ザ・シネマ なかざわひでゆき
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COLUMN/コラム2019.11.03
粋でニヒルでいなせな漆黒のマカロニ・ヒーロー、サバタ参上!
フランク・クレイマーことジャンフランコ・パロリーニ監督が生み出した、カルトなマカロニ・ウエスタン・シリーズ「サバタ三部作」の第一弾『西部悪人伝』(’69)。サバタと言えば、ジャンゴやリンゴ、サルタナなどと並ぶマカロニ西部劇の人気ヒーローだが、その原型は同じくパロリーニ監督が生みの親となった西部の流れ者サルタナだった。 もともとアルベルト・カルドーネ監督の『砂塵に血を吐け』(’67)に登場する悪役だったサルタナ(ジャンニ・ガルコ)を、全身黒づくめのニヒルで洒落たアンチヒーローとして主人公に据えた、サルタナ・シリーズの1作目『Se incontri Sartana prega per la tua morte(サルタナに会ったら己の死を祈れ)』(’68・日本未公開)。この作品を手掛けたパロリーニ監督は、それまでマカロニ・ウエスタンの定番だった「復讐とバイオレンス」のペシミスティックな要素を徹底的に排除し、スパイ映画ばりのアップテンポで軽妙洒脱なアクション・エンターテインメントとして仕上げ、’70年代初頭にブームとなるコメディ・ウエスタンの先陣を切ったのである。 ところが、2作目以降はアンソニー・アスコットことジュリアーノ・カルニメオが演出を担当。シリーズ降板を余儀なくされたパロリーニ監督が、ならば自分の手で新たなマカロニ・ヒーローを作ってやろうじゃないか!…と意気込んだかどうかは定かでないものの、とにかくサルタナのキャラクターをそのままパクる…いえ、継承するような形で誕生させたのが、同じように全身黒づくめのニヒルな洒落者、どこからともなく現れては欲深い悪人どもをてんてこ舞いさせ、首尾よくちゃっかりと大金を奪って去っていく正体不明のガンマン、サバタだったというわけだ。 舞台は西部の町ドハティ。まるで旋風のようにふらりと現れた謎のガンマン、サバタ(リー・ヴァン・クリーフ)が、酒場でチンピラ、スリム(スパルタコ・コンヴェルシ)のいかさま賭博を見抜いてやり込めていると、無法者集団による大胆な銀行強盗事件が発生する。なんと、軍の資金10万ドルを含む預金がゴッソリと盗まれたのだ。すると、すぐさま先回りしたサバタが犯人グループを皆殺しにし、現金を積んだ荷馬車と共に町へ戻ってくる。歓喜に沸く町の人々。これを見てすっかりサバタを気に入った町一番のホラ吹き男カリンチャ(ペドロ・サンチェス)は、神出鬼没の相棒インディオ(ニック・ジョーダン)と共にサバタの仲間となる。 一方、銀行強盗事件の解決に内心穏やかでないのは、町の有力者ステンゲル(フランコ・レッセル)とファーガソン(アンソニー・グラッドウェル)、そしてオハラ判事(ジャンニ・リッツォ)の3人だ。実は彼らこそが犯人グループの黒幕。鉄道の線路が敷かれる近隣一体の土地を買い占めるため、銀行強盗を働いてその資金を集めようとしていたのだ。しかし、殺された実行犯の身元が分かれば、いずれ自分たちに軍の捜査の手が及ぶことは免れない。そこで、リーダー格のステンゲルは、強盗計画に加わった関係者全員を一人残らず抹殺し、証拠隠滅を図るよう部下たちに指示する。 これにいち早く気付いたサバタは、カリンチャたちの協力で証拠となる馬車を奪い取り、それをネタにしてステンゲル一味を脅迫。金よこさねえとあんたらの悪だくみバラしちゃうよ~と(笑)。慌てたステンゲルは、その要求を聞き入れるふりをしつつ、サバタを亡き者にするため次々と刺客を送り込むものの、しかしいずれも片っ端から難なく撃退されてしまい、そのたびにサバタからの要求金額は跳ね上がっていく。ニヤニヤと意地悪そうな笑顔を浮かべるサバタ、困り果ててオロオロする腹黒オジサンたち。いやあ、自業自得とはまさにこのことですな。 そこでステンゲル一味が目を付けたのは、酒場女ジェーン(リンダ・ヴェラス)のヒモをしている、さすらいのバンジョー弾きバンジョー(ウィリアム・バーガー)。実はこの男、バンジョー(楽器の方ね)にライフルを仕込んだ凄腕のガンマンで、過去にサバタとは因縁のある相手だった。しかも、5人の殺し屋を一瞬にして成敗してしまうような猛者。こいつなら、さすがのサバタも太刀打ちできまいと踏んだステンゲルたちだったが…!? やっぱりサバタと言えばリー・ヴァン・クリーフ! ということで、サルタナ映画で打ち出した荒唐無稽なコミカル路線をそのままに、トリッキーなガジェット満載、ピリッと毒の利いた大人のユーモア満載、アクロバティックなアクションも満載のノリノリなエンタメ作品に仕上げたパロリーニ監督。なにしろ、007ブームに便乗した西独産スパイ映画「コミッサールX」シリーズの『エメラルドの牙』(’65)や『キス!キス!キル!キル!』(’66)などをヒットさせた人だし、『戦場のガンマン』(’68)なんて戦争映画も蓋を開けたら戦場を舞台にしたジェームズ・ボンド映画みたいな感じだったので、恐らくもともとこの手の軽いノリが持ち味なのだろう。まさに水を得た魚のごとし。 マカロニ・ファン要注目なのが、やはり劇中に出てくる武器の数々だろう。リムの内側にウィンチェスター製ライフルを仕込み、ネックの先から銃弾を連射するバンジョーはもちろん、上下左右4連なうえにグリップ部分からも弾が3発出る7連発デリンジャー銃(こちらはサバタがご愛用)など、いかしたガジェットたちにもニンマリさせられる。ジュリアーノ・カルニメオ版「サルタナ」シリーズほど荒唐無稽ではない、適度なさじ加減が「サバタ」シリーズの特徴。いずれにせよ、こういう「なんちゃってね!」的なお遊びは素直に楽しい。 もちろん、サバタ役を演じるリー・ヴァン・クリーフのニヒルなダンディズムと、渋い大人の男の色気も最高!しかも、悪知恵に長けた悪人たちの、さらに上を行く狡猾なワルときたもんだからたまりません。町の権力を牛耳る極悪非道なオッサンたちが、手も足も出ずに慌てふためく姿を、ニヤニヤと眺めながらジワリジワリと追い詰めていくサバタのドSっぷりがまた痛快。一般的にはセルジオ・レオーネ監督のドル箱三部作が有名なヴァン・クリーフだが、なかなかどうして、こちらのサバタ三部作も負けていない。いや、むしろこちらこそが代表作と推したいほどのはまり役である。なぜか第2弾『大西部無頼列伝』(’71)ではユル・ブリンナーにサバタ役がバトンタッチされ、これはこれで面白いんだけど、なんかちょっと違うんだよねと思っていたら、第3弾『西部決闘史』(’72)では無事にリー・ヴァン・クリーフが復活。やっぱり、サバタの粋でいなせでお茶目なワル親父っぷりは、ヴァン・クリーフじゃなければ十分に発揮されないのだ。 なお、サバタのライバル、バンジョーを演じているのは、パロリーニ監督の「サルタナ」映画で悪役を演じたマカロニ・ウエスタンの名物俳優ウィリアム・バーガー。『地獄のバスターズ』(’78)でフランス人女性ニコルを演じたデブラ・バーガー、ロリコン映画『小さな唇』(’74)に主演したカティア・バーガーはどちらも彼の娘だ。悪党トリオのボス、ステンゲル役のフランコ・レッセルは、’60年代イタリア産スパイ映画には欠かせない顔だった悪役俳優。オハラ判事役のジャンニ・リッツォも、数々のマカロニ西部劇や史劇映画で小心者の卑怯な小悪党を演じた俳優だ。そうそう、イタリア産B級娯楽映画の名物俳優アラン・コリンズことルチアーノ・ピゴッツィが、サバタを殺すために送り込まれた偽牧師役で顔を出しているのも見逃せない。 しかし、やはり「サバタ」シリーズの名物といえば、大ぼら吹きで単細胞で超テキトーだけど、どうにも憎めない熊さんみたいな髭面男カリンチャをコミカルに演じているスペイン俳優ペドロ・サンチェスことイグナチオ・スパッラ。フェルナンド・サンチョと並ぶマカロニ西部劇きってのコメディ・リリーフで、「サバタ」シリーズでも役名を変えながら全作に出演している。その相棒インディオ役のニック・ジョーダンは、本名をアルド・カンティというイタリア人で、もともとはスタントマンだったものの、ルックスの良さと抜群の身体能力を買われて、数々の史劇映画やマカロニ西部劇で活躍した人だ。どうやらマフィアと関りがあったらしく、48歳の若さで怪死を遂げている。 そして、本作を語る上で外せないのが、音楽スコアを担当した作曲家マルチェロ・ジョンビーニの存在であろう。サバタとバンジョーのそれぞれにテーマ曲を設け、ストーリー展開に合わせてそれらを巧みに使い分けていくメソッドは、一連のセルジオ・レオーネ監督作品でエンニオ・モリコーネが用いた手法と全く一緒だが、しかしポップでグルーヴィーなノリの良さはモリコーネと明らかに一線を画する。中でも、ウルトラ・キャッチーなサバタのテーマは、まるでベンチャーズみたい。このワクワクするような高揚感は絶品だ。 なお、ジャンゴやサルタナなどと同様、「サバタ」も本家のヒットに便乗した非公式作品が幾つも作られている。正式なシリーズは本作『西部悪人伝』(’69)と『大西部無頼列伝』(’71)、そして『西部決闘史』(’72)の3本のみ。ほかにも、ブラッド・ハリス主演の『Wanted Sabata(指名手配犯サバタ)』(‘70・日本未公開)やアンソニー・ステファン主演の『Arriva Sabata!(サバタが来た!)』(‘70・日本未公開)などのサバタ映画が作られているものの、いずれもパチものなのでご注意を(笑)。■ 『西部悪人伝』© 1969 ALBERTO GRIMALDI PRODUCTIONS, S.A.. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2019.11.01
チャック・ノリス・ブームの頂点を極めた名作クライム・アクション
‘80年代を代表するB級アクション映画スター、チャック・ノリスが、まさにその全盛期の真っただ中に放った大ヒット作であり、多くのファンが彼の最高傑作と太鼓判を押すクライム・アクションである。まあ、それもそのはず。既にご存じの映画ファンも少なくないとは思うが、もともと本作はクリント・イーストウッドのために用意された企画だった。 オリジナル脚本を書いたのは、マイケル・バトラーとデニス・シュリアックのコンビ。当時、イーストウッド主演のアクション映画『ガントレット』(’77)の脚本を手掛けた2人は、それに続く『ダーティ・ハリー』シリーズ第4弾として、本作の企画をイーストウッドに提案する。つまり、チャック・ノリス演じる主人公エディの原型はハリー・キャラハンだったのだ。当初はイーストウッド本人も関心を示していたそうだが、しかし出来上がった脚本がお気に召さなかったのだろう、しばらくすると連絡が途絶えてしまい、企画そのものがお蔵入りとなる。 その後、バトラーとシュリアックは西部劇『ペイル・ライダー』(’85)で再びイーストウッドと組むことになるのだが、その直前に2人が脚本に携わったのがクリス・クリストファーソン主演の犯罪ドラマ『フラッシュポイント』(’84)。その際、友人の製作者レイモンド・ワグナーから、クリストファーソン主演で本作の映画化をという提案があったらしいのだが、それがいつの間にかチャック・ノリス主演の企画として始動していたのだそうだ。 ただし、実際に映画化された脚本にはバトラーとシュリアックの2人は一切タッチしていない。2人の書いたオリジナル脚本をリライトして、最終的な決定稿を仕上げたのは名作『チャイナ・シンドローム』(’77)でオスカー候補になったマイク・グレイである。本作の演出に起用されたアンドリュー・デイヴィス監督は、無名時代に世話になって気心の知れた恩人グレイに脚本の書き直しを依頼。監督の生まれ育ったシカゴが舞台ということで、彼自身のアイディアも多分に盛り込まれているという。 主人公はシカゴ市警の腕利き警部エディ・キューサック(チャック・ノリス)。犯罪を憎み不正を絶対に許さない、頑固だが実直な刑事である。そんなエディが陣頭指揮を執っていたのが、ルイス・コマチョ(ヘンリー・シルヴァ)率いる南米系麻薬組織コマチョ一家の検挙。タレコミ屋をおとりに使ってコマチョ一家との麻薬取引をセッティングし、その現場へ警官隊が乗り込んで一網打尽にする手筈だったが、こともあろうか第三者のギャング組織が先回りして乱入。タレコミ屋を含む取引関係者が皆殺しにされ、大量の麻薬と現金が奪われてしまったのだ。 この急襲作戦を実行したのが、コマチョ一家と敵対する組織のボスであるトニー・ルナ(マイク・ジェノヴェーゼ)。トニーは裏社会の大物スカリース(ネイサン・デイヴィス)の甥っ子で、その御威光を笠に着て無茶ばかりするような男だった。まんまと成功したかに思えた横取り作戦だったが、しかし現場で殺したはずのルイスの実弟ヴィクター(ロン・ヘンリケス)が、実は生き延びていたことが判明。自分の犯行であることがバレるのも時間の問題と察したトニーは、子分たちに家族の警護を指示したうえで、荷物をまとめて高飛びする。 一方、思わぬ邪魔が入って作戦が失敗し、上司ケイツ署長(バート・レムゼン)から大目玉を食らうエディ。しかも、銃撃戦の際に飲んだくれの老いぼれ刑事クレイギー(ラルフ・フーディ)が、無関係の少年を射殺してしまったことも大問題となる。一貫して正当防衛を主張するクレイギーだが、実はこれ、丸腰の少年を誤って撃って慌てた彼が、いつも足元に隠し持っている護身用の拳銃を少年の手に握らせ、偽装工作を図ったもの。その一部始終を相棒の新米刑事ニック(ジョー・グザルド)が目撃していたが、しかし現場責任者であるエディに真実を言い出せないでいた。 なぜなら、同僚の不始末を庇うのは警察内における暗黙のうちの了解。いわゆる「沈黙の掟(=本作の原題Code of Silence)」だ。これを破れば署内で居場所がなくなってしまう。妻子を抱えたニックにとっては死活問題だ。以前からクレイギーの飲酒癖を問題視していたエディは、そうした事情を直感で察するものの、真実を告白するもしないもニックの良心に任せる。 ひとまず公聴会までクレイギーが停職処分となったため、ケイツ署長の指示でニックはエディとコンビを組むことに。すぐに2人はトニーが主犯であることを突き止め、高飛びした彼の行方を探ると同時に、宿敵コマチョ一家の動向も監視する。すると、コマチョ一家はトニーの留守宅を襲撃して家族を皆殺しに。たまたま仕事中で難を逃れた一人娘ダイアナ(モリー・ヘイガン)にも刺客が差し向けられる。間一髪のところでダイアナを保護し、引退した先輩テッド(アレン・ハミルトン)に彼女を預けるエディ。しかし、そこへもコマチョ一家の魔手が迫り、ダイアナは誘拐されてしまう。 ダイアナの命を助けたければ、トニーを探し出して連れてこいとルイスから言い渡されるエディ。ところが、公聴会でクレイギーに不利な証言をしたため、警察では誰一人としてエディに力を貸す者はなかった。唯一の協力者は、脚を怪我して現場を離れた親友刑事ドレイト(デニス・ファリーナ)のみ。かくして、ほぼ孤立無援な状態のまま、エディはダイアナを救出するため、コマチョ一家と対峙せねばならなくなる…。 シカゴへの愛情が溢れる豊かなローカル色も見どころ! プロの空手選手として無敵の実績を誇り、親交のあったブルース・リーの誘いで映画界へ足を踏み入れたチャック・ノリス。『フォース・オブ・ワン』(’79)や『オクタゴン』(’80)、『テキサスSWAT』(’83)といった低予算アクションで頭角を現した彼は、当時波に乗りつつあった映画会社キャノン・フィルムと初めて組んだ戦争アクション『地獄のヒーロー』(’84)が空前の大ヒット記録したことで、一躍ハリウッドのトップスターの座へと躍り出る。続く『地獄のヒーロー2』(‘5)や『地獄のコマンド』(’85)、そして『野獣捜査線』も全米興行収入ナンバーワンに。中でも、それまで批評家からは酷評されまくっていたノリスにとって、初めて真っ当な評価を受けた作品が本作だった。 実際、当時のチャック・ノリス主演作品の多くが、映画としては非常にビミョーな出来栄え。ぶっちゃけ、アクションはA級だけれど脚本はC級だよねと言わざるを得ない。出世作『地獄のヒーロー』にしてもそうだが、ストーリーがアクションを見せるための手段でしかなく、どうしてもご都合主義で安上がりな印象が否めないのだ。その点、本作はライバル組織同士の抗争に警察が絡むという三つ巴の対立構造がしっかりと練られており、なおかつ警察たるものの正義とモラルを問う明確なテーマも貫かれている。主人公エディとヒロインの、さり気ない心の触れ合いも悪くない。しかし、やはり一番の功績は、優れたB級アクション映画のお手本のようなアンドリュー・デイヴィス監督の演出であろう。 大都会シカゴのロケーションを最大限に生かすことで予算を抑え、あくまでもストーリーに重点を置きつつ、ここぞというピンポイントでダイナミックなアクションを挿入することで、テンポ良くスピーディに全体をまとめあげていく。その安定感のある職人技的な演出は、さながら名匠ドン・シーゲルのごとし。本作が初めてのメジャー・ヒットとなったデイヴィス監督は、続いて同じくシカゴで撮ったスティーヴン・セガール主演作『刑事ニコ/法の死角』(’88)も大成功させ、やがて『沈黙の戦艦』(’92)や『逃亡者』(’93)などの大型アクション映画を任されるようになる。 やはり最も印象に残るのは、ループと呼ばれるシカゴ名物の高架鉄道でロケされた追跡シーンであろう。実際に走行する車両の屋根へ役者を登らせたスタントも見もの。通常よりもスピードをだいぶ落としての撮影だったらしいが、それでもなお迫力は十分である。また、激しいカーチェイスの末にリムジンがクラッシュ&炎上するシーンは、これまたシカゴへ行ったことのある人ならお馴染み、市内に張り巡らされた多層道路の中でも最も有名なワッカー・ドライブの低層階でロケされている。この同じ場所は『ダークナイト』(’08)のクラッシュ・シーンにも使われているので、見覚えのある方も少なくないだろう。また、随所に出てくる警察署のオペレーター・ルームは、実際にシカゴ警察署本部で撮影されており、本物の刑事や職員も多数出演。こうした、普通なら撮影許可の下りにくい場所を使用できたのも、シカゴ出身で地元にコネの多いデイヴィス監督だからこそだったようだ。 ちなみに、主人公エディの親友ドレイト役のデニス・ファリーナ、サングラスをかけた同僚コバス役のジョセフ・コサラの2人も、当時シカゴ警察に勤務する現役の刑事だった。どちらも刑事を本職としながら、アルバイトで俳優の仕事もしていたらしい。ファリーナは本作の翌年、マイケル・マン製作のテレビドラマ『クライム・ストーリー』(‘86~’88)の主演に抜擢されたことで警察を辞職。プロの俳優として『ミッドナイト・ラン』(’88)や『スリー・リバーズ』(’93)、『プライベート・ライアン』(’98)など数多くの映画で活躍することになる。一方のコサラは「クレイジー・ジョー」のあだ名で知られたシカゴ警察の名物刑事だったらしく、プロの俳優には転向せず役者と刑事の二足の草鞋を履きつつ、定年まで勤めあげたそうだ。 ほかにも、本作はシカゴ出身の地元俳優が多数出演。もともとシカゴは、ニューヨークに次いで全米最大の演劇都市として知られ、ゲイリー・シニーズやジョン・マルコヴィッチなどを輩出した名門ステッペンウルフ劇団もシカゴが本拠地だった。ダイアナ役のモリー・ヘイガンも、彼女自身はミネアポリスの出身だが、当時はシカゴの劇団に所属して舞台に出演していた。暗黒街の大物スカリーセ役では、デイヴィス監督の実父ネイサン・デイヴィスが出演しているが、彼もまたシカゴ演劇界の重鎮だった人物。そのほか、刑事役やギャング役を演じている俳優たちもシカゴの舞台俳優で、その多くが本作をきっかけにデイヴィス監督作品の常連となる。そういう意味では、実にローカル色の強い作品なのだ。 なお、終盤で大活躍する警察ロボットは、コロラド州に実在した’83年創業のRobot Defense Systems Inc.という会社(’86年に倒産)が製作に協力。この「仲間に反感を買った刑事の新たな相棒がロボット」という設定は、マイケル・バトラーとデニス・シュリアックのオリジナル脚本の段階から存在したらしいが、恐らく本作で唯一賛否の分かれるポイントかもしれない。まあ、実際に開発した会社が本作の翌年に倒産しているのだから、あまり実用的とは言えない代物だったのだろう。■ 『野獣捜査線』© 1985 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2019.10.08
巨匠ブニュエルの老いへの恐れを描いた哀しき恋愛残酷譚
25歳の時にマドリードからパリへ出てシュールレアリズム運動に感化され、学生時代からの親友サルヴァトール・ダリと撮った大傑作『アンダルシアの犬』(’29)で監督デビューしたスペイン出身の巨匠ルイス・ブニュエル。スペイン内戦の勃発と共にヨーロッパを離れた彼は、アメリカを経由して同じスペイン語圏のメキシコへ。『忘れられた人々』(’50)がカンヌ国際映画祭の監督賞に輝いたことで再び国際的な注目を集め、20数年ぶりにスペインへ戻って撮った『ビリディアナ』(’61)でついにカンヌのパルム・ドールを受賞する。 その後フランスへ拠点を移したブニュエルは、当時のフランス映画界を代表するトップスター、カトリーヌ・ドヌーヴを主演に迎えた『昼顔』(’67)でヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得し、興行的にも自身のフィルモグラフィーで最大のヒットを記録。そんなブニュエルが再びドヌーヴとタッグを組み、『ビリディアナ』以来およそ9年ぶりに母国スペインで作った映画が『哀しみのトリスターナ』(’70)である。 舞台はブニュエルが学生時代に愛したスペインの古都トレド。世界遺産にも登録されているこの小さな町は、ルネッサンス期の高名な画家エル・グレコが拠点としていた場所としても知られている。若きブニュエルは親友のダリやガルシア・ロルカと連れ立って毎週のようにトレドを訪れ、地元の豊かな食文化やエル・グレコの絵画などを堪能していたという。そんな青春時代の思い出の地で彼が撮った作品は、親子ほど年齢の離れた女性の若さと美貌に執着し、老いの醜態を晒していく哀れな男の物語である。 そう、便宜上はドヌーヴ演じる美女トリスターナを中心にドラマの展開する本作だが、しかし実質的な主人公はフェルナンド・レイふんする初老の貴族ドン・レペである。広い邸宅でメイドのサトゥルナ(ロラ・ガオス)と暮らすドン・レペ。社会的な弱者を守るのが上流階級の使命だと考えている彼は、常日頃から貧しい労働者の味方として庶民から尊敬されているが、しかし実際のところ家計は火の車で、先祖代々受け継がれてきた美術品や食器などを切り売りして生計を立てている。というのも、ドン・レペは無神論者であるため、財産を管理している敬虔なカトリック教徒の姉と折り合いが悪く、金を無心しても断られてしまうのだ。 ならば商売でもすればいいのだけれど、しかし古き良き貴族の慣習やプライドを捨てきれない彼は、金儲けを卑しい者のすることと考えている。ましてや労働者を搾取する資本家などもってのほか!奴らの奴隷になんぞなるものか!と意地を張っているが、しかし自分はメイドに身の回りのことを全て任せ、昼間からカフェに入り浸る毎日。いやはや、無神論者・社会主義者・貴族という3足の草鞋をバランスよく成立させるのは、なかなかこれ矛盾だらけで難しいことらしい(笑)。 かように高潔で誇り高い紳士のドン・レペではあるのだが、しかしそんな彼にも恐らく唯一にして最大の欠点がある。なにを隠そう、部類の女好きなのだ。道を歩いていて好みの若い美女を見つければ、ついついナンパせずにはいられない性分。独身を貫いているのは自由恋愛主義者だからだ。しかし、どう見たって50歳は過ぎている白髪交じりの立派なオジサン。さすがにもはや若い女性からは相手にされないものの、本人はいつまでも若いつもりなので一向にめげない。いわゆるポジティブ・シンキングってやつですな(笑)。そんな永遠の恋する若者(?)ドン・レペを虜にしてしまうのが、父親代わりの後見人として長年成長を見守ってきた処女トリスターナだったのである。 幼い頃に資産家の父親を失い、その父親の残した莫大な借金で苦労した母親を今また亡くした16歳のトリスターナ。身寄りのない彼女を引き取ったドン・レペだが、いつの間にやら大きくなったトリスターナの胸元に目を奪われ、彼女が自分へ向ける娘としての親愛の情を恋愛感情だと勝手に勘違いし、男女の駆け引きもろくに分からない未成年の彼女を強引に押し倒して自分の妻にしてしまう。しかし、無垢な処女だったトリスターナにもだんだんと自我が芽生え、愛してもいないオジサンとの夫婦生活に不満を募らせるようになり、しまいには外出先で知り合った若い画家オラーシオ(フランコ・ネロ)と恋に落ちてしまう。 はじめこそ嫉妬に怒り狂ったドン・レペだが、しかしライバルが若くてハンサムな男とくれば到底勝ち目はない。ならばいっそのこと外で自由に恋愛してくればいい、でもどうか私の元からは離れないでくれと哀願するドン・レペ。今度は泣き落としにかかったわけですな。とはいえ、若い男女の恋の炎は燃え上がるばかり。こんな情けないオジサンとはもう一緒にいられない!とトリスターナが考えたとしても不思議ない。結局、彼女はオラーシオと一緒に出ていってしまい、またもやドン・レペはメイドのサトゥルナと2人きりで広い邸宅に残されることとなる。 それから数年後、姉が亡くなったことで莫大な遺産を手に入れたドン・レペだが、しかしトリスターナのいない生活は今なお侘しく、すっかり弱々しげな老人になってしまった。そんな折、彼はトリスターナが町に戻ってきたことを知る。聞けば、脚にできた腫瘍のせいで寝たきりになってしまい、父親代わりであるドン・レペの加護を求めているらしい。すぐさまトリスターナをわが家へ招き入れ、至れり尽くせりの看護をするドン・レペ。しかし、手術で右脚を失ったトリスターナは、すっかり人生や世の中を恨んだ苦々しい女性となってしまい、年老いたドン・レペに対しても憎しみをぶつけるように冷たい仕打ちを繰り返すのだった…。 ドヌーヴと喧嘩したブニュエルの信じられない発言とは!? 無神論者でアナーキストの老人ドン・レペに、撮影当時69歳だったブニュエルが自らを投影していたであることは想像に難くないだろう。実際、17歳年下のフェルナンド・レイをことのほか気に入っていた彼は、本作と似たような内容の『ビリディアナ』や『欲望のあいまいな対象』でも自らの分身をレイに演じさせている。我が子同然の若い娘に対する、ドン・レペの報われぬ情愛を通じて描かれる老いの残酷。終盤で、過激な無神論者だったはずの彼がすっかり丸くなり、教会の神父たちを自宅へ招いて、ホットチョコレートやケーキを楽しむ微笑ましい団欒シーンがあるが、実はあれこそが永遠の反逆児ブニュエルの思い描く、是が非でも避けたい悪夢のような老後風景だったのだそうだ。すなわちこれは、既に老いが目の前の現実となったブニュエルの、これから待ち受ける自らの老後に対する恐怖心を具現化した作品だったとも言えよう。 と同時に本作は、必ずしも夢や願いが叶うわけではない、残酷な現実から逃れようとも逃れられない、そんな満たされぬ人生とどうにか折り合いを付けなければならない人々の物語でもある。まだ初恋も知らぬまま愛してもいない年上の男ドン・レペに青春時代を奪われたトリスターナは、ようやく出会った最愛の男性と人生をやり直そうとするも、不幸な病によって再びドン・レペの元へ戻る羽目となる。そのドン・レペもまた、どれだけトリスターナのことを愛し、彼女のために全身全霊を捧げて尽くしまくっても、その気持ちが彼女に通じることは決してない。「こんな寒い吹雪の晩に、暖かい我が家があるだけでも幸せなのかもしれない」と呟く彼の言葉が沁みる。それだけに、このクライマックスはあまりにも残酷だ。 ちなみに、スペインとフランス、イタリアからの共同出資で製作された本作。トリスターナ役のドヌーヴはフランス側出資者の強い要望で、またブニュエル自身も『昼顔』で彼女と仕事をしてその実力を認めていたことから、すんなりと決まったキャスティングだったという。ただ、ドヌーヴもブニュエルもお互いに人一倍頑固であることから、『昼顔』の時と同様に撮影現場ではピリピリすることも多かったらしく、ある時などはドヌーヴに対して激怒したブニュエルが、その場にいたフランコ・ネロに「事故のふりして彼女をバルコニーから突き落とせ!」と言ったのだとか(笑)。 一方のフランコ・ネロは、当時一連のマカロニ・ウエスタンで大ブレイクしていたことから、イタリア側出資者がブニュエルに強く推薦して決まったとのこと。スペインの独裁者フランコ将軍が大嫌いだったブニュエルは、彼のことを“フランコ”ではなく“ネロ”と呼んでいたそうだ。その後、ブニュエルとジャン=クロード・カリエールが脚本を書いたもののお蔵入りになっていた『サタンの誘惑』(’72)が、アド・キルー監督のもとフランス資本で制作されることになった際、ブニュエルは映画化を許可する条件として“ネロ”を主演に起用するようプロデューサーに注文を付けたという。それほど彼のことを気に入っていたらしい。 なお、フェルナンド・レイはスペイン人、カトリーヌ・ドヌーヴはフランス人、フランコ・ネロはイタリア人ということで、撮影現場ではそれぞれが母国語でセリフを喋っている。そのため、フランス語版ではドヌーヴだけが本人の声、スペイン語版ではレイだけが本人の声、イタリア語版ではネロだけが本人の声を当て、それ以外は別人がアフレコを担当しているのだ。 これは当時ヨーロッパの多国籍プロダクションではよく見られたパターン。例えば巨匠ヴィスコンティの『山猫』(’63)はアメリカ人のバート・ランカスター、フランス人のアラン・ドロン、イタリア人のクラウディア・カルディナーレが主演を務めているが、オリジナルのイタリア語版ではいずれも本人の声は使用されていない。えっ!カルディナーレまで!?と驚く方も多いかもしれないが、彼女のイタリア語の発音は訛りが強いため、シチリア貴族の声には相応しくないと別人が吹き替えたのだそうだ。その代わり、フランス語版ではドロンとカルディナーレがそれぞれ本人の声を担当し、英語版ではランカスターが自分の声を当てた。今となってはなかなかあり得ない話だが、当時はそれが普通だったのである。■ 『哀しみのトリスターナ』© 1970 STUDIOCANAL – TALIA FILMS. All Rights reserved.
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COLUMN/コラム2019.10.08
革命の季節に生まれるべくして生まれたポリティカルなマカロニ・ウエスタン
※下記のレビューには一部ネタバレが含まれます。 ネオレアリスモの流れを汲む社会派の映画監督として’60年代初頭に頭角を現し、恋愛ドラマから犯罪アクション、マカロニ・ウエスタンからオカルト・ホラーまで、実に多彩なジャンルの映画を手掛けつつ、どの作品でも常に反権力と社会批判の姿勢を貫いてきた反骨の映画監督ダミアーノ・ダミアーニ。世代的にはピエル・パオロ・パゾリーニやカルロ・リッツァーニ、マルコ・フェレーリ、セルジオ・レーネらと同期に当たるが、しかし精神的にはひと世代後のベルナルド・ベルトルッチやマルコ・ベロッキオ、エリオ・ペトリといった、当時“新イタリア派”と呼ばれた革命世代の左翼系作家たちと親和性の高い映画監督だったと言えよう。 ‘22年7月23日、北イタリアの小さなコムーネ(共同自治体)、パジアーノ・ディ・ポルデノーネに生まれたダミアーニは、ミラノのブレーラ美術学校を卒業し、美術スタッフとして映画界入り。脚本家や助監督を経て、’46年から短編ドキュメンタリーの監督を手掛けつつ、コミック・アーティストとして活躍するようになる。日本だとあまり知られていない事実だろう。長編劇映画の監督デビュー作は、ネオレアリスモの立役者チェザーレ・ザヴァッティーニが脚本に参加した『くち紅』(’62)。これはピエトロ・ジェルミ監督の名作『刑事』(’59)にインスパイアされた作品で、ローマの下町で起きた殺人事件とそれに絡む男女の複雑な恋愛を軸にしつつ、高度経済成長に取り残された貧しい庶民の姿を映し出した作品で、ピエトロ・ジェルミが刑事役を演じていた。 さらに、テーマ曲が日本でも評判になった『禁じられた恋の島』(’62)では思春期の少年の父親に対する憧れと失望を通じてイタリア南部に根強い男尊女卑の偽善を炙り出し、アルベルト・モラヴィア原作の『禁じられた抱擁』(’63)では豊かな現代イタリア社会における愛の不毛とブルジョワの倦怠を浮き彫りにしたダミアーニ。やがて世界的に左翼革命の時代が訪れると、より政治的・社会的なメッセージ性の強い作品に傾倒していくわけだが、その先駆けともなったのが自身初のマカロニ・ウエスタン『群盗荒野を裂く』(’66)だった。 マカロニ史上初のポリティカル・ウェスタンとも呼ばれる本作。舞台は革命真っただ中のメキシコ、主人公は粗野で下品で無教養だが人情に厚いゲリラ隊のリーダー、エル・チュンチョ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)だ。政府軍の武器を奪っては革命軍のエリアス将軍(ハイメ・フェルナンデス)に売りさばいている彼は、それなりに革命の精神は理解をしているし、基本的に虐げられた貧しい庶民の味方ではあるものの、しかし根っからの反権力の闘士である弟サント(クラウス・キンスキー)とは違い、どこか革命を金儲けの手段と考えている節がある。武器の対価を将軍から得ていることを弟に隠しているのは、恐らく後ろめたさの表れだ。 そんなチュンチョがいつものように、大勢の手下を引き連れて政府軍の武器弾薬を積んだ列車を襲撃したところ、ビル・テイト(ルー・カステル)というアメリカ人と遭遇する。政府軍兵士を殺して暴走する列車を止めたビルの勇敢な行動に感銘を受けたチュンチョは、自分も革命軍ゲリラに加わって金を稼ぎたいというビルを仲間に引き入れるのだが、しかし単細胞でお人好しな彼は、ビルが襲撃の混乱に紛れて身分を偽っていたことに全く気付いていない。それどころか、身なりの良い外国人のビルが下賤な自分たちの味方となったことに気を良くし、彼のことを“ニーニョ”と愛称で呼んで一方的に親近感を抱いていく。 かくして、ビルを仲間に加えて革命軍の基地や武器庫を次々と襲撃していくゲリラ隊。そんなある日、故郷の町サンミゲルが革命軍によって解放されたと知ったチュンチョは、紅一点のアデリータ(マルティーヌ・ベスウィック)やビルなど、一部の仲間を引き連れて馳せ参じる。長年にわたって貧しい庶民を虐げて苦しめ、少女時代のアデリータを凌辱した町の権力者ドン・フェリペ(アンドレア・チェッキ)を処刑したチュンチョ。ようやく待ち望んだ正義が下されたのだ。 その直後、政府軍が町へ迫っているとの情報が入り、チュンチョとサントは住民を守るため町に残ろうと考えるが、しかしビルは一刻も早くエリアス将軍のもとに武器を届けるべきだと強く主張する。実は彼、エリアス将軍を暗殺するため、メキシコ政府に雇われたプロの殺し屋だったのだ。そんなこととはつゆ知らず、追手との戦いで次々と仲間を失いながらも、ビルに助けられて革命軍の本拠地シエラへとたどり着いたチュンチョは、そこで無二の親友と信じ始めていたビルの正体に気付くこととなる。 集ったのはイタリアの左翼系映画人たち 無学ゆえに革命家というよりは中途半端なチンピラに過ぎなかった主人公が、金のためなら何でもする日和見主義者の殺し屋と対峙することで、真の革命精神に目覚めていくという物語。靴磨きの貧しい若者に札束を渡したチュンチョが、「その金でパンなんか買うんじゃないぞ!ダイナマイトを買うんだ!」と高らかに叫びながら、線路の彼方へと走り去っていくクライマックスが象徴的だ。 脚本にはその後、警察幹部とマフィアの癒着を告発した問題作『警視の告白』(’71)で再びダミアーニ監督と組むサルヴァトーレ・ラウリーニが参加しているが、やはり’20世紀初頭のメキシコ革命に’60年代末の左翼革命の時代を投影した本作の方向性を決定づけるうえで、脚色と台詞でクレジットされているフランコ・ソリナスが大きな役割を果たしたであろうことは想像に難くない。なにしろ、ソリナスと言えばジッロ・ポンテコルヴォ監督の『ゼロ地帯』(’60)や『アルジェの戦い』(’66)、『ケマダの戦い』(’69)などを手掛けた、イタリアの左翼系映画人の代表格みたいな人物だ。コスタ=ガヴラスの『戒厳令』(’70)も彼の仕事。本作に続いて、やはりメキシコ革命をテーマにしたセルジオ・コルブッチ監督のマカロニ・ウエスタン『豹/ジャガー』(’68)も手掛けている。 左翼系映画人といえば、エル・チュンチョ役で主演を務めている名優ジャン・マリア・ヴォロンテも、俳優の傍ら左翼活動家としても有名だった筋金入りの共産主義者。父親がブルジョワ階級のファシストで、終戦後に戦犯として捕らえられて獄死したという暗い生い立ちを抱えた彼は、戦前・戦中から一転した極貧と放浪生活の中で共産主義に目覚め、キャリアの当初こそセルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』(’64)や『夕陽のガンマン』(’65)といった娯楽映画にも出演したが、次第にダミアーニやエリオ・ペトリ、フランチェスコ・ロージといった左翼系監督による政治性の高い作品ばかりを選ぶようになる。 一方、グレーの上質なスーツに身を包んだクールでキザなアメリカ人ビルを演じるルー・カステルも、マルコ・ベロッキオ監督の傑作『ポケットの中の握り拳』(’65)で抑圧された旧家の若者の屈折した怒りを演じ、反権力世代の象徴的な存在となった俳優。スウェーデン人外交官の父親とイタリア人共産主義者の母親のもとに生まれ育ったカステルは、彼自身もまた母親の強い影響で毛沢東思想に傾倒した極左活動家だった。そのため、やがてイタリア国内にいづらくなり、’73年以降はヨーロッパを転々としながらヴィム・ヴェンダースやダニエル・シュミット、クロード・シャブロルなどの作品に出演するようになる。本作の撮影現場では、先輩ジャン・マリア・ヴォロンテと意気投合したそうだが、恐らく同じ共産主義者として共鳴するところも多かったのだろう。ちなみに、先述したクライマックスのセリフはヴォロンテのアドリブだったらしい。 これが初めての西部劇となったダミアーニ監督は、あえてイタリア流のマカロニ・ウエスタンではなく、ジョン・フォードのような正統派西部劇の世界観を目指したという。それはアルゼンチン出身の作曲家ルイス・バカロフによる、およそマカロニらしからぬメキシコ民謡調の音楽スコアにも端的に表れていると言えよう。中でもフォード監督の『捜索者』(’56)を意識していたようだが、そういえばセルジオ・レオーネも『ウエスタン』(’68)ではモニュメント・ヴァレーで撮影をしたり、ヘンリー・フォンダを起用したりするなど、ジョン・フォード作品へのオマージュをひときわ強く感じさせた。そう考えると、後にレオーネが製作(と一部演出)を手掛けた西部劇『ミスター・ノーボディ2』(’75)の監督に、ダミアーニが起用されたことも納得が行くだろう。 なお、本作を機にメキシコ人の山賊やゲリラと白人のガンマンがコンビを組むマカロニ・ウエスタンのサブジャンルが生まれ、『復讐のガンマン』(’67)や『豹/ジャガー』、『復讐無頼・狼たちの荒野』(’68)、『ガンマン大連合』(’70)などの名作が世に送り出されることとなる。■ 『群盗荒野を裂く』QUIEN SABE?: 1966 – M.C.M. di Bianco Manini – Surf Film S.r.l. – All rights reserved –
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COLUMN/コラム2019.09.08
最強のパパが愛する妻子を守り抜くチャールズ・ブロンソン版『96時間』
恐らく50代以上の日本人にとって、チャールズ・ブロンソンといえば「マンダム」。’70年に放送の始まった男性用化粧品「マンダム」のテレビCMは、アラン・ドロンと共演したフランス映画『さらば友よ』(’68)で日本の映画ファンを魅了したブロンソンをモデルとして起用し、一躍社会現象になるほどの大反響を巻き起こした。CM中でブロンソンの呟く「う~ん、マンダム」のセリフは子供の間でも流行語に。ちょうどこの時期、ヨーロッパでもブロンソン人気が過熱し、フランスやイタリアの映画界で引っ張りだこの大スターとなる。それらの主演作は、日本でも次々と輸入されてヒットした。そんなチャールズ・ブロンソン・ブームの全盛期に公開された映画のひとつが、この『夜の訪問者』(’70)である。 舞台は避暑地として有名なフランスのコートダジュール。観光客向けにボートをレンタルしているアメリカ人の船乗りジョー(チャールズ・ブロンソン)は、聡明で美しい妻ファビアン(リヴ・ウルマン)と可愛い娘ミシェル(ヤニック・ドリュール)に恵まれ、平凡だが満ち足りた生活を送っている。時おり夜中に悪夢でうなされることもあったが、それは朝鮮戦争に従軍した時の悲惨な経験が原因だとファビアンは思っていた。ある一本の電話がかかってくるまでは…。 それはいつものように、ジョーが船乗り仲間と酒や博打を楽しんで帰宅した晩のこと。娘ミシェルは学校のキャンプで外泊中だった。ファビアンの小言をジョーが苦笑いしながら聞いていると、そこへ一本の「お前を殺す」という不気味な電話がかかってくる。顔色を変えて受話器を置いたジョーは、すぐに実家へ帰るようにと妻へ指示。しかし、家の中で不気味な物音が響く。2階の寝室で隠れているように言われたファビアンだったが、ジョーが誰かと激しく揉み合っているような音を聞き、心配になって恐る恐る1階のキッチンへと降りてくる。すると、気を失って倒れている夫の横に、拳銃を手にした見知らぬ男が立っていた。 男の名前はホワイティ(ミシェル・コンスタンタン)。どうやらジョーとは旧知の仲のようだ。意識を取り戻したジョーは、隙を見てホワイティに襲いかかり、首の骨をへし折って殺してしまう。状況がまるで呑み込めず、夫に問いただすファビアン。そんな彼女にジョーは、長年隠してきた過去の秘密を打ち明ける。 軍隊時代に上官を殴った罪で投獄された彼は、刑務所でロス大尉(ジェームズ・メイソン)とその子分であるホワイティ、ファウスト(ルイジ・ピスティッリ)、カタンガ(ジャン・トパール)と知り合う。彼らは賄賂や密売の罪で逮捕された汚職軍人たちだった。運転の腕前をロス大尉に見込まれたジョーは、彼らの脱獄計画に力を貸すことに。しかし、たまたま鉢合わせた見回りの警官をカタンガが殺害したことから、これに強く憤ったジョーは自分だけ独りで逃走し、残されたロス大尉たちは捕まってしまった。刑期を終えて釈放された彼らが、いつか自分を見つけ出して復讐に来るかもしれない。ジョーが悪夢にうなされていた本当の原因はそれだったのである。 ファビアンの協力でホワイティの死体を海へ棄てたジョー。しかし、自宅へ戻るとロス大尉とファウスト、カタンガの3人が待ち受けていた。彼らの狙いはジョーへの復讐ではなく、当時の借りを返してもらうこと。つまり、自分たちの新たな犯罪計画に協力させることだった。妻と娘を人質に取られたことから、ロス大尉の要求を呑まざるを得なくなるジョー。だが、黙って命令に従うような男じゃない。ずば抜けた知性と俊敏な戦闘能力を駆使し、巧妙に敵の隙を突いて空港へ向かったジョーは、仲間と合流するため到着したロス大尉の愛人モイラ(ジル・アイアランド)を拉致し、妻や娘との人質交換を申し出るのだが、思いがけない事態が起きて窮地に追い込まれてしまう…。 実はテレビドラマ化もされていた! ずばり、これはチャールズ・ブロンソン版『96時間』。一見したところ普通のお父さんだけど実は最強の元兵士という主人公ジョーのキャラは、『96時間』シリーズでリーアム・ニーソンの演じたブライアン・ミルズのルーツみたいなものだろう。まあ、ブロンソンの場合はTシャツの半袖から覗く筋骨隆々な腕を見ただけで、こりゃタダモノじゃないぞとバレてしまうのだが(笑)。それにしても撮影当時のブロンソンは49歳。無駄な贅肉を削ぎ落とした見事な筋肉美は、さすが子供の頃から炭鉱労働で鍛えまくっただけのことはある。しかも、本人だって実際に第二次世界大戦で従軍した元兵士。臨戦態勢に入った時の顔つきからして違う。しかも、渋くて枯れた大人の男の色気がダダ洩れ。これこそがブロンソンの魅力であり醍醐味だ。 原作はリチャード・マシスンが’59年に出版した中編小説『夜の訪問者』。実はこの作品、著者であるマシスンの脚色によって、約1時間のテレビドラマとして映像化されたことがある。それが、’62年に放送された『ヒッチコック・サスペンス』(『ヒッチコック劇場』のリニューアル版)シーズン1の第11話「Ride the Nightmare」(邦題未確認)である。そのストーリーを簡単にご紹介しよう。 物語の舞台は原作と同じアメリカのカリフォルニア。郊外の住宅地に暮らす中流階級の夫婦クリス(ヒュー・オブライアン)とヘレン(ジーナ・ローランズ)のもとに、ある晩一本の電話がかかってくる。「お前を殺す」という相手の言葉に戦慄し、家中の電気を消して窓のブラインドも下ろし、じっと息を潜める2人。すると、キッチンの窓から一人の男が乱入する。フレッド(ジェイ・レイニン)という侵入者は、クリスのことを知っている様子だった。やがてクリスとフレッドは揉みあいになり、相手の拳銃を奪ったクリスはフレッドを射殺する。 困惑するヘレンに今まで隠していた暗い秘密を打ち明けるクリス。今から15年前、当時19歳だったクリスは父親との不仲で非行に走り、悪い仲間たちとつるんでいた。ある時、仲間たちの宝石店強盗に加わったクリスは、店の外で車に乗って待機していたところ、防犯アラームが鳴って警官が現場へ駆け付ける。怖くなったクリスはそのまま一人で逃走。後になって仲間たちが店主を殺して逮捕されたことを知り、自らも指名手配されていることから、名前を変えてカリフォルニアへ逃げてきたのである。 新聞記事によると、かつての仲間アダム(ジョン・アンダーソン)とスティーヴ(リチャード・シャノン)、そしてフレッドの3人は刑務所を脱獄したらしい。正当防衛とはいえフレッドを殺したクリスは、警察に自首しようとするものの、そこでヘレンが反対する。そうなれば15年前の罪で逮捕されることは免れないからだ。深夜にフレッドの死体を処分した2人。すると、その翌日アダムとスティーヴがクリスの前に現れ、ヘレンを人質にして4万ドルの逃走資金を要求する。約束の時間までに現金を用意せねば妻は殺されてしまう。すぐに銀行へ向かうクリスだったが、しかしお節介な隣人や規則にうるさい銀行員などに邪魔されてしまい、刻一刻と制限時間が迫りくるのだった…。 原作をコンパクトにまとめたというドラマ版は、言うなれば過去の封印された罪と向き合わねばならなくなった男の因果応報な物語。大雑把な筋書きは『夜の訪問者』とほぼ一緒だが、ストーリーの趣旨はだいぶ異なる。ブロンソン版の脚色にはジャック・ベッケル監督の傑作ギャング映画『現金(げんなま)に手を出すな』(’54)の原作・脚本で有名な、フランスの犯罪小説家アルベール・シモナンが参加しており、やはりギャング映画的な側面が強調されていると言えよう。 演出を手掛けたのは初期007シリーズの監督としても知られるテレンス・ヤング。前半では『暗くなるまで待って』(’67)にも通じる閉鎖空間での心理サスペンス的な語り口でスリルを盛り上げつつ、後半はダイナミックなアクションでスケールを広げていく。中でも、終盤のカーチェイス・シーンは見もの。カースタントをロジャー・ムーア版007シリーズで有名なスタントマン、レミー・ジュリアンが担当しているのも興味深い。本作がブロンソンとの初タッグだったヤングは、その後も『レッド・サン』(’71)や『バラキ』(’72)でブロンソンとコンビを組むことになる。 ちなみに、冒頭で述べた通り、日本やヨーロッパにおけるブロンソン・ブームの真っただ中で公開された本作だが、その一方でアメリカでは『狼よさらば』が大ヒットする’74年までお蔵入りになっていた。そもそも、ヨーロッパでのブロンソン主演作の大半が、アメリカで公開されたのは1~2年遅れ。国外でのブームがアメリカ本国へと逆輸入されるまで、それなりにタイムラグがあったのである。ブロンソンのハリウッド凱旋復帰作は『チャトズ・ランド』(’72)。以降、『メカニック』(’72)や『シンジケート』(’73)などで着実にヒットを重ね、『狼よさらば』の大成功によって、ようやくアメリカでもブロンソン・ブームが巻き起こったというわけだ。■ 『雨の訪問者』© 1970 STUDIOCANAL - Medusa Distribuzione S.r.l.
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COLUMN/コラム2019.09.08
フランスの映像作家にも愛された異端の女性ウエスタン
映画ファンには言わずと知れたカルトな西部劇である。’54年の劇場公開時、アメリカでは多くの批評家によって失敗作とみなされたが、しかしフランスではフランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・メルヴィルらの映像作家に称賛され、’70年代に入るとウーマンリブの視点からも再評価されるようになり、今では『理由なき反抗』(’55)と並んでニコラス・レイ監督の代表作とされている。 舞台はアリゾナ州の小さな田舎町。ギターを担いだ流れ者ジョニー・ギター(スターリング・ヘイドン)の到着するところから物語は始まる。町はずれの酒場へ足を踏み入れたジョニーを待っていたのは、鉄火肌で強靭な意思を持つ女性経営者ヴィエナ(ジョーン・クロフォード)。鉄道開発が行われることを見越して、この荒れ果てた土地を手に入れたヴィエナは、かつてジョニー・ローガンの名前で世間に恐れられた凄腕ガンマンであり、自らの恋人でもあったジョニーを用心棒として雇ったのである。 しかし、よそ者の流入によって自分たちの既得権益が奪われることを恐れた町の権力者たちは鉄道開発に猛反対し、駅の建設を支持するヴィエナを目の敵にして町から追い出そうとしていた。その急先鋒に立つのが女性銀行家エマ・スモール(マーセデス・マッケンブリッジ)だ。しかし、エマには他にもヴィエナを恨む理由があった。この近辺を縄張りにする無法者集団のリーダー、ダンシング・キッド(スコット・ブレイディ)である。若くてハンサムなダシング・キッドに秘かな恋心を抱くエマだが、しかし彼は女性的な魅力の乏しいエマになど目もくれず、美しく誇り高い熟女ヴィエナにゾッコンだ。可愛さ余って憎さ百倍。ヴィエナとダンシング・キッドを善良な市民の敵として糾弾するエマは、町の人々を煽動して彼らを葬り去ることに異常な執念を燃やしていた。 ジョニーの到着早々、ヴィエナの酒場へなだれ込んできたエマ率いる町の自警団。彼らは駅馬車強盗事件の犯人をダンシング・キッド一味だと決めつけ、その共犯を疑われたヴィエナも24時間以内に町から出ていくよう警告される。もちろん、ヴィエナにはそんな命令など従う義理はない。ところが、濡れ衣を着せられたダンシング・キッドたちは、ならば本当にやっちまおうじゃないか!とばかりに銀行強盗を決行。しかも運悪く、その場にヴィエナも居合わせてしまった。つまり、敵に魔女狩りの口実を与えてしまったのだ。かくして追われる身となったヴィエナ。逃げも隠れもするつもりなどない彼女は、自分の城である酒場にて怒り狂った自警団を待ち受けるのだったが…!? マッカーシズム批判とフェミニズム メルヴィルは本作を「異形の映画」と呼んだそうだが、なるほど、確かにそうかもしれない。西部劇と言えば伝統的に男性映画に属するジャンルだが、本作はヒーローのヴィエナもヴィランのエマも女性。一般的に西部劇映画における女性は色添えのお飾りだったりするが、本作の色添えはむしろジョニーやダンシング・キッドといった男性陣だ。このジェンダーロールの逆転に加え、本作は善と悪の立場にも逆転現象が見られる。女を武器に成りあがってきた酒場経営者ヴィエナ、かつて大勢の人間を殺した拳銃狂いのジョニー、犯罪行為を重ねる無法者ダンシング・キッドなど、本作において観客の同情を呼ぶ登場人物たちは、従来のハリウッド西部劇であれば間違いなく悪人として描かれる側だったはずだ。反対に、自分たちの町を守ろうとするエマや自警団は、本来ならば善の側であって然るべきなのだが、しかし本作では時代の変化と異質なものを頑なに拒む、排他的で利己的な偽善者集団として描かれている。 この本作の歪んだ善悪の対立構造に、当時のハリウッドで吹き荒れた赤狩りへの痛烈な風刺が込められていることは、ブラックリスト入りした脚本家たちに名義貸ししていたフィリップ・ヨーダンが脚本に携わっていることからも容易に想像がつくだろう。かつて共産党員だったニコラス・レイ監督自身も赤狩りのターゲットにされたが、当時の上司だった大富豪ハワード・ヒューズの政治力に守られた過去がある。モラルや良識を盾にして基本的人権を蹂躙し、異質な他者への憎悪を煽って自らの既得権益を死守しようとする町の権力者たちに、民主主義を守るという大義名分のもとで無実の共産主義者を迫害した赤狩りの恐怖を重ね合わせていることは明白。赤狩りの公聴会で密告証言を強要されたスターリング・ヘイドンをジョニー役に、映画界の保守タカ派として赤狩りに加担したワード・ボンドを町の権力者マッカイヴァーズ役に起用しているのも意図的だったはずだ。 また、『大砂塵』には後の『バッド・ガールズ』(‘94)や『クイック&デッド』(’95)などを遥かに先駆けたフェミニズム西部劇という側面もある。もちろん、それは単に強い女性を主人公にした映画だからというわけではない。金と力が全ての弱肉強食な男社会で、生きるために強くならざるを得なかった女性たちの物語だからだ。劇中で多くは語られないものの、かつてはしがない酒場女だったというヴィエナ。唯一の武器である女の性を利用して成り上がり、今や一国一城の主となったヴィエナだが、そんな彼女と5年ぶりに再会したジョニーは、かつて愛した女が傷物になってしまったと嘆く。なんで俺が帰ってくるのを待っていてくれなかったのかと。そればかりか、お前は男の誇りを傷つけたとまで言い放つ。ヴィエナが怒りまくるのも当然だろう。 男はいくらヤンチャしたって武勇伝として誇れるが、しかし女に良妻賢母たることが求められる男社会においては、一度でも道を踏み外した女は世間から白い目で見られる。そもそも、なぜ女だからという理由だけで、自分ばかりが耐え忍んで待たなくちゃいけないのか。どうして男は好き勝手に生きてもよくて女はダメなのか。無自覚に女を踏みつけにしてのさばっている男たちに反旗を翻し、彼らの一方的に押し付ける理想の女性像を破壊する。それこそがヴィエナという女性の強みだ。 一方の宿敵であるエマは、町の支配者層における唯一の女性として、周囲の男たちと対等に渡り合っていくため、ヴィエナとは反対に女性性を捨てざるを得なかった。なぜなら、ホモソーシャルな男社会で女性性は弱みとなりかねないからだ。それゆえに彼女はダンシング・キッドへの恋愛感情を押し殺さねばならず、その抑圧がやがて彼への憎しみへと変わり、自分と違って女性性を最大限に有効活用してきたヴィエナへ敵意を抱くこととなったのである。ある意味、男社会の犠牲者だと言えよう。 自らの性を武器に変えたヴィエナと、自らの性が弱点となったエマ。そんな2人の激しい女同士の戦いを、まるでイタリアンオペラのごとくエモーショナルに盛り上げつつ、本作は現実を見据えながら未来を切り拓いていこうとする聡明な女性の強さと、争いに明け暮れ生き急いでいく男たちの子供じみた愚かさを浮き彫りにしていく。エマの本当の弱点は女性という属性ではなく、むしろそれを封印して名誉男性になろうとしたことだろう。ウーマンリブ運動がまだ産声を上げる以前の時代にあって、本作の明確なフェミニズム的志向は先見の明だったように思う。 再起を賭けた大女優ジョーン・クロフォード ただ、原題が「Johnny Guitar」であることからもうかがい知れるように、もともと本作の実質的なヒーローはスターリング・ヘイドン演じるジョニーだったらしい。原作はジョーン・クロフォードの友人でもあるロイ・チャンスラーが、彼女をイメージして書き上げた小説で、クロフォード自身が映画化権を獲得してリパブリック・ピクチャーズに企画を持ち込んだ。かつてMGMとワーナーを渡り歩き、ハリウッドを代表する大女優となったクロフォード。しかし人気の低迷で’52年にワーナーとの契約を解消し、ランクの落ちるRKOで主演した『突然の恐怖』(‘52)こそオスカー候補になったものの、10年ぶりにMGMへ復帰した『Torch Song』(‘53・日本未公開)が批評的にも興行的にも大惨敗してしまった。そうした状況下にあって、恐らく彼女は本作にキャリアの復活を賭けていたのかもしれない。 監督は以前に企画段階でボツとなったクロフォード主演作のニコラス・レイを起用。オリジナル脚本は原作者チャンスラーが担当したものの、しかしクロフォードはその内容が不満だったらしく、ロケ地のアリゾナに旧知の脚本家フィリップ・ヨーダンを呼び寄せてリライトを指示する。というのも、ヴィエナの役割がジョニーの相手役になっていたからだ。ヨーダンの回想によると、彼女はクラーク・ゲイブルのようなヒーローを演じることを望んでおり、そのためにもジョニー・ギターではなくヴィエナが主人公でなくてはいけなかったのだ。クライマックスの一騎打ちも、本来はジョニーとエマが対決するはずだったものを、この段階でクロフォードがヴィエナとエマの対決に書き換えさせたという。なにしろ、もともとはクロフォードが持ち込んだ企画。現場も実質的に彼女が仕切っていたらしいので、恐らく誰もが従わざるを得なかったのだろう。 そのせいもあってなのだろうか、やがてエマ役の女優マーセデス・マッケンブリッジとクロフォードの確執が表面化する。そもそも、マッケンブリッジの夫フレッチャー・マークルを巡って2人は過去に因縁があったらしい。レイ監督やスタッフの多くがマッケンブリッジの肩を持ち、それに腹を立てたクロフォードは彼女の衣装をビリビリに破いて投げ捨てたという。共演のスターリング・ヘイドンも、マッケンブリッジに対するクロフォードの態度を「恥ずべきものだった」と後に回想している。 ただ、その一方でレイ監督にとって、これはまさしく天の恵み。女優2人の確執はそのまま演技にも色濃く反映され、ヴィエナとエマの激突になお一層の真実味が増すからだ。さらに、この状況をいち早く嗅ぎつけた芸能マスコミが、クロフォードとマッケンブリッジのいがみ合いを面白おかしく書きたて、それが映画のプロモーションにも役立った。おかげで、先述したようにアメリカの批評家からはこき下ろされたが、興行的には大きな成功を収めることができた。とはいえ、これを最後にクロフォードは目立ったヒットから遠ざかり、あの『何がジェーンに起ったか?』(’62)までしばらく低迷することとなる。■ 『大砂塵』TM, ® & © 2019 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2019.08.02
背筋の凍る深海ホラー『海底47m』の恐怖と人喰いザメ映画の変遷。
もともとはDVDとVODのみでリリースされる予定で、実際に小売店向けのサンプルDVDまで配布されていたものの、配給会社が直前になって劇場公開へ踏み切ることを決定。その結果、超低予算のインディーズ作品であるにも関わらず、全米興行収入6230万ドルのスマッシュヒットを記録することになった人喰いザメ映画である。 旅行先のメキシコでケージ・ダイビングに挑戦したアメリカ人姉妹が、血に飢えたサメのウヨウヨする海の底に取り残されてしまうという恐怖。低予算の人喰いザメ映画が毎年のように大量生産されている昨今だが、しかしその多くがDVDストレートやテレビ映画であることを考えると、この『海底47m』が映画館で真っ当に受け入れられたことは、それなりに画期的だったとも言えよう。 人喰いザメ映画の変遷を振り返る それにしても、人喰いザメ映画の根強い人気には少なからず驚かされるものがある。ご存知の通り、そもそもの原点はスティーブン・スピルバーグ監督の出世作である『ジョーズ』(’75)。海水浴客で賑わう避暑地の海岸に凶暴で巨大なホオジロザメが現れ、次々と人間を食い殺して人々を恐怖のどん底へと突き落とす。若きスピルバーグ監督のツボを心得たショック演出、作曲家ジョン・ウィリアムズによるスリリングな音楽スコアなどのおかげもあり、興行収入において当時の史上最高記録を樹立するほどの社会現象となった。 これを機に、ピラニアやクマや犬、さらには蜂やミミズやタコなど、ありとあらゆる生物が人間に襲いかかる動物パニック映画のブームが訪れ、本家『ジョーズ』もシリーズ化されて合計4本が製作された。しかし意外なことに、その『ジョーズ』シリーズに続く本格的な人喰いザメ映画は、リアルタイムではほとんど作られなかったのである。 メキシコの有名なB級映画監督ルネ・カルドナ・ジュニアは、『タイガーシャーク』(’77)と『大竜巻/サメの海へ突っ込んだ旅客機』(’78)を相次いで発表するが、蓋を開けてみるとどちらもメインは恋愛ドラマやら自然災害パニックで、人喰いザメなど刺身のツマも同然の扱いだった。フロリダを基盤に’60年代からZ級クズ映画を撮り続けたウィリアム・グルフェも、『地獄のジョーズ/’87最後の復讐』(’76)なる映画を作っているが、当時はほとんど見向きもされなかった。 一方、世界に冠たるパクリ映画大国イタリアでは、人喰いザメ映画と思ったら実は海洋版『未知との遭遇』だった!という『人食いシャーク・バミューダ魔の三角地帯の謎』(’78)という怪作が存在するが、やはりマカロニ版人喰いザメ映画といえば、イタリアン・アクションの巨匠エンツォ・G・カステラーリが撮った『ジョーズ・リターンズ』(’81)であろう。ストーリーはほぼ『ジョーズ』のリメイクだが、機械仕掛けの巨大なサメを出し惜しみせず大暴れさせるサービス精神は立派だった。これがアメリカ市場でもメジャー・ヒットを飛ばしたことから、以降もランベルト・バーヴァ監督の『死神ジョーズ・戦慄の血しぶき』(’84)、トリート・ウィリアムズ主演の『死海からの脱出』(’87)など、イタリアでは正統派(?)の人喰いザメ映画が何本か作られている。 このように、必ずしも大きなうねりとはならなかった人喰いザメ映画だが、しかし’90年代末になって状況が一変することとなる。レニー・ハーリン監督作『ディープ・ブルー』(’99)のメガヒットだ。テレビ向けに制作された『シャークアタック』(’99)もシリーズ化されるほど評判となり、徐々に人喰いザメ映画が量産されるようになっていく。その背景には、CG技術の発達や撮影機材のコンパクト化のおかげで、昔ほど手間暇をかけずとも、それなりに見栄えのいいサメ襲撃パニックを描けるようになったことが挙げられるだろう。 そして、製作本数がうなぎ上りに増加していくに従って、奇想天外なギミックによって観客受けを狙った悪ノリ映画も増えていく。その走りが、人喰いザメ映画というより巨大モンスター映画と呼ぶべきビデオ映画『メガ・シャークVSジャイアント・オクトパス』(’09)。竜巻に乗って人喰いザメが空から降ってくるテレビ映画『シャークネード』(’13)は、米ケーブル局SyFyの看板シリーズになるほどの大評判で、現在までに通算6本が製作されているほか、スピンオフ作品やコミック版、ビデオゲーム版まで誕生した。 ほかにも、人喰いザメが陸上の砂浜を暴れまわる『ビーチ・シャーク』(’11)、民家に棲みついた人喰いザメが住人を襲う『ハウス・シャーク』(’17)、恨みを持って死んだ人喰いザメが幽霊になる『ゴースト・シャーク』(’13)、雪山のスキー場に人喰いザメが出現する『アイス・ジョーズ』(’14)などなど、もはや文字通り何でもありの滅茶苦茶な状態。そのうち、人喰いザメが宇宙で大暴れするようになるのも時間の問題であろう。いや、既にそんな映画あったりして(笑)。 ただ、先述したように、これらの人喰いザメ映画の大半は、DVD市場およびテレビ向けに作られた低予算のB級作品。映画館でちゃんと上映されたのは、中国資本が入ったメジャー大作『MEGザ・モンスター』(’18)と、オーストラリアとフィリピンの合作『パニック・マーケット3D』(’12)くらいのものだ。とはいえ、この手の人喰いザメ映画が世界中で根強いファンを獲得し、安定的なマーケットを成立させていることは注目に値するだろう。 本当に恐ろしいのは人喰いザメよりも不気味な深海世界! その一方で、奇をてらうことなくリアルなスリルと恐怖を追求した、正統派の人喰いザメ映画も、数こそ少ないもののコンスタントに作られている。恐らくその代表格は、サメのうろつく海のど真ん中で置き去りにされたダイバー夫婦のサバイバルを、緊張感たっぷりに描いてサプライズヒットとなった『オープン・ウォーター』(’04)であろう。また、海岸から離れた岩場に取り残された女性サーファーが、巨大な人喰いザメと対峙することになるブレイク・ライヴリー主演の『ロスト・バケーション』(’16)も、地味な低予算映画でありながら高く評価され、興行的にもまずまずの成功を収めた。実際、当初DVDスルーされるはずだった『海底47m』が劇場公開されるに至ったのも、『ロスト・バケーション』のヒットにあやかろうという配給会社の思惑があったとされている。 主人公はメキシコを旅行中のアメリカ人姉妹リサ(マンディ・ムーア)とケイト(クレア・ホルト)。好奇心旺盛で活発な妹ケイトに対し、姉のリサは淑やかで控えめな女性だ。その慎重すぎる性格のせいで、婚約者から「退屈だ」と言われて振られてしまったリサを励ますべく、姉を夜遊びへと連れ出すケイト。そこで地元のイケメン男子コンビ、ルイス(ヤニ・ゲルマン)にベンジャミン(サンティアゴ・セグーラ)と知り合った姉妹は、巨大なサメを間近で見ることの出来るケージ・ダイビングに誘われる。 退屈な女の汚名を返上しようと、怖がるリサを説得するケイト。開放感あふれる南国の海と太陽と青空にも後押しされ、イケメン男子たちと待ち合わせてケージ・ダイビングに参加する姉妹。しかし、アメリカ人らしい船長テイラー(マシュー・モディン)は見るからに怪しげだし、船や機材も古くて錆びついている。いや、これって絶対に無許可の違法営業でしょ、本当に信用しても大丈夫なのかなーと思いつつ、ダイビングスーツに酸素ボンベを装着してケージの中に入るリサとケイト。ところが、運の悪いことに不安は的中。ケージを吊るしているクレーンが壊れてしまい、姉妹はケージの中に閉じ込められたまま海底47メートルまで真っ逆さまに落下してしまう。 落下のショックから意識を取り戻したリサとケイト。気が付くと酸素ボンベは残り僅かだし、無線も圏外で船と連絡を取ることが出来ない。そのうえ、真っ暗な海底には巨大な人喰いザメがウヨウヨしているため、うかつにケージの外へ出るのは危険。違法業者であるテイラー船長たちが助けてくれるかも分からない。かといって、自力で脱出しようにも潜水病が心配だし、なによりサメに襲われる確率が高い。そんな極度の緊張と不安の中、姉妹はどのようにして絶体絶命の危機を乗り越えていくのか…!?というわけだ。 まさしく『オープン・ウォーター』や『ロスト・バケーション』の系譜に属する、リアリズム志向の強いワン・シチュエーションな海洋サスペンス・ホラー。注目すべきは、物語の大半が海底で展開すること。過去の人喰いザメ映画を振り返ってみても、深海を主な舞台にした作品はほとんど例がない。この着眼点こそ、本作が成功した最大の理由だろう。 なにしろ、海の底はどこまでも果てしなく真っ暗。その深い闇に何が潜んでいるのか分からない。しかも、酸素ボンベがなければ息も出来ないし、そもそも海底40メートルを超えると身体的なリスクも高くなる。そう考えると、本作において真に恐るべきは人喰いザメではなく、不気味に広がる海底世界そのものだと言えるだろう。水泳の苦手なカナヅチの筆者にとっては、それこそ眩暈がするほどの恐怖である。中でも、姉妹を助けに来た船員ハビエル(クリス・J・ジョンソン)が遠くへ消えてしまい、彼を探しに向かったリサがハッと気付くと、真っ暗な空洞のごとき海底の崖が眼下に広がっているシーンなどは、まさしく背筋が凍るような恐ろしさ!この臨場感を存分に味わうためにも、出来れば映画館で見て欲しい作品だ。 監督は『ゴーストキャッチャー』(’04)や『ストレージ24』(’12)などで知られるイギリス出身のホラー映画作家ヨハネス・ロバーツ。実は彼自身が経験豊富なダイバーだという。なるほど、素人が見ても細部の描写までリアリティが感じられるのはそのためか。主演は’00年代初頭に一世を風靡した元人気ポップシンガーのマンディ・ムーアと、ドラマ『ヴァンパイア・ダイアリーズ』(‘11~’13)および『オリジナルズ』(‘13~’18)のヴァンパイア、ミカエラ役で有名なクレア・ホルト。2人ともダイビングは全くの未経験で、直前にトレーニングを受けて撮影に臨んだのだそうだ。怪しげなテイラー船長を演じるのは、懐かしの’80年代青春スター、マシュー・モディン。近ごろはスクリーンで見かけることも少なくなった。 なお、来る’19年8月16日には、待望の続編『47 Meters Down: Uncaged』が全米公開される。再びヨハネス・ロバーツ監督がメガホンを取っているものの、ストーリーそのものは直接的な関連性がない。今回は4人のティーン女子がダイビングで海底遺跡の探索に出かけたところ、暗い洞窟に潜む人喰いザメたちに襲われるというお話。日本公開を期して待ちたい。■ 『海底47m』© 47 DOWN LTD 2016, ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2019.07.14
過ぎ去り行く開拓時代、大西部の田舎町に情け容赦ない正義の銃声がこだまする
イギリス出身の映画監督マイケル・ウィナーの本格的なハリウッド進出作である。オリヴァー・リードやチャールズ・ブロンソンとのコンビで次々とヒットを放ち、中でもブロンソンが主演したヴィジランテ映画の金字塔『狼よさらば』(’74)の大ヒットで名を上げたウィナー。キャノン・フィルムと組んだ’80年代以降の失速ぶりが目立ってしまったせいか、なにかにつけ「B級映画監督」のレッテルを貼られがちな人だが、しかしある時期までのマイケル・ウィナーは紛れもない鬼才だった。 ロンドンの裕福な家庭の一人っ子として何不自由なく育ったお坊ちゃん(ギャンブル中毒の母親には悩まされたようだが)。14歳にして新聞に芸能ゴシップの連載コラムを持つという早熟な少年で、映画ジャーナリストを経て短編映画を監督するようになる。転機となったのは、クリフ・リチャードやマーティ・ワイルドと並ぶアイドル・ロック歌手ビリー・フューリーが主演したロック・ミュージカル『Play It Cool』(’62・日本未公開)。これが初めて商業的成功を収めたことから、当時まだ26歳だったウィナーは、英国映画界の新世代監督として売れっ子になる。そして、英米合作の戦争映画『脱走山脈』(’69)がアメリカでもヒット。ユナイテッド・アーティスツから声がかかったウィナーが、満を持してのハリウッド進出第一弾として選んだプロジェクトが、自身にとって初の西部劇『追跡者』(’71)だったのである。 舞台は19世紀末のニューメキシコ州。サバスという町から牛を運んだカウボーイたちが、その帰り道に途中の町バノックで酒に酔って暴れ、拳銃の流れ弾を受けた老人が死亡する。それからしばらく後、サバスの保安官ジャレド・マドックス(バート・ランカスター)が、犯人の一人コーマンの死体を持参してサバスへ到着。地元の保安官コットン・ライアン(ロバート・ライアン)に、残りの6人の引き渡しを求めるが、しかしライアンはそれを「不可能」だとして断る。 というのも、6人のうち1人はサバスの名士ヴィンセント・ブロンソン(リー・J・コッブ)。残りの5人は彼の子分たちだ。鉄道も石炭もない町サバスの住人たちは、ブロンソンが経営する牧場に依存して生活している。つまり、彼は町の実質的な支配者。ここではブロンソンこそが法律であり、保安官ライアンとて彼には手を出せないのだ。 しかし、「法を欺くものは絶対に許さない」が信念のマドックスは引き下がらない。当初、ブロンソンは慰謝料を支払うことで解決しようとするが、しかし清廉潔白なマドックスは取引に応じる相手ではなかった。「ならばマドックスを殺してしまおう」と考える血気盛んなカウボーイたち。だが、苦労して手に入れた土地や財産を失いたくないブロンソンは平和的な妥協策を模索し、かつては名うてのガンマンだったライアンもマドックスが彼らの敵う相手ではないと忠告する。 とはいえ、マドックスの執拗な追及に苛立つカウボーイたち。追い詰められた彼らは、無謀にもマドックスとの決闘に挑み、一人また一人と銃弾に倒れていく。夫を見逃して欲しいと嘆願するかつての恋人ローラ(シェリー・ノース)、迷惑だから町を出て行けと迫る住民たち。しかし、妥協することも罪を見逃すことも良しとしないマドックスは、彼らの要求を頑として受け付けず、ただひたすらに職務を全うしていく…。 主人公マドックスの体現するものとは? 『チャトズ・ランド』(’72)のチャトのごとく己の信念を決して曲げず、『メカニック』(’72)のビショップのごとくプロとしての美学を徹底して貫き、『狼よさらば』のポール・カージーのごとく執念深いマドックスは、紛うことなきマイケル・ウィナー映画のヒーローだ。彼の行動原理はただ一つ、法執行官としての責任を最後まで果たすこと。カウボーイたちにはそれぞれ、逮捕されては困るような生活の事情がある。そもそも、彼らは故意に老人を殺したわけではなく、マドックスが来るまでその事実すら知らなかった。情状酌量の余地もあるように思えるが、しかし頑固一徹なマドックスには通用しない。なぜなら、それは裁判官や弁護士が考えるべきことで、保安官の役割ではないからだ。 そこまで彼が己の職務と法律順守にこだわる背景には、たとえ僅かな違法行為でも見逃してしまえば、社会の秩序がそこから崩壊してしまうという危機感がある。確かに、カウボーイたちは根っからの悪人ではない。それは彼らのボスであるブロンソンも同様で、少なくとも町の人々にとっては良き独裁者だ。しかし、保安官として罪を犯した者を捕らえるのはマドックスにとって当然であり、そこに個人のしがらみや感情が介在してはいけない。ましてや、うちの旦那だけは見逃してとか、よその町で起きた犯罪なんてうちには関係ないとか、法律よりも町の利益の方が重要だなどという理屈は、彼に言わせれば言語道断であろう。 一見したところ、融通の利かない非情な男に見えるマドックスだが、しかし法律における正義とは本来そうあるべきもののようにも思える。特に、「今だけ・金だけ・自分だけ」などと揶揄され、忖度や捏造や改竄が平然とまかり通る昨今の某国では、彼のような人物こそが必要とされている気がしてならない。 と同時に、本作は時代の岐路に立たされた者たちのドラマでもある。マドックスがホテルの宿帳に記した日付によると、本作の時代設定は1887年。無法者たちが荒野を駆け抜け、開拓民が自分たちのルールで未開の地を切り拓いた時代も、もはや過去のものとなりつつあった頃だ。着実に近づいてくる近代化の足音。その象徴が、国家の定めた法の番人マドックスだと言えよう。 そして、かつてネイティブ・アメリカンを殺戮して土地を奪い、その戦いの過程で大切な家族を失ったブロンソンも、名うてのガンマンとして勇名を轟かせたライアンも、その事実を否応なしに受け止めている。暴力のまかり通る野蛮な時代は、もうそろそろおしまいだと。いや、むしろあんな時代はもう沢山だとすら考えている。しかし、フロンティア精神への憧憬が抜けきらないカウボーイたちは、まるで時代の変化に抗うかのごとくマドックスに挑み、そして無残にも命を散らしていくのだ。 必ずしも好人物とは呼べないアンチヒーロー的な主人公、あえて観客の神経を逆撫でする無慈悲なバイオレンス、そして世の中を斜めから見つめたシニカルな世界観。その後の『スコルピオ』(‘73)や『シンジケート』(’73)などを彷彿とさせる、いかにも当時のマイケル・ウィナーらしい作品だ。常連組ジェラルド・ウィルソンの手掛けた脚本の出来栄えも素晴らしい。撮影監督のロバート・ペインターも、ウィナー監督とは『脱走山脈』以来の付き合い。やはり、気心の知れた仲間とのコラボレーションは大切だ。徹底してリアリティを追求したウィナー監督は、劇中に出てくる小道具にも本物のアンティークを使用。石油ランプひとつを取っても、同時代に使われた実物を、わざわざイギリスからスタッフに運ばせたという。 鬼才マイケル・ウィナーのもとに集ったクセモノ俳優たち しかし、なによりも賞賛すべきは、バート・ランカスターにロバート・ライアン、リー・J・コッブという、ハリウッドでもクセモノ中のクセモノと呼ぶべきベテラン西部劇俳優たちを起用し、彼らから最高レベルの演技を引き出したことであろう。なんといったって、オリヴァー・リードにチャールズ・ブロンソン、オーソン・ウェルズ、マーロン・ブランドといった、気難しくて扱いづらいことで有名な大物スターたちを、ことごとく手懐ける(?)ことに成功したウィナー監督。ランカスターとは撮影中に何度も衝突し、胸ぐらを掴まれ「殺してやる」とまで脅されたらしいが、結果的には彼の当たり役のひとつに数えられるほどの名演がフィルムに刻まれ、2年後の『スコルピオ』でも再びタッグを組むこととなった。その秘訣をウィナー監督は、「そもそも私は根っからのファンで、彼らのことを怖れたりしなかったから」と語っている。 脇役の顔ぶれも見事なくらい充実している。アルバート・サルミにロバート・デュヴァル、ジョゼフ・ワイズマン、J・D・キャノン、ラルフ・ウェイト、ジョン・マクギヴァーなどなど、映画ファンならば思わず唸ってしまうような名優ばかりだ。これが映画デビューだったリチャード・ジョーダンは、同年の『追撃のバラード』(’71)でもランカスターと再共演し、ウィナー監督の西部劇第2弾『チャトズ・ランド』にも出演。当時は下賤なレッドネックの若者といった風情だったが、いつしか都会的でスマートな悪役を得意とするようになる。ブロンソンの息子ジェイソン役のジョン・ベックは、『ローラーボール』(’75)や『真夜中の向こう側』(’77)など、一時期は二枚目タフガイ俳優として活躍した。 そして、マドックスの元恋人ローラを演じるシェリー・ノースである。もともと第二のマリリン・モンローとして、20世紀フォックスが売り出したグラマー女優だったが、脇に回るようになってから俄然本領を発揮するようになった。中でも彼女を重宝したのがドン・シーゲル監督。『刑事マディガン』(’68)の場末のクラブ歌手を筆頭に、『突破口!』(’73)の胡散臭い女性カメラマン、『ラスト・シューティスト』(’76)のジョン・ウェインの元恋人など、酸いも甘いもかみ分けた年増の姐御を演じさせたら天下一品だった。 本作でも、かつて若い頃は相当な美人だったであろう、しかし今ではすっかり生活に疲れ果てた女性として、なんとも味わい深い雰囲気を醸し出す。20年ぶりに再会したマドックスに、忘れかけていた情愛の念を掻き立てられるものの、かといって臆病者で卑怯者だけど憎めない夫を見捨てることも躊躇われる。クライマックスのどうしようもないやるせなさは、彼女の存在があってこそ際立っていると言えよう。これぞ傍役の鏡である。
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COLUMN/コラム2019.06.30
あのクエンティン・タランティーノをして、「映画史上最も胸を打つクロージング・ショットのひとつ」と言わしめたエンディング。『ミッドナイトクロス』
日本を含む世界中に熱狂的なファンの存在する巨匠ブライアン・デ・パルマ。出世作『悪魔のシスター』(’72)を筆頭に、『ファントム・オブ・パラダイス』(’74)や『キャリー』(’76)、『殺しのドレス』(’80)、『スカーフェイス』(’83)に『アンタッチャブル』(’86)、『ミッション:インポッシブル』(’96)などなど、代表作は枚挙にいとまない。その中でどれが一番好きかと訊かれると、困ってしまうファンも少なくないかもしれないが、筆者ならば迷うことなくこの『ミッドナイトクロス』(’81)を選ぶ。あのクエンティン・タランティーノをして、「映画史上最も胸を打つクロージング・ショットのひとつ(one of the most heart-breaking closing shots in the history of cinema)」と言わしめたエンディングの痛ましさ。事実、これほど切なくも哀しいサスペンス映画は他にないだろう。 ストーリーの設定自体は、『パララックス・ビュー』(’74)や『大統領の陰謀』(’76)など、’70年代に流行したポリティカル・サスペンスの系譜に属する。舞台はフィラデルフィア、主人公はB級ホラー専門の映画会社で働く音響効果マン、ジャック(ジョン・トラヴォルタ)。最新作で使用する効果音を拾うため、夜中に川辺の自然公園を訪れていた彼は、偶然にも自動車事故の現場を目撃してしまう。川へ転落した車から、助手席に乗っていた若い女性サリー(ナンシー・アレン)を救出するジャック。しかし運転席の男性は既に死亡していた。 その男性というのが、実は次期アメリカ大統領選の有力候補者であるペンシルバニア州知事。知事の関係者からマスコミへの口止めをされたジャックだったが、改めて録音したテープを聴き直したところ、ある意外なことに気付く。事故の直前に聞こえる僅かな銃声とタイヤのパンク音。そう、警察もマスコミも飲酒運転が原因と考えていた不幸な自動車事故は、実のところ知事の政敵によって仕組まれた暗殺事件だったのだ。乗り気でないサリーに協力を頼み、この衝撃的な真実を世間に訴えようと奔走するジャック。しかし、既に自動車のパンクしたタイヤは実行犯の殺し屋バーク(ジョン・リスゴー)によって差し替えられていた。そればかりか、バークは事件の真相を闇に葬るべく、邪魔者であるジャックとサリーをつけ狙う。 知事暗殺事件のモデルになったのは、’69年に起きたチャパキディック事件だ。ケネディ兄弟の末弟エドワード・ケネディ上院議員が、マサチューセッツ州のチャパキディック島で飲酒運転の末に自動車事故を起こし、橋から海へ転落した車の中に取り残された不倫相手の女性が死亡。ケネディ上院議員は辛うじて脱出し助かったものの、警察などに救助を求めることなく逃げたうえ、不倫だけでなく薬物使用まで明るみとなり、大統領選への出馬を断念せざるを得なくなった。また、政敵による政治家の暗殺はジョン・F・ケネディ暗殺事件の陰謀説を、殺し屋バークが連続殺人鬼の犯行を装って不都合な証人を消そうとする設定は切り裂きジャック事件のフリーメイソン陰謀説を、そのバークが仕組む証拠隠滅工作はウォーターゲート事件を連想させる。 ただし、そうした社会派的なポリティカル要素も、全体を通して見るとさほど重要ではない。むしろ、ストーリーを追うごとに政治的な陰謀よりも殺し屋バークのサイコパスぶりが際立っていき、その恐るべき魔手からサリーを救うべくジャックが奮闘するという、純然たるサスペンス・スリラーの性格が強くなっていく。 本作のベースになったと言われているのが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』(’66)である。『欲望』の原題は「Blow Up」、『ミッドナイトクロス』の原題は「Blow Out」。デヴィッド・ヘミングが演じた『欲望』の主人公であるカメラマンは、たまたま公園で撮影した男女の逢引き写真をBlow Up…つまり大きく引き伸ばしたところ、殺人の瞬間が映り込んでいることを発見する。そして、『ミッドナイトクロス』の主人公ジャックは、たまたま公園で録音した音声テープに記録されたタイヤのパンク(Blow Out)音を分析したところ、自動車事故が実は暗殺事件だったことに気付く。デ・パルマが『欲望』のコンセプトを応用したことは、ほぼ間違いないだろう。 そして、その『欲望』でアントニオーニがスウィンギン・ロンドンの時代の倦怠と退廃を描いたように、本作はレーガン政権(第1期)下におけるアメリカの世相を浮き彫りにする。ベトナム戦争終結後の自由で開放的なリベラルの時代も束の間、深刻化するインフレと拡大する失業率はロナルド・レーガン大統領の保守政権を’81年に誕生させた。本作では、もともとゴダールに感化された左翼革命世代の映像作家であるデ・パルマの、ある種の敗北感のようなものを映し出すように、音響スタッフとして映画という虚構の世界を作り上げるジャックは、しかし現実の世界で起きた邪悪な陰謀を白日のもとに晒すことは出来ず、闇に葬り去られた真実の断片だけが映画の中で悲痛な「叫び声」を響かせる。 現実はジャックの携わるホラー映画よりも残酷であり、その残酷な社会に対して個人の理想や正義はあまりにも無力だ。もちろん、自由と平等を謳ったアメリカ独立宣言が起草された、アメリカ建国の理想精神を象徴するフィラデルフィアを舞台にしていることにも、そこがデ・パルマ監督の育ったホームタウンだという事実以上の意味があるだろう。本作を自身にとって「最もパーソナルな作品」だとするデ・パルマ監督の言葉は重い。 そんな本作のペシミスティックな悲壮感をドラマチックに盛り上げるのが、ピノ・ドナッジョによるあまりにも美しい音楽スコアだ。もともとイタリアの人気カンツォーネ歌手(シンガー・ソングライター)であり、ダスティ・スプリングフィールドやエルヴィス・プレスリーの英語カバーで大ヒットした「この胸のときめきを」のオリジナル・アーティストとして有名なドナッジョは、ヴェネツィアで撮影されたニコラス・ローグ監督のイギリス映画『赤い影』(’72)で映画音楽の分野に進出。そのサントラ盤レコードをたまたまデ・パルマの友人がロンドンで購入し、当時亡くなったばかりのバーナード・ハーマンの代わりを探していたデ・パルマに紹介したことが、その後長年に渡る2人のコラボレーションの始まりだった。 ハリウッドの映画音楽家にはない感性をドナッジョに求めたというデ・パルマ。その期待通り、初コンビ作『キャリー』においてドナッジョは、およそハリウッドのホラー映画には似つかわしくない、センチメンタルでメランコリックなスコアをオープニングに用意した。「たとえサスペンス映画でも、私はメロディを大切にする。それがイタリアン・スタイルだ」というドナッジョ。そう、エンニオ・モリコーネやニノ・ロータ、ステルヴィオ・チプリアーニの名前を挙げるまでもなく、美しいメロディこそがイタリア映画音楽の命である。長いことカンツォーネの世界で甘いラブソングを得意としたドナッジョは、そのイタリア映画音楽の伝統をそのままハリウッドに持ち込んだのだ。 『殺しのドレス』の艶めかしくも官能的なテーマ曲も素晴らしかったが、やはりトータルの完成度の高さでいえば、この『ミッドナイトクロス』がドナッジョの最高傑作と呼べるだろう。もの哀しいピアノの音色で綴られる甘く切ないメロディ、ストリングスを多用したエモーショナルなオーケストラアレンジ。まるでヨーロッパのメロドラマ映画のようなメインテーマは、残酷な運命をたどるサリーへの憐れみに満ち溢れ、見る者の感情をこれでもかと掻き立てる。ラストの胸に迫るような哀切と抒情的な余韻は、ドナッジョの見事な音楽があってこそと言えよう。 ちなみに劇場公開当時、日本だけでサントラ盤LPが発売された。筆者も銀座の山野楽器で手に入れたのだが、実はこれ、ドナッジョがニューヨークで録音したオリジナル・サウンドトラックではなく、スタジオミュージシャンによって再現されたカバー・アルバムだった。その後、オリジナル・サウンドトラックは’02年にベルギーで、’14年にアメリカでCD発売されている。 なお、日本ではブラジル出身のファッション・モデル、シルヴァーナが歌う、ベタな歌謡曲風バラード「愛はルミネ(Love is Illumination)」が主題歌として起用され、先述した疑似サントラ盤LPにも収録されていた。もちろん、デ・パルマもドナッジョも一切関係なし。例えばカナダ映画『イエスタデイ』(’81)に使用されたニュートン・ファミリーの「スマイル・アゲイン」や、ダリオ・アルジェント監督作『シャドー』(’82)に使用されたキム・ワイルドの「テイク・ミー・トゥナイト」など、当時は配給会社がプロモーション用に仕込んだ、本国オリジナル版には存在しない主題歌が少なくなかった。 閑話休題。『ミッドナイトクロス』は『愛のメモリー』に続いてこれが2度目のデ・パルマとのコンビになる、撮影監督ヴィルモス・ジグモンドによる計算し尽くされたカメラワークも見どころだ。画面左右に分かれた手前と奥の被写体に同時にピントを合わせたスプリット・フォーカス、デ・パルマ映画のトレードマークともいえるスプリット・スクリーン、そしてカメラが室内や被写体の周囲を360度回転するトラッキングショットなど、まさしく凝りに凝りまくった映像テクニックのオンパレードである。 また、物語の背景となる「自由の日」祝賀イベントをモチーフに、赤・青・白の星条旗カラーが全編に散りばめられている。例えば、映画冒頭でジャックとサリーが宿泊するモーテルの外観は、白い壁に青いドア、赤いネオンで統一されている。それは室内も同様。カーテンやベッドカバーは青、マットレスや電話機は赤、イスとテーブルは白く、壁紙の模様は白地に赤と青の幾何学模様が描かれている。ジャックがテレビレポーターに電話するシーンでは、ジャックのシャツが赤で電話機が青、背景は白いスクリーンだ。ほかにも、この3色がキーカラーとなったシーンが多いので、是非探してみて欲しい。 オープニングを飾るB級スラッシャー映画のワンシーンでステディカムを担当したのは、『シャイニング』(’80)や『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(’84)などでお馴染み、ステディカムの開発者にして第一人者のギャレット・ブラウン。その映画会社の廊下には、『死霊の鏡/ブギーマン』(’80)や『溶解人間』(’77)、『エンブリヨ』(’76)、『スクワーム』(’76)など、カルトなB級ホラー映画のポスターがずらりと並ぶ。果たして、これはデ・パルマ自身のチョイスなのだろうか。■ 『ミッドナイトクロス』BLOW OUT © 1981 VISCOUNT ASSOCIATES. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2019.06.02
マルセル・カルネとナチス・ドイツ占領下のフランス映画
フランス映画史上の最高傑作との呼び声高い映画であり、巨匠マルセル・カルネによる「詩的リアリズム映画」の集大成とも呼ばれる『天井桟敷の人々』(’45)。詩的リアリズム映画とは’30年代のフランス映画黄金期を牽引した代表的ジャンルのこと。その主な特徴は、貧しい市井の人々の生活に目を向けたリアリスティックな題材と、スタイリッシュで洗練されたポエティックなアプローチである。日常的でありながら非日常的。そのペシミスティックな傾向は、世界大戦の足音が近づく時代の社会不安を如実に反映していた。スタジオ撮影によって再現された疑似的なリアリズムは、実際の街中へカメラが飛び出したイタリアのネオレアリスモとの最大の違いと言えるだろう。 その先駆けはジャン・グレミヨンの『父帰らず』(’30)とも、ジャン・ヴィゴの『アトラント号』(’34)とも言われるが、立役者と呼べるのは間違いなくジャック・フェデーの『外人部隊』(’34)と『ミモザ館』(’34)であろう。ジュリアン・デュヴィヴィエの『我等の仲間』(’36)や『望郷』(’37)、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』(’37)や『獣人』(’38)などが後に続くわけだが、フェデーの愛弟子だったカルネもまた、『ジェニイの家』(’36)や『霧の波止場』(’38)、『北ホテル』(’38)などの名作を連発する。しかし、そんな「詩的リアリズム映画」のムーブメントも、実は’30年代が終わりを告げるとともに下火となった。その最大の理由は第二次世界大戦である。 ナチス占領下のフランス映画界 ‘39年のナチス・ドイツによるポーランド侵攻を受けて、フランスはドイツに宣戦布告。翌’40年にドイツはフランスへと侵攻し、6月22日の独仏休戦協定をもってフランスは実質的にナチスの占領下に置かれる。辛うじて国家の主権は保たれたが、しかし独裁者ペタン元帥によって樹立されたヴィシー政府はナチスの影響下にあった。おのずとナチスもヴィシー政府も映画のプロパガンダ利用を考え、実際にナチスの国家啓蒙・宣伝大臣ゲッペルスはパリに映画会社コンチネンタル社を設立。ヴィシー政府も映画産業組織委員会(COIC)を創設した。 一方の映画界では、ルノワールやデュヴィヴィエなどの巨匠たちが次々と国外へ脱出。マルセル・カルネは祖国に留まって抵抗を試みたが、しかし「ユダヤ人と結託してフランスの道徳精神を堕落させた」張本人として名指しで非難されるなど、その活動は困難を伴うこととなった。道徳回復運動によって国家体制の秩序を整えようとしていたヴィシー政府にとって、犯罪者や売春婦、浮浪者などを含む底辺の人々に同情や共感の眼差しを向けたカルネの作品群は、やり玉にあげるには格好の材料だったのだろう。 ただ興味深いのは、この約4年間に渡るヴィシー政府時代のフランスにおいて、いわゆる国家プロパガンダ的な映画はほとんど存在しなかったこと。そもそも、ナチスは国家主義的な啓蒙映画の製作をフランスに強要するつもりなどなかった。ゲッペルスの日記には「フランス人は軽い、内容のない、バカげた映画で満足するべき」と明記されている。いわば愚民政策だ。ところが…である。ナチス配下のコンチネンタル社はゲッペルスの意向を汲まず、自社の映画人たちに対しては基本的に「監視はすれど強要はしない」という限定的な自由を与えた。それはヴィシー政府の姿勢も同様で、映画の道徳的・思想的な検閲はしても具体的な介入はしなかった。むしろ、あからさまなプロパガンダは逆効果になると考えたようだ。 とはいえ、暗い時代ゆえに大衆は深刻な芸術映画よりも、明るい娯楽映画を好むようになった。もちろん検閲だってある。そのため、たとえプロパガンダ的な要素は含まれずとも、なるべく「無害」であることを志向する作品が多かったことは否定できないだろう。カルネもまた、検閲を考慮して『悪魔が夜来る』(’42)をファンタジックな中世の御伽噺に仕立てた。しかし、それはあくまでも表向きの装いであり、悪魔(=ナチス)によって石にされた若い恋人たちの、それでもなお脈打つ心臓の鼓動に「フランス人の誇り」と「支配者への抵抗」の意味を込めたのである。 『天井桟敷の人々』に込めたカルネとプレヴェールの意図とは このような状況下で作られた映画が『天井桟敷の人々』だった。物語の設定は19世紀前半のパリ。数多くの劇場や見世物小屋が立ち並ぶ犯罪大通り(現在のタンプル大通り)を舞台に、1人の美女を巡って4人の男たちが、燃えるような愛と友情と嫉妬のドラマを繰り広げていく。ヒロインである宿命の美女ガランス(アルレッティ)こそ架空の人物だが、彼女を取り巻く男たちはいずれも実在の人物をモデルにしている。 ガランスに一途な純愛を向ける主人公バチスト(ジャン=ルイ・バロー)は、ボヘミア出身の有名なパントマイム俳優ジャン=ガスパール・ドビュローが元ネタ。そのバチストと友情を育みつつ、恋敵となるプレイボーイの不良俳優フレデリック・ルメートル(ピエール・ブラッスール)は、当時の犯罪大通りを代表する人気スターにして劇作家だった。殺人や強盗を繰り返す犯罪者ピエール・フランソワ(マルセル・エラン)のモデルは、ブルジョワの出自でありながら特権階級への抗議として凶悪犯罪を重ね、バルザックやドストエフスキーにも影響を与えた犯罪者ピエール・フランソワ・ラスネール。また、財力にものを言わせてガランスを囲うモントレー伯爵(ルイ・サルー)は、ナポレオン3世の異父弟シャルル・ド・モルニー公爵を下敷きにしているという。 脚本を手掛けたのは、当時のマルセル・カルネ作品には欠かせない盟友にして、「民衆の詩人」「抵抗の詩人」とも呼ばれたジャック・プレヴェール。誰もが知るシャンソンの名曲「枯葉」は、カルネの次回作『夜の門』(’46)のテーマ曲として、ジョゼフ・コズマのメロディにプレヴェールが詩を付けたものだ。一見したところ、愛すれども決して結ばれることのない男女の哀しきラブロマンス。しかし、カルネとプレヴェールはその背景として、貧しいフランス庶民の猥雑な日常を「詩的リアリズム」の手法で大胆に活写し、雑草のごとき彼らの逞しい生命力やバイタリティを描き込むことで、この宿命的なメロドラマを紛うことなき民衆派映画へと昇華している。 本作の原題は「天国の子供たち」。昔のフランスでは最上階の天井に近い観客席を「天国」(邦題では天井桟敷)と呼び、観劇料が安いことから貧しい庶民の人々が利用。彼らはまるで子供のように、舞台へ向かって野次や歓声を飛ばしていたという。幼い頃に親しんだ大衆演劇を自身の芸術的ルーツと考えていたカルネは、恐らくその伝統にフランス民衆の普遍的なエネルギーを感じていたのだろう。 また、プレヴェールは犯罪者ラスネールに、ある種の義賊的な魅力を見出していたとも言わる。「(ナチスは)ラスネールの映画を作ることは許さないだろうが、ドビュローの物語にラスネールが出てくる分には構わないだろう」とも述べていたそうだが、もしかすると彼のキャラクターに、フランス革命以来の庶民の抵抗と反骨の精神を投影していたのかもしれない。いずれにせよ、本作がナチス・ドイツに支配されたフランスの国民ヘ受けて、いま一度民族の誇りを取り戻させる意図が少なからずあったと思われる。 製作期間はおよそ3年と3か月。物資不足の戦時下にも関わらず、南仏ニースの巨大セットに19世紀のパリを丸ごと再現し、総勢1800人にも及ぶエキストラが投入された。実はその多くが反独レジスタンスで、映画撮影を抵抗活動の隠れ蓑にしていたという。その一方でヴィシー政府のスパイも現場に紛れており、そのことがバレて撮影中に逃亡した役者もいた。困難を極めた撮影の終盤にはノルマンディー上陸作戦の一報も入り、カルネは連合軍によるフランスの解放を待つため、わざと制作を長引かせたとも言われている。そして’44年8月26日にパリが解放され、その直後に『天井桟敷の人々』も完成。翌年5月にパリで封切られた本作は、世界へ向けてフランス映画の底力を見せつけたのである。■