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COLUMN/コラム2022.12.09
1980年代韓国の“闇”を斬り裂いた!№1監督ポン・ジュノの出世作!!『殺人の追憶』
1960年代生まれで、80年代に大学で民主化運動の担い手となり、90年代に30代を迎えた者たちを、韓国では“683世代”と呼んだ。そしてこの世代は、政治経済から文化まで、その後の韓国社会をリードしていく存在となる。『パラサイト 半地下の家族』(2019)で、「カンヌ国際映画祭」のパルム・ドールと「アカデミー賞」の作品賞・監督賞などを受賞するという快挙を成し遂げた、韓国№1監督ポン・ジュノも、まさにこの世代。本人は69年生まれで、88年に大学に入ったので、あまり実感がなく、その分け方自体が「好きではない」というが。 確かに90年代、“韓国映画ルネッサンス”と言われる潮流が起こった時、彼はまだ長編監督作品を、ものしてなかった。そして2000年になって完成した第1作『ほえる犬は噛まない』は、一部で高い評価を得ながらも、興行的には振るわない結果に終わっている。 しかしプロデューサーのチャ・スンジェは、『ほえる…』の失敗をものともせず、ポン・ジュノに続けてチャンスを与えた。彼が取り掛かった長編第2作が、本作『殺人の追憶』(2003)である。 題材は、“華城(ファソン)連続殺人事件”。86年から91年に掛け、ソウルから南に50㌔ほど離れた華城郡台安村の半径2㌔以内で起こった、10件に及ぶ連続強姦殺人事件である。180万人の警察官が動員され、3,000人の容疑者が取り調べを受けたが、犯人は捕まらないまま、10年余の歳月が流れていた。 この事件はすでに演劇の題材となっており、「私に会いに来て」というタイトルで、1996年に上演されていた。ポン・ジュノはこの演劇を原作としながら、事件を担当した刑事や取材した記者、現場近隣の住民に会って話を聞き、関連資料を読み込んだ。 そして自分なりに事件を整理してみたところ、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」という。この作業に半年掛けた後、脚本の執筆は、1人で行った。 因みに63年生まれで、ポン・ジュノよりは6歳ほど年長ながら、同じ“386世代”で、すでに『JSA』(00)でヒットを飛ばしていたパク・チャヌク監督も、「私に会いに来て」の映画化を考えていた。しかしポン・ジュノが取り組んでいることを知って、あきらめたという。 “華城連続殺人事件”には、“386”の代表的な監督たちの興味を強く引く、“何か”があったのだ。 未解決の連続殺人事件を映画化するということで、スタッフとキャスト全員で追悼式を行ってからクランクインした本作。事件から10数年経って、華城は当時の農村風景が残る環境とはかなり様相が変わっており、また住民の感情も考慮して、事件現場よりも更に南部の全羅道でロケが行われた。 製作費は、30億ウォン=3億円。通常の韓国映画より、少し高い程度のバジェットであった。 ***** 1986年、華城の農村で連続猟奇殺人が発生する。被害者の若い女性は、手足を拘束され、頭部にガードルを被せられたまま、用水路などに放置されていた。 担当のパク・トゥマン刑事(演:ソン・ガンホ)は、「俺は人を見る目がある」と豪語するが、捜査は進まない。そんなある日、頭の弱い男クァンホが、被害者の1人に付きまとっていたという情報を得る。トゥマンは相棒のヨング刑事と共に、拷問や証拠の捏造まで行って、クァンホを犯人にしようとするが、うまくいかない。 そんな時にソウルから、ソ・テユン刑事(演:キム・サンギュン)が派遣されてくる。テユンは、「書類は嘘をつかない」と言い、各事件の共通性として「雨の日に発生した」こと、「被害者は赤い服を着ていた」ことを見つけ出す。更に彼の指摘通り、失踪していた女性が、死体となって発見される。 やり方が正反対のトゥマンとテユンは、対立しながら、捜査を進める。しかし有力な手掛かりは見つからず、犠牲者は増えていく。 雨で犯行の起こる日、必ずラジオ番組に「憂鬱な手紙」という曲をリクエストしてくる男がいることがわかる。その男ヒョンギュ(演:パク・ヘイル)は、連続殺人が起こり始めた頃から、村で働き始めていた。 有力な容疑者と目星を付け、現場に残された精液とヒョンギュのDNAが一致するか検査を行うことになる。しかし当時の韓国には装備がなく、アメリカに送って鑑定が返ってくるまで、数週間待たねばならない。 一日千秋の思いで結果を待つ刑事たちだったが、その間にまた犯行が起きて…。 ***** 本作の内容は、事件の実際と、それを基にした演劇と、更にはポン・ジュノの想像を合わせたものだという。例えば、被害者の陰部から、切り分けた桃のかけらが幾つも見付かったことや、捜査に行き詰まった刑事たちが霊媒師を訪ねたこと、頭の弱い容疑者が、尋問後に列車に飛び込み自殺したことなどは、“事実”を採り入れている。 有力な容疑者のDNA鑑定は、実際には、日本に検体を送って行われた。これをアメリカに変更したのは、当時の米韓の対比を描きたかったからだという。 容疑者がラジオ番組に歌をリクエストするというのは、まったくのフィクション。この設定は、原作の演劇にもあったが、その曲はモーツァルトの「レクイエム」であった。ポン・ジュノはそれを、「1980年代の雰囲気が重要」と、当時の歌謡曲である「憂鬱な手紙」に変えたのである。 因みに原作の「私に会いに来て」で、主人公の相棒の暴力刑事を演じたキム・レハと、頭の弱い容疑者役だったパク・レシクは、そのまま本作で、同じ役どころを与えられている。 本作を、典型的な“連続殺人事件もの”として作ったり、最初はいがみ合っている刑事たちが、やがて力を合わして捜査に取り組んでいく、“バディもの”として描くことも可能であった。しかし先に記した通り、「…自然と事件を時代背景と共に考えるようになった」というポン・ジュノは、韓国社会が通ってきた80年代の暗部を描くのを、メインテーマとした。 事件当時の新聞には、88年に開催が迫った「ソウルオリンピック」が大見出しとなっている下に、「華城でまた死体発見」という小さな記事が載っている。ポン・ジュノはそれを見て、妙な気がした。そして「…これは不条理ではないかと思った」という。「華城事件」で10人の女性が殺された86年から91年は、ちょうど全斗煥大統領による軍事政権に対する民主化要求運動が、全国的な広がりを見せた時代である。そしてこの頃の警察は、ド田舎の村の人々を守ることよりも、政権を守るためにデモを鎮圧することの方を、重視していた。 本作の中では、機動隊がデモ隊を取り締まるために出動している間に、事件が起こる描写がある。また夜道を歩いていた女子学生が犯人に襲われる場面は、政府の灯火管制により、村のあちこちで消灯したり、シャッターが下ろされたりして、人為的に暗闇が訪れていくのと、執拗にカットバックされる。政府が作り出した暗闇が、罪のない女子学生の命を奪う犯人を、サポートしてしまうのだ。 これぞポン・ジュノ言うところの「不条理」。「時代の暗黒が殺人事件の暗黒を覆う…」わけである。 高度成長期でもあるこの時期、稲田や畑ばかりだった農村に、工場が建てられる。それまでは村全体が一つの大家族のような繋がりだったのに、縁もゆかりもない、見も知らぬ労働者が大挙して移り住んでくることによって、“事件”が起こるという構図も、まさに時代が生んだ殺人事件と言える。 因みに我が国でも、64年の東京オリンピック前年には、5人連続殺人の“西口彰事件”や、4歳の子どもを営利誘拐目的で殺害した“吉展ちゃん事件”などが起きている。奇しくも日韓共に、五輪が象徴する時代の転換期には、猟奇的な事件が発生しているわけだ。 “西口彰事件”については、それをモデルにした、今村昌平監督の『復讐するは我にあり』(79)という有名な邦画がある。本作の演出に当たってポン・ジュノは、この作品を非常に参考にしたという。 本作の邦題『殺人の追憶』は、原題の直訳だ。これはデビュー作『ほえる犬は噛まない』で、「フランダースの犬」(原題)という意に沿わぬタイトルを映画会社に付けられてしまい、結果的に内容と合わないことも、興行の失敗に繋がったという反省から、ポン・ジュノ自らが付けたもの。「殺人」の「追憶」という連なりには、組合せの妙を感じる。「追憶」という言葉を使ったのは、80年代の韓国、その“暗黒”を、積極的に振り返るという、ポン・ジュノの想いが籠められているのである。 そうした想いを、具現化していくための演出も、半端なことはしない。この規模の作品では、通常3~4ヶ月の撮影期間となるが、本作は半年間。これは「冒頭とラストだけ晴で、後は曇りでなくてはダメ」という、監督のこだわりによって掛かった。特に件の女子学生が犠牲になるシーンでは、理想的な曇天を待つために、1か月を要したという。 本作は先に挙げたように、“連続殺人事件もの”“バディもの”といった、ジャンル映画に括られることから逃れているのも、特徴だ。ポン・ジュノは毎作品、「ジャンルの解体」を目指しているという。 これに関しては、『岬の兄弟』(2019)『さがす』(22)などの作品で注目を集めた片山晋三監督が、興味深い証言をしている。片山は『TOKYO!/シェイキング東京』(08)『母なる証明』(09)という2作で、日本人ながら、ポン・ジュノ監督作品の助監督を務めている。「…ジャンルを意識しないで一カット、一カットごとに映画の見え方がホラーだったりコメディだったりサスペンスだったりに変わっても成立すること、むしろその方が面白いと気づいたのが僕にとっての収穫です」 この言から、片山の『さがす』も、確かに「ジャンルの解体」を目指した作風になっていることに思い当たる。 さてここで、ポン・ジュノの期待に応えた、本作の出演者についても、触れねばなるまい。本作に続いて、『グエムル‐漢江の怪物‐』(06)『スノーピアサー』(13)そして『パラサイト 半地下の家族』(19)といったポン・ジュノ作品に主演。「最も偉大な俳優であり、同伴者」と、ポン・ジュノが称賛を惜しまない存在となっている、ソン・ガンホも、本作のトゥマン刑事役が、初顔合わせ。『反則王』(00)『JSA』(00)といった主演作で大ヒットを飛ばし、すでにスター俳優だった彼が、駆け出しの監督の作品に主演したのは、『ほえる犬は噛まない』を観て、笑い転げたことに始まる。「ポン監督に自分から電話をかけて関心を示した情熱が買われ、キャスティングされた」のだという。いち早く監督の才能を、見抜いていたわけだ。またガンホが無名時代にオーディションに落ちた際、その作品の助監督だった、ポン・ジュノに励まされたというエピソードもある。 いざクランクインし、序盤の数シーンを撮ってみると、アドリブも多いガンホに対して監督は、「野生の馬」という印象を抱く。そして彼をコントロールする方法としては、「ただ垣根を広く張り巡らしておいて、思いっきり駆け回れるようにしたうえで、放しておこう」という考えに至った。「…優れた感性と創造力、作品に対する理解力を持ち合わせている」芸術家と、認めてのことだった。 キム・サンギョンを起用したのは、ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』(02)を観てのこと。サンギョンは本作の脚本を読んで、テユン刑事に感情移入。「同じ気持ちになって猛烈に腹が立った」という。 有力な容疑者として追及されるヒョンギュ役は、パク・ヘイル。ポン・ジュノは脚本の段階から、彼の特徴的な顔を、思い浮かべていた。 ラスト、未解決に終わった事件から歳月が経ち、今や刑事を辞めて営業マンになったトゥマンが、殺人のあった現場を訪れ、自分の少し前に犯人らしき男が、同じ場所を訪れていたことを、その場に居た女の子から聞いて愕然とする。そして観客を睨みつけるような彼の顔のアップとなって、終幕となる。 これは「俺は人を見る目がある」「目を見れば、わかる」などと、本作の中で容疑者の肩を摑んでは、その顔を見つめる行為を続けてきた、トゥマンの最後の睨みである。ポン・ジュノの、「観客として映画を見るかもしれない真犯人の顔を俳優の目でにらみつけたかった」という想いから、こうしたラストになった。 実はこのシーンは、クランクインから間もなく撮られたもので、監督はガンホに、「射精の直前で我慢しているような表情でやってほしい」と演出を行った。監督曰く、ガンホは本当にあきれた顔を向けたというが、実際は何度も耳打ちで注文してはリテイクする監督を見て、「この人はこのシーンに勝負をかけているんだな」と理解。渾身の力を、注ぎ込んだという。 さて本作は公開されると、韓国内で560万人を動員。2003年の№1ヒット作となり、数多の賞も受賞した。紛れもなくポン・ジュノの出世作であり、国際的な評価も高い。20年近く経った今でも、彼の「最高傑作」であると、主張する向きが少なくない。 ここで“華城事件”の終幕についても、触れたい。2019年になって、真犯人が浮上した。その時56歳になっていた、イ・チュンジェという男。 94年に、妻の妹を強姦殺害した罪で、無期懲役が確定し、24年もの間服役中だった。改めてのDNA鑑定の結果、彼が真犯人であることが確定したが、一連の事件はすべて「時効」が成立していた。 ここで改めて注目されたのが、警察の杜撰な捜査。容疑者の中には自殺者が居たことも記したが、特に酷かったのは、10件の殺人の内、1件の犯人として逮捕され、20年もの間収監されていた男性が居たことである。 本作『殺人の追憶』が、事件の解決には役立ったのかどうかは、明言できない。しかし、あの時代の“闇”を、紛れもなく斬り裂いていたのだ。■ 『殺人の追憶』© 2003 CJ E&M CORPORATION, ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2022.11.04
スピルバーグ、最初にして最後の“ディレクターズ・カット”―『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』―
「この映画には多くの美徳がある。ほとんどのハリウッド作品やパルプSFとは異なり、人間と地球外生命体との接触は、主に平和的であると考えられていることだ」カール・セーガン(天文学者・作家) 「スピルバーグが描く異星人には自然の善良さが表れており、生や死を超えた善なるものが感じられる」ドゥニ・ヴィルヌーヴ(『メッセージ』(16)『DUNE/デューン 砂の惑星』(21)監督) スティーヴン・スピルバーグの壮大なSF叙事詩『未知との遭遇』は、人類と地球外知的生命体とのコンタクトを真摯に、そして迫真的に描いた嚆矢の商業長編映画で、一般市民や科学者、軍などそれぞれの視点から捉えたサスペンスフルな異常事態が、やがて友好的なエイリアン・コンタクトの輪郭をあらわにしていく実録調の構成をとり、この種のジャンルの語り口や目的を一新させた。なによりスピルバーグ自身、フィルモグラフィで単独脚本を兼ねた唯一の監督作として特別な思いを抱いており、そのため過去に二度も手を加え、完成度を極限にまで高めている。 ◆悔いを残した「オリジナル劇場版」 1977年11月16日、『未知との遭遇』はニューヨークのジーグフェルド・シアターとハリウッドのシネラマドームで限定公開され、連日ヒットを記録。そして1か月後には全米272館の劇場で拡大公開され、翌年の夏に上映が終了するまで全米総収入1億1639万5460ドルを稼ぎ出し、配給元であるコロンビア・ピクチャーズの過去最高となる売上を叩き出した。さらには海外における公開によって、1億7100万ドルが追加計上された。当時コロンビアは株価が下落して経営難の状態にあり、スピルバーグはメジャースタジオを倒産の危機から救い出したのた。 だが、こうした好転を得るために、コロンビアはクリスマス興行を必要とし、本来の予定よりも7週間も早い公開をスピルバーグに要求。ひとまずの完成を急務としたため、彼は自身が望んでいたように作品に仕上げることができなかったのである(以下、当バージョンを「オリジナル劇場版」と呼称)。 スピルバーグの不満は、主人公であるロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)のエピソードと、第三種接近遭遇を調査するラコーム博士(フランソワ・トリュフォー)とメイフラワー・プロジェクトのエピソードとの並置にあり、さらにはいくつかのシーンの削除と、省略したシーンの追加を望んでいた。加えてバミューダ三角海域にて消息を絶った輸送船コトパクシ号が、海岸から500kmも離れたゴビ砂漠で発見されるシーンを撮影できなかったことにも不満を抱いていた。 そこで1978年の夏、本作が劇場公開を終えたタイミングで、スピルバーグはコロンビアに「自分が望む形で映画を完成させるため、予算を与えることは可能か?」と訊ねた。そこでコロンビアは、暫定的に計画を立てていた同作のリバイバル公開を条件に、追加撮影をほどこした更新バージョンをリリースする機会をスピルバーグに持ちかけたのだ。 ただし映画への再アクセスにはマーケティング戦略上、マザーシップ内部を見せる撮影が必要だとコロンビアは提示してきたのだ。多くの批評家や観客が、ロイが巨大な宇宙船に乗った後に起こったことを見たいという願望を表明していたからだ。 スピルバーグは「オリジナル劇場版」に調整を加え、作品に統一感を持たせたいと感じており、最終的には自身の作品をアップデートさせるという希求にあらがえず、提示された条件を承諾したのである。 コロンビアはスピルバーグに再撮影の製作費200万ドル(150万ドルという説あり)と7週間の期間を与え(撮影は結果的に16〜19週間を要した)、『未知との遭遇/特別編』(以下「特別編」)の製作へと至ったのである。ただこの時期、すでに監督は次回作となる戦争スペクタクルコメディ『1941』(79)の撮影に入っており、その間に「特別編」の制作チームの再編成を着々と進めた。 ◆理想に近づいた「特別編」 多くのスタッフ、ならびにキャストはこの意欲的なプロジェクトへの再登板を表明したが、ラコーム博士を演じたフランソワ・トリュフォーは監督作『終電車』(80)の撮影に入っており、また撮影監督のビルモス・ジグモンドはライティングに対するコロンビアの無理解が溝となって身を引き、デイブ・スチュワートが代わりを担当することになった。視覚効果スーパーバイザーのダグラス・トランブルと視覚効果撮影監督のリチャード・ユリシッチは、パラマウントで『スター・トレック』(79)に取り組んでいたことと、トランブルは契約上の解釈から無報酬が懸念されたことで参入を見送り、代わりにアニメーション監督のロバート・スウォースが、前者の薦めにより視覚効果の指揮をとることになった。そして命題ともいえるマザーシップ内部は『スター・ウォーズ』(77)『エイリアン』(79)などでコンセプト・アーティストを務めたロン・コッブがデザインし、モデル作成はちょうど『1941』のミニチュア制作に参加していたグレッグ ジーンが続投した。 ミニチュア制作の作業は1979年の夏に始まったが、スピルバーグは『1941』の撮影が終わるまで同作に集中するつもりでいた。しかしロイ役のリチャード・ドレイファスが多忙だったため、1979年2月に1日だけ空いた彼のスケジュールを利用し、先行して一部撮影に踏み切った。そしてドレイファスが新たに建設された、マザーシップへのランプを上っていく様子が撮影された。ハッチ内部の両方の壁に並び、ロイを船内に迎え入れる小さなエイリアンたちは、多くの女の子をエキストラで配役している。「特別編」ではロイがランプをのぼり、密閉されたボールルームに入ると、天井が突然上向きに浮揚し始め、コッブの設計した小型のUFOが飛行して脱着する壮大なドッキングエリアへと移動するが、ドッキングエリアの一部がランプとハッチの内部としてセットで建造され、残りはミニチュアと視覚効果を駆使して表現された。 スピルバーグは『1941』の劇場公開から数週間後の1980年1月より本格的な作業を開始し、手始めにゴビ砂漠のシーンに着手。20世紀フォックスの裏庭に置かれていた古い船の模型をジーンが改造し、カリフォルニア州デスバレーの近くで撮影した。特別な撮影機材やポストプロダクションでのエフェクト効果に頼らず、強制遠近法を用いて同シーンに挑んでいる。コトパクシ号の模型を前景に置き、俳優や車両を含むすべての要素を約200ヤード離れたバックグラウンドに配置して、あたかも実物大のコトパクシ号が目の前にあるかのように演出したのである(一説によれば、同シーンの撮影は後に『E.T.』(82)『太陽の帝国』(87)でスピルバーグと組む、シネマトグラファーのアレン・ダヴィオーが手がけたという)。 これらの撮り下ろし映像が揃うと、スピルバーグとエディターのマイケル・カーンは「特別編」の編集を開始。まずは不必要だと判断した多くのシーンを削除することから始めた。もっとも顕著なのは、ロイがデビルズタワーの模型を作るために、近所から破壊したものを家に持ち込むシーケンスだ。空軍の記者会見シーンも削除され、ロイが電力会社で原因不明の停電について話し合う冒頭のシーンなどもオミットされた。逆に「オリジナル劇場版」制作時に撮影したが使わなかった、ロイがシャワーで感情を崩壊させるシーンが差し戻され、妻ロニー(テリー・ガー)が彼のもとを離れる動機を明確にしている。加えて会話の小さな断片が各所で削除され、結果としてオリジナル劇場版から16分を削除し、以前にカットした7分を復元。さらに新たに撮影した6分のフッテージを追加し、「特別編」は「オリジナル劇場版」より3分短かくなった。 また音楽面でも改変をおこなった。それは最後のクレジットで、ジョン・ウィリアムズ作曲によるエンドタイトルを流していたものを、「特別編」ではディズニーの長編アニメーション『ピノキオ』(40)の歌曲「星に願いを」のメロディを挿入したインストゥルメンタルに変更した。これは劇中、ロイの家で鉄道模型の卓上に置かれていた、ピノキオのオルゴールを受けての伏線回収でもあり、映画のテーマに同期する曲としてスピルバーグは使用を熱望したのだ。もともとはクリフ・エドワーズが歌うオリジナル曲を引用していたのだが、1977年10月19日におこなわれたダラスの試写では観客の反応が悪かったために代えた経緯があり、インスト版を用いることにした。 この「特別編」は1980年7月31日にビバリーヒルズの映画芸術科学アカデミー本部のサミュエル・ゴールドウィン・シアターでマスコミ向けに上映され、同年8月1日に北米750館の劇場で一般公開。その後すぐに海外での公開がおこなわれた。そして1600万ドルの収益を上げ、コロンビアは再びその投資から、リバイバルとしては悪くない利益を得た。 批評家と観客の反応はまちまちで、変更がより焦点を絞り、まとまりをもたらしたと称賛する者もいれば、改ざんの必要性を問い批判する者もいた。なによりも誤算だったのは、あれだけこだわったマザーシップ内部の描写に、あまり賞賛を得られなかったことだろう。 スピルバーグ自身も、この件に関しては後悔の念を強く抱き、後年「オリジナル劇場版」と「特別編」の両方が観られる初のレーザーディスクを米クライテリオン・コレクションでリリースするにあたり、VFX専門誌「シネフェックス」当時の編集長ドン・シェイのおこなったインタビューで心情を吐露している。 「理想的な『未知との遭遇/特別編』は「オリジナル劇場版」のエンディングで終わることだったね。リチャード(・ドレイファス)がマザーシップの内部に入って、あたりを見回し、 ハイテク器機や蜂の巣のようなスペースシップを眺めることはなかったんだ。映像はきれいだったし、想像力に溢れていてよくできていると思う。でもオリジナルのエンディングのほうがずっと好きだ」 ◆究極の『未知との遭遇』〜「ファイナル・カット版」 『未知との遭遇/ファイナル・カット版』(以下「ファイナル・カット版)は、こうした経緯を経て2種類となった『未知との遭遇』の決定版とするべく、スピルバーグが承認した最終バージョンである。叩き台になったのは1981年1月15日にABCテレビネットワークで放送された143分のもので、これは「劇場オリジナル版」と「特別編」がひとつに統合され、多くのカットシーンが残されていた(スピルバーグは後に脚本に協力したハル・バーウッドに「すべての要素を含んだお気に入りのバージョンだ」と語っている)。このABCテレビ放送版に沿う形で、両バージョンの要素を組み合わせながら、いくつかのシーンを短くし、あるいは長くするなどの調整をしたものである。 「ファイナル・カット版」における最大の特徴は、ロイがマザーシップ内部に入り込むクライマックスが完全にオミットされている。そして「星に願いを」のインスト版が「オリジナル劇場版」のエンドタイトルに戻された。前者に関しては、『未知との遭遇』4K UHD Blu-rayソフトに収録された特典インタビュー“Steven Spielberg 30 Years of CLOSE ENCOUNTERS“(『スティーヴン・スピルバーグ 30年前を振り返って』)の中で、スピルバーグは以下のように語っている。 「船内の様子は、観客の想像の中だけに存在するべきと考えたんだ」 同バージョンで初めて『未知との遭遇』に接する若い世代は、はたしてマザーシップの向こう側に、どのような光景を想像するのだろうか? ちなみにこの「ファイナル・カット版』、正式な呼称は”The Definitive Director's Version“で、スピルバーグは本作をフィルモグラフィにおいて唯一の“ディレクターズ・カット”だと位置付け、以後、自作の改変はしないといった意向を示している。まさに文字どおりのファイナルであり、そういう意味においても希少なバージョンといえるかもしれない。■ 『未知との遭遇【ファイナル・カット版】』© 1977, renewed 2005, © 1980, 1998 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2022.08.08
不屈の精神と魂の自由を謳いあげた戦争映画の傑作『大脱走』
第二次世界大戦下のドイツで本当に起きた大脱走劇 捕虜収容所からの脱走劇を題材にした戦争映画は枚挙に暇ないが、しかしこの『大脱走』(’63)ほど映画ファンから広く愛され親しまれてきた作品は他にないだろう。実際に起きた脱走事件を基にしたリアリズム、史上最大規模と呼ばれる脱走計画を余すことなく再現したダイナミズム、自由を求めて困難に挑戦する勇敢な男たちの熱い友情を描いたヒロイズム。『OK牧場の決斗』(’57)や『老人と海』(’58)、『荒野の七人』(’60)などの名作で、不屈の精神を持った男たちを描き続けたジョン・スタージェス監督だが、恐らく本作はその最高峰に位置する傑作と言えよう。 舞台は第二次世界大戦下のドイツ。脱走困難とされる「第三空軍捕虜収容所」に、ドイツの捕虜となった連合軍の空軍兵士たちが到着する。彼らの共通点は脱走常習者であること。実は、当時のドイツ軍は頻発する捕虜の脱走事件に頭を悩ませていた。なにしろ、逃げた捕虜を捜索するためには貴重な時間と人員を割かねばならない。かといって、戦争に勝つことを考えれば敵兵を逃がして本隊へ戻すわけにはいかないし、ジュネーブ条約で捕虜の保護が義務付けられているので処刑するわけにもいかない。そこでドイツ空軍は脱走常習者だけを一か所に集めて厳しい監視下に置き、なるべく余計な手間を減らそうと考えたのである。 とはいえ、集まったのはいわば「脱走のプロ」ばかり。しかも、ナチス親衛隊やゲシュタポに比べるとドイツ空軍は良識的で、規則を破った捕虜への懲罰も比較的甘い。そのため、到着早々から脱走を試みる者が続出。フォン・ルーガー所長(ハンネス・メッセマー)から自重を求められた捕虜リーダーのラムゼイ大佐(ジェームズ・ドナルド)も、脱走によって敵軍を混乱させるのは兵士の義務だと言って突っぱねる。 それからほどなくして、「ビッグX」の異名を取る集団脱走計画のプロ、ロジャー・バートレット(リチャード・アッテンボロー)が収容所に連行されてくる。にわかに色めき立つ捕虜たち。目ぼしい英国空軍メンバーを一堂に集めたバートレットは、収容所の外へ繋がるトンネルを3カ所掘って、なんと一度に250名もの捕虜を脱走させるという壮大な計画を発表する。 トンネルの掘削に必要な道具を作る「製造屋」にオーストラリア人のセジウィック(ジェームズ・コバーン)、実際に掘削作業を請け負う「トンネル王」にポーランド人のダニー(チャールズ・ブロンソン)、資材を調達する「調達屋」にアメリカ人のヘンドリー(ジェームズ・ガーナー)、掘削作業で出た土を処分する「分散屋」にエリック(デヴィッド・マッカラム)、身分証などの書類を偽造する「偽造屋」にコリン(ドナルド・プレザンス)、収容所内の情報を収集する「情報屋」にマック(ゴードン・ジャクソン)といった具合に担当者を決め、捕虜たちは前代未聞の大規模脱走計画を着々と進めることとなる。 一方、彼らとは別に脱走計画を試みるのが一匹狼のアメリカ兵ヒルツ(スティーヴ・マックイーン)。何度も脱走を繰り返しては独房送りになるため通称「独房王」と呼ばれる彼は、その独房で隣同士になったアイヴス(アンガス・レニー)と組んで単独脱走を試みようとしていたのだ。それを知ったバートレットたちは、単独脱走が成功したらわざと捕まって収容所へ戻り、外部の情報を教えて欲しいとヒルズに頼む。というのも、集団脱走計画を成功させるためには逃走経路の確保も必須だが、しかし収容所内からは外の様子がよく分からないからだ。 当然ながら、この無茶な依頼を一旦は断ったヒルズ。ところが、その後トンネルのひとつが看守に発見されてしまい、ショックを受けて錯乱したアイヴスが立ち入り禁止区域に入って射殺されたことから、考えを改めたヒルツはバートレットらに協力することにする。こうしてヒルツの持ち帰った外部情報をもとに計画を進めた捕虜たちは、’44年3月24日に前代未聞の大規模な集団脱走を実行に移すのだが…? 各スタジオから企画を断られ続けた理由とは? 原作は実際に第三空軍捕虜収容所の捕虜だった元連合軍パイロット、ポール・ブリックヒルが執筆した同名のノンフィクション本。彼自身は実際に脱走しなかったものの、しかし計画そのものには加わっていた。’50年に出版されて大評判となった同著の映画化を、かなり早い時期から温めていたというジョン・スタージェス監督。当時MGMと専属契約を結んでいた彼は、最初に社長のルイス・B・メイヤーのもとへ企画を持ち込んだものの、「物語が複雑すぎるうえに予算がかかりすぎる」として断られたという。 その後独立してからも、あちこちの映画スタジオやプロデューサーに相談したが、スタージェス曰く「どこでも話を逸らされておしまいだった」らしい。最大のネックとなったのは、脱走した主要登場人物の大半が死んでしまうこと。気持ちの良いハッピーエンドがお約束だった当時のハリウッド映画において、この種のほろ苦い結末は観客の反発を招きかねないため、確かにとてもリスキーではあったのかもしれない。また、映画に華を添える女性キャラが存在しないこともマイナス要因だったそうだ。 風向きが変わるきっかけとなったのは、黒澤明監督の『七人の侍』(’54)をスタージェス監督が西部劇リメイクした『荒野の七人』。これが予想を上回る大ヒットを記録したことから、同作の製作を担当したミリッシュ兄弟およびユナイテッド・アーティスツは、いわばスタージェス監督へのご褒美として『大脱走』の企画にゴーサインを出したのだ。予算はおよそ400万ドル(380万ドル説もあり)。同年公開された戦争映画大作『北京の55日』(’63)の約1000万ドル、コメディ大作『おかしなおかしなおかしな世界』(’63)の約940万ドルと比べてみると、実はそれほど高額な予算ではなかったことが分かるだろう。 それゆえ、当初はカリフォルニアのパームスプリングス近郊を、戦時中のドイツに見立ててセットを組むという計画もあったらしい。ところが、組合の規定によってエキストラでもプロを雇わねばならず、そのため現地で人材調達をすることが出来ない。それではあまりに不経済であることから、やはりドイツが舞台ならドイツで撮影するのが理に適っているということで、ミュンヘン郊外のバヴァリア・スタジオで撮影することになったという。ちょうどスタジオの周囲も実際の収容所と同じく森に囲まれているし、大勢のエキストラも近隣の大学生を安く雇うことが出来た。収容所の屋外セットは400本の木を伐採し、森の中に空き地を作って建設したという。ちなみに、撮影終了後は倍に当たる800本の木の苗を新たに植えたそうだ。 撮影の準備で最大の難問だったのは、この第三空軍捕虜収容所のセットをどれだけ忠実に再現できるかということ。本来ならば実際に現地へ赴いて参考にすべきところだが、しかし収容所のあったザーガン(現ジャガン)周辺は戦後ポーランド領となり、当時は東西冷戦の真っ只中だったため視察が難しかった。現存する写真資料だけでは心もとない。そこで白羽の矢が立てられたのは、実際に脱走計画でトンネル掘削を担当した元捕虜ウォリー・フラディだった。劇中ではブロンソン演じるダニーのモデルとなった人物である。製作当時、母国カナダで保険会社重役となっていたフラディは、本作のテクニカル・アドバイザーとして招かれセット建設に携わり、捕虜収容所の外観だけでなくトンネルの中身まで、限りなく正確に再現したという。 豪華な名優たちの共演も大きな魅力 その一方で、史実を大幅にアレンジしたのは脚本。まあ、こればかりは仕方ないだろう。なにしろ、本作はドキュメンタリーではなくエンターテインメントである。なによりもまず、映画として面白くなくてはならない。脚本は映画『アスファルト・ジャングル』(’50)の原作者として有名な作家W・R・バーネットが初稿を仕上げ、戦時中に捕虜だった経験のあるイギリス人作家ジェームズ・クラヴェル(ドラマ『将軍 SHOGUN』の原作者)が英国軍人の描写に信ぴょう性を与えるためリライトを担当したそうだが、しかし最終的にはスタージェス監督自身が現場でどんどん書き直してしまったらしい。また、『ジャイアンツ』(’56)の脚本家として知られるアイヴァン・モファットもノークレジットで参加しているが、その件については改めて後述したいと思う。 実際にトンネルを抜けて捕虜収容所の外へ出たのは79名。そのうち3名が現場で捕らえられ、76名がいったんは逃げおおせたものの、しかし最終的に脱走に成功したのは3名だけで、再び捕虜となった73名のうち50名が見せしめのためゲシュタポによって処刑された。こうした動かしがたい事実をそのままに、脱走計画の詳細などもなるべく事実に沿って描きつつ、映画らしいアクションとサスペンスの要素をふんだんに盛り込んだ、ハリウッド流のエンターテインメント作品へと昇華させたスタージェス監督。そのほろ苦い結末にも関わらず、意外にも自由でポジティブなエネルギーに溢れているのは、やはり彼独特の揺るぎない反骨精神が物語の根底を支えているからなのだろう。 確かに脱走した捕虜の大半は処刑され、生き残った者も3名を除いて再び捕虜となってしまうが、しかしそれでもなお彼らは希望を棄てない。なぜなら、ナチスは彼らの身体的な自由を奪うことは出来ても、魂の自由まで奪うことは出来ないからだ。いわば独裁的な権力に対して、堂々と中指を立ててみせる映画。本作が真に描かんとするのは、権力の弾圧や束縛に決して屈しない強靭な精神の崇高さだと言えよう。だからこそ、あのクライマックスに魂の震えるような感動を覚えるのである。 『荒野の七人』でもスタージェス監督と組んだマックイーンにコバーン、ブロンソンをはじめ、英米独の名優たちがずらりと顔を揃えた豪華キャストの顔ぶれも素晴らしい。中でも、コリン役のドナルド・プレザンスは実際に第二次大戦で連合軍の爆撃隊にパイロットとして加わり、第三空軍捕虜収容所の近くにあった第一空軍捕虜収容所に収容されていたという経歴の持ち主。集団脱走計画に加わったこともあったという。また、調達屋ヘンドリー役のジェームズ・ガーナーも、朝鮮戦争へ従軍した際に部隊内の調達役を任されていたそうだ。この2人の熱い友情がまた感動的。ただし、彼らが飛行機で逃亡を試みるというプロットは本作独自のフィクションだという。 ほかにも魅力的な役者がいっぱいの本作だが、しかしテーマとなる「不屈の精神」を最も象徴的に体現しているのは、独房王ヒルツ役のスティーヴ・マックイーンだろう。表向きはクールな一匹狼だが、しかし内側に熱い闘志を秘めた生粋の反逆児。ただ、そんなヒルツも当初は単なるアウトサイダー的な描かれ方をしており、そのため撮影途中でラフ編集版を見たマックイーンは憤慨して席を立ってしまったらしい。おかげで撮影も一時中断することに。そこでスタージェス監督はマックイーンの意見を取り入れて脚本をブラッシュアップすべく、ハリウッドから脚本家アイヴァン・モファットを招いたというわけだ。オープニングでヒルツが立ち入り禁止区域にボールを投げ込むシーンは、その際に書き足された要素のひとつだったという。 やはり最大の見せ場は終盤のバイク逃走シーン。もちろん、これも映画オリジナルのフィクションである。大のオートバイ狂だったマックイーン自身がスタントも兼ねているが、しかしジャンプ・シーンなどの危険なスタントは保険会社の許可が下りなかったため、マックイーンの友人でもあるバイクスタントマンのバド・イーキンズがスタントダブルを担当。実は、ヒルツをバイクで追跡するドイツ兵の中にもマックイーンが紛れ込んでいるらしい。これぞまさしく映画のマジック(笑)。本当にバイクが好きだったんですな。 ちなみに、実際の集団脱走劇に加わったのは主にイギリス人やカナダ人の空軍兵士たちで、アメリカ人は脱走計画の準備にこそ参加したものの、しかし計画が実行される前に他の収容所へと移送されていたらしい。だが、最重要マーケットであるアメリカでのセールスを考えれば、有名ハリウッド俳優のキャスティングは必要不可欠。そもそも本作はハリウッド映画である。そのため、劇中では米兵の移送がなかったことに。主要キャラクターについても、一部はモデルとなった特定の人物がいるものの、それ以外は複数の人物をミックスした架空のキャラクターで構成された。また、捕虜たちが脱走計画に必要な物資を調達する方法に関しても、実際は英米の諜報機関が外部から協力していたらしいのだが、機密情報に当たるとして劇中では詳細が一部省かれている。■ 『大脱走』© 1963 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC. AND JOHN STURGES. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2022.02.08
韓国映画史に輝く『下女』に敢然と挑んだリメイク作品『ハウスメイド』
韓国映画史を紐解くと、必ずタイトルが挙がる作品のひとつに、キム・ギヨン監督(1919~98)の『下女』(1960)がある。 主人公は、紡績工場の女性工員向けに設けられた夜間学校で、音楽を教えている中年男。平穏な日常を送っていた彼だが、行員の1人から恋文を送られたことが発端となって、徐々に日々が粟立っていく。 男の家庭は、妻と子ども2人との4人家族。住居を増築するのに、音楽教師の給料だけでは足らず、妻が内職をしている。 しかし妻が過労で倒れたため、家事を任せる“下女”として、若い娘を雇い入れる。ある時彼女に誘惑された男は、気の迷いから関係を持ってしまう。 そこから男と、その家族の“地獄”が始まる…。 都市部の保守的な中産階級の一家が、“下女”によって、破滅へと追い込まれていく。“階級”や“格差”が、1人の女の魔性によってひっくり返されていく様を、ギヨンは、アバンギャルドにして精緻な画面設計で描き出した。 この作品をはじめ、60~70年代はヒットメーカーとして鳴らしたギヨンだったが、80年代中盤以降はなかなか新作が撮れず、完成してもお蔵入りになったりした。ところが90年代半ばからパリ、香港、東京といった国外で『下女』が上映され、絶賛されたことがきっかけで再評価が進み、97年には本国でも、「釜山映画祭」でレトロスペクティヴが組まれるに至った。 翌98年ギヨンは、回顧展が行われる「ベルリン映画祭」へと旅立つ前夜に、自宅の火災で不幸な最期を遂げる。しかし死後も、国内外でその声価は高まっていく。 2008年にはマーティン・スコセッシが主宰する財団と韓国映画資料院が組んで、『下女』のデジタル修復版を完成。「カンヌ映画祭」でお披露目するに至った。 ポン・ジュノやパク・チャヌクといった、現代韓国映画のリーダーたちに与えた影響も大きい。特に近年、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』(19)が、「カンヌ」のパルムドールに続いて、米「アカデミー賞」の作品賞や監督賞などを受賞するという、国際的な快挙を成し遂げた際には、改めて『下女』にスポットが当たった。『下女』と『パラサイト』両作を観ればわかるが、豊かな家庭を下層の者が侵食するという物語の構図や、展開の中で“階段落ち”が効果的に用いられているところなど、明らかな共通点が見出せる。事実『パラサイト』製作に当たっては、キム・ギヨンから最も大きなインスピレーションを受けたことを、ポン・ジュノ本人が明かしている。 また「アカデミー賞」で言えば、昨年『ミナリ』(20)でユン・ヨジョンが韓国人俳優として初めて栄冠(助演女優賞)に輝いた時のスピーチも、印象深い。ヨジョンはこの晴れの舞台で、自らの映画デビュー作の監督だったギヨンを「天才的な監督」と賞賛し、感謝の意を表したのである。 死して尚、「韓国映画史上の怪物」と称えられるキム・ギヨン。その代表作『下女』は、ギヨン自らが『火女』(71)『火女'82』(82)とタイトルを変えながら、2度に渡ってリメイクしている。 他者によるリメイクは、オリジナル公開からちょうど半世紀経った2010年に、初めて製作された。それが本作、『ハウスメイド』である。『ハウスメイド』のプロデューサーであるジェイソン・チェは、元記者。レトロスペクティヴが開催された97年の「釜山」で、ギヨンと出会った。 翌98年には、「ベルリン」を皮切りにスタートするギヨンの回顧展のヨーロッパツアーを、チェは共に回る予定だった。しかし先に記した通り、ギヨンはその直前に、不慮の死を遂げてしまう。 その後映画界入りしたチェは、『下女』の50周年記念プロジェクトを、立ち上げ。オリジナル版のリバイバル上映と、リメイクである本作の製作に取り組むこととなった。 本作監督に起用されたのは、『浮気な家族』(03)『ユゴ 大統領有故』(05)などで高い評価を得ていた、イム・サンス。「脚本と演出は自由にさせてくれる」という条件で、このプロジェクトを引き受けた。韓国映画史に残る『下女』を、「超えてみたい」という抱負を持って本作に取り組んだというサンスだが、それを口にしたため、韓国では「生意気だ」と非難を受けたという。 それではサンス版『下女』である『ハウスメイド』は、ギヨンの『下女』をどのように踏まえ、そしていかに「自由に」アレンジを行ったのだろうか?そしてオリジナルの出来に、どこまで迫ることができたのか? 旧作から引き継いだ点として、まず挙げられるのは、「韓国社会の階級問題を正面から描く」ということ。ただ、朝鮮戦争休戦から7年しか経ってない1960年と、『ハウスメイド』が製作された2010年とでは、社会の事情が全く違っている。 オリジナルは、中産階級の家庭で“下女”が働くストーリー。それに対して半世紀を経た、リメイク版の製作時には、“下女”即ち住み込みのメイドを雇えるのは、「韓国全体の1%くらいの富裕層の人たちだけ」になっていた。新自由主義経済によって、中産階級が崩壊していたのである。 監督は、こうした富裕層こそ、現代の韓国社会の重要なカギを握っていると考え、そこを描くことを重視。そのため主人公も、一家の主の男性ではなく、“下女=メイド”の側とした。社会的に下層にいる彼女が富裕層の生態をウォッチする内に、その傲慢さに傷つけられていく物語にしたのである。 ***** 上流階級の豪邸で、ウニはメイドとして働くことになった。 一家の主は、礼儀正しく穏やかな物腰のフン。その妻ヘラは、現在双子を妊娠中で、大きなお腹を抱えていた。2人の間の6歳の娘ナミは、すぐにウニに懐く。 この家に長年仕える先輩メイドのビョンシクの指導の下、懸命に働くウニ。しかし、一家のお伴で付き添った別荘で、主のフンと男女の仲になってしまったことから、歯車が軋み始める。 邸宅に帰ってからも関係を持つも、翌朝フンから呆気なく手切れ金を渡されて、ウニは深く傷つく。しかしそのまま、働き続けるしかない。 数週間後、ウニが妊娠していることを、本人も気付かない内に、ビョンシクが感づく。その話はやがてヘラまで届き、ウニは憎しみの対象となった。 邸宅を離れ、ひとりで子どもを産もうと考えたウニ。しかし一家はそれを許さず、やがて彼女の身に悲劇がもたらされる。 ウニは「復讐」を宣言する。徒手空拳の彼女が取ったのは、あまりにも苛烈で悲しい手段だった…。 ***** ウニを演じたのは、当時30代後半のチョン・ドヨン。デビュー以来着実にキャリアを積み、2007年にはイ・チャンドン監督の『シークレット・サンシャイン』での演技が高く評価されて、「カンヌ」で女優賞に輝いた。本作主演の頃には、名実ともに韓国のNo.1女優と言えた。 ウニの主人夫婦を演じたのは、イ・ジョンジェとソウ。オリジナル『下女』の夫婦が、小市民的な体面を守ろうとしたことも手伝い、破滅への道へと進んでいくのと違って、こちらのカップルは、傲岸不遜な上流階級を体現。“下女”を踏みにじることに、何ら痛痒を感じない。 ウニの様子を主人たちに注進するかと思えば、遂には彼女に同情するようになる先輩メイドのビョンシク役は、後のオスカー女優ユン・ヨジョン。先にギヨン監督の作品でスクリーンデビューを飾ったと記したが、その作品とは、実は『火女』。ギヨン自らが『下女』をリメイクした2本の内の1本の主演女優だったのである。 イム・サンス作品の常連でもあったヨジョンが、新たなる“下女”の先輩役を演じているのは、意味深且つ巧みなキャスティングと言える。そして彼女は、見事にその期待に応えて、画面を引き締める。 プロデューサーのジェイソン・チョは、『ハウスメイド』製作に至る道程で、『下女』のリメイクを、「自分たちにやり遂げる力と資質があるか」思い悩んだという。しかしサンス監督の下、韓国映画界きっての実力派キャスティングが決まっていって、「よし、闘ってやろうじゃないか!」と決意が固まった。 そうして出来上がった『ハウスメイド』は、監督の願い通り、オリジナルの『下女』を超えられたのか?それは観る方々の判断に任せたいが、2010年の韓国社会の問題を抉る作品になっていたことだけは、間違いない。 イム・サンスは本作の後、『蜜の味~テイスト オブ マネー』(02)を監督した。やはり上流階級の腐敗を描いたこちらの作品は、『ハウスメイド』の“精神的続編”と言える。『ハウスメイド』でウニが取った「復讐」とは、自分に懐いていたナミの心に消し難いトラウマを残すことだった。そして『蜜の味』には、大人になったナミが登場し、幼き日に目撃したその「復讐」について語る。『ハウスメイド』と合わせて、オリジナルの『下女』、そして『蜜の味』もご覧いただきたい。韓国社会の変化や韓国映画の歴史など、色々味わい深く感じられると思う。■ 『ハウスメイド』© 2010 MIROVISION Inc. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2021.01.03
鬼軍曹と二枚目新兵との禁じられた“恋”を描く名匠ジョン・フリンの監督デビュー作!
今日お勧めするのは1968年の『軍曹』です。これは当時画期的だった、同性愛を扱ったハリウッド映画です。 舞台はフランス、駐留米軍の基地に主人公のカラン軍曹(ロッド・スタイガー)がやって来ます。時代は朝鮮戦争の後、ベトナム戦争の前という設定で、戦争がないので規律がゆるんでいるのを見た軍曹は、引き締めなきゃならないと思って、兵士たちを厳しくしごきます。その兵士のなかに、スワンソン一等兵という美青年がいます。ジョン・フィリップ・ローという、ギリシャ彫刻のような俳優が演じています。軍曹は「君は今どき珍しい立派な若者だ、そして立派な兵士だ」と言ってスワンソンに目をかけるんですが、だんだん変なことになってきます。 つまり、この軍曹は自覚のないゲイで、自分で気づかないままスワンソンに恋してしまうんです。 ハリウッド映画では長い間、同性愛が描かれることがありませんでした。「ヘイズ・コード」という自主規制によって禁じられていたんです。しかし、『軍曹』公開の直前にこれが撤廃されて、ようやく描かれるようになったんです。 『軍曹』に主演のロッド・スタイガーはシドニー・ルメット監督の『質屋』(64年)で高く評価された俳優ですが、『質屋』は劇場で公開されるアメリカ映画で初めて女性の乳房をスクリーンに映し出した映画でもあります。 スタイガーは『軍曹』の前に『夜の大捜査線』(67年)でアカデミー主演男優賞を獲りました。人種差別的な警察官役ですが、最後は黒人刑事シドニー・ポワチエと友情を結ぶ儲け役でした。 『軍曹』の監督はジョン・フリン。この後に作った『組織』(73年)は、リチャード・スタークの「悪党パーカー」シリーズが原作の傑作ハードボイル ド・アクションでした。『ローリング・ サンダー』(77年)もよかった。ポー ル・シュレイダー脚本で、ギャングに手首を潰されたベトナム帰還兵が手に鉤爪をつけて復讐します。 ジョン・フリンは実はジャーナリスト出身で、名匠ロバート・ワイズ 監督から、戦場カメラマンのロバー ト・キャパの伝記映画のための取材を依頼されて、映画界に入ります。 ワイズの『ウエスト・サイド物語』(61 年)でもニューヨークのギャングの調査を担当しています。 この『軍曹』、当時はまったく話題 にならず、その後も、ゲイである軍曹を否定的に描いている、と批判されましたが、今、見直すと、現在アメリカ の軍隊内で問題になっている、男性による男性へのセクハラを何十年も早く告発する内容になっています。 また、軍曹の抱えたトラウマが、 最近の映画『トム・オブ・フィンラ ンド』(17年)で、ゲイのイラストレ イター、トム・オブ・フィンランドが戦争中に抱えたトラウマと同じなんですね。 たしかに地味ではありますが、タブ ーに挑戦した問題作です! (談/町山智浩) MORE★INFO.●1966年、ロバート・ワイズが自らの製作会社を立ち上げ、その第1作としてデニス・マーフィ原作『軍曹』の映画化権を取得した。●監督には、ワイズ監督作品のほか、『大脱走』『太陽の帝王』(共に63年)などの助監督として評価の高かったジョン・フリンを抜擢し、監督デビュー作となった。●当初は名バイプレイヤー、サイモン・オー クランドに主役のオファーがされたが、彼 は映画のために減量するのを嫌がり、ロッ ド・スタイガーに交代した。●撮影中にスタイガーの母親が心臓発作で死去している。 ©︎Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2020.08.06
『戦争の犬たち』 フレデリック・フォーサイスの原作の背景と、クリストファー・ウォーケン主演によるアレンジについて
本作『戦争の犬たち』(1980)の原作は、イギリスの作家フレデリック・フォーサイスが著し、1974年に出版された同名の小説である。フォーサイスと言えば、現実の国際情勢に基づいた題材を取り上げ、アクチュアルに描いたベストセラーを、数多く世に放ってきたことで知られる。 ジャーナリスト出身の彼が書いた小説の第1作が、かの有名な「ジャッカルの日」。1962年から63年に掛けて、「ロイター通信」の特派員としてパリ駐在時に、当時のドゴール大統領の動きを、日々追った経験を基に書き上げた、サスペンススリラーの傑作である。 ドゴール大統領暗殺を狙う、正体不明のスナイパー“ジャッカル”と、それを阻止しようとする国家権力の虚々実々の戦いを描いた「ジャッカルの日」は、71年に出版されてベストセラーになった。巨匠フレッド・ジンネマン監督による、その映画化作品も、73年に公開されて世界的に大ヒット!今でも“暗殺映画”のマスターピースとして、高く評価されている。 「ジャッカルの日」の出版契約に当たって版元は、作家としては無名の新人であったフォーサイスに、「小説三作の契約」を結びたいと申し入れた。そこでフォーサイスが、ジャーナリストとして見聞きしたことを基に考え出したのが、「オデッサ・ファイル」と「戦争の犬たち」だった。 「ジャッカルの日」に続く第2作となったのは、「オデッサ・ファイル」。フォーサイスが冷戦時の東ベルリンに駐在していた時、耳にした噂が起点となっている。それは、元ナチスのメンバーが、戦後に司直の手から逃れるために作った、謎の組織が存在するというものだった。 この噂話をベースに、綿密な取材を行って執筆した「オデッサ・ファイル」は、72年に出版。74年にジョン・ヴォイトが主演した映画化作品が、公開された。 そしてフォーサイスの第3作となったのが、「戦争の犬たち」である。こちらは彼が、「ロイター」から「BBC=英国放送協会」に転職した後、アフリカに赴いた時の経験から、発想した内容。ナイジェリアの内戦=「ビアフラ戦争」の取材を通じて、自分が知ったアフリカのこと、そしてそこで戦う白人傭兵たちについて描くことを、思い付いたとしている。 小説「戦争の犬たち」に登場するのは、独裁者であるキンバ大統領が君臨する、アフリカの架空の国ザンガロ。ここにプラチナの有望な鉱脈があることを知った、イギリスの大企業が、クーデターでキンバを倒すことを企てる。その上で、自分たちが立てた傀儡を大統領に据え、プラチナを独占しようという算段であった。 そこで雇われたのが、イギリスの北アイルランド出身の傭兵シャノン。彼は観光客を装ってザンガロを訪れ、綿密な調査を行う。そして、外部からの急襲作戦によって、政権打倒が可能であるとのレポートを提出した。 そのまま、クーデターの計画立案から、武器や兵員の調達や輸送、戦闘まで任されたシャノンは、気心が知れた傭兵仲間を招集。ヨーロッパの各地で準備を進め、やがて計画は実行に移される。 シャノンが率いる傭兵部隊は、犠牲を出しながらも、独裁者を倒すことに成功。手筈通り、黒幕の大企業の使者と、傀儡政権のトップを出迎える。 しかし実はシャノンは、大国や一部の富者の思惑や謀略によって、アフリカの国家やその住民たちが蹂躙される様を、傭兵生活の中で幾度も目撃し、憤りを覚えるようになっていた。そして彼の雇い主たちには、思いもよらなかった行動に出る…。 さて、処女作「ジャッカルの日」から「戦争の犬たち」まで、いずれもフォーサイスの、ジャーナリスト時代の見聞から拡げた物語であることは、先に記した通りである。その辺りをフォーサイス本人が詳述しているのが、2015年に出版された自伝「アウトサイダー 陰謀の中の人生」。そしてその中でフォーサイスは、自分がイギリスの秘密情報部「MI6」の協力者であったことも、明かしている。 それによると、「MI6」のエージェントが、フォーサイスに初めて接触してきたのは、1968年。「BBC」を辞めてフリーランスの記者として、「ビアフラ戦争」の取材を続けている時だった。この戦争によって、多くの子どもたちが餓死している惨状を、フォーサイスはエージェントに伝え、イギリス政府がこの戦争に対して取っている政策を、揺り動かそうとしたという。 アフリカに関してはその後、70年代に過酷な人種差別政策で知られた「ローデシア」の政権の動向を探ったり、80年代、「南アフリカ」が密かに保有していた核兵器に関する情報を収集したりなどの、協力を行ったとしている。 また同書によれば、73年には東ドイツを訪問。そこで、イギリスの協力者となっているソ連軍の大佐から紙包みを受け取り、西側に持ち出すというミッションまで敢行している。 そんなこともあって、新作の小説を発表する際には、フォーサイスは機密を知る人間として、「書きすぎた部分」はないか、「MI6」のチェックを受けていたとする。しかしこの自伝に関しては、私は些か眉唾との思いを、抱かざるを得ない。 秘密情報部からの依頼のみに止まらず、ジャーナリストとしての戦場取材や、小説を書くための裏社会のリサーチなどに於いて、あまりにも命懸け、危機一髪で死地をくぐり抜けるエピソードが多いのである。しかも時によっては、彼にとっては敵方に当たる東側の女性工作員とのアバンチュールもあったりする。まさに、ジェームズ・ボンドさながらである。 また東ドイツ駐在時に、彼のスクープによって、危うく「第三次世界大戦」の引き金を引きかけるくだりがある。そんなこんなも含めて、元ネタになった経験は実際にあったとしても、「話を盛ってるなぁ~」という印象が、拭えない。 しかし、当代随一のスパイ小説の書き手が、自らの人生を綴る中でも、旺盛なサービス精神を発揮したと思えば、それほど大きな問題はないのかも知れない。元々国際情勢の現実に則りながらも、エンタメ要素を加える手法が、高く評価されてきた作家であるわけだし。 だがこの「アウトサイダー」では、フォーサイスの歩みを知る者としては、一体どんな風に記すのか興味津々だった部分が、書かれていなかったりする。それは1972年、アフリカの小国「赤道ギニア共和国」で、フォーサイスがクーデターを支援するために傭兵部隊を雇い、政権転覆を企てたという、かなり有名な逸話についてだ。 このクーデターの資金は、「ジャッカルの日」の印税で、主たる目的は、フォーサイスが「ビアフラ戦争」で肩入れしていた、反乱軍の兵士たちのため。「ナイジェリア」を追われた彼らに、国を与えようとしたと言われる。 しかしこの計画は、船に武器を積み込む予定だったスペインで、傭兵隊長が身柄を拘束されて失敗に終わった。そしてこれらの経験を盛り込んで書かれたのが、「戦争の犬たち」だという。小説の中ではクーデターは成功し、フォーサイスの所期の目的も果たされる。 このクーデター未遂事件は、6年後の78年に、イギリスの新聞「サンデー・タイムズ」に報じられ、大きなニュースとなった。但しフォーサイス自身はこの件に関しては、作戦会議を取材しただけで、傭兵達が自分を首謀者だと思い込んだのだと、関与を否定しているが…。 虚実は、はっきりしない。しかしいずれにせよ、アクチュアルながらも、フィクションである物語を数多紡いできた、フォーサイスらしい逸話と言っても、良いのではないか? さて、そんな小説を映画化した本作『戦争の犬たち』は、原作のエッセンスは残しながらも、ストーリーをかなり省略。更にオリジナルの設定も、多分に盛り込んだ作りとなっている。 シャノンが、ザンガロへの調査の旅で、逮捕されて拷問に遭ったり、原作には登場しない、別れた妻との愁嘆場があったり。なぜこうした作りになったかと言えば、シャノンを演じるのが、クリストファー・ウォーケンだったからではないだろうか。 ウォーケンが一躍注目を集めたのは、今から42年前=1978年、彼が30代半ばの時に公開された、マイケル・チミノ監督のベトナム戦争もの『ディア・ハンター』。戦場で心を病み、ロシアン・ルーレットで命を落とす青年ニック役で、繊細且つ凄絶な演技を見せ、アカデミー賞助演男優賞を受賞した。 それに続く出演作は、80年に公開された2本。チミノ監督作への連続出演となる、『天国の門』、そして本作『戦争の犬たち』である。当時のウォーケンは、大作の“主演級スター”として、猛売り出し中だった。 また近年は、“個性派”或いは“怪優”といった印象が強いウォーケンだが、当時は女性ファンも多い、“二枚目”俳優であった。『戦場の犬たち』に、出世作『ディア・ハンター』を想起させるような“拷問”シーンや、切なさを醸し出す“ラブシーン”が用意されたのは、当時のウォーケンならではだったと思える。 しかし『天国の門』は、空前の失敗作扱いをされ、製作の「ユナイテッド・アーティスツ」を破綻に追い込んだのは、多くの方がご存知の通り。『戦争の犬たち』も興行成績がパッとせず、ウォーケンが“A級作品”の主役を演じるのは、83年の『ブレインストーム』や『デッドゾーン』辺りで、打ち止めとなる。まあ今になって考えると、大作の“主演”も“二枚目”扱いも、柄じゃなかったという気がしてくるが。 そしてウォーケンは、『007 美しき獲物たち』(85)で、当初デヴィッド・ボウイにオファーされていた悪役を、彼の代わりに演じた辺りから、「クセが強い」役柄が多い俳優となっていく。 余談になるが、ダニエル・クレイグがボンドを演じる現在、『007』シリーズの悪役は、ハビエル・バルデム、クリストフ・ヴァルツ、ラミ・マレックと、いつの間にかオスカー男優の定席となってしまった。だが実は、それ以前にオスカー受賞者で『007』の悪役を演じたのは、ウォーケンただ一人である。 最後に話をまとめれば、原作者が実際に起こそうとしたクーデターをベースに書いたと言われる物語を、当時は“二枚目”で“主演級”だった現“怪優”向けにアレンジしたのが、本作『戦場の犬たち』である。そう思うとこれは、1980年というタイミングだからこそ、作り得た作品とも言えるだろう。■ 『戦争の犬たち』(C) 1981 JUNIPER FILMS. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2020.07.03
‘50年代SF映画ブームの起爆剤となったジョージ・パルの代表作『宇宙戦争(1953)』
ハリウッドでは過小評価され続けたSF映画 ご存じ、スティーブン・スピルバーグ監督×トム・クルーズ主演によって、’05年にリメイクもされたSF映画の金字塔である。火星人による地球侵略の恐怖とパニックを、当時の最先端の特撮技術を用いて描いたスペクタクルなSF大作。ハリウッドでは’50年代に入ってSF映画の本格的なブームが到来するが、その象徴とも呼ぶべき作品がこの『宇宙戦争』だった。 そもそも、フランスが生んだ映像の魔術師ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(’02)や、ドイツの巨匠フリッツ・ラングによる『メトロポリス』(’26)、H・G・ウェルズ自らが脚本を書いたイギリス映画『来るべき世界』(’36)など、ヨーロッパではサイレントの時代から正統派のSF映画が脈々と作られてきた。しかし、一方のハリウッドへ目を移すと、純然たるSF映画は戦後まであまり見当たらなかったと言えよう。 ざっくりとSF映画にジャンル分けされる当時のアメリカ映画を振り返っても、例えば子供たちに人気を博した『フラッシュ・ゴードン』(’36)シリーズや『バック・ロジャーズ』(’39)シリーズなどは基本的にヒーロー活劇だし、『フランケンシュタイン』(’31)や『キング・コング』(’33)などもSFというよりはモンスター・ホラー、『失はれた地平線』(’37)や『明日を知った男』(’44)辺りになると完全にファンタジーである。しかも、一部を除いて大半は低予算のB級映画で、空想科学(Science Fiction)の「科学」だってないがしろにされがち。要するに、SFというジャンル自体がハリウッドでは成立しづらかったのである。 しかし、第二次世界大戦後になるとテクノロジーの飛躍的な進化とともに、アメリカ国民の宇宙開発や最先端科学への関心も急速に高まっていく。もはや、科学をおろそかにした空想科学映画は通用しない時代になりつつあった。そうした世相を背景に、いち早く本格的なSF映画として勝負に打って出たのが、ハリウッドにおける特撮SF映画のパイオニアであるジョージ・パルが製作した『月世界征服』(’50)。これはハリウッド史上初めて科学的根拠に基づいて宇宙旅行を描いたSF映画であり、大々的な宣伝キャンペーンも功を奏してスマッシュ・ヒットを記録、アカデミー賞の特殊効果賞やベルリン国際映画祭の銅熊賞を獲得するなどの高い評価を得た。 さらに、その翌年にはエイリアンの地球侵略を題材にした『遊星よりの物体X』(’51)と『地球の静止する日』(’51)が相次いで大ヒット。当時のアメリカでは東西冷戦の緊張の高まりを背景に、自国がソビエトによって侵略されるかもしれないとの不安が広まり、それがジョセフ・マッカーシー上院議員の扇動する共産主義者への人権弾圧、いわゆる「赤狩り」のパラノイアを生み出したわけだが、これらのSF映画はそうした社会不安の時代に上手くマッチしたのだろう。 以降、ハリウッドのSF映画はエイリアンによる地球侵略物を中心に盛り上がり、たちまち「SF映画黄金時代」の様相を呈してく。その空前とも言えるブームの頂点を極めた作品が、『月世界征服』と『地球最後の日』(’51)に続いてジョージ・パルがプロデュースした『宇宙戦争』だったのである。 SF映画の歴史を変えた製作者ジョージ・パル ジョージ・パルはもともとハンガリー出身のアニメーション作家。ナチス・ドイツの台頭を逃れてアメリカへ移住し、友人だったアニメーター、ウォルター・ランツ(ウッディー・ウッドペッカーの作者)の助けで米国籍を取得してパラマウントで働くようになる。アメリカではドイツ在住時代に自身が開発した人形アニメ、パル・ドールの技術を改良し、子供向けの御伽噺を映像化した短編ストップモーション映画「パペトゥーン」シリーズを’42~’47年にかけて製作。その功績が評価され、’44年にはアカデミー特別賞を獲得した。 その一方で実写劇映画への進出を目論んでいたパルは、イギリスの映画会社ランクオーガニゼーションのアメリカ支社に当たるイーグル=ライオン社の出資を取りつけ、2本の実写映画を立て続けに制作する。それがパペトゥーンの技術を生かしたコメディ映画『偉大なルパート』(’50)と、先述したSF特撮映画『月世界征服』。この成功を足掛かりに、パルはパラマウントで『地球最後の日』を制作するのだが、しかしSFジャンルに懐疑的なスタジオ側は十分な予算を与えず、パルにとっては不本意な仕上がりとなってしまう。そんな彼が次に取り組んだ企画が、SF小説の大家H・G・ウェルズの代表作『宇宙戦争』の映画化だった。 1897年にイギリスの雑誌「Pearson’s Magazine」に連載されたH・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』は、その後アメリカの「New York Evening Journal」でも連載されて大評判となり、後世のSF小説に多大な影響を及ぼすことになった。ハリウッドでは1924年にパラマウントの社長ジェシー・ラスキーが映画化権を獲得。しかし、具体的に映画化されることなく歳月が流れ、その間にセシル・B・デミルやアルフレッド・ヒッチコックらが関心を示すものの実現はしなかった。あのレイ・ハリーハウゼンも『宇宙戦争』の映画化を切望し、テスト・フィルムまで製作してジェシー・ラスキーに売り込んだが、出資者が見つからずに頓挫した。唯一の例外は、1938年のハロウィンに放送されてアメリカ中に衝撃を与えた、鬼才オーソン・ウェルズの脚色・演出・ナレーションによるラジオ・ドラマ版だ。あまりにも真に迫った内容だったため、本当に宇宙人が攻めてきたと勘違いした全米のリスナーがパニックを起こしてしまったのである。 閑話休題。とりあえず『宇宙戦争』の映画化権がパラマウントにあると知ったジョージ・パルは、数々のフィルムノワール作品で知られるバー・リンドンに脚色を依頼し、それを携えてパラマウントの重役に企画を売り込むものの、その場で脚本をゴミ箱に捨てられてしまったという。脚本を読みもせず門前払いしようとする重役に食ってかかったパルだったが、その騒ぎを聞いて仲裁に駆け付けた別の重役が映画化を約束。最終的に200万ドルという莫大な予算を与えられることになるものの、このエピソードだけでも当時のハリウッドの大手スタジオが、SF映画をどれだけ過小評価していたのかよく分かるだろう。 宇宙人の地球侵略に人類はどう対抗するのか…!? 原作の舞台設定はビクトリア朝時代のイギリスだが、ジョージ・パル版では現代の南カリフォルニアへと変更されている。ある日、世界各地で隕石が飛来。カリフォルニアの小さな町にも隕石が墜落し、たまたま近くにいた高名な科学者フォレスター博士(ジーン・バリー)は、ロサンゼルスからやって来た科学研究所パシフィック・テックの職員シルヴィア(アン・ロビンソン)らと共に、隕石の調査をすることとなる。ところがその翌晩、隕石の中から不気味なアーム状の物体「コブラ・ヘッド」が飛び出し、駆けつけた州兵や科学者、マスコミ関係者へ対して攻撃を始めるのだった。 すぐさま近隣の米軍が総動員されるものの、しかしコブラ・ヘッドから放たれるビーム光線の強大な破壊力には敵わない。そればかりか、コブラ・ヘッドの下からUFO状の飛行物体「ウォー・マシーン」が出現。総攻撃を仕掛ける軍隊だったが、透明シールドに守られたウォー・マシーンはビクともせず、遂には最前線の基地が木っ端みじんに破壊されてしまう。辛うじて脱出したフォレスター博士とシルヴィアだったが、飛び乗ったセスナ機が途中で墜落してしまい、急いで逃げ込んだ民家でエイリアンに遭遇する。 シルヴィアに襲いかかったエイリアンを斧で撃退したフォレスター博士。そこで敵の血液サンプルと偵察用カメラを手に入れた2人は、ロサンゼルスのパシフィック・テック本部にそれを持ち込み、エイリアンを迎え撃つ策を練る。しかし、既に世界各地の都市が陥落しており、ロサンゼルスが敵の攻撃に晒されるのも時間の問題。そこで米政府は、最終兵器である原子力爆弾の使用に踏み切るが、期待も空しくまるっきり歯が立たなかった。いよいよロサンゼルスへと迫りくるウォー・マシーン軍団。果たして、このままアメリカ西海岸もエイリアンの手に堕ちてしまうのか…!? 企画段階ではレイ・ハリーハウゼンも関わっていた…? 本作が成功した最大の要因は、火星人による地球への侵略という突拍子もない設定を大真面目に捉え、当時の科学的知識や軍事的戦略をしっかりと織り交ぜることで、それまでのSF映画にありがちな荒唐無稽を極力排した、シリアスな「戦争映画」として仕上げている点にあるだろう。第一次世界大戦と第二次世界大戦のモノクロ記録映像で幕を開けるオープニングなどはまさにその象徴。さらに、まるで本物の天体写真かと見紛うばかりに精密な火星や土星などのマットペイントを駆使し、高度な文明を有しながらも感情を持たない火星人が、どのような事情で故郷の惑星を捨てて地球への侵略計画を進めてきたのか、ドキュメンタリーさながらのリアリズムで丹念に説明をする。これがまた、にわかに信じがたい物語に独特の説得力を持たせるのだ。 ちなみに、このマットペイントを担当したのが、フランスのルシアン・ルドーと並ぶ「現代スペース・アートの父」と呼ばれ、その作品がアメリカの国立航空宇宙博物館にも展示されている有名な画家チェズリー・ボーンステル。彼はオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(’40)や『偉大なるアンバーソン家の人々』(‘42)のマットペイントも手掛け、ジョージ・パルとは『月世界征服』と『宇宙征服』(’55)でも組んでいる。 また、特殊効果マン出身のバイロン・ハスキンを監督に起用したのも正解だった。ワーナー・ブラザーズで『真夏の夜の夢』(’35)や『女王エリザベス』(’39)、『シー・ホーク』(’40)などの特殊効果を手掛け、アカデミー賞にも4度ノミネートされた実績のあるハスキンは、当時の原始的な技術を用いた本作の特撮シーンを、いかにリアルかつスペクタクルに見せるかという演出のツボを心得ている。中でも、爆撃によって立ち込める煙の中から「ウォー・マシーン」がゆっくりと姿を現すシーンなどは、ミニチュアを吊り下げる無数のピアノ線を煙で隠すという本来の目的を果たしつつ、人類の英知を結集した武器をもってしても敵わない「ウォー・マシーン」の無敵感と恐怖感を存分に煽って効果的だ。 そのウォー・マシーンをデザインしたのは、セシル・B・デミルも御贔屓だった日系人美術デザイナーのアル・ノザキ。H・G・ウェルズの原作では三脚型のトライポッドとして描かれ、スピルバーグ監督のリメイク版もそれに準じているが、本作では技術的な問題からUFO型の飛行物体へと変更された。原作と違うのはウォー・マシーンだけではない。火星人のキャラクター・デザインも同様だ。ウェルズの描いた火星人はタコに似た姿をしていたが、実物大の着ぐるみとして登場させるため、やはりアル・ノザキが独自に火星人をデザインし、特殊メイク・アーティスト兼スーツ・アクターのチャーリー・ゲモラが着ぐるみを制作した。 なお、先述したレイ・ハリーハウゼンのテスト・フィルムでは、原作通りのタコ型エイリアンがストップモーション・アニメで描かれている。そもそも実は、ジェシー・ラスキーに売り込んだ『宇宙戦争』の企画が頓挫した後、『月世界征服』を見たハリーハウゼンはジョージ・パルのもとへテスト・フィルムを持ち込んでいるのだ。しかし当時、既にパルは『宇宙戦争』の映画化をパラマウントと交渉中だったのだが、そのことをハリーハウゼンには隠して企画資料とテスト・フィルムを受け取ったという。さらに、パルは映画『親指トム』の企画売り込みに例のテスト・フィルムを使いたいとハリーハウゼンに持ち掛け、実現した暁には彼にストップモーション・アニメを担当させることまでほのめかしたそうだ。 しかし、そのまま何カ月も音沙汰がなく、ようやくかかってきた電話でパルは、『宇宙戦争』も『親指トム』も売り込みに失敗したとハリーハウゼンに告げたという。それが’51年のこと。ところがどっこい…である。その2年後にジョージ・パル製作の『宇宙戦争』が公開され、さらに7年後には『親指トム』も映画化された。まあ、映画の企画というのは実現までに紆余曲折あるのが当たり前なので、決してパルがハリーハウゼンを騙して利用したというわけではないのだろうが、それにしても皮肉な話ではある。 かくして、’53年7月29日に公開されたジョージ・パル版『宇宙戦争』は、スタジオの期待を遥かに上回るほどの大ヒットを記録し、アカデミー賞でも特殊効果賞を獲得。これを機にディズニーの『海底二万哩』(’54)やワーナーの『放射能X』(’54)、ユニバーサルの『宇宙水爆戦』(’55)、MGMの『禁断の惑星』(’56)など、各メジャー・スタジオが次々と本格的なSF大作を手掛けるようになり、ブームが一気に加速することとなったわけだ。といっても、もちろん低予算のB級作品の方が数的には遥かに多かったのだけれど。 ちなみに、先述したようにウォルター・ランツと親友だったジョージ・パルは、恩人でもあるランツが生み出したアニメ・キャラ、ウッディー・ウッドペッカーを、いわばラッキー・チャーム(縁起物)として自作に登場させることが多い。この『宇宙戦争』も御多分に漏れず。最初に隕石が墜落する夜の森林シーンで、画面中央に位置する木のてっぺんをよく見ると、ウッディらしき鳥の姿が確認できる。■ 『宇宙戦争(1953)』(C) Copyright 2020 Paramount Pictures Corporation. All rights reserved.
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NEWS/ニュース2020.06.01
「ヤング・ソウル・レベルズを探してー。」ザ・シネマメンバーズにて、 台湾青春映画7作品を配信
ザ・シネマメンバーズ、エリック・ロメール9作品の次のラインナップは、台湾の3人の映画作家による青春映画7本。 「青春神話」【ヤング・ソウル・レベルズを探して】 独特な夜の湿度や気怠い空気感、儚い光のなかで描かれるのは、行き場のない苛立ち、未来に対するそこはかとない不安や、抱え持った不満と閉塞感だ。ある作品ではそれはポップに表現され、ある作品ではやりきれない結末を迎える。うまくいかないことばかりだけれど、懸命に生きている若者たち。今を少しだけ変えたい。そんな衝動が形作っていく物語たち。➣観るにはこちら 第一弾は、最新作の「あなたの顔」が公開される、ツァイ・ミンリャンの初期3部作。 「青春神話」【まなざしについて】エリック・ロメールの作風から一転して、ニコリともしない、全く異なるトーン。そう見えるかもしれないが、シンプルなストーリー、BGMをほとんど使わない、グリッドを意識した構図、さらには生々しく向けられているカメラといった共通項がある。ロメールのような軽やかさやお洒落なモチーフは一切ないのだが、ロメールを9作品観た後の目でツァイ・ミンリャンの作品を見るとき、そのまなざしをより実感できるだろう。 そこに見えているものをどう見るのか。というところに個性があらわれるのだとしたら、ツァイ・ミンリャンは、だいぶ生々しく、そして容赦がない。じっと見ている。ずっと映している。例えばロメールの作品を観ているときに、「まさにそこで行われていることにカメラを向けて撮られているのだな。」みたいに感じることがあったと思うが、その感覚で観るのが、味わい方のひとつではないか。ツァイ・ミンリャンのまなざしを味わおう。➣観るにはこちら 「愛情萬歳」【楽しむこと】作品はどれもシンプル。淡々と描かれるストーリーは実にストイックで、時に匂いがキツいと思うかもしれない。が、ロメールと同じで、そこに見えていること以上の意味を求めなくていい。作品全体を見終わった後に残る感情と思い出されるイメージが全て。で良いのではないか。雨のよく降る日本の夏とツァイ・ミンリャンの映画の持つ質感との組み合わせを是非試してもらいたい。もちろん、この相性をお気に召さなくても大丈夫。エリック・ロメールの9作品は今も全て配信中で、好きな時に、何度でも楽しめる。甘いものとしょっぱいものを交互に楽しむように観るのもいい。(ロメールも決して甘くはないのだけれども)➣観るにはこちら第二弾は、この機会に是非観て欲しいチェン・ユーシュン初期2作、そして、見逃していた方も多いであろう、エドワード・ヤンの「台北ストーリー」と、もはやマスターピースである「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」。【笑顔の異端児】ツァイ・ミンリャンとは好対象に、思い切りカラフルでポップな作品を撮っているのが、チェン・ユーシュン。 「熱帯魚」例えば「熱帯魚」は、ツァイ・ミンリャンの「青春神話」と同じく、受験を前にした少年、訪れる偶然と出会いと出来事、それを通過したことによってこの先、なにかが決定的に変わってしまうだろうという予感が描かれるが、これら2つの作品は全く異なる方向へ振り切られた表現となっている。チェン・ユーシュンの作品は、親しみやすいのだが、そこにあるのは、やはり、現在や未来に対して抱いている、もやもやとしたものへの反抗なのだ。そして、特に「ラブゴーゴー」は、詳細は控えるが、人懐っこいビジュアルに油断していると、完全にノックアウトされる傑作なので、絶対に表面的なルックで敬遠することなかれ。➣観るにはこちら 「ラブゴーゴー」【マスターピース】言わずと知れた台湾映画代表格のエドワード・ヤン。今回は、長編2作目にあたる「台北ストーリー」と、彼の名を世界的に知らしめた、「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」の2本をお届けする。エルビス・プレスリーの「Are you lonesome tonight?」の歌詞の引用で、”A Brighter Summer Day”という英語の題名がつけられているということを覚えておくと、「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」は、より味わいが深くなる。➣観るにはこちら 「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」よく晴れた夏の日に、想いがさまよっている。あなたは孤独なのですか?という青い感覚は、今回のどの作品にも共通するテーマのようにも思える。 「台北ストーリー」過ぎ去っていくことへ哀惜、ある季節の終わりを知る時の痛みを伴った空気を、今年の夏、この作品群を観て思い出しませんか?■ ★ザ・シネマメンバーズにて日本最速独占配信(※印の作品を除く) ➣観るにはこちら 【7月配信開始】・青春神話・愛情萬歳・河 【8月配信開始】・熱帯魚・ラブゴーゴー・台北ストーリー※・牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件※ 「青春神話」©Central Motion Picture Corp. All rights reserved.「愛情萬歳」©Central Motion Picture Corp. All rights reserved.「熱帯魚」©Central Pictures Corporation「ラブゴーゴー」©Central Pictures Corporation「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」© 1991Kailidoscope「台北ストーリー」© 3H productions ltd. All Rights Reserved「河」©Central Motion Picture Corp. All rights reserved.
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COLUMN/コラム2019.11.01
チャック・ノリス・ブームの頂点を極めた名作クライム・アクション
‘80年代を代表するB級アクション映画スター、チャック・ノリスが、まさにその全盛期の真っただ中に放った大ヒット作であり、多くのファンが彼の最高傑作と太鼓判を押すクライム・アクションである。まあ、それもそのはず。既にご存じの映画ファンも少なくないとは思うが、もともと本作はクリント・イーストウッドのために用意された企画だった。 オリジナル脚本を書いたのは、マイケル・バトラーとデニス・シュリアックのコンビ。当時、イーストウッド主演のアクション映画『ガントレット』(’77)の脚本を手掛けた2人は、それに続く『ダーティ・ハリー』シリーズ第4弾として、本作の企画をイーストウッドに提案する。つまり、チャック・ノリス演じる主人公エディの原型はハリー・キャラハンだったのだ。当初はイーストウッド本人も関心を示していたそうだが、しかし出来上がった脚本がお気に召さなかったのだろう、しばらくすると連絡が途絶えてしまい、企画そのものがお蔵入りとなる。 その後、バトラーとシュリアックは西部劇『ペイル・ライダー』(’85)で再びイーストウッドと組むことになるのだが、その直前に2人が脚本に携わったのがクリス・クリストファーソン主演の犯罪ドラマ『フラッシュポイント』(’84)。その際、友人の製作者レイモンド・ワグナーから、クリストファーソン主演で本作の映画化をという提案があったらしいのだが、それがいつの間にかチャック・ノリス主演の企画として始動していたのだそうだ。 ただし、実際に映画化された脚本にはバトラーとシュリアックの2人は一切タッチしていない。2人の書いたオリジナル脚本をリライトして、最終的な決定稿を仕上げたのは名作『チャイナ・シンドローム』(’77)でオスカー候補になったマイク・グレイである。本作の演出に起用されたアンドリュー・デイヴィス監督は、無名時代に世話になって気心の知れた恩人グレイに脚本の書き直しを依頼。監督の生まれ育ったシカゴが舞台ということで、彼自身のアイディアも多分に盛り込まれているという。 主人公はシカゴ市警の腕利き警部エディ・キューサック(チャック・ノリス)。犯罪を憎み不正を絶対に許さない、頑固だが実直な刑事である。そんなエディが陣頭指揮を執っていたのが、ルイス・コマチョ(ヘンリー・シルヴァ)率いる南米系麻薬組織コマチョ一家の検挙。タレコミ屋をおとりに使ってコマチョ一家との麻薬取引をセッティングし、その現場へ警官隊が乗り込んで一網打尽にする手筈だったが、こともあろうか第三者のギャング組織が先回りして乱入。タレコミ屋を含む取引関係者が皆殺しにされ、大量の麻薬と現金が奪われてしまったのだ。 この急襲作戦を実行したのが、コマチョ一家と敵対する組織のボスであるトニー・ルナ(マイク・ジェノヴェーゼ)。トニーは裏社会の大物スカリース(ネイサン・デイヴィス)の甥っ子で、その御威光を笠に着て無茶ばかりするような男だった。まんまと成功したかに思えた横取り作戦だったが、しかし現場で殺したはずのルイスの実弟ヴィクター(ロン・ヘンリケス)が、実は生き延びていたことが判明。自分の犯行であることがバレるのも時間の問題と察したトニーは、子分たちに家族の警護を指示したうえで、荷物をまとめて高飛びする。 一方、思わぬ邪魔が入って作戦が失敗し、上司ケイツ署長(バート・レムゼン)から大目玉を食らうエディ。しかも、銃撃戦の際に飲んだくれの老いぼれ刑事クレイギー(ラルフ・フーディ)が、無関係の少年を射殺してしまったことも大問題となる。一貫して正当防衛を主張するクレイギーだが、実はこれ、丸腰の少年を誤って撃って慌てた彼が、いつも足元に隠し持っている護身用の拳銃を少年の手に握らせ、偽装工作を図ったもの。その一部始終を相棒の新米刑事ニック(ジョー・グザルド)が目撃していたが、しかし現場責任者であるエディに真実を言い出せないでいた。 なぜなら、同僚の不始末を庇うのは警察内における暗黙のうちの了解。いわゆる「沈黙の掟(=本作の原題Code of Silence)」だ。これを破れば署内で居場所がなくなってしまう。妻子を抱えたニックにとっては死活問題だ。以前からクレイギーの飲酒癖を問題視していたエディは、そうした事情を直感で察するものの、真実を告白するもしないもニックの良心に任せる。 ひとまず公聴会までクレイギーが停職処分となったため、ケイツ署長の指示でニックはエディとコンビを組むことに。すぐに2人はトニーが主犯であることを突き止め、高飛びした彼の行方を探ると同時に、宿敵コマチョ一家の動向も監視する。すると、コマチョ一家はトニーの留守宅を襲撃して家族を皆殺しに。たまたま仕事中で難を逃れた一人娘ダイアナ(モリー・ヘイガン)にも刺客が差し向けられる。間一髪のところでダイアナを保護し、引退した先輩テッド(アレン・ハミルトン)に彼女を預けるエディ。しかし、そこへもコマチョ一家の魔手が迫り、ダイアナは誘拐されてしまう。 ダイアナの命を助けたければ、トニーを探し出して連れてこいとルイスから言い渡されるエディ。ところが、公聴会でクレイギーに不利な証言をしたため、警察では誰一人としてエディに力を貸す者はなかった。唯一の協力者は、脚を怪我して現場を離れた親友刑事ドレイト(デニス・ファリーナ)のみ。かくして、ほぼ孤立無援な状態のまま、エディはダイアナを救出するため、コマチョ一家と対峙せねばならなくなる…。 シカゴへの愛情が溢れる豊かなローカル色も見どころ! プロの空手選手として無敵の実績を誇り、親交のあったブルース・リーの誘いで映画界へ足を踏み入れたチャック・ノリス。『フォース・オブ・ワン』(’79)や『オクタゴン』(’80)、『テキサスSWAT』(’83)といった低予算アクションで頭角を現した彼は、当時波に乗りつつあった映画会社キャノン・フィルムと初めて組んだ戦争アクション『地獄のヒーロー』(’84)が空前の大ヒット記録したことで、一躍ハリウッドのトップスターの座へと躍り出る。続く『地獄のヒーロー2』(‘5)や『地獄のコマンド』(’85)、そして『野獣捜査線』も全米興行収入ナンバーワンに。中でも、それまで批評家からは酷評されまくっていたノリスにとって、初めて真っ当な評価を受けた作品が本作だった。 実際、当時のチャック・ノリス主演作品の多くが、映画としては非常にビミョーな出来栄え。ぶっちゃけ、アクションはA級だけれど脚本はC級だよねと言わざるを得ない。出世作『地獄のヒーロー』にしてもそうだが、ストーリーがアクションを見せるための手段でしかなく、どうしてもご都合主義で安上がりな印象が否めないのだ。その点、本作はライバル組織同士の抗争に警察が絡むという三つ巴の対立構造がしっかりと練られており、なおかつ警察たるものの正義とモラルを問う明確なテーマも貫かれている。主人公エディとヒロインの、さり気ない心の触れ合いも悪くない。しかし、やはり一番の功績は、優れたB級アクション映画のお手本のようなアンドリュー・デイヴィス監督の演出であろう。 大都会シカゴのロケーションを最大限に生かすことで予算を抑え、あくまでもストーリーに重点を置きつつ、ここぞというピンポイントでダイナミックなアクションを挿入することで、テンポ良くスピーディに全体をまとめあげていく。その安定感のある職人技的な演出は、さながら名匠ドン・シーゲルのごとし。本作が初めてのメジャー・ヒットとなったデイヴィス監督は、続いて同じくシカゴで撮ったスティーヴン・セガール主演作『刑事ニコ/法の死角』(’88)も大成功させ、やがて『沈黙の戦艦』(’92)や『逃亡者』(’93)などの大型アクション映画を任されるようになる。 やはり最も印象に残るのは、ループと呼ばれるシカゴ名物の高架鉄道でロケされた追跡シーンであろう。実際に走行する車両の屋根へ役者を登らせたスタントも見もの。通常よりもスピードをだいぶ落としての撮影だったらしいが、それでもなお迫力は十分である。また、激しいカーチェイスの末にリムジンがクラッシュ&炎上するシーンは、これまたシカゴへ行ったことのある人ならお馴染み、市内に張り巡らされた多層道路の中でも最も有名なワッカー・ドライブの低層階でロケされている。この同じ場所は『ダークナイト』(’08)のクラッシュ・シーンにも使われているので、見覚えのある方も少なくないだろう。また、随所に出てくる警察署のオペレーター・ルームは、実際にシカゴ警察署本部で撮影されており、本物の刑事や職員も多数出演。こうした、普通なら撮影許可の下りにくい場所を使用できたのも、シカゴ出身で地元にコネの多いデイヴィス監督だからこそだったようだ。 ちなみに、主人公エディの親友ドレイト役のデニス・ファリーナ、サングラスをかけた同僚コバス役のジョセフ・コサラの2人も、当時シカゴ警察に勤務する現役の刑事だった。どちらも刑事を本職としながら、アルバイトで俳優の仕事もしていたらしい。ファリーナは本作の翌年、マイケル・マン製作のテレビドラマ『クライム・ストーリー』(‘86~’88)の主演に抜擢されたことで警察を辞職。プロの俳優として『ミッドナイト・ラン』(’88)や『スリー・リバーズ』(’93)、『プライベート・ライアン』(’98)など数多くの映画で活躍することになる。一方のコサラは「クレイジー・ジョー」のあだ名で知られたシカゴ警察の名物刑事だったらしく、プロの俳優には転向せず役者と刑事の二足の草鞋を履きつつ、定年まで勤めあげたそうだ。 ほかにも、本作はシカゴ出身の地元俳優が多数出演。もともとシカゴは、ニューヨークに次いで全米最大の演劇都市として知られ、ゲイリー・シニーズやジョン・マルコヴィッチなどを輩出した名門ステッペンウルフ劇団もシカゴが本拠地だった。ダイアナ役のモリー・ヘイガンも、彼女自身はミネアポリスの出身だが、当時はシカゴの劇団に所属して舞台に出演していた。暗黒街の大物スカリーセ役では、デイヴィス監督の実父ネイサン・デイヴィスが出演しているが、彼もまたシカゴ演劇界の重鎮だった人物。そのほか、刑事役やギャング役を演じている俳優たちもシカゴの舞台俳優で、その多くが本作をきっかけにデイヴィス監督作品の常連となる。そういう意味では、実にローカル色の強い作品なのだ。 なお、終盤で大活躍する警察ロボットは、コロラド州に実在した’83年創業のRobot Defense Systems Inc.という会社(’86年に倒産)が製作に協力。この「仲間に反感を買った刑事の新たな相棒がロボット」という設定は、マイケル・バトラーとデニス・シュリアックのオリジナル脚本の段階から存在したらしいが、恐らく本作で唯一賛否の分かれるポイントかもしれない。まあ、実際に開発した会社が本作の翌年に倒産しているのだから、あまり実用的とは言えない代物だったのだろう。■ 『野獣捜査線』© 1985 ORION PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2019.08.30
50歳のオードリー主演作は、 “妖精”への鎮魂歌⁉︎ 『華麗なる相続人』
「永遠の妖精」と呼ばれ、世界中の映画ファンを魅了した女優、オードリー・ヘップバーン(1929~93)。日本での人気も非常に高く、彼女のフルネームをもじった、「驚きコッペパン」などというダジャレを、多くの人々が日常的に口にしていたほどだ。 彼女が絶大なる人気を集めていたのは、『ローマの休日』(53)から『暗くなるまで待って』(67)まで、次々と名作・話題作に出演していた50~60年代に限った話ではない。『暗くなるまで…』以降は映画出演が途切れ、70年代には2本の作品にしか出演していないにも拘わらず、洋画雑誌の人気投票では、その時どきの旬の若手女優などと、常にTOPの座を競っていた。 この頃が、TVの「洋画劇場」の全盛時だったことも、大きかったと思われる。70年代後半に中坊だった我々は、『ローマの休日』『尼僧物語』(59)『マイフェアレディ』(64)『おしゃれ泥棒』(66)等々、池田昌子さんの吹替えで、ゴールデンタイムに頻繁にオンエアされるオードリー主演作にブラウン管で触れ、彼女の可憐な容姿と立ち居振る舞いに釘付けとなったものだ。 新作の製作・公開がなくとも…、いや失礼な言い方になるが、逆に新作のリリースがない分、“妖精”の魅力全開の頃の若い彼女こそが、我々にとって「リアルタイム」のオードリーであった。これこそ正に、一旦フィルムに焼き付けられた姿は年を取らない、“映画女優”のアドバンテージとも言える。 とはいえ、もちろん現実のオードリーは、齢を重ねる。彼女が40代後半になって、9年振りに銀幕復帰した『ロビンとマリアン』(76)が公開された際は、「オードリーも老けた」という声が上がると同時に、「年齢相応の輝きを放っている」という評価もされた。題材が、かの義賊ロビン・フッドと恋人マリアンの、「その後」の物語であったことや、相手役が、ジェームズ・ボンドを降りて老け役に挑むようになったショーン・コネリーだったことなども、プラスに作用したのであろう。人気投票の順位も、相変わらず高止まりであった。 そしてそれから更に3年、オードリーが50歳の時に公開されたのが、本作『華麗なる相続人』である。1979年という製作年を鑑みると、彼女の主演作として、正に万全の布陣で製作された作品だった。 原作は、シドニー・シェルダンが77年に発表した小説「血族」。シェルダンは70年代中盤から90年代まで、発表する作品のほとんどが“ベストセラー”となった、当代の流行作家であった。 多彩な人物が登場する彼の小説世界は、話の展開が早く先が読めないことが、人気を呼んでいた。ハリウッドで映画化された作品は、本作と『真夜中の向う側』(77)ぐらいだったが、TVドラマとしてシリーズ化された作品は、数多い。余談になるが、吉田栄作主演の「もう誰も愛さない」(91)など、90年代初頭に日本でブームになった、フジテレビの“ジェットコースタードラマ”は、明らかにシェルダンの小説及びアメリカでのそのドラマ化作品から、影響を受けていたものと思われる。 本作の監督を務めたのは、テレンス・ヤング。初期『007』シリーズの立役者として知られるヤングだが、オードリーとは浅からぬ縁がある。 第2次世界大戦中の大半を、オードリーはオランダのアルンヘルムで過ごし、終戦後はその郊外に在る傷病兵や退役軍人のための施設「王立廃兵院」で、ボランティアとして働いた。一方ヤングは、イギリス軍戦車部隊長として、アルンヘルム近郊で砲撃の指揮を執っており、その「廃兵院」で手当てをしてもらったこともあったという。 同じ場所で戦争を生き延びたという事実が、2人を結び付けて友情を育てたと言われる。それに加えて大きかったのは、ヤングが監督し、オードリーが長いブランクに入る直前に主演した、『暗くなるまで待って』という作品の成果であろう。 ブロードウェイでヒットした戯曲を映画化したこの作品で、オードリーは、悪漢に狙われる盲目の人妻を演じた。その役作りは高く評価され、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。 ヤングも70年代前半に受けたインタビューで、「(自作の中で好きなのは)いま作っている仕事をのぞいては『暗くなるまで待って』でしょうか。あれは、大衆的に大ヒットした映画であると同時に、世界中の映画人たちから、ほめてもらえた作品でした…」と語っている。ウィリアム・ワイラー、アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・フォード、デヴィッド・リーン、ジョン・フランケンハイマー、ジャン=ピエール・メルヴィル、フェデリコ・フェリーニ等々、錚々たる面々から絶賛され、ヤングにとっては、『007』の監督というイメージから脱け出すきっかけとなった作品だった。 そもそもオードリーが、そのフィルモグラフィーで複数の作品で組んだ監督は、4人しか居ない。ウィリアム・ワイラー、スタンリー・ドーネン、ビリー・ワイルダー、そしてテレンス・ヤング。彼女からヤングへの信頼が厚かったことが、『暗くなるまで…』から12年の歳月を経ての、『華麗なる相続人』での再タッグに繋がったわけである。 本作は実に国際色豊かな、オールスターキャストとなっている。イギリスからジェームズ・メイスン、フランスからモーリス・ロネとロミー・シュナイダー、ドイツからゲルト・フレーベ、ギリシャからイレーネ・パパス、エジプトからオマー・シャリフといった具合に。ある者はヤングのかつての監督作に出演した縁から、またある者は、オードリーと共演出来ることが決め手となって、この作品に参集した。 『華麗なる相続人』の物語は、大製薬会社の社長が登山中に、事故を装って殺害されたことから幕開けとなる。その巨額の財産を相続した、社長の一人娘エリザベスを演じるのが、オードリーである。 彼女にも殺人者の手が迫るわけだが、容疑者となるのが、件の国際的キャストが演じる、ヒロインの血縁者たち。それぞれが犯行の動機を持ち、そしてその内の誰かが、真犯人であるという趣向だ。 こうした物語が、まるで欧米デラックス・ツアーのようなロケ地を巡りながら展開する。アメリカ・ニューヨークから、ロンドン、パリ、ローマ、地中海のサルジニア島、スイスアルプスまで、世界各地で撮影が行われた。 加えて見ものなのが、オードリーが身に纏う、華麗なるジバンシィ・ファッション。『麗しのサブリナ』(54)『パリの恋人』(57)『ティファニーで朝食を』(61)などの作品で、オードリーとは切っても切り離せない関係であったファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィが、この作品でも彼女のために8点のドレスを提供している。 さてこれだけお膳立てを揃えた、“妖精”オードリー待望の、3年振りの最新主演作。いざ公開の段になってみると、批評家、一般観客双方から、見事にそっぽを向かれる結果となった。 はっきり言えば、色々と“無理”があったのだ…。 先にも記したが、シドニー・シェルダンの小説は、そのほとんどが映画化はされていない。膨大なキャラクターが登場し入り組んだ人間関係を展開する、その作品世界は、TVの連続ドラマには適しても、2時間前後でまとめ上げなければならない映画には、基本的に不向きなのである。 それ故映画化に当たっては、脚本の段階で換骨奪胎を目指すぐらい、相当な割愛と整理、再構成が必要になる。しかし本作の場合、良く言えばシェルダン原作持ち前の“ジェットコースター”のような展開で見せるが、悪く言えば、かなり粗雑なダイジェストとなってしまっている。この辺りテレンス・ヤングの腕をもってしても、如何ともし難い脚本だったのだろうか? 何よりも一番の“無理”は、オードリー主演に合わせて改変された、ヒロインの年齢設定。劇中で、殺された父親の歳が、64歳だったことが示されるが、誰もがその時点で「!?」となる。実年齢50歳のオードリー演じるエリザベスは、一体何歳という設定なのか?そもそも原作では、ヒロインは20代半ばだったのに…。 当初はジャクリーン・ビセットなど、当時30代の人気女優を主演に想定して、進められていた企画だった。しかしオードリーの起用によって、ヒロインは「年齢不詳」になってしまったのだ。この辺り資料によっては、オードリーの主演を喜んだ原作者のシェルダンが、主人公の年齢を「35歳」に変えたとも記述されている。 「年齢不詳」にしても「35歳」にしても、何だかな~という思いは、否めない。今回本作を再見してみて、近年の吉永小百合主演作品を鑑賞する際に抱くものと、同じような感慨を抱いた。前作の『ロビンとマリアン』では、せっかく年齢相応の役どころで評価されたのに、このあたり“女優”の性(さが)とでも言うべきなのか? 因みに本作は、製作当時2度目の結婚生活が暗礁に乗り上げていたオードリーには、新たなロマンスをもたらしたとも言われている。劇中でオードリーの相手役を務めるベン・ギャザラとは、“不倫”の関係だったという。オードリーとギャザラは本作の後すぐに、ピーター・ボグダノヴィッチ監督の『ニューヨークの恋人たち』(81/日本未公開)で再共演している。 …というわけで、オードリーを主演に、当時の大ベストセラーを国際的オールスターキャストで映画化した、『華麗なる相続人』。その楽しみ方を最後に提示して、〆とした。 有名ロケ地や豪華キャストを捉えた、名手フレディ・フランシスの美しい撮影、ジバンシィがデザインした艶やかな衣装などを、エンニオ・モリコーネの流麗な音楽をBGMに、まずは堪能する。その上で作品の展開に関しては、家族や友人などと“ツッコミ”を入れながら観るのが、モアベターな鑑賞法と言えるだろう。 また何だかんだ言っても、世界の映画史に燦然と輝く、“妖精”の1979年の姿を目の当たりにするだけでも、上映時間の116分を割く価値は十分にあると、私は考える。■