生の姿を描いた、『あの頃、君を追いかけた』(11)や、バブル経済の頃の日本の大学生が主人公である、『横道世之介』(13)等々を思い浮かべてみよう。アジアのそれぞれの国で、多くの若者たちにとって“青空”が広がる、希望に満ち溢れた時代を舞台にした青春映画に「傑作」が多いのは、決して偶然ではあるまい。 本作『建築学概論』では、主人公2人がそれぞれ「二人一役」によって演じられる。これもまた、成功の要因となった。 大学時代のスンミンとソヨンを演じた、イ・ジェフンとスジのフレッシュさといったら!製作当時、K-POP女性グループの「miss A」メンバーとして人気を博していたスジだが、この作品の成功によって、「国民の初恋」と言われる存在にまでなった。 一方30代を演じるのは、オム・テウンとハン・ガイン。大学時代のスンミンとソヨンのキャラは引き継ぎつつも、「汚れちまった悲しみに」といったニュアンスも漂わせる、“オトナ”の2人である。 そんな30代の2人が新居の建築を進めていく中で、かつて実らなかった大学1年時の“初恋”を、どう完成させるのか?それが、物語の焦点となっていく。 監督言うところの、「未完の過去を復元する話」というわけだが、大学1年時と30代を演じる俳優同士は、容貌などは必ずしも似てはいない。しかし「二人一役」にしたことによって、結果的には主人公たちの15年という歳月の隔たりが、効果的に表現されたのである。 イ・ヨンジュ監督本人も、大学卒業後に建築士となった。そして10年間働いた後に、映画界入り。スタッフとして、ポン・ジュノ監督に就いた。 監督が、『殺人の追憶』(03)の現場スタッフを務めていた頃には、すでに本作の脚本は書き上がっていたという。本来はこれを初監督作としたかったのだが、様々な映画会社に企画を持ち込む度に、物語の結末を、はっきりとした「ハッピーエンド」に改変することや、内容をもっと「説明的」にすることを要求され続けた。 そのため、映画化の実現までは時間が掛かり、2009年には、別の企画で監督デビューとなった。最初に書いた通りのエンディングを支持してくれる会社に出会い、『建築学概論』が完成に至るまでには、実に10年もの歳月が流れたのである。 本作について監督が、「未完の過去を復元する話」と言っていることは、先に記した。監督のプロフィールや製作の紆余曲折を見ると、本作を作り上げることは、監督本人にとっても正に、「未完の過去を復元する話」だったのであろう。 念願かなって、望んだ形での映画化が実現し大成功を収めた後、暫しの沈黙が続いたイ・ヨンジュ監督。今年=2020年に、8年振りの新作として、パク・ボゴムとコン・ユが主演した『徐福』が、韓国で公開される予定となっている。 『徐福』は、人類初のクローン人間を追って、彼を掌中に収めようとする、幾つかの勢力が争う内容と伝えられている。きっと『建築学概論』とはまったく違った、新たなステージを見せてくれるであろう。 それはそれで大いに期待しながらも、いま改めて、『建築学概論』という作品を作ってくれたことに対して、イ・ヨンジュ監督に大きな感謝を示したい。過ぎ去った青春期の、燦然と輝く多幸感と、あの頃に残してきた、傷ましくも眩い、後悔の念。本作を観る度に、それらがセンチメンタルに蘇ってくる。 懐古主義と、笑うなかれ。ひとは振り返れる過去があるからこそ、前に向かって歩んでいけるのだ。■ 『建築学概論』(C) 2012 LOTTE ENTERTAINMENT All Rights Reserved