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PROGRAM/放送作品
モラン神父【4Kレストア版】
神父と未亡人の“愛”が絶望的にすれ違う…巨匠ジャン=ピエール・メルヴィルが贈る文芸ドラマ
犯罪映画の巨匠ジャン=ピエール・メルヴィル監督が描く文芸ドラマ。神への愛に生きる神父と彼に惹かれた未亡人の想いとの対比を、監督の盟友アンリ・ドカエが撮影した陰影を強調した映像で美しくも切なく綴る。
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COLUMN/コラム2022.10.11
カトリック牧師のストイックな信念にレジスタンス精神を投影したメルヴィルの異色作『モラン神父』
若き牧師の道義心に共鳴し、やがて惹かれていく未亡人の葛藤 フレンチ・ノワールの巨匠ジャン=ピエール・メルヴィル。マフィアや殺し屋、詐欺師など裏社会で生きる男たちの友情と裏切りと道義心をテーマに、『いぬ』(’63)や『ギャング』(’66)、『サムライ』(’67)、『仁義』(’70)といったノワール映画の名作を世に送り出したわけだが、そんなメルヴィルが第二次世界大戦下のフランスの田舎を舞台に、若い牧師に恋をした女性の戸惑いと葛藤を描いた異色作が、ジャン=ポール・ベルモンドとの初コンビ作ともなった『モラン牧師』(’61)である。 ナチス・ドイツ占領下のフランス。アルプスの麓の小さな田舎町に住む女性バルニー(エマニュエル・リヴァ)は、ユダヤ人の夫を戦場で亡くして幼い娘をひとりで育てる未亡人だ。町に駐留しているイタリア兵は住民に対して友好的ではあるものの、しかし戦時下の日常には様々な不安がつきまとう。女性ばかりの職場で働いている彼女は、美人でやり手の女性上司サビーヌ(ミコル・ミレル)に淡い恋心を寄せることで、日々のストレスを紛らわせていた。 やがて町にドイツ軍がやって来る。最愛の娘にはユダヤ人の血が流れているし、自身も共産主義者であるバルニーは、同じように子供を持つ同志の女性たちと相談し、万が一のことを考えて子供たちにカトリック教会の洗礼を受けさせる。もちろん、あくまでもドイツ軍から我が子を守るためであり、バルニー自身は神の存在など信じていない。自分でも牧師の告解を受けようと考えた彼女は、そこで同世代の若い牧師レオン・モラン(ジャン=ポール・ベルモンド)と知り合う。無神論者であることを隠すことなく、神の存在やカトリック教会への疑問を問いただすバルニー。反発や批判を受けると思った彼女だが、しかしモラン神父はバルニーの疑問のひとつひとつを真摯に受け止め、参考になる本を貸しましょうと彼女を司祭館へと招待する。 振り返って、カトリックの司祭でありながら「宗教はブルジョワの利益のために歪められている」と本音を吐露し、常に弱者の側に立って自らの道義心に従い行動する本作のモラン神父もまた、紛れもないレジスタンス精神の持ち主であると言えよう。それを強く浮き彫りにするのが、ヒロインであるバルニーの存在だ。神の存在を否定する共産主義者であり、娘の安全を守ることが常に最優先だった彼女だが、しかしモラン神父との対話と交流を通じて宗教への理解を深め、我が身の危険も顧みず他者へ手を差し伸べていく。それは恐らく、モラン神父がその言葉と行動で示す「人としての正しさ」、すなわち彼の道義心に強く感化されたのだろう。 さらにモラン神父は自らの美しい容姿や知性によって、バルニーら様々な問題を抱えた女性たちを性的に惹きつける。メルヴィル監督曰く、「レオン・モランはドン・ファン」である。劇中でバルニーやクリスティーヌが察したように、彼は自らが男性として魅力的であることを自覚しており、それを用いて女性たちを夢中にさせるのだが、しかし決して彼女らの期待には応えない。それは聖職者としての節度をわきまえているからというよりも、まるで女性たちへ「誘惑に抵抗して克服する」ための試練を与えているかのようだ。そう考えると、バルニーを特別扱いしているように思えたモラン神父が、いきなり理由もなく彼女を突き放してみせる行動の不可解さも理解できよう。恐らく、他の女性にも同様のことをしているはずだ。これは、政治や思想に左右されることのない道義心を持つ聖職者が、その揺るぎなきレジスタンス精神をもって迷える子羊たちを教え導いていく物語。そういう意味で、やはりメルヴィル監督らしい映画と言えるだろう。 フランス文学界の権威ゴンクール賞に輝くベアトリス・ベックスの原作本に感銘を受け、当時ヨーロッパで最も影響力のある映画製作者のひとりだったカルロ・ポンティに映画化企画を持ち込んだメルヴィル監督。そこでポンティからモラン神父役に勧められたのがジャン=ポール・ベルモンドだった。ご存知の通り、ベルモンドとメルヴィルはジャン=リュック・ゴダール監督の出世作『勝手にしやがれ』(’60)で共演したことのある仲だ。当時、イタリアでポンティが製作するヴィットリオ・デ・シーカ監督の『ふたりの女』(’60)を撮影中だったベルモンドは、現場へ足を運んだメルヴィル監督から直接オファーを受けたものの、当初は出演に後ろ向きだったという。やはり、自分のイメージが聖職者役に合うかどうか懐疑的だったようだ。 『モラン神父』© 1961 STUDIOCANAL - Concordia Compagnia Cinematografica S.P.A. - Tous Droits Reserves
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PROGRAM/放送作品
ゼロ地帯
[PG12相当]ナチス収容所の悲惨な実態が明かされる!ユダヤ人少女の過酷な運命を描く傑作戦争ドラマ
『アルジェの戦い』で一躍知られたジッロ・ポンテコルヴォ監督が、アカデミー外国語映画賞候補に選ばれた長編第2作。ナチス収容所の過酷な実態をドキュメンタリー・タッチで克明に描き、見る者を震撼させる。
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COLUMN/コラム2017.07.19
『ヒロシマモナムール』にまつわる事柄あれこれ〜07月04日(火) ほか
■復興中の広島を舞台にした日仏合作映画 1958年、映画撮影のために広島を訪れたフランスの若い女優(エマニュエル・リヴァ)は、爆撃で家族を失った建築家の日本人男性(岡田英次)と夜を過ごし、被爆都市・広島の印象を男に語り聞かせる。原爆資料館で見た写真や資料、当時の映像、どれも痛ましい記録だと。だが男は「いや、君は広島で何も見なかった」と、彼女の言葉を否定する。 だが彼との逢瀬は、彼女が愛した最初の男を思い出させていく。女の恋人は23歳のドイツ兵で、フランス解放の日に殺されてしまう。そして敵兵と通じていたことから、彼女は剃髪という辱めを受ける。女もまた、戦争の犠牲者だったのだ。男はそんな彼女に憐愛の眼差しを向け、広島で一緒にいようと懇願する。 1959年に公開された本作『ヒロシマモナムール』は、『去年マリエンバートで』(60)『ミュリエル』(63)で知られるフランスの名匠アラン・レネの初長編映画であり、原爆投下後の広島を描いた日仏合作映画として、作家的にも映画史的にも重要な位置付けにある。当時としては革新的なフラッシュバック構造で、個人の戦争体験と公の戦争体験を微細に織りなし、女のフランス・ヌヴェールにおける過去とヒロシマの悲劇とが交差することで、それらは戦争の悲壮な風景として総譜のように一体化していく。 こうした構成があたかも散文詩のような雰囲気を醸し、本作は観る者に多様な解釈をうながす。そのため一般的には「難解」と受け取られがちだが、現在のように映像の読解に習熟した世代のほうが、レネや脚本を手がけたマルグリット・デュラスの意図を充分に読み解くことができるのではないだろうか。 もっとも、レネ自身に製作当初から堅強な意図があって、この『ヒロシマモナムール』が作られたわけではない。もともとはアウシュビッツ収容所を描いた『夜と霧』(56)同様、広島のドキュメンタリーを撮るという発案から始まった企画だ。レネの中では「カフェのテラスにひとり腰を下ろしている若い女性、その光景が瞬時に消えさる」というイメージをベースに、過去と現在、記憶と忘却の錯綜などを膨らませ、長編劇映画として成立させていった経緯がある。 こうしたビハインドが、散文的な本作の様式をより強く裏付けているのだ。 ■作品が生まれた背景 ーーヌーヴェルヴァーグと大映の世界戦略 そもそも、なぜ広島を舞台にしたフランス映画が出来るに至ったのか? まず監督であるアラン・レネに言及すると、当時のフランス映画界を席巻した「ヌーヴェルヴァーグ」という、大きなスタイルの変革に行き当たる。同ムーブメントは『大人は判ってくれない』(59)のフランソワ・トリュフォーや『勝手にしやがれ』(60)のジャン=リュック・ゴダールら新鋭作家が、スタジオ主導ではない、監督の個性に基づく作品を量産していった潮流のことだ。 ヌーヴェルバーグにはそんなトリュフォーやゴダールら、いわゆる映画誌「カイエ・デ・シネマ」の評論家を出発点とする「カイエ派」がおり、彼らは瑞々しい感覚による即興演出を持ち味としていた。いっぽうのレネは、カイエ派が当時20歳代の若手を主流とする中、すでに30歳半ばに達しており、社会問題や政治思想に言及する「左岸派」として、カイエ派の向こうを張る存在だったのだ。 かたや日本の映画事情に目をやると、1952年、サンフランシスコ講和条約の発効にともない、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって行われたプレスコード(報道制限)が失効され、規制がかけられていた原爆に関する記事や報道を自由に発信できるようになった。これによって日本で最初に原爆をテーマにした作品『原爆の子』(監督/新藤兼人)が発表され、翌年には今井正による『原爆の図』(53)や、日教組プロの製作による『ひろしま』(53 監督/関川秀雄)、そして核の落とし子として誕生した怪獣の都心破壊を描いた『ゴジラ』(54 監督/本多猪四郎)など、堰を切ったように同テーマの作品が作り続けられていく。 こうして先のアラン・レネと、原爆テーマの映画を結びつける存在となったのが、日本の映画会社である大映である。当時の大映は永田雅一社長のもと、MGM作品やディズニー作品の国内配給、ならびに自社作品の大型化など、映画の海外輸出入を念頭に置いた経営をしていた。永田としては、洋画配給の利潤によって日本映画の質の向上を図る考えだったが、フランス映画配給も視野に入れた段階でアルゴス・フィルム(『ヒロシマモナムール』製作会社)との関係が生まれ、日仏合作映画製作の運びとなっていったのだ。 こうした原爆映画への流れが横線を描き、先の国内外の映画の大きなムーブメントが縦線を描いて降りていく状況下において、その二つが交わる点として本作が生まれたのである。 ■タイトルについて ーー『二十四時間の情事』から『ヒロシマモナムール』へ 『ヒロシマモナムール』には日本公開時『二十四時間の情事』という邦題がつけられ、そのタイトルで近年まで長く周知されていた。 この邦題がつけられた理由はふたつあり、ひとつは原爆投下後の広島をテーマにしているというところ、そうしたデリケートなテーマを前面に出さぬよう配慮された、といった事情によるもの。そしてもうひとつは、原題の『ヒロシマモナムール』だと興行において不利(タイトルにインパクトがない)という懸念から、センセーショナルな邦題で観客の関心を引こうとした事情が絡んでいる(残念なことに、日本で本作は全く客が入らなかったが)。 しかし時代の趨勢によって、作品の持つ価値が多様化し、今では本作も、復興していく広島の姿をフィルムに捉えた、貴重な映像資料としての性格も大きい。そのため『二十四時間の情事』という邦題も、内容にそぐわない面が出てきている。また劇中、エマニュエル・リヴァと岡田英次が出会って別れるまでの正確な時間は設定されておらず(一説には36時間とも言われている)、『二十四時間〜』と断定するにはいささか語弊がある。 こうしたことへの目配りから、今では原題カタカナ表記の『ヒロシマモナムール』を用いるケースが多いようだ。加えてエマニュエル・リヴァがプライベートで当時の広島市内を撮影した写真集『HIROSHIMA 1958』が2008年に出版され、文中において『ヒロシマ・モナムール』と表記が統一されていることや、デュラスの原作『広島、わが愛』が2014年に『ヒロシマ・モナムール』として44年ぶりに新訳が出版されたことも、こうした改題への後押しとなっている。今回の放送に関しても、ザ・シネマで同様の方針を示したといえる。 時代の機微や変化に応じて改題がなされていくのは、特に珍しいことではない。あの『スター・ウォーズ』シリーズでさえ、エピソード6『ジェダイの復讐』(83)が『ジェダイの帰還』となったケースがあるくらいだ(『ジェダイの復讐』もともと没サブタイトル“Revenge of the Jedi”を直訳したものだが、正義の騎士団であるジェダイが「復讐」などしないという観点から改題)。しかし『ヒロシマモナムール』と同じヌーヴェルヴァーグ作品の『気狂いピエロ』(65)が放送禁止用語に配慮し、テレビ放映時には『ピエロ・ル・フー』と原題カタカナ表記にされた事例があり、どうも改題にはネガティブなイメージがつきまとう。なので本作はそういったケースとは異なる改題であることを、きちんと伝えておく必要があるだろう。 ただ慣れ親しんだタイトルをオミットするのは歴史の改ざんではないかという懸念もあるし、『二十四時間の情事』として本作を認識している者には違和感を覚えさせる措置だと思う。なにより日本公開される洋画は、原題カタカナ表記がスタンダードとなった現在。邦訳、もしくは意訳ともいえる邦題が中心だった時代の名残として、ここでは『ヒロシマモナムール』と同時に『二十四時間の情事』というタイトルの重要性を力説しておきたい。■ "HIROSHIMA MON AMOUR" by Alain Resnais © 1959 Argos Films
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PROGRAM/放送作品
ヒロシマモナムール
[PG12相当]一夜の情事、甦る戦争の記憶…フランス人女性と日本人男性の広島での1日を綴った映像詩
フランスの名匠アラン・レネの初長編作。男女2人が交わす会話に戦争の映像を交え、人間の内面を掘り下げる前衛的なアート映画に仕上がった。カンヌ国際映画祭の国際映画批評家連盟賞と映画テレビ作家協会賞を受賞。