検索結果
-
COLUMN/コラム2024.01.18
フリードキン流ドキュメンタリーの手法が、アクチュアルなド迫力を生んだ!『フレンチ・コネクション』
昨年87歳でこの世を去った、ウィリアム・フリードキン。1935年生まれの彼が、映画監督として最高のスポットライトを浴びたのは、『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)の2本をものした、30代後半の頃であったのは、間違いない。 近年には、長らく“失敗作”扱いされ、キャリアの転換点とされた、『恐怖の報酬』(77)の再評価などがあった。しかし、『フレンチ…』『エクソシスト』を連発した際の、リアルタイムでのインパクトはあまりにも凄まじく、それ故に、以降は“失墜”した印象が、強くなったとも言える。 そんなフリードキンのキャリアのスタートは、TV業界。10代後半、父親が早逝し、大学に進む気がなかった彼が、必要に駆られて職に就いたのが、生まれ育った地元シカゴのローカルテレビ局の郵便仕分け係だった。 ところがこの局では、異動の度に様々な職種を経験していくシステムになっており、やがて彼は、番組の“演出”を担当するようになる。元はディレクター志望だったわけではないが、水が合ったらしく、その後幾つか局を移りながら、20代後半までに、ヴァラエティ、クイズ、クラシック音楽、野球など2,000本以上の生番組を手掛け、10数本のドキュメンタリーを世に送り出した。 フリードキンが映画界へと進んだのは、30代を迎えた60年代後半。舞台の映画化作品である『真夜中のパーティー』(70)などが評判にはなったが、決定打が出ないまま、70年代へと突入した。 思い悩む彼がアドバイスを求めたのが、ハワード・ホークス監督。スクリュー・ボール・コメディからミュージカル、メロドラマ、ギャング映画、航空映画、西部劇等々、様々なジャンルでヒットを放ってきた巨匠ホークスがフリードキンに言ったのは、次の通り。「誰かの抱えている問題や精神的な厄介ごとについての話なんて誰も聞きたかねぇんだよ。みんなが観たいのはアクションだ。俺がその手の映画をイイ奴らと悪もんをたくさん使って作ると必ずヒットするのさ」 そしてちょうどそのタイミングで、スティーヴ・マックィーン主演の刑事アクション『ブリット』 (68)で大ヒットを飛ばした、プロデューサーのフィリップ・ダントニから、出版前のゲラ刷りが、フリードキンへと持ち込まれた。それが、ロビン・ムーアの筆によるノンフィクション「フレンチ・コネクション」だった。 ニューヨーク警察が、フランスから持ち込まれた大量のヘロインの押収に成功した、61年に実際に起こった大捕物を記したこの原作に、フリードキンは心惹かれた。更にはニューヨークに行って、この捜査の中心だった、麻薬捜査課の2人の刑事、エドワード・イーガン、サリヴァトーレ・グロッソの実物と会ってからは、本当に夢中になって映画化に取り組んだ。 そこから納得のいく脚本づくりに時間を掛けて、本作『フレンチ・コネクション』がクランクインしたのは、1970年の11月30日。翌71年の3月に入るまで、65日間の撮影では、セットは一切使わなかった。ニューヨーク、それも実際の事件の舞台となった場所を使用した、オールロケーションを敢行したのである。 ***** ニューヨーク・ブルックリンで、麻薬の摘発に勤しむ2人の刑事、ジミー・ドイルとバディー・ルソー。“ポパイ”と呼ばれるドイルの強引なやり口を、ルソーがフォローする形で捜査を含める、名コンビだった。 ある時2人で出掛けたナイトクラブで、豪遊する男サル・ボカを見て、ドイルの“猟犬”の勘が働く。妻と共に軽食堂を営むサルを張り込み、店の盗聴を行った結果、彼の仲介で、フランス・マルセイユから届くヘロインの大きな取引が行われることがわかった。 取引の中心に居るのは、フランス人実業家のシャルニエ。殺し屋の二コリを従えて、ニューヨークのホテルに滞在していた。 財務省麻薬取締部の捜査官も交えて、シャルニエらの尾行が始まる。ある日ドイルの尾行に気付いたシャルニエは、地下鉄を利用。狡猾なやり口で、まんまとドイルを撒いた。 証拠不十分でドイルが捜査から外されたタイミングで、二コリがライフルでドイルを狙撃する。弾を逃れたドイルは、高架を走る地下鉄へと逃げ込んだ二コリを追うため、通りがかりの車を徴発。高架下を猛スピードでぶっ飛ばす。 地下鉄をジャックして、ノンストップで走らせたニコリだが、終着駅で停車していた車両に衝突。何とか逃げおおせようと、地下鉄を脱出するものの、追いついたドイルによって、射殺される。 ドイルは捜査へと復帰。いよいよシャルニエたちの麻薬取引が迫る中、繰り広げられる虚々実々の闘いは、終着点へと向かう…。 ***** 主役のドイル刑事に選ばれたのは、ジーン・ハックマン。40歳になったばかりの「ハックマンは、それまでに『俺たちに明日はない』(67)などで、2度アカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、知名度はそこそこにあったが、本格的な主演作は初めて。 無名俳優を使いたかったフリードキンと、スターを主演にしたかった製作会社。その妥協によって、中間的な位置にいたハックマンが起用されたという。 ハックマンは、相棒のルソー刑事に選ばれたロイ・シャイダーと共に、自分たちの役のモデルとなった、イーガン、グロッソ両刑事の捜査などに、2週間密着。麻薬常習者の溜まり場に踏み込んだり、その連行を手伝ったりまでして、役作りを行った。 刑事たちが追うシャルニエ役に、フェルナンド・レイが選ばれたのは、実は手違いからだった。フリードキンは当初、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』(67)に出演していた、フランシスコ・ラバルをキャスティングしようと考えていたのである。 ところがキャスティング・ディレクターが、勘違い。同じブニュエル監督のドヌーヴ主演作、『哀しみのトリスターナ』(70)の共演者だったレイが、ニューヨークの撮影へと招かれた。フリードキンはその時会って初めて、自分が考えていた俳優とは、別人だと気付いたという。 実はこれが、瓢箪から駒となった。役のモデルとなった犯罪者は、粗野なコルシカ人だったが、フェルナンド・レイは、見るからに洗練された紳士。粗野なドイル刑事とのコントラストが、効果的に映えた。因みに当初想定されていたラバルは、英語がまったく話せなかったので、そうした意味でも、大成功のキャスティングとなった。
-
COLUMN/コラム2019.10.08
巨匠ブニュエルの老いへの恐れを描いた哀しき恋愛残酷譚
25歳の時にマドリードからパリへ出てシュールレアリズム運動に感化され、学生時代からの親友サルヴァトール・ダリと撮った大傑作『アンダルシアの犬』(’29)で監督デビューしたスペイン出身の巨匠ルイス・ブニュエル。スペイン内戦の勃発と共にヨーロッパを離れた彼は、アメリカを経由して同じスペイン語圏のメキシコへ。『忘れられた人々』(’50)がカンヌ国際映画祭の監督賞に輝いたことで再び国際的な注目を集め、20数年ぶりにスペインへ戻って撮った『ビリディアナ』(’61)でついにカンヌのパルム・ドールを受賞する。 その後フランスへ拠点を移したブニュエルは、当時のフランス映画界を代表するトップスター、カトリーヌ・ドヌーヴを主演に迎えた『昼顔』(’67)でヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得し、興行的にも自身のフィルモグラフィーで最大のヒットを記録。そんなブニュエルが再びドヌーヴとタッグを組み、『ビリディアナ』以来およそ9年ぶりに母国スペインで作った映画が『哀しみのトリスターナ』(’70)である。 舞台はブニュエルが学生時代に愛したスペインの古都トレド。世界遺産にも登録されているこの小さな町は、ルネッサンス期の高名な画家エル・グレコが拠点としていた場所としても知られている。若きブニュエルは親友のダリやガルシア・ロルカと連れ立って毎週のようにトレドを訪れ、地元の豊かな食文化やエル・グレコの絵画などを堪能していたという。そんな青春時代の思い出の地で彼が撮った作品は、親子ほど年齢の離れた女性の若さと美貌に執着し、老いの醜態を晒していく哀れな男の物語である。 そう、便宜上はドヌーヴ演じる美女トリスターナを中心にドラマの展開する本作だが、しかし実質的な主人公はフェルナンド・レイふんする初老の貴族ドン・レペである。広い邸宅でメイドのサトゥルナ(ロラ・ガオス)と暮らすドン・レペ。社会的な弱者を守るのが上流階級の使命だと考えている彼は、常日頃から貧しい労働者の味方として庶民から尊敬されているが、しかし実際のところ家計は火の車で、先祖代々受け継がれてきた美術品や食器などを切り売りして生計を立てている。というのも、ドン・レペは無神論者であるため、財産を管理している敬虔なカトリック教徒の姉と折り合いが悪く、金を無心しても断られてしまうのだ。 ならば商売でもすればいいのだけれど、しかし古き良き貴族の慣習やプライドを捨てきれない彼は、金儲けを卑しい者のすることと考えている。ましてや労働者を搾取する資本家などもってのほか!奴らの奴隷になんぞなるものか!と意地を張っているが、しかし自分はメイドに身の回りのことを全て任せ、昼間からカフェに入り浸る毎日。いやはや、無神論者・社会主義者・貴族という3足の草鞋をバランスよく成立させるのは、なかなかこれ矛盾だらけで難しいことらしい(笑)。 かように高潔で誇り高い紳士のドン・レペではあるのだが、しかしそんな彼にも恐らく唯一にして最大の欠点がある。なにを隠そう、部類の女好きなのだ。道を歩いていて好みの若い美女を見つければ、ついついナンパせずにはいられない性分。独身を貫いているのは自由恋愛主義者だからだ。しかし、どう見たって50歳は過ぎている白髪交じりの立派なオジサン。さすがにもはや若い女性からは相手にされないものの、本人はいつまでも若いつもりなので一向にめげない。いわゆるポジティブ・シンキングってやつですな(笑)。そんな永遠の恋する若者(?)ドン・レペを虜にしてしまうのが、父親代わりの後見人として長年成長を見守ってきた処女トリスターナだったのである。 幼い頃に資産家の父親を失い、その父親の残した莫大な借金で苦労した母親を今また亡くした16歳のトリスターナ。身寄りのない彼女を引き取ったドン・レペだが、いつの間にやら大きくなったトリスターナの胸元に目を奪われ、彼女が自分へ向ける娘としての親愛の情を恋愛感情だと勝手に勘違いし、男女の駆け引きもろくに分からない未成年の彼女を強引に押し倒して自分の妻にしてしまう。しかし、無垢な処女だったトリスターナにもだんだんと自我が芽生え、愛してもいないオジサンとの夫婦生活に不満を募らせるようになり、しまいには外出先で知り合った若い画家オラーシオ(フランコ・ネロ)と恋に落ちてしまう。 はじめこそ嫉妬に怒り狂ったドン・レペだが、しかしライバルが若くてハンサムな男とくれば到底勝ち目はない。ならばいっそのこと外で自由に恋愛してくればいい、でもどうか私の元からは離れないでくれと哀願するドン・レペ。今度は泣き落としにかかったわけですな。とはいえ、若い男女の恋の炎は燃え上がるばかり。こんな情けないオジサンとはもう一緒にいられない!とトリスターナが考えたとしても不思議ない。結局、彼女はオラーシオと一緒に出ていってしまい、またもやドン・レペはメイドのサトゥルナと2人きりで広い邸宅に残されることとなる。 それから数年後、姉が亡くなったことで莫大な遺産を手に入れたドン・レペだが、しかしトリスターナのいない生活は今なお侘しく、すっかり弱々しげな老人になってしまった。そんな折、彼はトリスターナが町に戻ってきたことを知る。聞けば、脚にできた腫瘍のせいで寝たきりになってしまい、父親代わりであるドン・レペの加護を求めているらしい。すぐさまトリスターナをわが家へ招き入れ、至れり尽くせりの看護をするドン・レペ。しかし、手術で右脚を失ったトリスターナは、すっかり人生や世の中を恨んだ苦々しい女性となってしまい、年老いたドン・レペに対しても憎しみをぶつけるように冷たい仕打ちを繰り返すのだった…。 ドヌーヴと喧嘩したブニュエルの信じられない発言とは!? 無神論者でアナーキストの老人ドン・レペに、撮影当時69歳だったブニュエルが自らを投影していたであることは想像に難くないだろう。実際、17歳年下のフェルナンド・レイをことのほか気に入っていた彼は、本作と似たような内容の『ビリディアナ』や『欲望のあいまいな対象』でも自らの分身をレイに演じさせている。我が子同然の若い娘に対する、ドン・レペの報われぬ情愛を通じて描かれる老いの残酷。終盤で、過激な無神論者だったはずの彼がすっかり丸くなり、教会の神父たちを自宅へ招いて、ホットチョコレートやケーキを楽しむ微笑ましい団欒シーンがあるが、実はあれこそが永遠の反逆児ブニュエルの思い描く、是が非でも避けたい悪夢のような老後風景だったのだそうだ。すなわちこれは、既に老いが目の前の現実となったブニュエルの、これから待ち受ける自らの老後に対する恐怖心を具現化した作品だったとも言えよう。 と同時に本作は、必ずしも夢や願いが叶うわけではない、残酷な現実から逃れようとも逃れられない、そんな満たされぬ人生とどうにか折り合いを付けなければならない人々の物語でもある。まだ初恋も知らぬまま愛してもいない年上の男ドン・レペに青春時代を奪われたトリスターナは、ようやく出会った最愛の男性と人生をやり直そうとするも、不幸な病によって再びドン・レペの元へ戻る羽目となる。そのドン・レペもまた、どれだけトリスターナのことを愛し、彼女のために全身全霊を捧げて尽くしまくっても、その気持ちが彼女に通じることは決してない。「こんな寒い吹雪の晩に、暖かい我が家があるだけでも幸せなのかもしれない」と呟く彼の言葉が沁みる。それだけに、このクライマックスはあまりにも残酷だ。 ちなみに、スペインとフランス、イタリアからの共同出資で製作された本作。トリスターナ役のドヌーヴはフランス側出資者の強い要望で、またブニュエル自身も『昼顔』で彼女と仕事をしてその実力を認めていたことから、すんなりと決まったキャスティングだったという。ただ、ドヌーヴもブニュエルもお互いに人一倍頑固であることから、『昼顔』の時と同様に撮影現場ではピリピリすることも多かったらしく、ある時などはドヌーヴに対して激怒したブニュエルが、その場にいたフランコ・ネロに「事故のふりして彼女をバルコニーから突き落とせ!」と言ったのだとか(笑)。 一方のフランコ・ネロは、当時一連のマカロニ・ウエスタンで大ブレイクしていたことから、イタリア側出資者がブニュエルに強く推薦して決まったとのこと。スペインの独裁者フランコ将軍が大嫌いだったブニュエルは、彼のことを“フランコ”ではなく“ネロ”と呼んでいたそうだ。その後、ブニュエルとジャン=クロード・カリエールが脚本を書いたもののお蔵入りになっていた『サタンの誘惑』(’72)が、アド・キルー監督のもとフランス資本で制作されることになった際、ブニュエルは映画化を許可する条件として“ネロ”を主演に起用するようプロデューサーに注文を付けたという。それほど彼のことを気に入っていたらしい。 なお、フェルナンド・レイはスペイン人、カトリーヌ・ドヌーヴはフランス人、フランコ・ネロはイタリア人ということで、撮影現場ではそれぞれが母国語でセリフを喋っている。そのため、フランス語版ではドヌーヴだけが本人の声、スペイン語版ではレイだけが本人の声、イタリア語版ではネロだけが本人の声を当て、それ以外は別人がアフレコを担当しているのだ。 これは当時ヨーロッパの多国籍プロダクションではよく見られたパターン。例えば巨匠ヴィスコンティの『山猫』(’63)はアメリカ人のバート・ランカスター、フランス人のアラン・ドロン、イタリア人のクラウディア・カルディナーレが主演を務めているが、オリジナルのイタリア語版ではいずれも本人の声は使用されていない。えっ!カルディナーレまで!?と驚く方も多いかもしれないが、彼女のイタリア語の発音は訛りが強いため、シチリア貴族の声には相応しくないと別人が吹き替えたのだそうだ。その代わり、フランス語版ではドロンとカルディナーレがそれぞれ本人の声を担当し、英語版ではランカスターが自分の声を当てた。今となってはなかなかあり得ない話だが、当時はそれが普通だったのである。■ 『哀しみのトリスターナ』© 1970 STUDIOCANAL – TALIA FILMS. All Rights reserved.
-
COLUMN/コラム2018.10.11
舞台裏ではスターと監督の軋轢が?有象無象のならず者がメキシコ革命で暴れまわる痛快マカロニウエスタン!『ガンマン大連合』
マカロニウエスタンの巨匠と言えばセルジオ・レオーネだが、もう一人忘れてはならない同名の大御所がいる。それがセルジオ・コルブッチだ。スタイルとリアリズムを追求して独自のバイオレンス美学を打ち立てた芸術家肌のレオーネに対し、シリアスからコメディまでなんでもござれ、荒唐無稽もデタラメも上等!な根っからの娯楽職人だったコルブッチ。多作ゆえに映画の出来不出来もバラつきはあったが、しかし時として『続・荒野の用心棒』(’66)や『殺しが静かにやって来る』(’68)のような、とんでもない傑作・怪作を生み出すこともあった。そんなコルブッチには、メキシコ革命を舞台にした「メキシコ三部作」と一部のマカロニファンから呼ばれる作品群がある。それが『豹/ジャガー』(’68)と『進撃0号作戦』(’73)、そして『ガンマン大連合』(’70)だ。 主人公はスウェーデンからメキシコへ武器を売りにやって来たキザな武器商人ヨドラフ(フランコ・ネロ)と、靴みがきから革命軍のモンゴ将軍(ホセ・ボダーロ)の副官に抜擢されたポンコツのならず者バスコ(トーマス・ミリアン)。国境近くの町サン・ベルナルディーノでは、庶民を苦しめる独裁者ディアス大統領の政府軍と、実は革命に乗じて金儲けがしたいだけだったモンゴ将軍の一味、そして非暴力を掲げて合法的に革命を遂行しようとする理想主義者サントス教授(フェルナンド・レイ)に心酔する若者グループが、3つの勢力に分かれて攻防を繰り広げていた。 モンゴ将軍に呼ばれてサン・ベルナルディーノに到着したヨドラフ。その理由は、町の銀行から押収したスウェーデン製の金庫だった。鍵の暗証番号を知る銀行員を殺してしまったため、スウェーデン人のヨドラフなら開け方が分かるだろうとモンゴ将軍は考えたのだ。成功したら中身の大金は2人でこっそり山分けするという算段。ところが、頑丈な金庫はヨドラフでも手に負えない代物だった。唯一、暗証番号を知っているのはアメリカに身柄を拘束されたサントス教授だけ。そこでモンゴ将軍は、万が一の裏切りを用心してバスコを監視役に付け、アメリカの軍事要塞に捕らわれているサントス教授をメキシコへ連れ戻す使命をヨドラフに託すこととなる。 …ということで、道すがら女革命戦士ローラ(イリス・ベルベン)率いるサントス派の若者たちの妨害工作に遭ったり、ヨドラフに恨みを持つアメリカ人ジョン(ジャック・パランス)の一味に命を狙われつつ、過酷なミッションを遂行しようとするヨドラフとバスコの隠密道中が描かれることとなるわけだ。 ド派手なガンアクションをメインに据えた痛快&豪快なマカロニエンターテインメント。荒々しいリズムに乗ってゴスペル風のコーラスが「殺っちまおう、殺っちまおう、同志たちよ!」と高らかに歌い上げる、エンニオ・モリコーネ作曲の勇壮なテーマ曲がオープニングからテンションを高める。革命の動乱に揺れるメキシコで、有象無象の怪しげな連中が繰り広げる三つ巴、いや四つ巴の仁義なき壮絶バトル。コルブッチのスピード感あふれる演出はまさに絶好調だ。終盤の壮大なバトルシーンでは、『続・荒野の用心棒』を彷彿とさせる強烈なマシンガン乱射で血沸き肉踊り、フランコ・ネロの見事なガンプレイも冴えわたる。コルブッチのフィルモグラフィーの中でも、抜きんでて勢いのある作品だと言えよう。 もともとマカロニウエスタンはロケ地であるスペインの土地や文化が似ている(元宗主国だから文化が似ているのは当たり前だけど)ことから、メキシコを舞台にした映画はとても多いのだが、その中でもメキシコ革命を題材にした作品と言えば、左翼革命世代の申し子ダミアーノ・ダミアーニ監督による社会派西部劇『群盗荒野を裂く』(’66)を思い浮かべるマカロニファンも多いだろう。しかし、コルブッチはダミアーニではない。確かに『豹/ジャガー』は左翼的メッセージがかなり強く出た作品だったが、あれはもともと『アルジェの戦い』(’66)で有名な左翼系社会派の巨匠ジッロ・ポンテコルヴォが監督するはずだった企画で、コルブッチは降板したポンテコルヴォのピンチヒッターだった。政治色が濃くなるのも当然だ。その点、コルブッチ自身が原案を手掛けて脚本にも参加した本作は、基本的に荒唐無稽なエンタメ作品に徹している。世界史に精通していたと言われる博識なコルブッチが、あえてメキシコ革命の史実を無視するような描写を散りばめているのも、その決意表明みたいなものかもしれない。 ただ、脚本の中に政治的な要素が全くないかと言えばそうでもない。金儲けのためなら政府軍にも革命軍にも武器を売る現実主義者ヨドラフ、革命の理想など特に持たず軍隊で威張り散らしたいだけのお調子者バスコ。この火事場泥棒みたいな2人が隠密道中を通じて、市民革命の強い理念に従って行動するサントス教授と若者たちに、少しずつ感化されていく過程が見どころだ。特に、マカロニウエスタンで野卑なメキシコ人を演じさせたら右に出る者のない名優トーマス・ミリアンが演じるバスコのキャラは興味深い。 棚ぼた式にモンゴ将軍の副官となり、虎の威を借る狐のごとくヒーロー気取りで振る舞う、もともと革命の精神とは全く縁のなかった貧しく無教養な男バスコ。「メキシコ人をバカにするな」「外国人と通じている女は罰してやる」「インテリは本と一緒に焼かれろ」。こういう偏った主張をする人間が、政治的混乱に乗じてマウントを取っていい気になるのは、古今東西どこにでもある光景だろう。しかし、そもそもがコンプレックスをこじらせただけのバカであって、根っからの悪人というわけではない。そんな単細胞な男が教養豊かなサントス教授から、本来の革命精神とは相容れない国粋主義の矛盾と欺瞞を説かれ、あれ?俺って実は悪人の側だったわけ?と気づき始め、純粋に自由と正義を信じて革命に殉じていく若者たちに感情移入していく。この視点はなかなか鋭い。 なお、マカロニブームを牽引した2大スターのフランコ・ネロとトーマス・ミリアンだが、映画で共演したのはこれが初めて。ミリアンにとっては意外にも初のコルブッチ作品だった。一方のネロはコルブッチ映画の常連組。監督が彼のアップばかり撮ることに嫉妬したミリアンは、電話でコルブッチに泣きながら抗議したと伝えられている。ただし、イタリア映画の英語版吹替翻訳で有名なアメリカ人ミッキー・ノックスによると、逆にコルブッチがミリアンにばかり気を遣うもんだから、不満に思ったネロがへそを曲げてしまったそうだ。ん~、どっちが本当か分からないが、しかしどっちも本当だという可能性もある。ミリアンがごねる→コルブッチが気を遣う→ネロがへそを曲げる、という流れならあり得るかもしれない。いずれにせよ、コルブッチとネロのコラボレーションはこれが最後となり、当初コルブッチが手掛ける予定だった『新・脱獄の用心棒』(’71)の出演もネロは渋ったという。結局、ドゥッチオ・テッサリが監督に決まったことで引き受けたのだが。いやはや、スターって面倒くさいですね(笑)。 なお、本場ハリウッドの西部劇でもお馴染みのジャック・パランスは、コルブッチの『豹/ジャガー』に続いてマカロニへの出演はこれが2本目。フェルナンド・レイも『さすらいのガンマン』(’66)以来のコルブッチ作品だ。また、ローラ役のイリス・ベルベンはドイツのテレビ女優。『続・荒野の用心棒』以降のコルブッチ作品に欠かせないスペインの悪役俳優エドゥアルド・ファヤルドが冒頭で政府軍の司令官を、ドイツの有名なソフトポルノ女優カリン・シューベルト(後にハードコアへも進出した)がヨドラフと昔なじみの売春婦ザイラを演じている。◾️
-
COLUMN/コラム2013.05.26
2013年6月のシネマ・ソムリエ
■6月1日『不良少女モニカ』 I・ベルイマン監督の初期作品の中で最も広く知られた青春映画。みずみずしさと冷徹さが共存するその演出は、のちの仏ヌーベルバーグの作家たちにも影響を与えた。内気な若者ハリーと奔放な少女モニカが恋に落ち、着の身着のままの旅に出る。やがて厳しい現実的問題に直面した2人の選択が、残酷なコントラストを成していく。 ベルイマンに見出されたH・アンデルセンが、野性味あふれるモニカを圧倒的な存在感で体現。北欧の夏の空気感をシャープに取り込んだモノクロ映像も、実に魅惑的だ。 ■6月8日『冬の光』 田舎町の牧師トマスは4年前に妻を亡くして気力を失い、愛人の女性教師との関係にも煩わしさを感じている。そんなある日、信者のひとりが自殺したとの知らせが届く。I・ベルイマンが『鏡の中にある如く』と『沈黙』の間に発表した“神の沈黙”3部作の第2作。信仰心が揺らいだ牧師の苦悩を、恐ろしいほど深く静かに見すえていく。窓辺の“光”を印象的に捉えたカメラは名手S・ニクヴィスト。I・チューリンらの名優が脇を固め、神の不在という主題の解釈を観る者に委ねる結末も重い余韻を残す。 ■6月15日『青春群像』 フェデリコ・フェリーニが生まれ故郷の港町リミニを舞台に撮り上げた自伝的な青春映画。イタリアン・ネオリアリスモ的なテイストが色濃く残る初期の秀作である。 結婚後も浮気性が治らない駄目男ファウストを中心に、あてどない日々を過ごす若者5人の姿を描出。いつの時代も変わらぬ青春期の高揚感と鬱屈が観る者の郷愁を誘う。カーニバルの狂騒、浜辺に漂う寂寥感など、フェリーニらしいバイタリティや詩情に満ちた場面が随所に見られる。物語&映像と見事に融合した音楽はニーノ・ロータ。 ■6月22日『ニューヨーカーの青い鳥』 ニューヨークを舞台にした摩訶不思議な恋愛喜劇。雑誌の恋人募集広告が縁でめぐり合った男女と、彼らのかかりつけのセラピストたちが珍妙な騒動を繰り広げていく。原作&共同脚本は、不条理な作風で名高い劇作家クリストファー・デュラング。登場人物は変人だらけで、会話もまったく噛み合わない。唖然とするような怪作である。唐突なオープニングから大団円のラストまで、まさにR・アルトマン監督の独壇場。巨匠の作品中ではマイナーな1本だが、予測不可能な驚きを生む演出力はさすが。 ■6月29日『ネイキッド・タンゴ』 『蜘蛛女のキス』『太陽を盗んだ男』などで知られる脚本家L・シュレイダーの監督作品。1920年代アルゼンチンのタンゴ・バーを舞台に、男女の壮絶な愛憎模様を描く。 裕福な人妻から酒場の娼婦へと堕ちていくヒロイン役のM・メイが艶やかな魅力を披露。タンゴしか愛せない殺し屋に扮した怪優V・ドノフリオとの共演が見ものだ。ギャング映画の様式に則った映像世界の中に、派手な原色の照明に彩られたタンゴ・シーンを挿入。“血”の赤に染まった破滅的な結末まで濃厚な仕上がりの一作である。 『不良少女モニカ』©1953 AB Svensk Filmindustri Stills Photographer: Louis Huch 『冬の光』©1963 AB Svensk Filmindustri 『青春群像』RIZZOLI 1953 『ニューヨーカーの青い鳥』©1996 Lakeshore International Corp. All Rights Reserved. 『ネイキッド・タンゴ』©TOHO-TOWA