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PROGRAM/放送作品
ロイ・ビーン
流れ者が“法の番人”になり悪を裁く!ポール・ニューマンと巨匠ジョン・ヒューストンが贈る異色ウエスタン
巨匠ジョン・ヒューストン監督がユーモアを交えて描く痛快ウエスタン。流れ者から法の番人に転じた実在の判事ロイ・ビーンの生涯を、ポール・ニューマンら個性派俳優たちの競演で人間味豊かに織りなす。
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COLUMN/コラム2024.03.01
マックィーンvsニューマン『タワーリング・インフェルノ』=“そびえ立つ地獄”の頂に立ったのは!?
1975年=昭和50年。日本に於いてこの年は、現在60歳前後となっている私のような世代の映画ファンにとっては、特別な意味を持つ。 夏に超高層ビルの火災を描いた、『タワーリング・インフェルノ』(1974)、冬には人食い鮫の恐怖を描いた、『ジョーズ』(75)。いずれも本国よりは半年ほど遅れて公開されたアメリカ映画が特大ヒットとなり、“パニック映画”ブームが最高潮に達した。それと同時に、“超大作”が全国数百館のスクリーンを占めて一斉公開される、“ブロックバスター”の時代が、本格化していく。 我々の世代の多くは、リアルタイムでこれらの作品に魅せられたのがきっかけで、“映画少年”になった。人生の羅針盤が、ここで狂った者が少なくない…。 本作『タワーリング・インフェルノ』の企画の発端は、ハリウッド2大メジャーの“競合”からだった。ワーナー・ブラザースが「ザ・タワー」、20世紀フォックスが「グラス・インフェルノ(ガラスの地獄)」という、それぞれ超高層ビルの火災を描いた小説の原作権を、30~40万㌦もの大金を投じて、買い入れたのである。 2つの小説は、ビル火災発生の状況設定など類似点が多かった。そこで両メジャーの橋渡しに登場したのが、アーウィン・アレン(1916~91)。 アレンは、コロムビア大学でジャーナリズム学・広告学を専攻後、雑誌の編集、ラジオ番組の製作、コラムニスト、出版のエージェントなどを経て、映像業界へ。60年代にはプロデューサーとして、「宇宙家族ロビンソン」「タイム・トンネル」「巨人の惑星」などのSFドラマを手掛け、TVのヒットメーカーとなった。 映画界にその名を轟かせたのは、1972年に公開された、『ポセイドン・アドベンチャー』。大津波によって転覆した豪華客船からの決死の脱出劇を描いたこの作品は、世界中で大ヒットとなり、“パニック映画”ブームの先駆けとなった。 そのアレンが、ワーナーとフォックスに、無駄な競作を避け、両原作の良いところ取りをしたストーリーを組み立てて、共同製作をする話を提案したわけである。両社は73年10月に合意に達し、このプロジェクトに、合わせて1,400万㌦の巨費を投じることを決めた。 アレンは、『ポセイドン・アドベンチャー』で大成功を収めた方法論を以て、本作の製作に取り掛かる。~キャストには有名スターをズラリと揃え、彼ら彼女らを災害の渦中に放り込む~~特殊効果を駆使して、大勢のエキストラが命を落としていく中で、スターたちも次々と犠牲になる~~最終的に、スターの何人かが生還を果す~ 74年春、キャストが固まった。2大メジャーが手を組んだ以上のニュースとなったのが、2大スターの共演。それは、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンという組合せだった。 脇を固めるのも、ウィリアム・ホールデン、フェイ・ダナウェイ、フレッド・アステア、リチャード・チェンバレン、ジェニファー・ジョーンズ、シェリー・ウィンタース、ロバート・ヴォーン、ロバート・ワグナーといった、新旧取り合わせて豪華な面々。その一翼には、アメフトのスーパースターで、後に元妻殺しで“時の人”となってしまう、O・J・シンプソンも加わっていた。 これらのオールスターキャストが、いわゆる“グランドホテル形式”で、災害の中で様々な人間模様を繰り広げていくわけだが、何と言っても、耳目を浚ったのは、マックィーンとニューマン!当時としては、これ以上にない、ビッグなカップリングであった。 そして本作『タワーリング・インフェルノ』は、74年5月にクランク・イン。70日間の撮影へと突入した。 ***** サンフランシスコに、地上520㍍の偉容を誇る、138階建ての超高層ビル「グラスタワー」が完成。最上階のプロムナードルームには、上院議員や市長などのVIPをはじめとした300名を集め、落成記念パーティが開かれることとなった。「タワー」の設計者ダグ(演:ポール・ニューマン)は、これを機に施工会社を退職することを決意。婚約者のスーザン(演:フェイ・ダナウェイ)と、砂漠へと移り住む計画だった。 しかし電気系統の異常が起こったことから、ダグは自分が指定した仕様より安上がりな材料を使った、大規模な手抜き工事が行われていることを知る。ダグは施工会社の社長で、ビルのオーナーでもあるダンカン(演:ウィリアム・ホールデン)に、「タワー」オープンの延期を迫るが、相手にされない。 危惧は的中し、81階の配電盤のショートから出火。火は、徐々に燃え広がっていった。 オハラハン(演:スティーヴ・マックィーン)をチーフとする消防隊が出動する。火災の状況を見た彼は、ダンカンを半ば脅すように説得。最上階から賓客たちを、1階へと下ろすことを承知させた。 ようやく避難が始まる中で、それを嘲笑うように火の手は広がっていく。消防隊員を含めて犠牲者が増えていく中で、オハラハンとダグたちは、一人でも多くの命を救おうと、粉骨砕身の働きをするが…。 ***** 2つの小説からエキスを抽出して、1本のシナリオにしたのは、スターリング・シリファント。『夜の大捜査線』(67)でアカデミー賞脚色賞を受賞している彼は、『ポセイドン・アドベンチャー』で、ポール・ギャリコの原作をベースに、オールスターキャストによる、“パニック映画”の鋳型を作り上げた実績を買われての、起用である。 本作では、原作に書かれた、登場人物たちの絡みは極力簡略化。救助活動が行われている最中に、トラブルが起きて、その方法がダメになる。そこで新たな救助のやり方を見つけ出すが、まだダメになる。更に次の方法を見つけて…といった形で、アクションを伴ったハラハラドキドキの展開を、積み上げた。 監督に選ばれたのは、ジョン・ギラーミン。『ブルー・マックス』(66)『レマゲン鉄橋』(69)などの戦争映画で評価されていた。 と言っても本作は、4つのグループが同時にカメラを回すという、製作体制。ギラーミンは主に、ドラマ部分を担当。アクションパートを、プロデューサーのアーウィン・アレンが監督した他に、特殊効果班、空中シーン班が稼働した。 ミニチュアやセットなどを担当したのは、『ポセイドン・アドベンチャー』のスタッフ。ミニチュアと言っても、138階/520㍍の「グラスタワー」の模型は、33㍍の高さに及んだ。「タワー」が、サンフランシスコ市街の上方高くそびえ立っているように見せるためには、マットペインティングの特殊技術が併用されたという。 ロサンゼルスの20世紀フォックスのスタジオに在る、8つのサウンドステージには、57という記録的な数のセットが組まれた。その中には、宙づりになった展望エレベーターをヘリコプターで吊るシーンを撮るために作られた、4階分の高さの建物のセットなどもある。 CGなどない時代の、大火災の映画である。セットを実際に燃やしながら撮影しても、俳優の演技が良くない時がある。そうした場合のため、セットは1度火を付けても、後でまた使えるように、特殊建材を使った耐火仕様。NGが出ると、スタッフがすぐさま、壁を直してペンキを塗り替え、カーペットや家具、カーテンなどを新品に交換して、撮影が続けられた。 30万㌦を投じ、全長100㍍、1万1,000平方㍍に及ぶ最大級のセットが作られたのは、落成パーティの場となる、最上階のプロムナードルーム。クライマックスシーンの撮影のため、鉄柵で5㍍もある支柱を組み、その上にセットを組み立てた。4,000㍑もの水を一気に流した際に、スムースになだれ落ちる構造となっている。ネタバレになるが、このような作りにしないと、映画の内容と同じく、キャストが溺死する危険性があったという。 こうしたセットの中で、3,000人ものエキストラが右往左往。25名のスタントマンが、高層ビルの窓をぶち破って飛び降りたり、エレベーターのシャフトや階段の吹き抜けに転落したり、不燃性のボディスーツを着込んで火だるまになったりしたのである。 そんな大プロジェクトの頂点に居たのが、スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンだった。 マックィーンは1930年生まれ、ニューマンは4歳年長の26年生まれで、本作の頃は共に40代。アクターズ・スタジオ出身の2人は、TVやブロードウェイを経て、ハリウッド入り。60年代から70年代に掛けて、TOPの座を競い合ってきた。 とはいえ、「犬猿の仲」というわけではない。スピード狂でカーレーサーでもあるという共通の嗜好があり、また映画製作の場でスターが発言権を強めるためのプロダクション「ファースト・アーティスツ」の同志でもあった。 だが2人がそのキャリアを通じて、ライバル心を抱き合ってきたのも、紛れもない事実。特にマックィーンがニューマンに対して抱いてきた感情は、強烈なものだったと言われる。 ポール・ニューマンの出世作となったのは、実在のプロボクサーに扮した、『傷だらけの栄光』(57)。実はこの作品に、マックィーンも、出演している。 と言っても、日給19㌦で雇われた、エキストラに毛が生えた程度の役どころで、その名はクレジットもされていない。監督のロバート・ワイズ曰く、まだ無名の存在だったマックィーンの「精一杯の生意気な態度」が目を惹いたので、「ニューヨークの屋上の乱闘の場面での“小僧”の役」に付けたのである。 因みにワイズはこの9年後に、人気スターとなったマックィーンの主演作『砲艦サンパブロ』(66)を監督。時の流れを痛感したという。 ニューマンとマックィーンの次なる因縁は、『明日に向って撃て!』(69)。ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドという、19世紀末の西部に実在した2人組のアウトローを主役とするこの作品では、ニューマンの出演が早々に決定。その後共演者の候補として、マーロン・ブランドやウォーレン・ベアティ、マックィーンの名が挙がった。中でもニューマンが、特に共演を切望したのが、マックィーンだった。 実はニューマンとマックィーンのエージェントは、同一人物。そのエージェント、フレディ・フィールズは2人の共演を実現するために奔走するも、最終的に不調に終わる。マックィーンが自分の名を、ニューマンより先にクレジットすることにこだわったためだったと言われる。 結果的にマックィーンがやる筈だったサンダンス・キッド役には、ロバート・レッドフォードが抜擢され、作品の大ヒットと共に、一躍スターダムに。ニューマンとレッドフォードは、生涯を通じての親友ともなった。 因みに『明日に向って撃て!』が公開された翌70年、カリフォルニアのスピードウェイで、ニューマンとマックィーンの2人が、レースを見て楽しむ姿が、地元の9歳の少年に目撃されている。少年曰く、ニューマンがマックィーンに、『明日に向って撃て!』に出なかったことをくどくどと言及すると、マックィーンは「あんたはそれをもう一度俺に演らせる気は無いだろう!」と反論。そのやり取りの後、2人は突然少年の方を見て、ニヤリと笑ったという…。 さて『明日に向って撃て!』から5年経って、ようやく実現した、本作での本格的な共演。この作品へのコメントを見ると、ニューマンは、結構割り切って出演している感が強い。曰く、「この映画の本当の主役は火災だ」「この種の映画としてはいいできだった。できる限り素早くスター達を避難させ、スタントマンをつぎこんでね」 それに対してマックィーンのスタンスは、ちょっと違っていた。「最初シナリオを読んだ時は建築技師の役がいいと思ったけれど、途中で気が変わってね」 マックィーンが気に入ったのは、消防隊チーフのオハラハン。彼はずっと伸ばしていたお気に入りのヒゲを、役のために剃り落とした。そして、マックィーンが演じることで、元々はTOPから4番目だったオハラハンの役どころは、膨らんでいく。 本作の技術顧問である、本物の消防隊長とマックィーンの打合せ中に、近隣の映画スタジオで、本物の火災が発生した。参考になるからと、現場へと向かう消防隊長に同行。実地見学に赴いた際、ヘルメットと消防服を身に纏って、マックィーンは、放水を手伝ったという。 監督のギラーミンは、マックィーンから、自分が被るヘルメットが、イギリスの警官のように見えるので、どうにかして欲しいと言われ、困惑したことがあった。偶然にも撮影が始まる前夜、ギラーミンが食事に出掛けた先で、古風な消防士用のヘルメットを見つけたので持ち帰り、マックィーンに試着させた。すると気に入ってくれたので、ホッと胸を撫で下ろすという一幕もあった。 脚本に関しても、一悶着あった。マックィーンが自分のセリフの数をカウントして、ニューマンより12個も少ないことを発見。プロデューサーに電話して、セリフを増やすことを要求してきたのである。 そのため、休暇で海に出ていた脚本家のシリファントは、突然陸へと呼び戻された。彼はマックィーンの要求通り、セリフを12個増やしたという。 そして再び、ニューマンとマックィーンの共通のエージェント、フレディ・フィールズの出番が、やって来る。彼がプロデューサーのアレンと論議になったのは、ポスターなどで、2人の大スターの名前の配列を、どうするのか!? 最終的にまとまったのは、TOPにはマックィーンの名を置くということ。但し、その右側にクレジットされるニューマンの名は、マックィーンよりも高い位置に置いて、同格の主演であることを表す。 ともあれマックィーンは、ニューマンよりも先にクレジットされるという、長年の宿願を果した形になった。 2人は出演料100万㌦に加えて、総収益の7.5%の歩合という、まったく同じ条件で本作に出演。最終的には、1,000万㌦程度を手にしたという。しかしマックィーンにとって本作は、その大金以上に価値のあるものを手にした作品と言えるかも知れない。 因みに本作には、若い消防士役でニューマンの長男である、スコット・ニューマンが出演。マックィーンとの共演シーンもある。当初マックィーンは、ライバルの息子の面倒を見ることを嫌がったが、途中からスコットのことを気に入り、彼のセリフを増やすことまでOKした。その背景にも、こんな事情があったからかも知れない。 本作『タワーリング・インフェルノ』は、『ポセイドン・アドベンチャー』以上の大ヒットとなり、アーウィン・アレンは、「パニック映画の巨匠」と呼ばれる存在となった。また監督のジョン・ギラーミンも、『キングコング』(76)や『ナイル殺人事件』(78)など、大作を任される監督として、暫し君臨する。 しかしながらこの2人のキャリアのピークは、やはり本作であったと言えるだろう。アレンはその後、自ら監督まで手掛けた『スウォーム』(78)『ポセイドン・アドベンチャー2』(79)が連続して、大コケ。それならばと製作に専念し、ポール・ニューマンやウィリアム・ホールデンを再び招いた『世界崩壊の序曲』(80)で、キャリアのトドメを刺される。ギラーミンも80年代に入ると、低予算のB級作品やTVムービーの監督へと堕していく。 そしてまた、マックィーンのキャリアも、結果的にここがピークとなってしまった。本作に続いては、ヘンリック・イプセンの戯曲を映画化した『民衆の敵』(76)の製作・主演を務めたが、アメリカ本国ではまともに公開されないという結果に終わる(日本では83年までお蔵入り)。 その後『未知との遭遇』(77)や『恐怖の報酬』(77)『地獄の黙示録』(79)等々、様々なオファーが舞い込むも、すべて拒否。彼の雄姿は、名画座やTV放送などの旧作でしか見られなくなった。 待望の新作が公開されたのは、80年。西部劇の『トム・ホーン』、そして現代の賞金稼ぎを演じた『ハンター』が、相次いで公開された。ところがこの年の11月、彼はガンのために、50歳の若さで、この世を去ってしまったのだ。 ニューマンは60を過ぎて、『ハスラー2』(86)で、待望のアカデミー賞を受賞する。マックィーンは生涯手にすることがなかったオスカー像を、遂に手にしたのだ。 そしてニューマンは、70代までは第一線で活躍。2008年に、83歳でこの世を去った。 そんなことも考え合わせながら、1974年当時は未曾有の超大作だった本作を観るのも、長年の映画ファンとして、また感慨深かったりする。■ 『タワーリング・インフェルノ』© 1974 Warner Bros. Ent. All rights reserved. © 2023 Warner Bros. Ent. All rights reserved.
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PROGRAM/放送作品
タワーリング・インフェルノ
スティーヴ・マックィーン、ポール・ニューマンを筆頭にオールスター競演で描くパニック映画の金字塔
スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンそれぞれの主演作として進行していた、ワーナーとFOXのビル火災パニックの別企画が途中で合体した、奇跡的な大作。70年代パニック映画の最高傑作。
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COLUMN/コラム2022.11.02
あなたもまんまと騙される!? 詐欺師たちの逆転リベンジを描いた痛快な傑作コメディ『スティング』
詐欺師コンビによる大胆不敵なハッタリ計画とは? 創業から110年の歴史を誇るハリウッドで最古のメジャー映画スタジオ、ユニバーサル。主に低予算のB級映画を量産していた同社は、それまでに幾度となく浮き沈みを経験してきたわけだが、’50年代に入ってスタジオシステムが崩壊すると倒産寸前の経営危機に陥り、大手タレント・エージェントから総合エンタメ企業へと成長したMCAに買収される。このMCAによるテコ入れで事業を拡大したユニバーサルだが、しかし本業の映画部門は20世紀フォックスやパラマウントなどの他社に後れを取ってしまい、主に『ヒッチコック劇場』や『ララミー牧場』、『刑事コロンボ』といったテレビ・ドラマで稼ぐようになる。 そんな老舗ユニバーサルに『西部戦線異状なし』(’30)以来の43年ぶりとなるアカデミー作品賞(合計7部門獲得)をもたらし、同年に公開されたジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』(’73)と共に興行的にも大ヒットを記録。ユニバーサル映画部門の本格的な復興に一役買うことになった名作が、痛快軽妙に詐欺師の世界を描いた傑作コメディ『スティング』(’73)だった。 舞台は1936年9月、米国民が未曽有の経済不況に喘いだ大恐慌下のシカゴ。詐欺で日銭を稼ぐ貧しい若者ジョニー・フッカー(ロバート・レッドフォード)は、師匠であるベテラン詐欺師のルーサー(ロバート・アール・ジョーンズ)と組んで、違法賭博の売上金をまんまと騙し取ることに成功する。これまで見たことのない大金を手にして浮かれるフッカー。恋人のストリッパー、クリスタル(サリー・カークランド)を誘って意気揚々と夜遊びに出かけたフッカーだが、しかし欲を出して場末のカジノでひと儲けようとしたところ、騙されて有り金を全てスってしまう。 その帰り道、天敵である悪徳刑事スナイダー(チャールズ・ダーニング)から、違法賭博の元締めがドイル・ロネガン(ロバート・ショー)だと知らされる。表向きは裕福な銀行家のロネガンだが、その裏の顔は裏社会を牛耳る冷酷非情な大物ギャング。これはヤバイ!と慌てるも時すでに遅く、師匠ルーサーはロネガンの差し向けた殺し屋に殺害され、自らも命を狙われるフッカーは逃亡せねばならなくなる。 そんなフッカーが転がり込んだのは、ルーサーの古い仲間ヘンリー・ゴンドーフ(ポール・ニューマン)。その世界では名の知られた伝説的な凄腕詐欺師だったが、ある事件でヘマをしたことから一線を退き、今は遊園地や酒場を経営する女性ビリー(アイリーン・ブレナン)のヒモをしていた。なんとしてでもロネガンに復讐し、ルーサーの仇を取りたいと鼻息を荒くするフッカー。その心意気を買ったゴンドーフは、ロネガンを騙して大金を巻き上げるべくひと肌脱ぐことにする。 すぐさま詐欺計画のブレインを招集したゴンドーフ。業界に顔の広い策略家キッド・ツイスト(ハロルド・グールド)に裏社会の情報収集に長けたJ.J.(レイ・ウォルストン)、普段は銀行員として働くエディ(ジョン・ヘフマン)が集まり、大勢の詐欺師仲間を動員した大規模な劇場型のイカサマを計画することとなる。その一方、事件の匂いを嗅ぎつけたFBI捜査官ポーク(ダナ・エルカー)がスナイダー刑事と組んで、ゴンドーフとフッカーの周辺を探り始める。果たして、一世一代の詐欺計画は成功するのだろうか…!? 実在した詐欺師たちからヒントを得たストーリー 才能はずば抜けているものの人間的に未熟な駆け出しの詐欺師と、頭脳明晰で手練手管に長けたベテラン詐欺師がコンビを組み、悪事の限りを尽くす強欲な大物ギャングから大金を巻き上げてギャフンと言わせるというお話。軽妙洒脱でユーモラスなジョージ・ロイ・ヒル監督の職人技的な演出も然ることながら、細部まで入念に計算されたデヴィッド・S・ウォードの脚本が文句なしに素晴らしく、悪漢ロネガンばかりか観客までもがまんまと騙されてしまう。社会のはみ出し者である詐欺師たちが力を合わせ、大物ギャングや警察など権力者たちの鼻を明かすという筋書きもスッキリ爽快。この負け犬の意地を賭けた逆転勝負というのは、監督・脚本を兼ねた『メジャーリーグ』(’89)にも通じるウォードの持ち味だが、中でも本作はアカデミー脚本賞に輝いたのも大いに納得の見事な出来栄えである。 そのウォードが本作のアイディアを思いついたのは、処女作『Steelyard Blues』(’73)の脚本を書くためのリサーチをしていた時のこと。同作で描かれるスリ犯罪について調べていた彼は、資料の中に出てくる実在した往年の詐欺師たちに魅了されたという。暴力もせず盗みを働くわけでもない詐欺師は、カモ自身の金銭欲を逆手に取って金をかすめ取る。彼らの多くは貧困層の出身で、騙す相手は基本的に金持ちばかりだ。まるでロビン・フッドみたいじゃないか!とウォードは考えた。 中でも、’30~’40年代に活躍した詐欺師たちは、大金を騙すために偽の証券取引所や賭博場などを実際に作ってしまい、綿密に練られたシナリオのもとで組織的に役割分担をしてターゲットを信用させ、相手が騙されたことにすら気付かないうちに大金を巻き上げるという、なんとも大掛かりで大胆な手段を用いていた。これを映画にすれば絶対に面白いはず!そう確信したウォードは、およそ1年がかりで書き上げた脚本を、俳優からプロデューサーに転身したばかりの友人トニー・ビルのもとに持ち込み、そのビルがマイケルとジュリアのフィリップス夫妻に声をかける。 本作のオスカー受賞でプロデューサーとしての地位を築き、マーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』(’76)やスティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』(’77)を世に送り出すフィリップス夫妻。当時まだ無名の映画製作者だった2人は、ロサンゼルス西部マリブのビーチハウスに居を構えていたのだが、そこでたまたま隣人だった女優マーゴット・キダーとジェニファー・ソルトの2人と意気投合し、やがて彼らの周囲にはスコセッシやスピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ、ブライアン・デ・パルマ、ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテルといった当時の若い才能が集まり、ハリウッドで燻っている無名や駆け出しの映画人たちの社交場と化していく。トニー・ビルやデヴィッド・S・ウォードもそこに出入りしていたのである。 そのビルから紹介された『スティング』の脚本を気に入ったフィリップス夫妻は、彼と3人で本作のプロデュースを手掛けることに同意。エージェント事務所に送られたウォードの脚本は、当時の事務所スタッフで後に映画監督となるロブ・コーエン(『ワイルド・スピード』)の目に留まり、大手スタジオのユニバーサルに売り込まれたというわけだ。 ニューマン演じるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」だった!? ポール・ニューマンにロバート・レッドフォードが主演、監督はジョージ・ロイ・ヒルという『明日に向って撃て』の黄金トリオが再集結したことでも話題となった本作だが、当初はもっと小規模な映画になるはずだったという。製作陣が最初に声をかけたのはレッドフォード。というのも、ウォードは彼を念頭に置いて主人公フッカーのキャラを描いていたからだ。脚本の面白さに興味を惹かれたレッドフォードだったが、しかし脚本家のウォードが監督を兼ねる予定だと聞いて躊躇する。これだけ込み入った内容の脚本を映像化するには、ベテラン監督の職人技が求められるからだ。すると、それからほどなくしてレッドフォードはジョージ・ロイ・ヒル監督から連絡を受ける。当時、ユニバーサルで『スローターハウス5』(’72)を撮っていたヒル監督は、たまたま見かけて読んだ『スティング』の脚本を気に入り、次回作としてレッドフォード主演で監督したいという。こうして、本作の企画が本格始動することになったのだが、しかしこの時点ではまだニューマンは関わっていなかった。 かつて『明日に向って撃て』の撮影中、ニューマンがビバリーヒルズに所有する邸宅に滞在していたヒル監督。『スティング』の制作に取り掛かるにあたって、またあの屋敷を貸してもらおうと考えたヒル監督は、その交渉のためにニューマンへ連絡したところ、反対に「自分に出来るような役はないのか?」と尋ねられたという。そこで彼のもとへ脚本を送ったところ、若干の紆余曲折を経ながらもベテラン詐欺師ゴンドーフを演じることに。ただし、当初の脚本におけるゴンドーフは「くたびれた大柄の中年男」という設定で、なおかつ脇役のひとりに過ぎなかった。そのため、ヒル監督とウォードはニューマンの個性に合わせてキャラ設定を変更し、なおかつレッドフォードとの二枚看板となるよう役割も大きくしたのである。 それだけでなく、当初は全体的にシリアスなトーンだったストーリーのタッチも、一転して明るくてユーモラスなものへと変更。ロネガン役にはニューマンの推薦でロバート・ショーが起用され、レイ・ウォルストンやチャールズ・ダーニング、アイリーン・ブレナン、ハロルド・グールドといった名脇役俳優たちがキャスティングされた。フッカーといい仲になるダイナーのウェイトレス、ロレッタ役には、当時まだ無名だったディミトラ・アーリスを抜擢。ある重大な秘密を隠したロレッタを演じる女優が、顔や名前の知れた有名人だと観客が先入観を持ってしまうからという理由だったそうだ。スタジオ側は「もっと綺麗な女優を」と難色を示したそうだが、ヒル監督は頑として譲らなかったという。なぜなら、そんな目立つ美人が場末のダイナーなんかで働いているはずがないから。これは確かに正しい。そういえば、アイリーン・ブレナンにしろ、サリー・カークランドにしろ、本作に登場する女優たちは、いずれも色っぽいけど美人過ぎない。いかにも、いかがわしい酒場やストリップ小屋にいそうな、それらしいリアルな存在感を醸し出しているのがいい。 さらに、’30年代のシカゴを舞台にした本作を映像化するにあたって、ヒル監督は当時の街並みや風俗を忠実に再現するだけでなく、作品そのものの演出にも’30年代の犯罪映画のスタイルを取り入れることに。オープニングに出てくるユニバーサルの社名ロゴからして、’30年代当時の古いものを使用している。撮影監督のロバート・サーティーズと美術監督のヘンリー・バムステッドは、作品全体のカラー・トーンや照明を工夫することで、’30年代のモノクロ映画に近いような雰囲気を再現。’30年代当時から活躍するイーディス・ヘッドが衣装デザインを手掛け、イラストレーターのヤロスラフ・ゲブルが’30年代に人気だった雑誌「サタデー・イヴニング・ポスト」の表紙を真似たタイトルカードのイラストを描いた。そのスタイリッシュなビジュアルがまた大変魅力的だ。 また、本作はかつてアメリカの大衆に愛された音楽ジャンル、ラグタイムを’70年代に復活させたことでも話題を呼んだ。実際にラグタイムが流行ったのは20世紀初頭であるため、’30年代を舞台にした本作で使うのは時代考証的に間違いなのだが、ヒル監督は「そんなことに気付く観客なんていない」と一笑に付したという。使用されている楽曲の数々は、「ラグタイムの王様」として活躍した黒人作曲家スコット・ジョプリンのもの。息子とその従兄弟が自宅のピアノで演奏していたジョプリンの楽曲を聞いたヒル監督は、その軽快で陽気なタッチが『スティング』の雰囲気にピッタリだと考えたらしい。友人でもある作曲家マーヴィン・ハムリッシュに映画用のアレンジを依頼。テーマ曲となった「ジ・エンターテイナー」はビルボードの全米シングル・チャートで4位をマークし、サントラ・アルバムも全米ナンバー・ワンに輝いた。’17年に48歳の若さで死去したジョプリンは、ラグタイムの衰退と共に忘れ去られていたものの、本作をきっかけに再評価の気運が高まり、’76年にはその功績に対してピューリッツァー賞を授与されている。■ 『スティング』© 1973 Universal Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)タワーリング・インフェルノ 【ゴールデン洋画劇場版】
スティーヴ・マックィーン×ポール・ニューマンを筆頭にオールスター競演で描くパニック映画の金字塔
スティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンそれぞれの主演作として進行していた、ワーナーとFOXのビル火災パニックの別企画が途中で合体した、奇跡的な大作。70年代パニック映画の最高傑作。
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COLUMN/コラム2019.08.02
アルトマンとニューマンの共謀 『ビッグ・アメリカン』に於ける企て
本作『ビッグ・アメリカン』で、主演のポール・ニューマンが演じているのは、“バッファロー・ビル”。西部開拓史にその名を残す実在の人物で、セシル・B・デミル監督の『平原児』(1936)、ジョエル・マクリー主演の『西部の王者』(44)、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化『アニーよ銃をとれ』(50)等々、黄金期のハリウッド製西部劇映画にも、度々登場してきた有名キャラクターである。 しかしながら世代によっては、その名を聞くと、『羊たちの沈黙』(1991)でテッド・レヴィンが演じた、猟奇連続殺人犯の方を先に思い浮かべてしまう向きも、決して少なくないであろう。この猟奇連続殺人犯は、「獲物の女性を捕らえて殺し、皮を剥ぐ」というその手口によって、“バッファロー・ビル”と名付けられた。 実在の“バッファロー・ビル”は、「バッファロー狩りの名手」として鳴らしたことからから、そう呼ばれるようになった男である。それが後々、「獲物の女性の皮を剥ぐ」殺人鬼のニックネームに冠せられるとは、まさか本人は、夢にも思わなかったに違いない。 それほどまでに高名な、“バッファロー・ビル”の本名は、ウィリアム・フレデリック・コーディ。アメリカ・メキシコ戦争が勃発した1846年生まれで、子どもの頃から乗馬と射撃が巧みであり、10代中盤には、馬を利用した速達便である、“ポニー・エクスプレス”の騎手として活躍したと言われる。 その後金鉱開発やインディアン討伐に関わり、南北戦争(1861~65)時には、北軍のスカウト=斥候に。 南北戦争が終結すると、ビルは先に挙げたように、バッファロー狩りの猟師となった。当時バッファローは、鉄道建設の邪魔ものであると同時に、労働者たちの貴重な食料。ビルは1年半の間に、何と4,000頭以上ものバッファローを仕留めたという。 そんな彼の勇名を高めたのは、本作ではバート・ランカスターが演じている、小説家ネッド・バントラインとの出会いだった。バントラインは、ビルの様々な経験談を盛り込んだ小説を書き、大ヒットとなる。 そしてビルは、「バッファロー狩りの名手」をはじめ、「ポニー・エクスプレスの花形」「インディアン討伐の勇者」などと謳われ、一躍「西部のヒーロー」となった。そんな経緯からわかる通り、ビルの前半生の「ヒーロー譚」については、バントラインによって盛られたところが多いのは、想像に難くない。 何はともかく、若くして名声を得た“バッファロー・ビル”。そんな彼の後半生=30代後半以降は、本作『ビッグ・アメリカン』で描かれる、「ワイルド・ウエスト・ショー」と共にあった。 「西部の荒野のリアルを見せる」という触れ込みの「ワイルド・ウエスト・ショー」をビルが思い付いたのは、バントラインの次の言葉だったという。 「東部へ、大平原やインディアンを運びたまえ」 1882年にネブラスカ州ノース・プラットで試演。翌83年にオマハで、正式に幕開けとなった。 内容的には、アニー・オークリーと、フランク・バトラーの夫婦(本作ではジェラルディン・チャップリンとジョン・コンシダインが演じる)による曲撃ちで幕を開け、続いて開拓者の生活、駅馬車の襲撃、第7騎兵隊の全滅、ロープの妙技などを披露していく。 座長の“バッファロー・ビル”の出番は、インディアンによる駅馬車襲撃のパート。ビルはそこに助けに駆けつける役として、颯爽と登場したという。 この「ワイルド・ウエスト・ショー」には、往年のガンマンであるワイルド・ビル・ヒコックやカラミティ・ジェーン、強盗団で西部を荒らした、元無法者のフランク・ジェームズやコール・ヤンガー、更には本作にも登場する通り、リトルビッグホーンの戦いで、カスター将軍率いる第7騎兵隊を全滅させた、スー族インディアンのシッティング・ブル等々、「西部の有名人」が出演。84年のシカゴ公演では1日4万人の観客を動員するなど、大いに人気を集めた。 86年には、ビルは240名のメンバーを率いてイギリスに渡り、ヴィクトリア女王の即位50年を記念する御前公演を実施。クライマックスの駅馬車襲撃では、ギリシャ、ベルギー、デンマークの各国王が乗客に扮し、イギリス皇太子が駅馬車台に座って、西部ムードを満喫したという。 更に89年には、フランス、スペイン、イタリアを巡演し、ローマ法王に拝謁。93年のシカゴ・ワールド・フェアでは、半年で600万人を動員。「ショー」は、全盛期を迎えた。 20世紀に入ると、その勢いは徐々に下火となっていったが、1913年に解散するまで、「ワイルド・ウエスト・ショー」は、30年の歴史を刻んだ。 「ショー」の解散に際しては、「私の胸は張り裂けるようだった」と記した、“バッファロー・ビル”。その4年後の1917年、70歳で生涯の幕を下ろした。 先に記した通り、相当に盛られていたことは間違いないが、“バッファロー・ビル”は、これだけドラマチックな人生を送ったことになっている。このような「西部のヒーロー」を取り上げて“映画化”する場合、かつてはアクションやロマンスを軸にした“娯楽映画”にするのが、王道であった。 しかし本作が製作・公開されたのは、1970年代中盤。アメリカ社会の欺瞞や虚飾を痛烈に暴く、“ニューシネマ”の潮流がギリギリ命脈を保っていた頃である。 そして監督はロバート・アルトマン、主演はポール・ニューマン。この時代にこの題材で、この監督にこの主演俳優である。真っ当な“英雄譚”などが、製作される筈がない。 ここに至るまでのアルトマンのキャリアで、ヒット作と言えば、『M★A★S★H マッシュ』(70)と『ナッシュビル』(75)。前者は朝鮮戦争を舞台にしながら、製作・公開時にアメリカが行っていた“大義なき戦い”=ベトナム戦争を、徹頭徹尾おちょくった内容である。後者も、カントリー&ウエスタンを扱った音楽映画を装いながら、アメリカという国家を批評的に描いた、野心作であった。 その他興行的には成功を収めたとは言えない、『BIRD★SHT バード★シット』(70)『ギャンブラー』(71)『ロング・グッドバイ』(73)といった、アルトマンの諸作を眺めれば、実在の「西部のヒーロー」などは、アメリカ開拓史のウラを暴くための道具立てに過ぎないに、決まっている。アルトマンはビルを、「捏造されたアメリカの英雄第1号」として描いた。 本作以前に、『ハスラー』(61)『動く標的』『暴力脱獄』(67) など、様々な“アンチ・ヒーロー”を十八番としてきたのが、主演のポール・ニューマン。彼が西部に実在した人物を演じるのは、『左きゝの拳銃』(58)のビリー・ザ・キッド、『明日に向って撃て!』(69)のブッチ・キャシディ、『ロイ・ビーン』(72)のタイトル・ロールに続いて、本作の“バッファロー・ビル”が4本目。それまでの3本と同様、いやそれまで以上に、本作では「西部」のレジェンドを、打ち壊しに掛かっている。 『ビッグ・アメリカン』に登場する“バッファロー・ビル”は、中身のないすぼらな嘘つきで、「作られた」神話に見合うようにと、背伸びをして生きているように描かれている。現実に“スーパースター”でありながら、虚飾に満ちたハリウッドから距離を置いたライフスタイルを取っていたニューマンにとっては、「願ったり叶ったり」と言える役どころであった。スターとしての存在感を意図的にへこませるようなこの役に関しては自分自身で、「ポール・ニューマンという映画スターを演じている」と、アルトマンに伝えたという。 そんなわけでアルトマン監督と主演のニューマンの想いは合致し、現場での息もぴったりに撮影は進んでいった。本作が公開される1976年は、アメリカが建国200年を迎える年。アルトマンとニューマンはその年の7月4日、正に200周年の記念日に本作を公開し、愛国的なお祭り騒ぎに、皮肉な一撃を加えることを目論んだ。 しかし彼らとは、想いをまったく異にする男が居た。プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスである。この頃のラウンレンティスは、見栄えばかりが仰々しい、『キングコング』(76)や『オルカ』(77)などの大作路線に走っていた頃。アルトマンの前作『ナッシュビル』(75)の大ヒットがきっかけとなり、本作に参加することになったのだが、撮影に当たっては、次のような注文を付けたという。 「心してアクションを満載にしてくださいよ。脚本を読んでもアクションがあまりない」 アルトマンはそれを受け入れるふりをして、もちろんやり過ごした。結局完成した映画を観て、ラウンレンティスは心底失望したという。 こうして、アルトマンとニューマンの思い通りの作品となった、『ビッグ・アメリカン』。世界三大映画祭のひとつ「第26回ベルリン国際映画祭」では金熊賞(グランプリ)を受賞するなど、高い評価を受けた。しかしアメリカ本国での批評家受けは芳しくなく、興行も「ポール・ニューマン史上最低」と、当時は言われるほどの不発に終わった。 因みに相性が抜群だったアルトマンとニューマンは、この3年後『クインテット』(79)という、近未来の氷河期を舞台にした作品で再びタッグを組む。『クインテット』は『ビッグ・アメリカン』以上に総スカンを食い、日本では遂に、劇場未公開に終わってしまった。 叛逆の映画人2人の、その性懲りのなさも、今となってはただただ素晴らしく思える。■
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PROGRAM/放送作品
メッセージ・イン・ア・ボトル
手紙の入った瓶を通じて大人の愛が育まれていく…ラブストーリーの名手ニコラス・スパークスの小説を映画化
『きみに読む物語』の原作者ニコラス・スパークスの小説を初めて映画化した作品。心に深い傷を持つ大人の男女が徐々に愛を育んでいく姿を、ケヴィン・コスナーとロビン・ライト・ペンが静かな演技で魅せる。
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COLUMN/コラム2019.06.24
ハリウッド・レジェンドたちのターニング・ポイント 『栄光への脱出』
今から60年近く前に、70㎜超大作映画として華々しく製作・公開された、『栄光への脱出』。その物語は、第2次世界大戦終結から2年経った1947年、当時はイギリスの直轄統治領だった、東地中海に浮かぶキプロス島から始まる。 この島には難民キャンプが設けられており、3万人を超えるユダヤ人が収容されていた。彼ら彼女らは、ヨーロッパでナチス・ドイツのホロコーストを生き延びた後、戦後に聖地の復興を目指し、パレスチナへと移住しようとした人々。しかし周辺のアラブ諸国を刺激したくないイギリスに捕まり、キャンプへと送り込まれたのであった。 そんなキプロス島に、ユダヤ人地下組織のリーダー、アリ・ベン・カナン(演;ポール・ニューマン)が、潜入した。彼の計画は、キャンプの同胞2,800人を、エクソダス(脱出)号と名付けた貨物船で、パレスチナの地へと送り込もうというもの。 イギリス軍による出港阻止など紆余曲折を経ながらも、アリの作戦は国際世論も味方に付けて、見事に成功。そして2,800人は、パレスチナへと辿り着く。 しかしイギリス、そしてアラブを敵に回して、祖国の建国を目指すアリらの苦難の戦いは、この後更に激しさを増していくのであった…。 1958年に発表されたレオン・ユリスの小説を映画化し、その2年後=1960年に公開(日本では翌61年)された本作『栄光への脱出』。“イスラエル建国”という、20世紀の歴史的事件をヒロイックに描いて、世界的な大ヒットとなった。 ご存知の通り“イスラエル”という国家は、建国を巡る経緯やその後の歩みが、国際社会で常に物議を醸し続けている。それによって引き起こされた“パレスチナ問題”など、「親イスラエル」を強く打ち出した、アメリカのトランプ大統領の強硬な外交姿勢もあって、悪化の一途を辿っている感が強い。 そうした点から、間違っても「公平な描写とは言えない」本作の今日的意味を探るのも大変意義深いことではある。しかし本稿では、後にハリウッドのレジェンドとなる偉大な2人の映画人にとって、本作がどんな役割を果たしたかを紹介したいと思う。 レジェンドの1人目は、脚本を担当したダルトン・トランボ(1905~76)。1930年代後半より脚本家として活躍していたトランボだったが、戦後のハリウッドに吹き荒れた“赤狩り=マッカーシズム”の直撃を受ける。 47年にトランボは、ハリウッドの労働組合への共産主義の影響を調査していた「非米活動委員会」の聴聞会に呼び出された際に、証言を拒否。そのため実刑判決を受けて、禁固刑に服す。同時にハリウッドの“ブラックリスト”に載せられ、映画界から長らく追放されることとなった。 その後彼が書いた脚本を、友人のイアン・マクラレン・ハンター名義でクレジットした『ローマの休日』(53)、ロバート・リッチという偽名を用いて執筆した『黒い牡牛』(56)の2作が、アカデミー賞原案賞を受賞したものの、トランボの名は秘せられたまま。しかし彼が偽名で仕事しているという噂は徐々に広まり、カーク・ダグラスの依頼で59年に『スパルタカス』(60)の脚本を担当する頃には、「公然の秘密」となっていた。 そのタイミングで、トランボとは旧知の仲だった、オットー・プレミンジャー監督が59年の12月に、脚本のリライトを依頼してきた。それが本作、『栄光への脱出』である。本作の脚本はそれ以前に、原作者のレオン・ユリスともう1人の脚本家によって、何度も書き直しが行われていたのだが、映画化に適した仕上がりにならなかったのである。 翌60年の4月には製作に入る予定で、主要キャストとの契約も済ませていたため、プロデューサーも兼任するプレミンジャーは焦った。そこで以前から、切迫した状況での素早い仕事ぶりを高く評価していたトランボに、白羽の矢を立てたわけである。 本作の原作小説は、旧約聖書の時代に遡り、そこからホロコーストに至るまで、何世紀にも渡るユダヤ人の苦難の歴史を描く。そして最後にパレスチナへ戻って、イスラエルという近代国家の誕生に至るという筋立てであった。前任の2人は、この小説全体をスクリーンに移そうとして、失敗したのである。 トランボは原作にはあまりにも多くの物語が盛り込まれているため、このまま映画化するのは不可能であると判断。プレミンジャーにどの物語を映画にしたいのかと尋ねた。ウィーン出身のユダヤ人であるプレミンジャーから、「イスラエルの建国を描きたい」という答を得ると、その後は彼と密に連携しながら執筆を進め、明けて60年の1月半ばには、脚本を完成させた。 プレミンジャーは、こうしたトランボの功績に報いる意味も籠めて、サプライズを用意した。1月20日の「ニューヨーク・タイムズ」の一面で、『栄光への脱出』の脚本家に、ダルトン・トランボを起用した旨を公表したのである。同年秋に『スパルタカス』が公開された際に、トランボの名がクレジットされたのも、こうした流れを受けてのことである。 『スパルタカス』そして『栄光への脱出』は、腕利きの脚本家だったトランボを、正式に表舞台へとカムバックさせた記念碑的な作品と言える。そして“赤狩り”によってハリウッドにもたらされた“ブラックリスト”の時代も、遂に終わりを告げた。 本作が記念碑的な作品となった、ハリウッド・レジェンドの2人目。それは、主役のアリ・ベン・カナンを演じた、ポール・ニューマン(1925~2008)である。 アクターズ・スタジオ出身という出自もあって、銀幕デビュー時は「マーロン・ブランドの亜流」扱いされ、燻ぶっていたニューマン。しかし三十歳を過ぎて出演した、ロバート・ワイズ監督の『傷だらけの栄光』(56)で、実在のプロボクシング元世界チャンピオン、ロッキー・グラジアノを演じて高い評価を受け、一躍スターダムにのし上がった。 その後1950年代後半に、着実にキャリアを積み上げたニューマンが、60年代を迎えて、遂に“スーパースター”の地位を築く第一歩となったのが、架空の存在ではあるが、イスラエル建国のヒーローを演じた、『栄光への脱出』である。この作品は記録的な大ヒットとなって、ニューマンの出演作の中では長らく、TOPに位置する興収を稼ぎ出した。因みにこの記録を塗り替えたのは、アメリカン・ニューシネマの代表的な作品で、ロバート・レッドフォードと共演した、『明日に向って撃て!』(69)である。 父がハンガリー系ユダヤ人であるニューマンは、本作ロケ地のイスラエルに、クランク・イン数週間前に入って、その風土や国民の生い立ちを身をもって感じ取ろうとした。本作は、父方のユダヤの血のルーツを探るという意味でも、彼にとっては意義深い仕事となる筈だった。 そうした記念碑的作品であるにも拘らず、実は本作についてニューマンが後年語ることは、ほとんどなかった。あるインタビューで一言だけ、「寒々としたものだった」と素っ気なく述べたのみである。 なぜそうなったかと言えば、偏にオットー・プレミンジャー監督との“相性”。それまでに『帰らざる河』(54)『悲しみよこんにちは』(57)など数々のヒット作や秀作を手掛けてきたプレミンジャーだが、撮影現場では俳優に対する専制的な態度を取ることで知られ、「ろくでなしのファシスト」呼ばわりされるほど、悪名が高い監督であった。 そしてプロデューサーを兼ねた本作では、スケジュール通りに撮り上げるために、膨大な技術スタッフのチームを組織し、パノラマ的群衆シーンを動かすことばかりに集中。それまでにも増して、俳優の役作りに気を配ろうとはしなかった。 それに対しニューマンの演技は、アクターズ・スタジオ仕込み。演技の細部にまで深い関心を示してくれたり、準備に掛ける時間と空間を十分に提供してくれるような監督以外とは、なかなか良好な関係を築きにくい。 例を挙げるならば、ニューマンが最も敬愛した監督は、『ロイ・ビーン』(72)『マッキントッシュの男』(73)で組んだジョン・ヒューストン。それらの現場でのニューマンは、頻繁にヒューストンに話しかけに行って、様々な提案を行ったという。ニューマン曰く「とにかく彼(ヒューストン)はどんなときでも引き金を捜してるよ。名案を撃ち出す引き金だな。それを誰が引くかは関係ない。彼自身でもいいし、役者か、スクリプト・ガールだっていいわけだ。そこに連帯感というものが生まれてくるだろう」 本作撮影に当たって、ニューマンはロケ地到着後、プレミンジャーとの打合せで数頁に渡る提案を差し出した。するとプレミンジャーは、こう言ったという。 「非常に興味深い提案だ。君が監督する作品ならぜひ使いたまえ。しかし、この作品の監督を務める私がこれを使うことはないね」 本作関係者の証言では、このやり取りがあった後、ニューマンは要求されたことだけをするようになり、それ以上の努力をやめてしまったという…。 そんなこともあってだろう。本作の主人公アリ・ベン・カナンは、預言者モーゼに準えられるヒーローでありながらも、陰影に乏しく、その葛藤や煩悶が真に迫ってこないキャラクターになってしまっている。超大作として製作年度が近い『アラビアのロレンス』(62)などと比べると、人物描写が浅いことが、一目瞭然である。 そうした点も含めて、初公開当時は業界受けも評論家受けも決して良くはなかった本作だが、繰り返し記すように、大ヒットを記録した。プレミンジャーが個々の俳優の演技を蔑ろにしてまでこだわったスペクタクル感の強調や、ハリウッドを長年追われていたダルトン・トランボが脚本を手掛けたこともあってか、ユダヤ人たちの「自由への希求」が、ロマンスも交えてドラマチックに打ち出される仕上がりとなったことが、大衆の心を捉えたのであろうか。ニューマン演じる主人公も、薄っぺらさは否めないながら、実に格好良く描かれていることは、紛れもない事実である。 この作品の大ヒットは、“イスラエル”という国家の存在を、アメリカの世論が好意的に捉えるきっかけになったとも言われる。そうした意味でも、“映画史”的な語りしろが、意外に多い作品なのである。■ 『栄光への脱出』EXODUS © 1960 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved
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PROGRAM/放送作品
ビッグ・アメリカン
[PG12相当]西部開拓史の伝説のガンマンの真実とは?名匠ロバート・アルトマンの演出が光る西部劇
実在する西部開拓期のガンマン、バッファロー・ビルにまつわる伝説を、ロバート・アルトマン監督がシニカルな視点から見つめ直す。ポール・ニューマンが空虚な英雄ビルを熱演。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。
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PROGRAM/放送作品
未来は今
無能な新入社員がいきなり社長に?古き良き人間喜劇をコーエン兄弟が独自のテイストで味つけしたドラマ
コーエン兄弟がフランク・キャプラ監督作品を彷彿とさせるウェルメイドな人間喜劇をベースに、ファンタジックなサクセスストーリーを創造。悪徳重役を怪演するポール・ニューマンら実力派俳優たちの競演にも注目。