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COLUMN/コラム2024.03.01
ミステリー・ファンを魅了してきたアガサ・クリスティ映画の軌跡
ミステリーの女王は自作の映画化に後ろ向きだった? アカデミー賞で6部門にノミネートされた『オリエント急行殺人事件』(’74)の大ヒットをきっかけにブームとなったアガサ・クリスティ映画シリーズ。折しも、’50年代半ばから’60年代にかけて、スタジオシステムの崩壊やテレビの普及などの影響で低迷したハリウッド映画界が、ニューシネマの時代を経て往時の勢いと輝きを取り戻しつつあった当時、キラ星の如きオールスター・キャストに贅の限りを尽くした美術セットと衣装、セックスやバイオレンスよりも謎解きのトリックとメロドラマを楽しむ優雅なストーリーなど、まるで黄金期のハリウッド映画を彷彿とさせるようなグラマラスなゴージャス感が、世界中の映画ファンを虜にしたのである。3月のザ・シネマでは「ミステリーな春/アガサ・クリスティ特集」と銘打って、当時のシリーズ作品の中から『ナイル殺人事件』(’78)に『クリスタル殺人事件』(’80)、『地中海殺人事件』(’82)を放送。そこで、今回は同シリーズを中心としたアガサ・クリスティ映画の軌跡を振り返ってみたい。 「ミステリーの女王」として世界中の推理小説に多大な影響を与えたイギリスの推理作家アガサ・クリスティ。なにしろ知名度の高いスター作家ゆえ、その作品は古くから映画化されてきた。最も古い映画化作品は「謎のクイン氏」シリーズ第1弾「クイン氏登場」を原作とするイギリス映画『The Passing of Mr. Quin』(’28・日本未公開)とされているが、最初の重要な作品はフランスの巨匠ルネ・クレールがクリスティの同名小説をハリウッドで映画化した『そして誰もいなくなった』(’45)であろう。 とある島の豪邸に招かれた10名の客人と召使いが、童謡「10人のインディアン」の歌詞になぞらえて次々殺されていくという傑作ミステリー。そもそも原作小説がクリスティの代表作として名高い傑作ゆえ、その映画版も極めて完成度が高かった。その後、イギリスの有名なB級映画プロデューサー、ハリー・アラン・タワーズが原作の映画化権を入手し、『姿なき殺人者』(’65)に『そして誰もいなくなった』(’74)、『アガサ・クリスティ/サファリ殺人事件』(’89)と3度に渡って映画化。中でも、’74年版の『そして誰もいなくなった』は同年公開された『オリエント急行殺人事件』を強く意識し、オリヴァー・リードにリチャード・アッテンボロー、シャルル・アズナヴール、エルケ・ソマーなどヨーロッパ映画界のビッグネームをズラリと揃えたオールスター・キャスト映画だった。 また、『サンセット大通り』(’50)や『お熱いのがお好き』(’59)の巨匠ビリー・ワイルダーが、クリスティの「検察側の証人」を映画化した『情婦』(’57)も評判となり、アカデミー賞で6部門にノミネート。’60年代にはイギリスの名脇役女優マーガレット・ラザフォードが素人探偵ミス・マープルを演じた『ミス・マープル/夜行特急の殺人』(’61)が大ヒットし、以降も3本の続編が作られるほどの人気シリーズとなったものの、しかし「ABC殺人事件」を映画化した『The Alphabet Murders』(’65・日本未公開)を最後にアガサ・クリスティ作品の映画化がしばらく途絶えてしまう。というのも、同作は小説版をコメディへと大胆に改変したのだが、これを見た原作者のクリスティは大いに失望したのである。そもそも、それまでの映画化作品の多くも、彼女にはいろいろと不満ありだったらしい。これ以降、原作「終わりなき夜に生まれつく」をほぼ忠実に映画化した『エンドレス・ナイト』(’71)を唯一の例外として、クリスティは自作の映画化を許可しなくなってしまった。 シリーズは『オリエント急行殺人事件』から始まった 時は移って’70年代初頭。シェイクスピア映画『ロミオとジュリエット』(’68)で有名なプロデューサー・コンビ、ジョン・ブレイボーン卿とリチャード・グッドウィンは、英国ロイヤル・バレエ団が着ぐるみで動物を演じる異色のバレエ映画『ピーター・ラビットと仲間たち』(’71)を大ヒットさせる。同作は共産圏のソヴィエトでも評判となり、グッドウィンはモスクワへ招待されることになった。本人の記憶だと’73年頃のことだという。その際、彼は当時まだ小学生だった娘デイジーを同伴したのだが、モスクワ滞在中に彼女は持参した本をずっと夢中になって読んでいた。それがアガサ・クリスティの小説「オリエント急行の殺人」だったのである。特にこれといってクリスティのファンではなかったというグッドウィンだが、娘に誘発されて自分も読んでみたところハマってしまったのだそうだ。 これは絶対に映画化すべきだと考えたグッドウィンだが、しかしクリスティが自作の映画化をなかなか許可しないという情報も知っていた。そこで一肌脱いだのがビジネス・パートナーのブレイボーン卿である。実はブレイボーン卿の妻パトリシアはヴィクトリア女王の玄孫にしてエリザベス2世の三又従妹、義理の父親ルイス・マウントバッテン伯爵はインド総督も務めた伝説的な海軍元帥で、ブレイボーン卿本人も由緒正しい男爵家の次男坊。さらに、住まいもクリスティのご近所さんだった。その人脈をフル稼働してクリスティの自宅を訪ね、映画化の説得を試みたブレイボーン卿。すると、彼とグッドウィンが『ピーター・ラビットと仲間たち』のプロデューサーだと知ったクリスティは、あの映画と同じくらい原作へ敬意を払ってくれるのであれば…という条件のもとで映画化を許可してくれたのである。 イギリスのEMIとアメリカのパラマウントが予算を半分ずつ提供することになり、監督はハリウッドの名匠シドニー・ルメットに決定。当初、ブレイボーン卿もグッドウィンも英国映画らしい小規模でリアリスティックなミステリー映画を想定していたが、しかしルメットはグラマラスなオールスター映画に仕立てるつもりだった。なにしろ、物語の時代設定はハリウッド黄金期の’30年代半ば。トルコのイスタンブールとフランスのパリを結ぶ豪華絢爛な国際寝台列車・オリエント急行を舞台に、優雅な上流階級の人々が絡んだ殺人事件の謎を名探偵エルキュール・ポワロが解明する。古き良きハリウッド・スタイルを再現するには格好の題材だ。 そのうえ、当時は『大空港』(’69)や『ポセイドン・アドベンチャー』(’72)、『タワーリング・インフェルノ』(’74)など、オールスター・キャストのパニック映画がブームになっていた。なんといっても、スターが雲の上の存在だったハリウッド黄金期の伝説的スターや名バイプレイヤーたちが、まだまだ存命だった時代である。今や名前だけで客を呼べるような映画スターはトム・クルーズくらいになってしまったが、当時のハリウッドにはネームバリューのある新旧映画スターが大勢ひしめき合っていた。オールスター映画の人材には事欠かなかったのである。 ショーン・コネリーやジャクリーン・ビセットといった当時旬のトップスターから、ローレン・バコールにイングリッド・バーグマンなどハリウッド黄金期の大スター、ジョン・ギールグッドにウェンディ・ヒラーなど英国演劇界のレジェンドに、マーティン・バルサムやレイチェル・ロバーツなどの名バイプレイヤーと、総勢14名もの錚々たる役者たちが勢ぞろい。主人公である名探偵ポワロ役には、当時「ローレンス・オリヴィエの後継者」と目されていた天下の名優アルバート・フィニーが起用された。 かくして完成した『オリエント急行殺人事件』は全米の年間興行成績ランキングで11位という大ヒットを記録。先述したようにアカデミー賞で6部門にノミネートされ、イングリッド・バーグマンが助演女優賞に輝いた。原作者のクリスティも出来栄えに大満足。この成功に手応えを感じたブレイボーン卿とグッドウィンは、アガサ・クリスティ映画の第2弾を企画する。それが、’76年のクリスティ死去を挟んだことから完成までに時間のかかったジョン・ギラーミン監督の『ナイル殺人事件』(’78)である。 ロケ地エジプトの灼熱と不便さに悩まされた『ナイル殺人事件』 原作は「エルキュール・ポワロ」シリーズの「ナイルに死す」。今回はエジプトのナイル川を下る豪華客船で大富豪の令嬢リネット(ロイス・チャイルズ)が銃殺され、たまたま友人(デヴィッド・ニーヴン)と乗り合わせた名探偵エルキュール・ポワロ(ピーター・ユスティノフ)が犯人捜しに乗り出したところ、乗客たちの誰もがリネットに対して強い恨みを抱いていたことが判明する。リネットに婚約者(サイモン・マッコンキンデール)を奪われた元親友にミア・ファロー、リネットの宝石を狙うアメリカの大富豪夫人にベティ・デイヴィス、その付添人マギー・スミスは実家がリネットの両親のせいで破産し、自由奔放なロマンス作家アンジェラ・ランズベリーはリネットから誹謗中傷で訴えられ、その大人しい娘オリヴィア・ハッセーはリネットに嫉妬し、筋金入りの社会主義者ジョン・フィンチは特権階級のリネットを蔑み、メイドのジェーン・バーキンはリネットに結婚を反対され、ドイツ人の医師ジャック・ウォーデンはリネットにヤブ医者扱いされ、顧問弁護士ジョージ・ケネディはリネットの資産を使い込んでいた。要は、乗客の全員にリネットを殺す動機があったのだ。 名探偵ポワロ役は、前作のアルバート・フィニーからピーター・ユスティノフへ交代。役柄よりも実年齢がだいぶ若かったフィニーは、ポワロ役を演じるためのメイクが嫌で再登板を断ったとも伝えられるが、いずれにせよ原作のポワロに年齢も体型も近いユスティノフの起用は大正解だったと言えよう。おかげで、ポワロは彼の当たり役となり、以降も映画やドラマで繰り返し演じることになる。脇を固めるキャスト陣も、前作に負けず劣らず豪華!チョイ役にも、サム・ワナメイカーやハリー・アンドリュースなどの名優が顔を出している。 また、今回はエジプトのナイル川や古代遺跡で実際にロケをした観光映画としても見どころが盛りだくさん。豪華客船は1901年に製造された古い蒸気船をカイロで発見し、ボロボロだった床板などを撮影のために修復した。エジプトは気温が高いため、午後のロケ撮影は不可能。1日の撮影を午前中で終えなくてはならないことから、スタート時刻は早朝4時だったという。毎朝一番に現場へ現れ、誰よりも先に準備を終えていたのが、当時69歳だった大女優ベティ・デイヴィス。最年長の彼女がお手本を示したことで、共演者の誰もが遅刻することなく時間を守ったのだそうだ。なお、砂漠のど真ん中では夜間撮影用の照明をたく電源が確保できず、そのため夜間シーンはロンドン郊外のパインウッド・スタジオに豪華客船のセットを組んで撮影。そもそも、当時のエジプトはまだ発展途上国だったことから、例えばロンドンと連絡を取るにしても1日20分のテレックスしか通信手段がないなど、かなり不便なことが多かったようだ。 さらに、本作でアカデミー賞に輝いたアンソニー・パウエルのデザインによるお洒落な衣装も大きな見どころ。舞台が’30年代半ばということで、基本的には当時のファッション・トレンドを基調にしているものの、しかし中高年女性のキャラクターにはそれよりも古い時代のスタイルを採用したという。なぜなら、人間は往々にして人生で最も幸せだったり、最も元気だったりした若い頃の流行に執着してしまうものだから。なので、ベティ・デイヴィスの衣装は1910年代風、アンジェラ・ランズベリーの衣装は1920年代風に仕立てられている。 どれもエレガントで豪華で洗練されたコスチュームばかりだが、中でも特に印象的なのはミア・ファローがエジプトで着ているストライプ柄のノースリーブ・トップス。実はこれ、使い古しの布巾をリメイクしたものだったらしい。華奢な体型のミアに似合うような、’30年代風のゆったりしたパジャマ・トラウザーをデザインしたパウエルは、これに合うようなリゾートスタイルのノースリーブ・トップスを作ろうとするも、しっくりくる生地がどこを探しても見当たらなかったという。仕方なく作業場へ戻ってきたところ、ストーブにぶら下がっている汚れた布巾が目に入った。これはフランシス人アシスタントの母親が持ち込んだ私物で、衣装部スタッフのために作業場で料理を作る際に使っていたらしい。よく見ると、ストライプ柄がパジャマ・トラウザーにピッタリ。そこで、汚れを落とすために何度も何度も繰り返し煮沸したうえで、トップスの生地として使用したのだという。ただし、臭いまで落としきることは出来なかったらしく、何も知らないミアは「誰かニンニクでも食べた?」と首を傾げていたそうだ(笑)。 アメリカでは前作ほど客足が伸びなかったものの、ヨーロッパやアジアでは大ヒットした『ナイル殺人事件』。リチャード・グッドウィンによると、中でも日本の興行成績は良かったという。まあ、「ミステリー・ナイル」という日本独自の主題歌を宣伝に使ったり、地方では同時上映にアニメ『ルパン三世 ルパンVS複製人間』(’78)をブッキングしたりと、配給会社の戦略が功を奏した面もあったろうが、その一方でちょうど70年代の日本で海外旅行ブームが盛り上がっていたことも、少なからず影響していたのではないかとも思う。依然として庶民にとっては高根の花だった海外旅行だが、しかしそれでも頑張れば手が届くかもしれない夢…くらいには身近になりつつあった時代。テレビドラマ『Gメン’75』の香港ロケやヨーロッパ・ロケが話題となったように、海外観光への興味や関心も高まっていたように記憶している。エジプトの観光映画を兼ねた本作が、そんな日本人の海外旅行熱を刺激したとしてもおかしくはなかろう。 毒のあるブラック・ユーモアも楽しい『クリスタル殺人事件』 この『ナイル殺人事件』のスマッシュヒットを受けて、矢継ぎ早に作られたのが「鏡は横にひび割れて」を映画化した『クリスタル殺人事件』だ。監督は前作のジョン・ギラーミンから007映画で名を上げたガイ・ハミルトンへバトンタッチ。もともと原作本は『オリエント急行殺人事件』のヒットに便乗しようとしたワーナーが映画化を発表していたものの、最終的にジョン・ブレイボーン卿とリチャード・グッドウィンが権利を手に入れたというわけだ。 今回は風光明媚なイギリスの片田舎が舞台。舞台は1953年である。住民の誰もがみんな顔見知りという小さな村で、ハリウッド映画のロケ撮影が行われることとなり、久しぶりに現役復帰する大女優マリーナ(エリザベス・テイラー)を囲んだレセプションパーティで殺人事件が起きる。マリーナの大ファンである地元女性が毒殺されたのだ。ところが、目撃者の証言から毒入りカクテルはもともとマリーナのものだったことが判明。つまり、被害者女性は誤って毒入りカクテルを飲んでしまっただけで、犯人の本来のターゲットはマリーナだった可能性が浮上したのだ。そこで、村でも有名なゴシップ好きで推理好きの老女ミス・マープル(アンジェラ・ランズベリー)が、甥っ子であるロンドン警察の主任警部ダーモット(エドワード・フォックス)と組んで真相の究明に乗り出す。 恐らく、オールスター・キャストの顔ぶれはシリーズ中で本作が最も豪華かもしれない。物語の時代設定が’50年代ということで、往年の大女優マリーナにエリザベス・テイラー、その夫で映画監督のジェイソンにロック・ハドソン、マリーナとは犬猿の仲のライバル女優ローラにキム・ノヴァク、そしてローラの夫でプロデューサーのマーティにトニー・カーティスと、’50年代のハリウッド映画を代表するトップスターが勢ぞろい。当時、テイラー自身もマリーナと同じくキャリアのスランプに陥っており、劇中のセリフでも揶揄される体重の増加や容姿の衰えをいたく気にしていたそうだが、しかしロック・ハドソンとは『ジャイアンツ』(’56)で共演して以来の大親友だし、ミス・マープル役のアンジェラ・ランズベリーとも『緑園の天使』(’44)で姉妹役を演じた仲だし、トニー・カーティスも古い友人。昔からの仲間が一緒ならば心強いということで、3年ぶりの本格的な映画出演となる本作のオファーを引き受けたのだそうだ。 主演のアンジェラ・ランズベリーはクリスティの原作で描かれるミス・マープルを忠実に再現。当初、ランズベリーは3本の映画でミス・マープルを演じる契約をEMIと結んでいたが、しかし残念ながら興行的に不入りだったため彼女のミス・マープルはこれっきりとなってしまった。ただ、後に主演して代表作となったテレビ・シリーズ『ジェシカおばさんの事件簿』(‘84~’96)の主人公ジェシカ・フレッチャーは、明らかに本作のミス・マープル役を下敷きにしており、そういう意味では彼女にとって重要な作品だったと言えよう。そのほか、ジェラルディン・チャップリンにエドワード・フォックスも登場。ガイ・ハミルトンが手掛けた『007/ダイヤモンドは永遠に』(’71)の悪役チャールズ・グレイがマリーナの執事役を演じているのも見逃せない。 そんな本作が過去2作品と決定的に違うのは、毒っ気たっぷりのブラック・ユーモアがふんだんに盛り込まれている点であろう。特にマリーナとローラによる女優同士の嫌味と悪口の応酬はなかなか過激(笑)。「顔の皴で線路が出来る」とか、「目の下のたるみよ、ドリス・デイに飛んでいけ」とか、ビッチ丸出しなセリフの数々に思わず大爆笑だ。ちなみに、ドリス・デイは’50年代にロック・ハドソンと数々のロマンティック・コメディで主演コンビを組んだトップ女優。もちろん、それを大前提としての辛辣な内輪ジョークである。これらのセリフを書いたのは『カンサス・シティの爆弾娘』(’72)や『面影』(’76)の脚本家バリー・サンドラー。本人はオープンリー・ゲイなのだそうだが、なるほど確かにクイアーなユーモアのセンスをしていますな。もともと本作の脚本はジョナサン・ヘイルズが単独で手掛けていたものの、しかし原作に忠実過ぎて面白みがないと感じた製作陣の依頼で、サンドラーがリライトを担当したのだそうだ。 シリーズに終止符を打った『地中海殺人事件』 そして、結果的にシリーズ最終作となったのが『地中海殺人事件』(’82)。やはり前作の不入りで予算が大幅に減ったのか、どうも全体的に出がらし感が否めない。監督はガイ・ハミルトンが続投。脚本は『ナイル殺人事件』のアンソニー・シャファーが再登板し、前作のバリー・サンドラーがノー・クレジットでリライトを手掛けている。前回のエリザベス・テイラーとキム・ノヴァク同様、本作でもダイアナ・リッグとマギー・スミスが女同士のいがみ合いで火花を散らせるが、その毒舌ユーモアたっぷりの際どいセリフを再びサンドラーが担当したのだそうだ。 で、そのマギー・スミスを筆頭に、ピーター・ユスティノフとジェーン・バーキン、コリン・ブレイクリーにデニス・クイリーが2度目のシリーズ出演。まあ、名探偵ポワロ役のユスティノフは仕方ないにせよ、メインキャスト10人中の半分が再登板というのはいかがなもんだろうかとは思う。その他のキャストも、映画界のレジェンドと呼べるのはジェームズ・メイソンくらいか。ダイアナ・リッグは確かに一世を風靡した女優だが基本的にはテレビ・スターだし、シルヴィア・マイルズはニューシネマで頭角を現したアングラ女優だし、ロディ・マクドウォールも名子役出身の性格俳優だしと、オールスター映画を謳うにはちょっとばかり顔ぶれが弱いことは否めない。 とはいえ、芸能界で敵ばかり作って来た大女優がバカンス先のリゾート・ホテルで殺されるというストーリーは、いかにもアガサ・クリスティらしいゴシップ紙感覚の愛憎劇で面白いし、最大の目玉である謎解きのトリックも当然ながら良く出来ているし、なおかつロケ地となったスペインのマヨルカ島の美しい景色も非常に魅力的。『ナイル殺人事件』以来となる、アンソニー・パウエルの手掛けた衣装も、’30年代のファッション・トレンドを鮮やかに再現したノスタルジックで優美なデザインが見目麗しい。筆者が最初に映画館で見たアガサ・クリスティ映画ということもあって、個人的には特に思い入れの強い映画でもある。 しかしながら、この『地中海殺人事件』が大幅な赤字を出してしまったことから、ジョン・ブレイボーン卿とリチャード・グッドウィンのコンビによるアガサ・クリスティ映画シリーズは終了。その後、「無実はさいなむ」をドナルド・サザーランド主演でノワール風に映画化した『ドーバー海峡殺人事件』(’84)、ポワロ役のピーター・ユスティノフを筆頭にオールスター・キャストを揃えた「死との約束」の映画化『死海殺人事件』(’88)、同名小説の三度目の映画化となった『アガサ・クリスティ/サファリ殺人事件』などが登場するも、残念ながらいずれも不発に終わった。『死海殺人事件』はキャストの顔ぶれといいクラシカルな雰囲気といい、いかにもブレイボーン卿&グッドウィンの作品みたいだったが、実際はキャノン・フィルムのメナハム・ゴーランとヨーラム・グローバスが製作した映画だ。 一方、テレビではピーター・ユスティノフが名探偵ポワロを、大女優ヘレン・ヘイズがミス・マープルを演じたテレビ映画シリーズがヒットしたほか、ジョーン・ヒックソン主演の『ミス・マープル』(‘84~’92)、グラナダ・テレビが製作した『アガサ・クリスティー ミス・マープル』(‘04~’13)、デヴィッド・スーシェ主演の『名探偵ポワロ』(‘89~’13)など、本場イギリスでは長年に渡ってアガサ・クリスティ原作のテレドラマが愛され続けている。そうした中、ケネス・ブラナーが名探偵ポワロ役を演じて監督も兼ねたリメイク映画版『オリエント急行殺人事件』(’17)が登場。続編として『ナイル殺人事件』(’22)に『名探偵ポワロ:ベネチアの亡霊』(’23)が作られるなど、好評を博しているのはご存知の通りだ。■ 『ナイル殺人事件(1978)』© 1978 STUDIOCANAL FILMS Ltd『クリスタル殺人事件』© 1980 / STUDIOCANAL Films Ltd『地中海殺人事件』© 1981 Titan Productions
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COLUMN/コラム2019.11.30
巨匠監督による「愛こそすべて」なスペクタクル巨編 『ドクトル・ジバゴ』
舞台はロシア。19世紀の終わりに近い頃、幼くして父母を亡くしたユーリー・ジバゴ(演:オマー・シャリフ)は、モスクワに住む化学者のグロメーコの家庭に引き取られる。 成長したジバゴは、詩人として評価されると同時に、医学の道を志す。そしてグロメーコ夫妻のひとり娘で、共に育ったトーニャ(演:ジェラルディン・チャップリン)と愛し合うようになる。 一方同じモスクワに暮らし、仕立て屋の母に育てられたラーラ(演:ジュリー・クリスティー)。母の愛人のコマロフスキー(演:ロッド・スタイガー)の誘惑に屈し、やがてレイプされたことから、彼への発砲事件を起こす。 それはたまたま、ジバゴとトーニャの婚約が発表される、クリスマス・パーティの場だった…。 1914年、第1次世界大戦が勃発すると、ジバゴは軍医として出征。そこで、戦場で行方不明となった夫のパーシャ(演:トム・コートネー)を捜すため、従軍看護師となっていたラーラと再会する。惹かれ合っていく2人だが、お互いの家庭を想い、男女の関係にはならぬまま、それぞれの場所へと還っていく。 しかし大変革の嵐が吹き荒れ、内戦が続く広大なロシアの地で、ジバゴとラーラはまるで宿命のように、三度目の出会いを果たす。ラーラとトーニャ…2人の女性を愛してしまったジバゴの運命は、“ロシア革命”の激動の中で、大きく揺れ動いていくのだった…。 中学時代の1977年、地元の名画座で喜劇王チャールズ・チャップリンの名作『黄金狂時代』(1925)と併映で観たのが、本作『ドクトル・ジバゴ』(65)との出会い。…と記していて、父=チャールズの製作・監督・主演作と、娘=ジェラルディンのデビュー作という、チャップリン父娘をカップリングした2本立てだったのかと、40数年経って初めて気が付いた。当時の名画座の編成も、色々と考えていたわけである。 それはともかくとして、スクリーン上での2度目の対峙は80年代後半、大学生の時だった。後輩の女性と一緒に観たのだが、本作初見だった彼女の感想は、「いかにもアメリカ人から見た、ロシア革命」というもの。まあ監督や脚本家はイギリス人だし、プロデューサーのカルロ・ポンティはイタリア人だから正確な言ではないのだが、当時として諸々先鋭的だった彼女には、「西欧社会が、皮肉っぽくロシア革命を捉えている」と映ったのだろう。 それはまだ、社会主義国の魁であった、ソヴィエト連邦が崩壊に至る数年前のこと。“革命幻想”もまだぶすぶすと、燻ぶってはいたのだ。 本作の監督は、デヴィッド・リーン(1908~91)。かのスティーヴン・スピルバーグが最も尊敬する、“巨匠”である。その監督作品の中でもスピルバーグは、『アラビアのロレンス』(1957)と並べて、『戦場にかける橋』(62)と本作『ドクトル・ジバゴ』は、自作を撮影する前に必ず見直す作品だと語っている。 製作時は東西冷戦の最中で、もちろんソ連ではロケが出来ないため、スペインやフィンランドで大々的なロケ撮影を敢行。スペインのマドリード郊外には、1年がかりでモスクワ市街のセットを再現した。こうした広大な舞台で繰り広げられる人間ドラマは、正に『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』に続いて、「完全主義者の巨匠」リーンの面目躍如と言えるだろう。 しかし、現在では映画史に残る古典的な名作という位置付けの本作も、初公開時の評価は、決して高くはなかった。アメリカの「ニューズ・ウィーク」曰く、「安っぽいセットで、“生気ない映像”」。映画評論家のジュディス・クリストからは、「“壮大なるソープオペラ=昼メロ”」といった具合に酷評され、さしもの巨匠も大いに傷ついたという。 また本邦も例外ではなく、72年に「キネマ旬報社」から出版された、「世界の映画作家」シリーズでは本作に関して、「…スペクタクルの華麗さが目立っただけ、人間のドラマが充実を欠いていたといわざるを得ない。主人公の革命に立ち向う態度のあいまいさではなく、主人公の知識人としてのなやみの追及に対する不徹底が問題であった(登川直樹氏)」「主人公に対する共感だけでは、映画はつくれるものではない。とくに、リーンは、安っぽい人間的共感や分身を排除することによって、独自の世界を厳しくつくって来た。その厳しさが、『ドクトル・ジバゴ』にはないのである(岡田晋氏)」等々、散々な打たれようである。 このような酷評が頻出した背景としては、先に指摘したような“革命幻想”の残滓が、60~70年代には濃厚であったことも考えられる。しかしそれ以上に、ソ連の詩人ボリス・パステルナーク(1890~1960)の筆による本作の原作小説が、著しく“政治的”に取り扱われた案件であったことが、至極大きかったからだと思われる。 パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」は本国ソ連では、当初予定されていた出版が中止になりながらも、1957年11月にイタリアで翻訳版が出版され、翌58年10月には、「ノーベル文学賞」が与えられている。当初は「ノーベル賞」の受賞を喜んだというパステルナークだったが、スウェーデンでの授賞式に赴けば、ソ連には「2度と帰国出来ない」と脅され、受賞を辞退せざるを得なくなった。 ソヴィエトの独裁政党だった「共産党」は、小説「ドクトル・ジバゴ」のことを、「革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀な試みである」と非難。当時は、「ロシア革命は人類史の大きな進歩である」というソ連政府の見解に疑問符をつけることは、許しがたいこととされていたのである。 「ドクトル・ジバゴ」が、ソ連で発禁とされる一方で、イタリアをはじめ西側諸国で続々と出版されるに当たっては、ロシア語原稿の奪取などに、「CIA=アメリカ中央情報局」が大きな役割を果したという。これは2000年代も後半になってから明らかにされたことだが、俗に“「ドクトル・ジバゴ」事件”と言われる一連の経緯は、東西両陣営の政治的思惑が、バチバチと火花を散らした結果なのであった。 そんなことまでは与り知らなかったであろうパステルナークは、その後失意の内に、1960年逝去。彼の名誉回復が行われたのは、ソ連がゴルバチョフの時代になってからの87年であり、国内で「ドクトル・ジバゴ」が出版されるには、88年まで待たなければならなかった。 このように原作小説は、高度に政治的なアイコンと化していた。それを東西冷戦が続く60年代中盤に、映画化する運びとなったわけである。 そんな時勢にも拘わらず、デヴィッド・リーンは、『アラビアのロレンス』に続いて組んだ脚本担当のロバート・ボルトに、長大な原作の内容を絞り込んでいくに当たっては、“愛”を軸にするよう指示を出した。リーン自身が本作に関して、「革命は背景にすぎず、その背景で語られるのは、感動的な一個人の愛情物語である」とまで言い切っている。極言すれば、「愛こそすべて」というわけだ。結果的に、「“壮大なる昼メロ”」などとディスる評が飛び出すのも、ある意味致し方のないことだったかも知れない。 またリーンの前2作が、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』だったのも、本作が批判される下地になったものと思われる。 アカデミー賞ではそれぞれ作品賞、監督賞他を大量受賞するなど、赫々たる成果を上げた両作。その共通点としては、劇中にほぼ男性しか登場しないことに加え、前者は東南アジア、後者はアラブ世界を舞台にしながら、共に主人公のイギリス人男性が、そのアイデンティティー故に、希望と絶望の間で煩悶するストーリーが繰り広げられる。イギリス人のリーンだからこそ、「描けた」とも評価された。 それに比べると本作は、「軟弱なメロドラマ」に映る上に、主人公をはじめ登場人物は、すべてロシア人。しかもそれを演じる者たちは、エジプト人のオマー・シャリフをはじめ、非ロシア人ばかりである。 件の「世界の映画作家」から引用するならば、「そこにはどこにも、イギリス人としての、リーンの目がない/イギリス人の目でロシア人を見ようとしても、俳優自体がロシア人ではないのだから、視線が、空転するばかりである(岡田晋氏)」というわけだ。 本作は初公開時から暫くは、このように多くの批判を集めていた。しかし先にも記した通り、現在では映画史に残る古典的な名作となっている。評価が逆転していったことには、どんな作用があったのか? 一つは、初公開時から世界中で大ヒットとなり、その後も一貫して、多くの観客から支持され続けたということが挙げられる。それと同時に、デヴィッド・リーン亡き今となって、この稀代の“映画作家”の歩みを再点検すれば、自明の事実が浮かび上がるからであろう。 リーンにとって初のスペクタクル巨編と言える『戦場にかける橋』以前のフィルモグラフィーで、彼が得意としたジャンルの一つが、『逢びき』(45) 『旅情』(55)といった、「大人の恋愛もの」である。中年男女の一線を越えない不倫劇である『逢びき』は、後の『恋におちて』(84)の元ネタになったことでも知られる。 『旅情』では、キャサリン・ヘップバーン演じるアメリカ人の独身中年女性が、イタリアのベネチアで、旅先の恋に身を震わす。リーンは非イギリス人のヒロインを得たこの作品を、海外ロケで撮り上げたことによって、新たなステップに入っていく。 「アフリカやアメリカの西部や、アジア各地など、映画は世界中をスクリーンの上に再現して見せてくれ、私の心を躍らせた。私が『幸福なる種族』(44)や『逢びき』のようなイギリスの狭い現実に閉じこもった作品から脱皮して、『旅情』以後、世界各地にロケして歩くようになったのは、映画青年時代からの私の映画を通しての夢の反映であるわけだ。私は冒険者になった気持で、一作ごとに知らない国を旅行して歩いているのである」 こうしてリーンは、『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』という、異国の地を舞台にしたスペクタクル巨編へと臨んでいく。そして大成功を収め、“巨匠”の名を得た後に挑んだのが、『ドクトル・ジバゴ』であった。 異国の地を舞台に、スペクタキュラーな画面を作り出しながら、そこで“愛”の物語を展開する。これこそ正に、リーンの真骨頂!得意技の集大成とも言うべき作品だったわけである。 付記すればリーンが描いた『ドクトル・ジバゴ』の世界は、原作者のパステルナークが描こうとしたものとも、そんなにはかけ離れていない筈である。革命に共感する部分はありながらも、積極的な加担は出来ない政治的姿勢や、妻と愛人の間で揺れ動き続け、どちらを選ぶことも出来ない主人公のモデルは、パステルナークその人だったからである。最初の妻との結婚生活は、友人の妻に恋をしたことで破綻したパステルナーク。結果的に友人から奪って得た2度目の妻と暮らしながらも、更に別の女性と恋に落ち、妻と愛人との二重生活を、その生涯を閉じるまで送ったのである。 そしてリーン自身も、83年間の生涯で6回もの結婚をした、「恋多き男」であった。1950年代中盤、自らの監督作の主演に岸恵子を抜擢した際(その作品は結局製作されなかったが)、本気で彼女に惚れてしまい、その後を追い回してやまなかったエピソードなども伝えられている。 リーンは本作の後、脚本のボルトと三度コンビを組んで、歴史的背景をバックにした「愛こそすべて」路線に、今度はオリジナル脚本でチャレンジした。それは20世紀初頭、独立運動が秘かに行なわれているアイルランドの港町を舞台に、若妻とイギリス軍将校の許されない恋を描いた、『ライアンの娘』(70)である。■ 『ドクトル・ジバゴ』© Warner Bros. Entertainment Inc.