80年代のハリウッドを代表する東西冷戦映画と呼んでもいいだろう。世界的なロシア人バレエ・ダンサー、ミハイル・バリシニコフが、まるで自らをモデルにしたような亡命ロシア人バレエ・ダンサー役で主演を務めたことは、彼の熱狂的なファンが大勢いる日本でも大いに話題となった。そのバリシニコフと共演の大物タップ・ダンサー、グレゴリー・ハインズによる気迫に満ちたダンス・シーンは何度見ても圧巻だ。ライオネル・リッチーが歌う主題歌『セイ・ユー、セイ・ミー』、フィル・コリンズとマリリン・マーティンがデュエットした挿入歌『セパレート・ライブス』も共に、ビルボードの全米シングル・チャートで1位を獲得する大ヒットとなり、前者がアカデミー賞の歌曲賞を獲得。テレビの音楽番組で放送されたプロモーション・ビデオが、映画の興行成績に多大な貢献をしたであろうことは想像に難くない。そういう意味でも、非常に’80年代的な映画だったと言えるだろう。

 物語は8年前にソ連からアメリカへ亡命したトップ・バレエ・ダンサー、ニコライ・ロドチェンコ(ミハイル・バリシニコフ)が、次の公演先である東京へと向かうところから始まる。ところが、その途中で旅客機がエンジン・トラブルに見舞われ、あろうことかソ連領のシベリアへと不時着。パスポートを破棄して素性を隠そうとしたニコライだったが、KGB幹部のチャイコ大佐(イエジー・スコモリフスキ)に見抜かれて身柄を拘束されてしまう。ソ連において彼は国家を裏切った重大な犯罪者だからだ。

 そんなニコライをチャイコ大佐はソ連のバレエ界に復帰させ、国内外へ向けたプロパガンダに利用しようと考える。だが、当然ながらニコライは首を縦に振らない。そこで、チャイコ大佐はアメリカからソ連に亡命した黒人タップ・ダンサー、レイモンド(グレゴリー・ハインズ)にニコライの監視役を命じ、彼を再びステージに立つよう仕向けさせる。一方、当初はソ連当局の反米プロパガンダに利用されながら、用が済んだらシベリア行きのお払い箱となっていたレイモンにとって、これはロシア人妻ダーリャ(イザベラ・ロッセリーニ)と一緒に首都モスクワへ戻る大きなチャンスだった。

 かくして、古都レニングラード(現サンクトペテルブルグ)へと向かい、ロシアン・バレエの殿堂キーロフ劇場(現マリインスキー劇場)の舞台に立つべく準備を始めるニコライとレイモンド。はじめのうちはお互いに対立していた2人だが、次第に心を通わせ友情を育むようになり、やがてニコライの元恋人でキーロフ劇場の幹部ガリーナ(ヘレン・ミレン)やアメリカ領事館の協力のもと、一緒に共産圏から自由世界へと脱出すべく逃亡計画を実行することとなるわけだ。

 ソビエト連邦が解体されてから今年で27年。今の北朝鮮みたいに言論の自由がない閉鎖的な独裁国家だった…という大まかな知識はあっても、具体的にどういう国だったのかはいまひとつ分かりません…という若い世代の視聴者も少なくないだろう。そこで今回は、映画『ホワイトナイツ/白夜』を楽しむ上で知っておきたい事柄、つまり当時の知られざるソ連事情を、実際にソ連時代のモスクワで育った(’70年代後半~’80年代初頭)筆者が解説しようと思う。

 まず初めに理解しておくべきは、旧ソ連におけるバレエ・ダンサーの置かれた状況だ。そもそも、当時のソ連にとって世界に名の通った自国の芸術家やスポーツ選手は、社会主義大国ソ連の豊かで先進的な文化を国内外に喧伝し、国家の優れたイメージを知らしめるために最も有効な存在だった。表向きは国家の英雄、実際はプロパガンダの道具である。中でも、連邦国家の中心であるロシアは世界に冠たるクラシック・バレエのメッカ。有名ダンサーを多く抱えたキーロフやボリショイなど伝統的バレエ団の世界公演は、ソ連当局にとって重要な外貨獲得手段の一つだったのである。

 それだけに、成功したダンサーたちには一般庶民も羨む豊かな暮らしが約束されたが、しかしその一方で私生活までもが当局の厳重な監視下に置かれて自由は与えられなかった。それはクラシック音楽の作曲家や演奏家、オペラ歌手なども同様。ゆえに、ほんの僅かなチャンスを狙って国外の公演先で亡命する芸術家は後を絶たず、特に’70年代から’80年代にかけては亡命事件が多発した。本作の主演者ミハイル・バリシニコフもその一人。当然、ソ連当局も亡命を警戒しており、20世紀最大のプリマドンナと呼ばれたロシアン・バレエの至宝マイヤ・プリセツカヤなどは、それゆえ殆ど国外公演には同行させてもらえなかった。そもそも、プリセツカヤは実の両親がスターリン時代に政治犯として粛清された過去があり、バレリーナとしての成功と名声がなければ彼女自身もシベリア送りになっていた。外から見れば華やかな栄光も、その実はいばらの道。そういう時代だったのである。

 一方、グレゴリー・ハインズが演じているアメリカからソ連へ亡命したタップ・ダンサー、レイモンドだが、確かに当時は資本主義に幻滅して社会主義国への亡命を選択した西側の人々が存在した。その代表格が、アメリカ人のロックンロール歌手ディーン・リードである。劇中のレイモンドがアメリカの人種差別や貧困、ベトナム戦争に嫌気がさしたように、祖国アメリカの帝国主義や資本主義社会の経済格差に強い疑問を抱いて社会主義へ傾倒したリード。彼が’73年に選んだ亡命先は東ドイツだったが、ソ連へも頻繁に招かれてコンサートやテレビ出演を行い、メディアを通してアメリカへの批判を繰り広げていた。筆者もモスクワ在住時代にテレビで彼の姿をたびたび見たことがある。その扱いは文字通りスーパースター並み。ソ連当局にとっては、格好の反米プロパガンダの道具だったのだろう。

 ちなみに、劇中でレイモンドがガーシュウィンの音楽劇『ポーギーとベス』をソ連の観客相手に演じている。このシーンを見て驚いた視聴者もいるかもしれないが、しかし筆者に言わせれば「さもありなん」といったところだ。なぜなら、この音楽劇はアメリカ南部の凄まじい貧困をテーマにしている、要するにアメリカ社会の恥部を暴いている作品だからだ。確かに、当時のソ連では資本主義および民主主義の思想や価値観を投影した映画や音楽、演劇などは厳しく取り締まられていたし、西側諸国の豊かさを喧伝するような作品はご法度だったが、しかし逆に資本主義や民主主義の矛盾、西側諸国の恥部や暗部を描いたような作品は積極的に国民の目に触れさせていたのだ。

 その代表例がアーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』。資本主義や競争社会の弊害に苦しむアメリカ庶民の悲劇を通して、アメリカン・ドリームの残酷な現実を描いたこの作品は、ソ連国内でもロシア語の翻訳版が幾度となく上演されている。また、オスカー候補になった’51年の映画版も後にソ連で劇場公開され、テレビでも繰り返し放送された。ほかにも、『怒りの葡萄』や『ウエストサイド物語』などのハリウッド映画が、ソ連当局の反米プロパガンダとして利用されている。アメリカという国の社会構造がいかに不公平で、一部の権力者を除いた大半の庶民がどれだけ苦しい生活を強いられているのか、それに比べて社会主義国家である我々のソビエト連邦には貧富の差などなく平等で、その国民はどれだけ恵まれているのか。こうした作品を通してソ連当局は国民を啓蒙(というより洗脳)していたわけだが、しかし映画版『セールスマンの死』を見た当時のロシア人が、劇中に出てくる貧しいはずのアメリカ庶民の暮らしぶりが自分たちよりも豊かであることにショックを受けた…なんて話も聞いたことあるので、どれだけプロパガンダとして成功していたのかは定かでない。

 そうそう、そういえば思い出したが、当時はテレビのニュース番組もソ連当局にとって重要なプロパガンダ手段の一つだった。西側諸国の社会問題や犯罪事件などを現地からレポートすることで、資本主義社会における格差や貧困などの理不尽をことさら強調するのである。ある時など、日本の一般庶民の平均的な生活を紹介すると称して、’80~’81年の当時ですら既に珍しかった東京都内の長屋を取材していたのには驚いた。はるか向こうに見えるのは日本の繁栄を象徴する近代的な高層ビル。しかし、豊かなのは一部の権力者だけで、普通の日本人はこんなに狭い家で貧乏暮らしを強いられているんですよ…という巧みな印象操作だ。

 とはいえ、劇中でバリシニコフ演じる主人公ニコライが、権力者が贅沢な暮らしをしているのは世界中どこへ行ったって同じ、と皮肉ってみせるように、建前上は万人が平等であるはずのソ連社会に歴然とした経済格差が存在することは、当の本人たちだって重々承知の上だった。例えば、ソ連時代の深刻な物資不足や国産品の劣悪な品質はつとに知られているが、その一方で高品質の西側商品や国産高級品を確実に手に入れることが出来る場所も存在した。それが、モスクワやレニングラードに複数個所あった国営の外貨金券ショップ「ベリョースカ(白樺)」である。外国からの旅行客や現地在住の西側駐在員に外貨を使わせることが目的の店(かつては東京の新橋にも支店があった)で、日本の家電製品やヨーロッパ各国のブランド品などを多数取り揃えており、筆者の家族も一般の商店には並ばないキャビアや高級ウォッカなどの贅沢品を買うため時おり利用したものだが、意外にも現地人の買い物客を見かけることも少なくなかった。彼らが何者なのかというと、外貨を手に入れることの出来る共産党幹部とその家族、もしくは西側へ出て外貨を稼ぐチャンスのある芸術家などの人々。つまり特権階級である。本作の劇中でガリーナがグッチのバッグを持っていたり、キーロフ劇場のリハーサル室に日立製のミニコンポがあるのもの、要するにそういうことなのだ。

 あと、筆者が暮らしていた当時のモスクワでは、外国人の宿泊する高級ホテルの近辺に、いわゆる夜の商売のお姉さんたちがたむろしていた。実は、その中の一人の自宅にお邪魔したことがある。というのも、お姉さんに取材を申し込んだうちの父親が、いろいろな万が一を想定して家族を同伴したのである。平凡なアパートの一室に母親と2人暮らしをしていたグルジア系のお姉さん。家の中には日本製のステレオやテレビが並んでいたのだが、恐らく客から稼いだ外貨で購入したのだろう。また、日本製のカレンダーや日本の女性ファッション誌などもあったので、多分日本人をお得意さんにしていたのかもしれない。ある意味、夜の民間交流。いくら政府が国民に対して情報統制をしたところで、意外や意外、こういうところからも外部の情報は入ってくるもんなのだ。

 なお、参考までに補足的な情報を付け加えておくと、先述したようなプロパガンダ目的の社会派映画以外にも、当時のソ連ではアメリカ映画を見るチャンスがそれなりにあった。もちろん数は決して多いとは言えないし、大半は西側での封切りから何年もたってからの劇場公開。例えば、筆者が’78年にモスクワへ到着した際、市内の大きな映画館で上映されていたのはマリリン・モンロー主演の『七年目の浮気』だった。モンローは当時のソ連で人気が高く、『お熱いのがお好き』は爆発的な大ヒットとなったらしい。ただし、ソ連時代に最もヒットしたハリウッド映画は『荒野の七人』。これは、最後に農民が横暴な権力に勝利するというストーリーが、労働者・農民・兵士による革命で建国されたソビエト連邦の基本精神と合致したからなのだろう。キューブリックの『スパルタカス』も大受けしたらしいが、これも恐らく同じ理由であったはずだ。そうした作品以外にも、イデオロギー的に当局が無難と判断したアクション映画やコメディ映画などの娯楽作品が、少ないながらもソ連国内で正式に上映されている。それこそ北朝鮮のような、全くの情報鎖国状態ではなかったのだ。

 それは音楽も同様で…と深く掘り下げたいところだが、かなり話が長くなってしまったので、それはまた別の機会にということでご容赦願いたい。ただし、昔のソ連では日本の歌謡曲も少なからず紹介されていた、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』は今でもソ連時代を代表するヒット曲の一つに数えられているほど有名、伊東ゆかりやいしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、先ごろ急逝した西城秀樹の楽曲もリリースされている、ということだけは申し添えておきたい。■

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