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COLUMN/コラム2022.11.04
華やかなスウィンギン・ロンドンの光と影を映し出すフリー・シネマの名作『ダーリング』
刹那的な時代の世相を切り取った名匠ジョン・シュレシンジャー 当サイトで以前にご紹介したイギリス映画『ナック』(’65)が、スウィンギン・ロンドン時代の自由な空気を明るくポジティブに活写していたのに対し、こちらはその光と影をシニカルなタッチで見つめた作品である。第二次世界大戦後の荒廃と再建を経て、高度経済成長期に突入した’60年代半ばのイギリス。その中心地であるロンドンではベビーブーマー世代の若者文化が花開き、長らくイギリスを支配した保守的な風土へ反発するようにリベラルな価値観が広まり、経済の活性化によって本格的な消費社会が到来する。いわゆるスウィンギン(イケている)・ロンドン時代の幕開けだ。 そんな世相の申し子的な若くて美しい自由奔放な女性が、好奇心と欲望の赴くままにリッチな男性たちを渡り歩き、華やかな上流階級の世界で刹那的な快楽に身を委ねるも、その刺激的で享楽的な日々の中で虚無感と孤独に苛まれていく。さながらイギリス版『甘い生活』(’60)。それがアカデミー作品賞を含む5部門にノミネートされ、主演女優賞など3部門に輝いた名作『ダーリング』(’65)である。 監督はトニー・リチャードソンやリンゼイ・アンダーソンと並ぶ英国フリー・シネマの旗手ジョン・シュレシンジャー。BBCテレビのドキュメンタリーで頭角を現したシュレシンジャーは、劇映画処女作『ある種の愛情』(’62)でベルリン国際映画祭グランプリ(金熊賞)に輝いて注目されたばかりだった。2作目『Billy Liar』(’63)を撮り終えた彼は、同作にカメオ出演した人気ラジオDJ、ゴッドフリー・ウィンから興味深い話を聞く。それはウィンの知人だった若い女性モデルのこと。社交界の名士たちと浮名を流していた彼女は、複数の愛人男性から籠の中の鳥のように扱われ、与えられた高級アパートのバルコニーから投身自殺してしまったというのだ。 これは映画の題材に適していると考えたシュレシンジャーと同席した製作者ジョセフ・ジャンニは、新進気鋭の脚本家フレデリク・ラファエルに脚色を依頼するものの、出来上がった脚本は全くリアリティのない代物だったという。そこで製作者のジャンニが提案をする。最後に自殺を選んでしまう女性の話ではなく、なんの決断をすることも出来ない優柔不断な女性、もっといいことがあるんじゃないかと期待して男から男へ渡り歩いてしまう女性の話にすべきだと。劇中でも「最近は楽をして何かを得ようとする人間ばかりだ」というセリフが出てくるが、そのような浮ついた時代の空気を象徴するようなヒロイン像を描こうというのだ。 ジャンニには心当たりがあった。それが、贅沢な暮らしを求めて裕福な銀行家と結婚した知人女性。その女性を紹介してもらったシュレシンジャーとラファエルは、彼女の案内で上流階級御用達の高級レストランやパーティなどを訪れ、ジェットセッターたちの豪奢なライフスタイルの赤裸々な裏側を垣間見ていく。それが最終的に映画『ダーリング』のベースとなったわけだ。ただし、脚本の執筆途中でその女性が旦那から離縁を突きつけられ、協議で不利になる恐れがあるという理由から、彼女の私生活をモデルにした部分の書き直しを迫られたという。とはいえ、本作がスウィンギン・ロンドン時代のリアルな舞台裏を切り取った映画であることに間違いはないだろう。 刺激を求めて快楽に溺れ、孤独を深めていくヒロイン 舞台は現代の大都会ロンドン。アフリカの飢餓問題を訴える意見広告が、美しい女性モデルの微笑むラジオ番組「Ideal Woman(理想の女性)」のポスターに貼り変えられる。その女性モデルの名前はダイアナ・スコット(ジュリー・クリスティ)。物語はラジオのインタビューに答える彼女のフラッシュバックとして描かれていく。幼い頃から愛くるしい容姿と社交的な性格で周囲に「Darling(かわいい子)」と呼ばれて愛され、どこにいても目立つ美しい女性へと成長したダイアナ。保守的なアッパーミドル・クラス出身の彼女は、年の離れた姉と同じように若くして結婚したものの、しかし子供じみた旦那との生活は退屈そのものだった。 そんなある日、テレビの街頭インタビューを受けた彼女は、番組の司会を務める有名ジャーナリスト、ロバート(ダーク・ボガード)と親しくなり、彼の取材先へ同行するようになる。教養があって落ち着いた大人の男性ロバートに惹かれ、彼の友人であるマスコミ関係者や芸術家などのインテリ・コミュニティに刺激を受けるダイアナ。やがてお互いに愛し合うようになった既婚者の2人は、ロンドンの高級住宅街のアパートで同居するようになった。自身もモデルとして活動を始めたダイアナは、大手化粧品会社のキャンペーンガールに起用され、同社宣伝部の責任者マイルズ(ローレンス・ハーヴェイ)の紹介で映画デビューまで果たす。 こうして華やかな社交界に足を踏み入れたわけだが、しかしそれゆえ真面目なロバートとの安定した生活に飽きてしまったダイアナは、彼に隠れてプレイボーイのマイルズと浮気をするように。さらに、映画のオーディションを偽ってマイルズとパリへ出かけ、パーティ三昧の享楽的な生活にうつつを抜かす。だが、この浮気旅行はすぐにバレてしまい、憤慨したロバートはアパートを出て行ってしまった。すっかり気落ちしたダイアナは親友となったゲイの写真家マルコム(ローランド・カラム)に慰められ、テレビCM撮影のついでにイタリアでバカンスを過ごすことに。そこで彼女は、中世の時代にローマ法王を輩出したこともある名門貴族のプリンス、チェザーレ(ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガ)に見初められる。 妻に先立たれた男やもめのチェザーレは7人の子持ち。まだ結婚して家庭に入るつもりなどなかったダイアナは、彼からのプロポーズを断ってロンドンへ戻るものの、パーティとセックスに明け暮れるだけの生活に嫌気がさしてしまう。今さえ楽しければそれでいいと考えていた彼女だが、しかしそれだけでは心が満たされなかったのだ。結局、チェザーレのプロポーズを受け入れ、めでたく結婚することとなったダイアナ。「イギリス出身のイタリアン・プリンセス」としてマスコミに騒がれ、現地でも大歓迎された彼女だったが、しかし外からは華やかに見えるイタリア貴族の生活も、実際は伝統としきたりに縛られて非常に窮屈なものだった。夫のチェザーレは仕事で出張することが多く、広い大豪邸の中で孤独を深めていくダイアナ。やはり私のことを本当に愛してくれるのはロバートだけ。ようやく気付いた彼女は、ロバートと会うため着の身着のままでロンドンへ向かうのだが…。 アメリカでは大好評、モスクワでは大ブーイング? 恵まれない人々のための慈善活動をお題目に掲げながら、宮廷召使いの格好をした黒人の子供たちに給仕をさせ、豪華に着飾った金持ちの紳士淑女が贅沢なグルメや下世話なゴシップを楽しむチャリティー・イベント。絵画の芸術的な価値など分からない富裕層が、有り余る金にものを言わせて愛好家を気取るアート・ギャラリー。パリの怪しげな娼館でセックスを実演する生板ショーを鑑賞し、ジャズのビートに乗せて半裸の男女が踊り狂うジェットセッターたちの乱痴気パーティ。そんな虚飾と虚栄と偽善に満ちた狂乱の上流社会を、快楽と刺激と贅沢を求める自由気ままな現代娘ダイアナが、若さと美貌だけを武器に男たちを利用して闊歩する。 といっても、恵まれた中産階級の家庭に育った彼女には、男を踏み台にしてのし上がろうなどという野心は微塵もない。気の向くまま足の向くまま、もっと面白いことがないかとフラフラしているだけ。飽きっぽくて移り気な彼女は、人生の目的など何もない空っぽな根無し草だ。まさに、華やかで享楽的なスウィンギン・ロンドンが生み出した新人類と言えるだろう。ただただ楽しい時間を過ごしたいがため、男から男へ、パーティからパーティへ渡り歩いていくわけだが、しかし刹那的な快楽に溺れれば溺れるほど、虚しさと孤独が募っていく。周囲の人々が彼女に求めるのは若さと美貌とセックスだけ。綺麗なお人形さんの中身など誰も気にかけない。恐らくシュレシンジャーとラファエルは、その混沌と狂騒と軽薄の中に時代の実相を見出そうとしたのだろう。 そんなスウィンギン・ロンドン時代のミューズ、ダイアナを演じるジュリー・クリスティが素晴らしい。本作が映画初主演だった彼女は、このダイアナ役で見事にアカデミー主演女優賞を獲得し、たちまち世界的なトップスターへと躍り出る。シュレシンジャーの前作『Billy Liar』にも小さな役で出ていたクリスティ。製作会社はこのダイアナ役にシャーリー・マクレーンを推したそうだが、しかしシュレシンジャーは最初からクリスティを念頭に置いていた。当時の彼女はシェイクスピア劇の公演ツアーで渡米しており、シュレシンジャーはフィラデルフィアまで行って出演を交渉したという。その際に彼はニューヨークまで足を延ばし、モンゴメリー・クリフトやポール・ニューマン、クリフ・ロバートソンにロバート役をオファーしたが、いずれも断られてしまったらしい。また、アメリカの映画会社に出資を相談したものの、脚本の内容が不道徳だとして一蹴されたそうだ。 結局、ロバート役に起用されたのは、二枚目のマチネー・アイドルからジョセフ・ロージー監督の『召使』(’63)で性格俳優として開花したイギリスのトップスター、ダーク・ボガード。ハンサムでナルシストなプレイボーイのマイルズには、『年上の女』(’58)でアカデミー主演男優賞候補となったローレンス・ハーヴェイが決まり、英国人キャストばかりの本作にとってアメリカ市場でのセールス・ポイントとなった。 また、ストーリー後半のイタリア・ロケでは、『ティファニーで朝食を』(’61)の南米大富豪役や『魂のジュリエッタ』(’65)のハンサムな友人役で知られるスペイン俳優ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガがイタリア貴族チェザーレ役で登場。実は彼自身もスペインの由緒正しい貴族の御曹司だった。その長男役には『ガラスの部屋』(’69)で日本でもブレイクするレイモンド・ラヴロック、長女役には後にラヴロックと『バニシング』(’76)で共演するイタリアのセックス・シンボル、シルヴィア・ディオニジオ、秘書役には『歓びの毒牙』(’69)などのイタリアン・ホラーで知られるウンベルト・ラホーも顔を出している。そういえば、パリでの乱痴気パーティ・シーンには『遠い夜明け』(’87)の黒人俳優ゼイクス・モカエ、アート・ギャラリー・シーンには『007/私を愛したスパイ』(’77)のヴァーノン・ドブチェフと、無名時代の名脇役俳優たちの姿を確認することもできる。 先述したように、ハリウッドの映画会社からは「不道徳だ」として出資を断られた本作だが、蓋を開けてみればイギリスよりもアメリカで大ヒットを記録。モスクワ国際映画祭にも出品されたが、ソヴィエトのマスコミや批評家からは大不評だったそうだ。ただし、アメリカでもロシアでも本編の同じ個所が不適切だとしてカットされたらしく、シュレシンジャー本人は潔癖な点において両国は似ているとも話している。ダイアナ役でオスカーに輝いたジュリー・クリスティは、本作を見たデヴィッド・リーン監督から『ドクトル・ジバゴ』(’65)のララ役に起用され、押しも押されもせぬ大女優へと成長。惜しくも監督賞の受賞を逃したシュレシンジャーも、本作および再度クリスティと組んだ『遥か群衆を離れて』(’67)で名匠の地位を確立し、アメリカで撮った『真夜中のカーボーイ』(’69)で念願のオスカーを手にする。■ 『ダーリング』© 1965 STUDIOCANAL
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COLUMN/コラム2022.07.22
フィリップ・ド・ブロカの明暗。“映画作家”として生涯の1本!『まぼろしの市街戦』
第一次世界大戦末期、ドイツ軍がフランスの小さな村から撤退する際、強力な時限爆弾を仕掛けた。イギリス軍にその情報を連絡しようとしたレジスタンスは、電話の途中でドイツ兵に射殺されてしまう。 そのためイギリス軍に届いたのは、「真夜中に騎士が打つ」という謎のフレーズのみ。フランス語ができるという通信兵のプランピックは、その謎を探って時限爆弾を解除するよう命じられ、村へと派遣される。 すべての住民は破壊を恐れて、緊急避難。村に残されたのは、精神科病院の患者たちと、解き放たれたサーカスの動物たちだけ。患者たちは持ち主が不在となった家屋に入り込み、それぞれの妄想のままに、貴族や司教、将軍、理髪師、娼婦等々になりきった。 そんな患者たちから“ハートの王様”に祭り上げられたプランピックは、彼らに翻弄され、一向に謎は解けない。とりあえず放った2羽の伝書鳩の内、1羽はイギリス軍に無事着くも、もう1羽はドイツ軍に撃ち落とされる。両軍は事態把握のため、偵察隊を村へと送り込む。 狂人であっても善良で平和的な患者たちを救おうと、奔走するプランピックだったが、大爆発の時は刻一刻と迫る。彼はやむなく、相思相愛となった娘コクリコと、最後の時を過ごそうとするが、彼女の述べた言葉から、謎のフレーズの意味が判明。僅かな残り時間に、爆弾の解除へと挑む。 その一方イギリス・ドイツ両軍が、村へと迫る。果たしてプランピックと、愛すべき狂人たちの運命は…。 ***** 正常な者で構成されている筈の軍人たちが、互いに銃を向けて殺し合う。その一方で、狂気の世界の住人たちは、他人を傷つけることなく、楽しげに人生を謳歌する…。 フランス製の戯画的な反戦ファンタジーである本作『まぼろしの市街戦』(1966)を熱烈に支持する者は、我が国にも少なくない。2018年に「4Kデジタル修復版」としてリバイバル公開された際には、邦画のヒットメーカーである瀬々敬久監督が、こんなコメントを寄せている。「中学生の頃、テレビの洋画劇場で見て大衝撃を受けて以来、生涯ベスト。あの淀川長治さんも、その日は本気で大興奮していた」 映画評論家の山田宏一氏やイラストレーターの和田誠氏なども、本作のファン。大森一樹監督に至っては、現代日本を舞台にした『世界のどこにでもある、場所』(2011)という作品で、本作の再現を試みている。 フィリップ・ド・ブロカ。 カルト的な人気作である本作は、1933年生まれのこのフランス人監督の歩みと、密接に関わって誕生した。 ド・ブロカはパリに在る、国立のルイ・リュミエール高等学校で、映画撮影技術について学んだ。1953年に卒業すると、カメラマンとして、トラックに乗ってアフリカを旅行。後にジャン=ポール・ベルモンドを主演に擁して、『リオの男』(1964)『カトマンズの男』(65)など、異国情緒に溢れた冒険活劇を次々と放つようになったのは、この時の経験がベースになったと言われる。 アフリカから帰った後、ド・ブロカは兵役に就く。軍の映画製作部に配属されて、ドイツのバーデン=バーデンで1年を過ごした後の任地は、アルジェリア。それは折しも、宗主国フランスに対して、民族解放戦線が起こした独立戦争、“アルジェリア戦争”が激化した頃であった。 凄惨なテロの応酬に、大規模なゲリラ掃討作戦。ド・ブロカは2年間に渡って、戦場の恐ろしい光景をフィルムに収めることとなった。そしてこの経験のため、すっかり悲観的で厭世的となり、それが後の彼の監督作品に影響を及ぼすこととなる。 除隊後に商業映画の世界に進んだド・ブロカは、クロード・シャブロルやフランソワ・トリュフォーといった、映画史に革命を起こした“ヌーヴェルヴァーグ”の寵児たちの助監督に付く。そうしたキャリアや世代的なこともあって、時折ド・ブロカも、“ヌーヴェルヴァーグ”の一端を担った監督と分類されることがある。しかし映画作りへの取組みは、シャブロルやトリュフォーとは、明らかに一線を画すものだった。 兎にも角にも、「楽しい映画を」という姿勢。それはアルジェリアの経験から、「自分にできるのは喜劇映画を作って人々に微笑みをもたらすことぐらいだ…」という境地に至ったことから、生じたものと言われる。 稀代のアクションスター、ジャン=ポール・ベルモンドと初めて組んだのは、『大盗賊』(61)。この作品は、合わせて10本の作品を共にすることになる、プロデューサーのアレクサンドル・ムヌーシュキンとの、初顔合わせでもあった。 そして先に挙げた、ベルモンド主演の冒険活劇、いわゆる「~の男シリーズ」の端緒を切って、評判となった後に辿り着いたのが、1966年の『まぼろしの市街戦』であった。 本作の基となったものとして、まず挙げられるのが、原案にクレジットされているモーリス・ベッシーが、ド・ブロカに話して聞かせたという新聞の三面記事。それは精神科病院から抜け出した者たちが、ある村にやって来て、思い思いに田園で過ごしたという内容だった。 これに加えて、第2次世界大戦時に、ナチス・ドイツが占領するフランス北部の村で起こった出来事も、本作の着想源になったと言われる。それは、住民が逃げ出す際に、精神科病院の患者たちや小屋に閉じ込められていた動物たちの束縛を解いたため、彼らが自由の身になったという逸話だった。 ド・ブロカ、そして彼とコンビを組んでいた共同脚本のダニエル・ブーランジェは、これらから想像力を掻き立てられ、本作のストーリーを編んでいった。そのベースには、ド・ブロカの戦場体験があったことは、言うまでもない。 元ネタのひとつが、第2次大戦下の実話だったにも拘わらず、舞台を第1次大戦に置き換えたのは、製作時点から時制を離すことで、生々しさを避ける狙いもあったようだ。ナチに占領された第2次大戦の記憶は、フランス人のトラウマとして、まだまだ根強い頃だったのである。 しかし、スターを擁した冒険活劇の監督が、このような「地味」に映る企画に取り組むことに、賛意を示す者は少なかった。出資者がまったく見付からず、おまけにド・ブロカの伴走者であるアレクサンドル・ムヌーシュキンも、製作から降りてしまったのである。 ド・ブロカは妻ミシェルと共に、自らプロデューサーを務めることになった。そしてハリウッドの映画会社ユナイテッド・アーティスツがフランスに持つローカル・プロと、イタリアの製作会社という2社の出資を得て、自ら興したプロダクションで、本作の製作に挑んだのである。 主なロケ地は、パリから40㌔ほど北に在る、サンリスという街。 主演のプランピック役に招かれたのは、イギリス人俳優のアラン・ベイツ(1934~2003)。60年代は、ジョン・シュレシンジャーやケン・ラッセル、ジョン・フランケンハイマーといった気鋭の監督たちの作品に、主演級で起用されていた俳優である。 ベイツは、本作のクランクイン直後に足首を折ってしまったため、撮影はベイツに負担を掛けないように進められることとなった。そのため本作の彼はよく見ると、常に一本足で走っているという。 ヒロインのコクリコには、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド(1942~ )が抜擢された。フランス系カナダ人の彼女は、モントリオールの劇団のパリ公演で、アラン・レネに見出され、『戦争は終った』(65)に出演。そのため一時的にフランスに滞在したことから、本作の出演につながった。 精神科病院の患者を演じて脇を固めるのは、ピエール・ブラッスール、ジャン=クロード・ブリアリ、ミシェリーヌ・プレール、ミシェル・セローといった、フランスの名優たち。イギリス軍の大佐を演じたアドルフォ・チェリは、イタリア人。『007/サンダーボール作戦』(65)の悪役で、ジェームズ・ボンドと死闘を繰り広げたことが、有名である。 さて本作は1966年の12月、フランスで公開されると、観客には見事にそっぽを向かれた。そのためド・ブロカと妻ミシェルは、とにかく1人でも多くに観てもらおうと、チケットを配りまくるハメとなった。 評論家からは、“愚者の物語”と評する声が上がった。つまり興行・批評とも、本国では散々な事態となってしまったのだ。 本作を映画史の闇に埋もれさせなかったのは、実はアメリカとイギリスでの成功だった。特にアメリカは、ハーヴァード大学の在るマサチューセッツ州の街で公開したところ、1週間の上映予定が、結果的には何と5年ものロングランになったという。 この地での盛況を見た、配給のユナイテッド・アーティスツは、国中の大学所在地での興行展開を決定。各所で当たりを取り、本作はいわゆる、“カルト映画”となった。 時はアメリカで、ベトナム反戦運動の燃え盛る頃。本作は多くの若者たち、その中でも特に、ヒッピーたちの支持を集めたのである。 本作で撮影監督を務めたピエール・ロムは、ド・ブロカが高校で映画撮影技術を学んでいた時の、同級生で親友。そんなロムが、アメリカで初めて仕事をする際、現場の者たちは、フランス人が撮影を担当することに、懐疑的な姿勢を見せていた。ところがロムが、本作の撮影監督とわかると、態度が一変。その後は、天才扱いされたという。 しかしアメリカでの成功は、ド・ブロカの懐を潤すことはなかった。ロム曰く、金に困ったド・ブロカが、格安で配給権をユナイテッド・アーティスツに売ってしまったので、本作のために彼が陥った借金地獄の緩和には、繋がらなかったのである。 ド・ブロカはフランスでの大失敗に絶望し、一時は監督業から足を洗おうとさえしたが、結局は脳天気な活劇方面へと、再シフトすることとなる。その一方で、アメリカでの評判から、ハリウッドで監督する話も持ち上がった。 しかし、“映画作家”ではなく“現場監督”扱いされるようなハリウッドの製作体制では、思うようなものは作れない。ド・ブロカはそうした結論に至り、生涯アメリカ映画を手掛けることは、なかった。 本作が辿った道のりと、それに左右されたド・ブロカの監督人生は、1人の“映画作家”としては、不幸な側面が強いのかも知れない。しかしそれ故に、本作の存在はより輝かしいものになったとも言えるのが、何とも皮肉である。■ 『まぼろしの市街戦』© 1966 Fildebroc SARL. (Indivision de Broca)
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COLUMN/コラム2022.04.28
「スウィンギン・ロンドン」前夜の自由な空気を今に伝えるお洒落でシュールなコメディ『ナック』
ユース・カルチャーが台頭した’60年代半ばのロンドン 時代の空気と息吹を鮮やかに封じ込めた、さながらタイムカプセルのような映画である。時は1960年代半ば、場所はイギリスのロンドン。ヨーロッパ諸国に比べて第二次世界大戦後の経済復興が遅れたイギリスだが、しかし’60年代に入ると国民生活も次第に豊かとなり、さらにベビーブーム世代に当たる中流層の若者が経済力を持つことで、本格的な消費社会が到来する。’64年にはそれまでの保守党に代わって、中道左派の労働党政権が誕生。そうした中でファッションやポピュラー音楽などの若者文化が大きく花開き、首都ロンドンは世界に冠たるトレンド発信地へと成長する。 ビートルズにミニスカート、モッズ・カルチャーにカーナビー・ストリート。いわゆる「スウィンギン・ロンドン」の時代だ。’50年代を通して重苦しい空気に包まれたロンドンは、見違えるほど華やかでカラフルな街へと生まれ変わる。欧米のマスコミがロンドンをスウィンギン・シティ(イケてる都市)と呼ぶようになるのは’65~’66年にかけてのこと。’64年に撮影されて’65年に公開された映画『ナック』は、新たな時代へ向けて急速に変わりゆくロンドンの、若さ溢れる楽天的なエネルギーを思う存分に吸い込んだ作品だったのである。 主人公はちょっとばかり神経質な若き学校教師コリン(マイケル・クロフォード)。自宅の部屋を他人に貸している彼は、女性の出入りが激しいモテ男の下宿人トーレン(レイ・ブルックス)にイラっとしており、そのせいで無関係な女性たちにも厳しく当たってしまうのだが、しかし本音を言うと自分もモテたくて仕方がない。女性をゲットするにはどうすればいいのか。このままじゃ将来は欲求不満のスケベおじさんになってしまう! 思いつめた彼は恥を忍んで、トーレンに女性からモテる「コツ(英語でナック)」を伝授してもらおうとする。ところが、面倒くさがりで無責任なトーレンは、「んー、やっぱ食い物じゃね? チーズとかミルクとか肉とか。要するにプロテインよ」「っていうか、直感は大事だよね。でも、こればっかりは生まれつきの才能だからなあ」とテキトーなことばかり。最終的に「女は強気で支配するに限るね」などと言い出す。 その頃、故郷の田舎から長距離バスでロンドンへやって来た若い女性ナンシー(リタ・トゥシンハム)。右も左も分からない大都会に少々面喰いつつも、とりあえずYWCA(キリスト教女子青年会)を探して歩き回るナンシーだったが、しかしなかなか辿り着くことが出来ない。すれ違う人々に道を尋ねても、知らないと首を横に振られたり、間違った道順を教えられたり。そればかりか、見るからに田舎者といった感じの彼女を言いくるめて騙そうとしたり、バカにして軽んじたりする威圧的な男性ばかりに出会う。とはいえ、純朴そうに見えて実は意外としたたかなナンシーは、天性の勘と機転で「女性の危機」を上手いことやり過ごしていく。 一方、女性にモテたいならまずはベッドを大きくしなくちゃね!というナゾ理論に落ち着いたコリンは、部屋を真っ白に塗り替えないと気が済まない新たな下宿人トム(ドナル・ドネリー)に付き添われてベッドを新調することに。スクラップ置場で理想の中古ベッドを発見した彼は、そこへ迷い込んできたナンシーと仲良くなり、3人で意気揚々とロンドンの街を駆け抜けながら自宅へベッドを運ぶ。そこへ現れたトーレンはナンシーに興味津々。コリンも彼女に気があるものの、そんなこと全くお構いなしのトーレンは、チョロそうな田舎娘ナンシーを強気で口説こうとするのだが…!? 新進気鋭の鬼才リチャード・レスターとフリー・シネマの総本山ウッドフォール 本作の基になったのはアン・ジェリコーの同名舞台劇。’62年にロンドンのロイヤル・コートで初演されて評判になった同作は、古い貞操観念や男女の役割に凝り固まった旧世代の保守的なモラルを笑い飛ばす風刺喜劇だった。この舞台版をプロデュースしたのがオスカー・レウェンスタイン。ロンドンの有名な舞台製作者だったレウェンスタインは、その一方で友人トニー・リチャードソンやジョン・オズボーンの設立した映画会社ウッドフォール・フィルムにも深く関わっていた。 ウッドフォール・フィルムといえば、『怒りをこめて振り返れ』(’56)や『土曜の夜と日曜の朝』(’60)、『長距離ランナーの孤独』(’62)などの名作を次々と生み出し、同時期に起きたフランスのヌーヴェルヴァーグと並ぶ重要な映画運動「フリー・シネマ」の中心的な役割を果たしたスタジオである。この舞台版を見て映画化を思いついたリチャードソンは、舞台演出家時代から気心の知れたレウェンスタインに映画版のプロデュースも任せることに。そんな彼らが本作の演出に白羽の矢を立てたのが、当時ビートルズ映画で大当たりを取っていた新進気鋭の映画監督リチャード・レスターだった。 フィラデルフィアで生まれた生粋のアメリカ人だが、少年時代からハリウッド映画よりもヨーロッパ映画を好んで育ったというレスター。19歳で大学を卒業して大手テレビ局CBSに就職したものの、なんとなくアメリカの水が肌に合わないと感じていた彼は、’55年に開局したイギリスのテレビ局ITVの立ち上げに携わり、そのまま同局の番組ディレクターとしてロンドンに居ついてしまう。やがてテレビCMの世界にも進出し、仕事を通じてピーター・セラーズと意気投合したレスターは、セラーズ主演の短編コメディ『とんだりはねたりとまったり』(’59)で映画監督デビュー。そして、この映画の大ファンだったビートルズの指名によって、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(’64)と『ヘルプ!4人はアイドル』(’65)の監督に起用され、テレビCMで培ったポップで斬新な映像感覚が注目される。本作はその合間に手掛けた作品だった。 当時まだ32歳のフレッシュな才能リチャード・レスターと、フリー・シネマの総本山ウッドフォール・フィルム。「スウィンギン・ロンドン」時代の幕開けを告げる映画として、これほど理想的な顔合わせはないだろう。根っからのビジュアリストであるレスター監督は、原作の舞台劇をそのまま映画化するのではなく大胆に改変。重要な要素である「性の解放」と「世代間ギャップ」というテーマはしっかり残しつつ、現実と妄想が巧みに交錯するシュールでお洒落なブラック・コメディへと昇華させている。 早回しや逆再生、ジャンプカットなどの映像技法を凝らした自由奔放な演出は、まさしくビートルズ映画で世に知らしめた当時の彼のトレードマーク。早口で飛び交うリズミカルなセリフのやり取りは、まるでメロディのないミュージカル映画のようだ。バスター・キートンやジャック・タチを彷彿とさせる、とぼけたビジュアル・ギャグの数々も皮肉が効いている。自分たちを縛ろうとする固定概念にノーを突きつけ、今まさに生まれ変わろうとするロンドンの街を、自由気ままに駆け抜けていく4人の若い男女に思わずウキウキワクワク。そんな彼らを見て眉をひそめ、陰口をたたくオジサンやオバサンたちの様子がまた面白い。実はこれ、ロケ現場でたまたま居合わせた通行人を隠し撮りした映像を使っている。そこへ後からセリフを被せているのだ。当時のイギリスの中高年層が、ベビーブーム世代の若者たちをどのような目で見ていたのか分かるだろう。 ヒロインのナンシーを演じるのは、舞台版に引き続いてのリタ・トゥシンハム。当時の彼女はトニー・リチャードソンの『蜜の味』(’61)やデズモンド・デイヴィスの『みどりの瞳』(’64)に主演し、文字通り「フリー・シネマのミューズ」とも呼ぶべき存在だった。そういえば彼女、’60年代のロンドンを描いた『ラストナイト・イン・ソーホー』(’21)にも出ていたが、あの映画のヒロイン、エリーとサンディは本作のナンシーの暗黒バージョンみたいなものと言えよう。後にロンドンとブロードウェイの初演版『オペラ座の怪人』などに主演し、ミュージカル界の大スターとなるマイケル・クロフォードもウルトラ・チャーミング。そのピュアな少年っぽさは、どことなくエディ・レッドメインを彷彿とさせる。 さらに本作は、無名時代のジェーン・バーキンにジャクリーン・ビセット、シャーロット・ランプリングが出演していることでも知られている。夢とも現実ともつかぬオープニング・シーンで、モテ男トーレンに会うため階段にズラリと並んで列を作っている美女たち。ドアを開けたコリンの目の前に立っている女性がジャクリーン・ビセットだ。さらに、コリンの部屋に椅子を借りに来て、その後トーレンのバイクに乗って颯爽と去っていく美女がジェーン・バーキン。また、トーレンやコリンと水上スキーを楽しむダイビングスーツ美女2人の片割れがシャーロット・ランプリングである。 同年のカンヌ国際映画祭ではパルム・ドールと青少年向映画国際批評家賞の2部門に輝き、リチャード・レスター監督の名声を決定的なものにした『ナック』。当時は斬新だった映像技法やユーモアも、時代と共に色褪せてしまった感は否めないものの、しかし「スウィンギン・ロンドン」前夜の活気溢れるロンドンの空気を今に伝える作品として、映画ファンならずとも見逃せない作品だ。■ 『ナック』© 1965 Woodfall Film Productions Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.28
16年振りのシリーズ最終作。『ゴッドファーザーPARTⅢ』で、コッポラが本当に描きたかったものとは!?
アメリカ映画史に燦然と輝く、『ゴッドファーザー』シリーズ。 イタリア系移民のマフィアファミリーの物語を、凄惨で血みどろの抗争を交えて、歴史劇のように描き、今日では「クラシック」のように評されている。少なくともシリーズ第1作、第2作に関しては。 本作『ゴッドファーザーPARTⅢ』に関しては、その存在を好んで語る者は、数多くない。「黙殺」する向きさえある…。 ファミリーの首領=ドン・ヴィトー・コルレオーネをマーロン・ブランドが重厚に演じた、1972年の第1作『ゴッドファーザー』。当時の興行新記録を打ち立て、アカデミー賞では、作品賞・主演男優賞・脚色賞の3部門を獲得した。 ジェームズ・カーン、アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、タリア・シャイアといった、70年代をリードしていくことになる若手俳優たちの旅立ちの場であったことも、映画史的には重要と言える。 74年の第2作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。ファミリーを継いだ若きドン、マイケル・コルレオーネの戦いの日々と、先代であるヴィト―の若き日をクロスさせる大胆な構成が、前作以上に高く評価された。 興行成績こそ前作に及ばなかったものの、アカデミー賞では、作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞・作曲賞・美術賞の6部門を受賞。作品賞を獲った映画の続編が、再び作品賞を得たのは、アカデミー賞の長きに渡る歴史の中でも、この作品だけである。 前作に続いてマイケルを演じたアル・パチーノは、堂々たる主演スターの座に就いた。そしてヴィト―の若き日にキャスティングされたロバート・デ・ニーロは、アカデミー賞の助演男優賞を得て、一気にスターダムを駆け上った。 余談になるが、続編のタイトルに「PARTⅡ」といった数字を付けるムーブメントは、この作品が作ったものである。 そんな偉大な2作から16年の歳月を経て登場したのが、1990年のシリーズ第3作、『ゴッドファーザーPARTⅢ』。主役は前作に続き、アル・パチーノが演じる、マイケル・コルレオーネである。 ********* 1979年、老境に差し掛かったマイケルは、資産を“浄化”するため、ヴァチカンとの取引に乗り出す。コルレオーネファミリーを犯罪組織から脱却させ、別れた妻ケイ(演:ダイアン・キートン)との間に儲けた子どもたちに引き継ぐのが、大きな目的だった。 しかし後を継ぐべき息子のアンソニーは、ファミリーの仕事を嫌って、オペラ歌手の道へと進む。一方、娘のメアリー(演:ソフィア・コッポラ)は、ファミリーが作った財団の顔として、慈善事業の寄付金集めに勤しんでいた。 そんな時マイケルの前に、妹のコニー(演:タリア・シャイア)が、長兄ソニーの隠し子であるヴィンセント(演:アンディ・ガルシア)を連れてくる。マイケルはヴィンセントの、今は亡き兄譲りの血気盛んで短気な気性を不安に思いながらも、自らの配下とする。 ニューヨークの縄張りを引き継がせた、ジョーイ・ザザが叛旗を翻した。ザザは、マイケルが仲間のドンたちを集結させたホテルを、ヘリコプターからマシンガンで襲撃。多くの死傷者が出る中、九死に一生を得たマイケルは、ザザを操る黒幕の存在を直感する。 血と暴力の世界から、抜け出そうとしても抜けられない。そんな己の人生を振り返って、マイケルは、かつて次兄のフレドまで手に掛けたことへの悔恨の念を深くする。ヴィンセントと愛娘のメアリーが恋に落ちたことも、彼を苦悩させた。 ヴァチカンとの取引も暗礁に乗り上げる中、マイケルはヴィンセントに命じて、諸々のトラブルの裏とその黒幕を探らせる。そして彼を、ファミリーの後継者に任ずると同時に、娘との恋を諦めるように諭す。 イタリア・パレルモのオペラ劇場での、息子アンソニーのデビューの夜。ファミリーが集結するそのウラで、またもや血と報復の惨劇が繰り広げられていく。 そしてマイケルには、己が死ぬことよりも辛い“悲劇”が待ち受けていた。 ********* 1990年のクリスマスにアメリカで公開された本作は、アカデミー賞では7部門でノミネートされながらも、結局受賞には至らなかった。興行的にも批評的にも、前2作には、遠く及ばない結果となった『PARYTⅢ』は、同じコッポラを監督としながらも、『ゴッドファーザー』3部作の中では、まるで「鬼っ子」のような扱いを受けるに至ったのである。 そもそも前2作の絶大なる成功がありながら、なぜ『PARTⅢ』の登場までには、16年の歳月が掛かったのか? それは一言で言えばコッポラが、「やりたくなかった」からである。 それとは逆に、製作した「パラマウント・ピクチャーズ」は、この16年の間、折に触れてはこのドル箱シリーズの第3弾を、コッポラに作らせようと働きかけた。80年代前半には、シルベスター・スタローンの監督・主演、ジョン・トラボルタの共演で、『PARTⅢ』の製作をぶち上げたこともある。 これはスタローンの『ロッキー』シリーズで主人公の妻役を演じ続けたタリア・シャイアが、実の兄であるコッポラとスタローンの橋渡し役を務めて、実現しかかった話と言われている。結局コッポラが、スタローンに『ゴッドファーザー』を任せることには翻意して、企画が流れたと伝えられる。 では「やりたくなかった」『PARTⅢ』を、なぜコッポラ本人が手掛けるに至ったのか?大きな理由は、彼の過去作である『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)にある。 ラスベガスをセットで再現するために、スタジオまで買い取って製作した『ワン・フロム…』は、当初1,200万ドル=約35億円を予定していた製作費が、2,700万ドル=約78億円にまで跳ね上がった。しかも劇場に観客を呼ぶことは出来ず、コッポラは破産に至ってしまったのだ。 その後コッポラは、『アウトサイダー』(83)『ランブルフィッシュ』(83)『コットンクラブ』(84)等々の小品や雇われ仕事を多くこなし、借金の返済に務めることになる。しかしディズニーランドのアトラクション用である、マイケル・ジャクソン主演の『キャプテンEO』(86)まで手掛けながらも、経済的苦境から抜け出すことは、なかなか出来なかった。 そこでようやく、自分の意図を最大限尊重するという確約を取った上で、「パラマウント」の提案に乗った。コッポラにとって、最後の切り札とも言える、『ゴッドファーザーPARTⅢ』の製作に乗り出すことを決めたのだ。 コッポラは89年4月から、『ゴッドファーザー』の原作者で、シリーズの脚本を共に手掛けてきたマリオ・プーヅォと、『PARTⅢ』の脚本執筆に取り掛かった。そしてその年の11月下旬にクランクイン。 ほぼ1年後にアメリカ公開となったわけだが、先に書いた通り批評家からも観客からも、大きな支持を得ることは出来なかった。 主演のアル・パチーノも指摘していることだが、その理由は大きく2つ挙げられる。まずは、ロバート・デュバルの不在である。 前2作を通じて、ファミリーの参謀役でマイケルの義兄弟に当たるトム・ヘーゲンを演じてきたデュバルは、『PARTⅢ』への出演を断った。コッポラの妻エレノアの著書によると、デュバルが気に入るよう何度もシナリオを書き直したのに、彼が首を縦に振ることは、遂になかった。 実際はギャラの面で折り合いが付かなかったと言われているが、結果的にヘーゲンは、既に亡くなっている設定にせざるを得なくなった。もしもデュバルが出演していたら、マイケルがヴァチカンと関わることになる触媒的な役割を果たしたという。 そして『PARTⅢ』バッシングの際に、必ず俎上に上げられたのが、マイケルの娘メアリー役のキャスティング。当初この役は、当時人気上昇中だったウィノナ・ライダーが演じることになっていた。しかし突然、「気分が良くないから、参加できない」と降板。 彼女のスケジュールに合わせて3週間も、別のシーンの撮影などで時間稼ぎをしていたのが、パーとなった。そこでコッポラは急遽、実の娘であるソフィアを、メアリー役に充てたのである。「パラマウント」などの反対を押し切ってのこの起用は、マスコミの格好の餌食となった。まるでスキャンダルのように、書き立てられたのである。 デュバルとライダーが出演しなかったことに加えて、アル・パチーノは、本作の大きな間違いとして、「マイケル・コルレオーネを裁き、償わせた」ことを挙げる。「マイケルが報いを受けて、罪の意識に苦しめられるのを誰も見たくなかった」というのだ。『PARTⅢ』のクライマックス、当初の脚本では、マイケルは敵の放った暗殺者に撃たれて、人生の幕を閉じることになっていた。しかしコッポラはそのプランを変更し、マイケルが最も大切なものを失い、その魂が死を迎えるという結末に書き変えた。 まるでシェイクスピアの「リア王」や、それを原作とした、黒澤明監督の『乱』(85)の主人公が迎える結末と重なる。黒澤が、コッポラの最も敬愛する監督であることは、多くが知る通りである。 コッポラは、自らの経験をマイケルに重ねていたとも思われる。『PARTⅢ』の準備に入る3年ほど前=1986年に、コッポラは当時22歳だった長男のジャン=カルロを、ボート事故で失っているのである。 アル・パチーノが指摘する本作の大きな間違いは、実はコッポラにとって、最も譲れない部分だったのではないだろうか? さて『ゴッドファーザー』シリーズを愛する気持ちでは、人後に落ちない自負がある私だが、91年春、日本での劇場公開時に『PARTⅢ』を鑑賞した時の感想を、率直に書かせていただく。それは第1作・第2作に比べれば見劣りするが、「悪くない」というものだった。『ワン・フロム…』後の紆余曲折を目の当たりにしてきただけに、コッポラは『ゴッドファーザー』を撮らせると、やっぱり違う。この風格は彼にしか出せないと、素直に思えた。 そして前2作が、パチーノやデ・ニーロといったニュースターを生み出したのと同じ意味で、マイケルの跡目を引き継ぐことになる、ヴィンセント役のアンディ・ガルシアの登場を歓迎した。ガルシアは、『アンタッチャブル』(87)『ブラックレイン』(89)で注目を集めた、まさに伸び盛りの30代前半に本作に出演。アカデミー賞の助演男優賞にもノミネートされるような、素晴らしい演技を見せている。 本作の後、彼の主演で、レオナルド・ディカプリオを共演に迎えて、『ゴッドファーザーPARTⅣ』が企画されたのにも、納得がいく。残念ながらガルシアは、パチーノやデ・ニーロのようには、ビッグにはならなかったが…。 実はコッポラは本作に、『PARTⅢ』というタイトルを付けたくなかったという。彼が当初構想したタイトルは、『Mario Puzo's The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone』。翻訳すれば『ゴッドファーザー:マイケル・コルレオーネの最期』である。 そしてコッポラは、『PARTⅢ』公開30周年となる昨年=2020年、フィルムと音声を修復。新たなオープニングとエンディング及び音楽を付け加えて再構成を行い、当初の構想に基づくタイトルに変えて、リリースを行った。 このニューバージョンに対し、アル・パチーノは「良くなったと確信した」と賞賛。それまで『PARTⅢ』を「好きじゃなかった」というダイアン・キートンも、この再編集版を「人生最高の出来事のひとつ」と、手放しで絶賛している。 私ももちろん、この『』を鑑賞しているが、何がどのように「良くなった」かは、今回は敢えて触れない。それはまた、別の話である。■ 『ゴッドファーザーPARTⅢ』TM & COPYRIGHT © 2022 BY PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED
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COLUMN/コラム2021.12.03
ハマー・ホラーからの影響も濃厚なSFホラー超大作!『スペースバンパイア』
古典的な侵略型SF映画の進化版 ‘80年代を代表するSFホラー映画の傑作のひとつであり、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった映画会社キャノン・フィルムズが総力を挙げて製作したブロックバスター映画『スペースバンパイア』(’85)。監督は『悪魔のいけにえ』(’74)の鬼才トビー・フーパーである。『未知との遭遇』(’78)や『E.T.』(’82)の大成功によって、ハリウッド映画で地球を訪れるエイリアンが軒並み友好的だった時代、宇宙からやって来た全裸の美女エイリアンがロンドンを火の海にしてしまうというストーリーは、古典的な侵略型SF映画の進化版として温故知新的な魅力に溢れていた。スピルバーグ映画的なSFXやゾンビ映画的な特殊メイクも盛りだくさん。巨匠ヘンリー・マンシーニが手掛けた壮大なオーケストラ・スコアがまた素晴らしく、当時高校生だった筆者も映画館の暗がりでワクワクと胸を躍らせながらスクリーンを見上げたものだ。 76年ぶりに地球へ最接近するハレー彗星の話題で持ちきりの現代(実際にハレー彗星は翌’86年に地球へ接近)。米国人船長カールセン大佐(スティーヴ・レイルズバック)が率いる英国のスペースシャトル「チャーチル号」は、ハレー彗星のコマ(星雲状のガスやダスト)に紛れた謎の巨大宇宙船を発見する。捜索のために船内へと向かった飛行士たちが発見したのは、まるでコウモリのような姿をした不気味なクリーチャーの無数の死骸、そして透明カプセルに収められた人間そっくりの女性1名男性2名だった。その透明カプセルを回収して地球への帰路に就くチャーチル号。ところが、シャトル内で異常な事態が発生し、チャーチル号は地球との連絡を絶ってしまう。 それから1か月後。救助に向かった米国のスペースシャトル「コロンビア号」の乗組員は、火災によってシャトル内が焼き尽くされたチャーチル号を発見し、3名の男女が眠る無傷のカプセルを地球へと持ち帰る。この男女はいったい「何」なのか。ロンドンにある宇宙調査センターのケイン大佐(コリン・ファース)とファラーダ博士(フランク・フィンレイ)、ブコフスキー博士(マイケル・ゴザード)は、正体不明の男女を解剖することに決めるのだが、しかし突然起き上がった女性エイリアン(マチルダ・メイ)が警備員を襲って逃亡する。 駆けつけたファラーダ博士らが発見したのは、女性エイリアンに生命エネルギーを吸い尽くされてミイラ化した警備員の遺体。しかも、これがまた解剖しようとした執刀医の生命エネルギーを吸い取って人間の姿に戻る。どうやらエイリアンたちは人間の精気を吸収するヴァンパイアで、犠牲者もまたヴァンパイアとなって他人の生命エネルギーを奪い、さらなる犠牲者を増やしていくことになるらしい。ただし、2時間ごとにやって来る「飢え」を満たさないと、ヴァンパイア化した人間は炭化して死んでしまう。その頃、眠っていた2名の男性エイリアンも覚醒してセンターから脱走。この不測の事態にケイン大佐やファラーダ博士は頭を抱える。 一方、遠く離れたアメリカのテキサス州でチャーチル号の脱出ポッドが回収され、死んだと思われていたカールセン大佐が生還する。すぐにロンドンへと赴いたカールセン大佐は、スペースシャトル内で復活したエイリアンたちが乗組員を次々に殺し、このまま地球へ帰還すれば人類に危険が及ぶと考えてシャトルを破壊したと説明。彼が女性エイリアンとテレパシーで繋がっていると知ったケイン大佐は、カールセン大佐を伴って彼女の足取りを追うことに。その傍ら、エイリアンを倒す方法を探っていたファラーダ博士は、彼らこそがヴァンパイア伝説の起源であり、これまでにもハレー彗星と共に地球へ飛来していたことを突き止める。そうこうしているうちに、市中へ解き放たれたエイリアンたちが次々と犠牲者を増やし、ロンドンは未曽有の大パニックに陥ってしまう…。 超一流スタッフによるスペクタクルな特撮 原作はイギリスの作家コリン・ウィルソンが1976年に発表したSF小説「宇宙ヴァンパイアー」。しかし映画版ではそのストーリーを大幅に改変しており、むしろ英国ホラーの殿堂ハマー・プロによるSF映画「クォーターマス」シリーズ、中でも3作目『火星人地球大襲撃』(’67)に酷似している点が少なくない。例えば、本作ではハレー彗星と共にやって来たエイリアンがヴァンパイア伝説の原型とされているが、『火星人地球大襲撃』でも太古の昔に地球へ飛来した火星人が「悪魔」の原型だった。クライマックスでロンドンが大パニックに陥るという展開もそっくりである。 さらに言うと、人間の生命エネルギーを吸い取るエイリアンたちの設定も、映画版ではより古典的なヴァンパイア像に近づけられており、ゴシック的なムードを漂わせた美術デザインとも相まって、ハマー・プロが得意とした一連のヴァンパイア映画との類似性も見て取れるだろう。エイリアンが人間の性的な欲望を利用して精気を奪うというエロティックな要素は、「カルシュタイン三部作」を筆頭とする’70年代ハマーのセクシー・ヴァンパイア路線を想起させる。「自分のルーツであるハマー映画の大作版」とトビー・フーパー監督自身も述べているように、往年のハマー・ホラーから多大な影響を受けた作品であることは間違いないだろう。 そのトビー・フーパーがキャノン・フィルムズから本作の企画をオファーされたのは、スピルバーグ製作のホラー映画『ポルターガイスト』(’82)が完成した直後のこと。当時、キャノン・フィルムズで3本の映画を撮る契約を結んだフーパー監督は、その第1弾としてコリン・ウィルソンの原作本を社長メナハム・ゴーランから手渡されたという。ちょうど『バタリアン』の企画から降板したばかりだったフーパー監督は、同作の監督を引き継いだ友人ダン・オバノンに脚本を依頼。あの『エイリアン』の脚本を書いたオバノンはまさしく適任だったと言えよう。 製作準備だけで2年を要した本作は、’84年2月から約半年間に渡ってロンドンで撮影を敢行。チャック・ノリスやチャールズ・ブロンソンが主演する低予算のB級映画で知られていたキャノン・フィルムズは、当時の同社にとって史上最高額となる2500万ドル(現在の金額に換算すると約6500万ドル)もの莫大な予算を用意していた。フーパー監督によると、撮影にあたってゴーラン社長が要求したのは、女性エイリアンを全裸で登場させることだけ。それ以外は一切口出しすることがなかったそうだ。 やはり真っ先に目を引くのは、ミニチュアや実物大セットを駆使したスペクタクルな特撮シーン。オープニングに登場するエイリアンの宇宙船内部は、ロンドン近郊にあるエルストリー・スタジオの巨大なステージ6、通称「スター・ウォーズ・ステージ」に作られた本物のセットである。『戦争と冒険』(’72)や『ラグタイム』(’81)でオスカー候補になったジョン・グレイスマークの美術デザインは、どことなく古典的なゴシック・ホラーの雰囲気を漂わせていて秀逸。また、ロンドン市街が文字通り火の海と化すクライマックスのパニック・シーンも、『スター・ウォーズ』(’77)や『スタートレック』(’79)でお馴染みジョン・ダイクストラの特撮チームが良い仕事をしている。その圧倒的なスケール感は見応え十分だ。 さらに、『スター・ウォーズ』のヨーダを制作したことで知られ、当時は『銀河伝説クルール』(’83)や『ザ・キープ』(’83)などの特撮映画で引っ張りだこだった特殊メイクマン、ニック・メイリーによるミイラ化したヴァンパイアの造形も素晴らしい。今だったらCGで済ませてしまうところだろうが、やはり機械仕掛けのダミーボディを現場でスタッフが操作するアニマトロニクスのリアル感は格別。細やかな表情の変化など見事な仕上がりだ。 最大の見どころはフランス女優マチルダ・メイ しかし、そんな本作の最大の見どころは、実のところ巨額の予算を投じた特撮でも特殊メイクでもなく、一糸まとわぬ姿で女性エイリアンを演じた美女マチルダ・メイだ。フーパー監督自身も「マチルダ・メイがいなければ、この映画は成立しなかった」と断言しているように、その非の打ちどころのない美貌と完璧な肉体で表現される女性エイリアンの、まるでこの世のものとは思えない神秘性こそが、本作の原動力になっていると言えよう。撮影当時まだ19歳だったマチルダは、これが映画出演2作目となるフランス出身のバレリーナ。演劇を学んだこともなければ女優になるつもりもなかったというが、バレエで鍛えたしなやかな動きが女性エイリアンの超然とした存在感を醸し出している。 さらに、テレビ『ヘルター・スケルター』(’76)のチャールズ・マンソン役で有名なスティーヴ・レイルズバック、『エクウス』(’77)や『テス』(’79)で高く評価されたピーター・ファース、ローレンス・オリヴィエの『オセロ』(’65)でオスカー候補になったシェイクスピア俳優フランク・フィンレイなど、キャストに実力のある名優ばかりを揃えたことも、荒唐無稽なストーリーに説得力を与えるという意味で功を奏している。『悪魔のいけにえ』のマリリン・バーンズが『ヘルター・スケルター』にも出演していたことから、フーパー監督は同作の撮影現場を見学に訪れたことがあり、その当時からレイルズバックとは友人だったらしい。 さらに、ファラーダ博士に退治される男性エイリアン役は、あのミック・ジャガーの弟クリス・ジャガー。『ドラゴンVS.7人の吸血鬼』(’74)のドラキュラ役で知られるジョン・フォーブス・ロバートソンなど、ハマー・ホラーに縁の深い英国俳優たちも出演している。もちろん、ピカード艦長役やプロフェッサーX役でお馴染みのパトリック・スチュワートの登場も見逃せない。 ちなみに、当初はケイン大佐役にクラウス・キンスキー、ファラーダ博士役にジョン・ギールグッドがアナウンスされていたが、どちらも諸事情によって降板している。また、フーパー監督がビリー・アイドルのヒット曲「ダンシン・ウィズ・マイセルフ」のMV演出を手掛けたことから、2人目の男性エイリアン役にビリー・アイドルを起用するという話もあったが、スケジュールの都合が合わずに実現しなかった。ビリー・アイドルのエイリアン役は是非とも見てみたかった。 なお、アメリカではエイリアンの宇宙船を舞台にしたオープニングを大幅にカットした短縮版が劇場公開され、そのせいなのかどうかは定かでないものの、当時は興行的な惨敗を喫してしまった本作。エロティックな要素もブロックバスター映画向きではなかったと言われているが、しかしイギリスやフランスなどのヨーロッパでは反対に大ヒットを記録し、今ではカルト映画として日本を含む世界中で熱愛されている。マチルダ・メイはレナード・シュレイダー監督の『ネイキッド・タンゴ』(’91)やビガス・ルナ監督の『おっぱいとお月さま』(’94)で高く評価され、一時はフランスを代表する女優のひとりとなった。先述したようにキャノン・フィルムズと3本の契約を結んでいたフーパー監督は、本作に続いて『スペースインベーダー』(’86)と『悪魔のいけにえ2』(’86)を手掛けることとなる。■ 『スペースバンパイア』© 1985 Easedram Limited. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.12.02
ハイテクな近未来を’80年代テイストで描いたSFサイバーパンク・アクション『アップグレード』
ホラー映画脚本家リー・ワネルが初挑戦した本格的なSF世界 ホラー映画『ソウ』シリーズや『インシディアス』シリーズで知られる脚本家リー・ワネルが、長年の盟友ジェームズ・ワンとのコラボではなく単独で監督・脚本を手掛けた近未来SFアクションである。もともとオーストラリアのメルボルン出身で、地元の名門RMIT大学メディア・コミュニケーション学科に入学したワネルは、周囲の学生がヨーロッパのアート映画を志向する中にあって、「ジェームズ・キャメロンが好き」と臆せず公言する同級生ジェームズ・ワンと意気投合。一緒にホラー映画の脚本を書くようになった2人のデビュー作が、世界規模のサプライズヒットとなった『ソウ』(’04)だった。 ジェームズ・ワンが監督を、リー・ワネルが脚本をという役割分担で、以降も『デッド・サイレンス』(’07)や『インシディアス』(’10)をヒットさせた2人。その傍らで、『ソウ』と『インシディアス』の続編シリーズなどの脚本も手掛けていたワネルだが、しかし学生時代から映画監督志望だった彼は、シリーズ3作目に当たる『インシディアス 序章』(’15)で念願の監督デビューを果たす。そして、盟友ワンが『ワイルド・スピード SKY MISSION』(‘15)でブロックバスター映画へと大きく飛躍したのを機に、インディペンデント志向の強いワネルは予てから温めていたSF映画の企画を低予算で実現することとなる。それがこの『アップグレード』(’18)だったというわけだ。 舞台はそう遠くない近未来。社会がますますテクノロジーに依存していく中、昔ながらのアナログ技術にこだわり続ける自動車整備士グレイ(ローガン・マーシャル=グリーン)は、大手のハイテク企業に勤める愛妻アイシャ(メラニー・バレイヨ)と満ち足りた生活を送っていた。そんなある日、ハイテク業界の風雲児エロン・キーン(ハリソン・ギルバートソン)に依頼されていた自動車の修理を終えたグレイは、納品のため妻を伴ってエロンのもとへ向かう。そこでエロンが開発した革命的なAIチップ「STEM」を紹介された2人。その帰り道、夫婦の乗った自動運転車が突然制御不能となり、暴走を繰り広げた挙句に横転してしまう。そこへ襲いかかる4人の男たち。彼らはグレイに暴行を加えたばかりか、冷酷にもアイシャを殺害して姿を消す。 それから3か月後、辛うじて一命を取り留めたものの四肢が麻痺してしまったグレイ。妻を失った悲しみに加え、車いす生活を余儀なくされて絶望した彼は、思い余って自殺を図るものの失敗する。そこへ現れたのがエロン。彼はグレイにある提案を持ちかける。例のAIチップ「STEM」を脊髄に埋め込む人体実験に協力してみないかというのだ。人間の脳に反応する「STEM」は、脳からの信号を切断された神経へ送り届ける役割を果たす。つまり、以前のように手足を自由に動かせるようになるのだ。結果的に手術は成功。守秘義務契約書にサインしたグレイは、すっかり体の機能が回復したものの、表向きは車いすの生活を続けることになる。 ところが、自宅へ戻ったグレイに何者かが突然語りかける。それは人格を持った「STEM」の声だった。脊髄から鼓膜を通して音声を送るため、その声はグレイにしか聞こえない。想定外の事態に困惑するグレイだったが、しかしそれは同時に天の恵みでもあった。高度な知能を持ち、様々なハイテクマシンにアクセス可能な「STEM」は、彼の‟ある目的“を叶えるために有効だったのだ。それは妻アイシャを殺した犯人グループを自らの手で探し出すこと。警察のコルテス刑事(ベティ・ガブリエル)による捜査はなかなか進展せず、グレイは苛立ちを募らせていたのである。 監視ドローンの記録映像を検証した「STEM」は、犯人グループのひとりブラントナーの居所を突き止めることに成功。ブラントナーの留守宅で、警察へ届け出るための証拠を探していたグレイだったが、そこへ運悪く本人が帰ってくる。しかも、ブラントナーは肉体改造されたサイボーグだった。襲いかかるブレントナーになす術もないグレイ。すると、にわかに「STEM」が彼の身体機能を制御し、超人的なパワーを発揮してブラントナーを殺してしまう。思いがけない強力な武器(=ハイテクな肉体と頭脳)を手に入れたグレイは、さらに残りの犯人グループを突き止めようとするものの、やがて襲撃事件の驚くべき真相を知ることになる…。 CGでは再現できないリアルな臨場感にこだわった撮影 テクノロジーの進化に疑問を抱いてアナログに強くこだわる昔気質な主人公が、人体実験によって最先端のAIテクノロジーを備えたスーパーヒーローに生まれ変わるという皮肉な話。はじめのうちこそ『ナイトライダー』のマイケル・ナイトと「K.I.T.T.」のごとく、お互いに持ちつ持たれつの関係で謎の犯人グループを追跡していくグレイと「STEM」だが、しかし次第にグレイは「STEM」なしでは何もできなくなってしまい、やがて科学技術を利用する立場だった人間が科学技術によって支配されていく。 『アイアンマン』や『ブラックパンサー』などのスーパーヒーロー映画において、高度なテクノロジーは諸刃の刃ではあれども人類に恩恵をもたらすものとして描かれるが、しかし本作はむしろ人間の生命や存在までをも脅かすものとして捉えられ、過度な技術革新がもたらす未来に強い警鐘が鳴らされる。冒頭の制御不能となる自動運転車などはまさに象徴的だ。そのダークでサイバーパンクな映像美を含め、『ターミネーター』(’84)や『ハードウェア』(’90)など、ハイテクの暴走を描いた古典的なSFアクション映画の延長線上にある作品と言えよう。この傾向はワネル監督の次回作『透明人間』(’20)にも相通じる。 ワネル監督が本作のアイディアを思いついたのは2010年前後のこと。そもそもは「車いすに座った四肢麻痺の男性がいきなり立ち上がり、よく見ると首の後ろに埋め込まれたコンピューターに操作されていた」という光景を思い浮かべたことがきっかけだったという。この漠然としたイメージを基にして脚本を書き上げたワネル監督は、作品自体もテクノロジーに頼り過ぎないオーガニックな世界観を目指した。CGで作り込まれた派手な特殊視覚効果よりも、昔ならではのプラクティカルな特撮や特殊メイクが好きだというワネル監督は、もしかすると主人公グレイと似たようなアナログ人間なのかもしれない。 その際に参考としたのが、まさしく『ターミネーター』に『ハードウェア』、そして『ロボコップ』(’86)といった、CG以前のアナログ技術を使ったSFアクション映画群だったという。サイボーグ同士の格闘を描く激しいスタント・シーンは、そのものズバリな『サイボーグ』(’86)や『ネメシス』(’92)などのアルバート・ピュン作品を彷彿とさせるものがある。撮影もグリーンバックではなくロケや実物セットが中心。もちろん、低予算映画ゆえの諸事情もあったとは思うが、しかし作品のテーマと傾向を考えれば正しいアプローチだったと思う。 ちなみに、徹底してリアルな臨場感にこだわったワネル監督は、主人公グレイと人工知能「STEM」の会話もアフレコではなく撮影現場で同時録音している。「STEM」の声を担当する俳優サイモン・メイデンがモニター画面を見ながらセリフを喋り、それをグレイ役のローガン・マーシャル=グリーンが耳に装着した超小型イアピースで聞き取ることで、まさしく劇中のグレイと「STEM」のようなコミュニケーションを成立させているだ。 また、アクション・シーンでは「STEM」に制御されたグレイの素早い動作を細かく捉えた独特なカメラワークが印象的で、後からデジタル加工を施したようにも見えるのだが、実はこれにも意外なトリックが隠されている。専用アプリを使ってiPhoneとデジカメ「Alexa Mini」を同期させ、そのiPhoneをローガン・マーシャル=グリーンの衣装に仕込むことで、ローガンの動きとカメラレンズの動きを完璧にシンクロさせているのだ。これによって、主人公グレイの動作に超人的な印象が与えられているのである。シンプルだが非常に効果的な演出だ。 300万ドルというハリウッド基準ではかなりの低予算映画ながら、興行収入1700万ドルのスマッシュヒットを記録した本作。続編の可能性を予感させるようなエンディングに対して、劇場公開時には「続編を撮る予定はなし」「これはこれで完結した作品」と断言していたワネル監督だが、しかし昨年になってテレビシリーズ化の企画が浮上。医療ドラマ『シカゴP.D.』の脚本家ティム・ウォルシュとワネル監督が共同でクリエイターを務め、本作から数年後のさらに進化した人工知能「STEM」を埋め込まれた新たなキャラクターを主人公に、アメリカ政府がハイテク技術を犯罪捜査のため利用する世界が描かれるという。現時点ではまだ脚本準備の段階だが、ひとまず平凡なSF犯罪ドラマになってしまったテレビ版『マイノリティ・リポート』の二の舞だけは避けて欲しいところだ。■ 『アップグレード』© 2018 Universal City Studios Productoins LLLP. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2021.11.04
『最後の戦い』に視認されるフランス・コミックの幻像
◆バンド・デシネ作家の意匠を実写で再現 ハリウッドスタイルのアクションやハリウッドスターを自国フランスに呼び込むことで、独自の映画様式を築き上げてきた“ヨーロッパ・コープ”。リーアム・ニーソン(『96時間』シリーズ)をシニアのアクションスターとして開眼させ、あるいは『アルティメット』(04)のピエール・モレルや『トランスポーター』(02)のルイ・レテリエら、アクションセンスに長けたフランス人監督を世界に台頭させるなど、いつしかその勢いはハリウッドに「影響を与える側」へと同社を転じさせている。 そんなヨーロッパ・コープの総帥として、自国フランスはおろかアメリカ映画にも大きな影響を及ぼしてきたのがリュック・ベッソンだ。監督としても潜水に闘志を燃やす男たちの生き様を描いた『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』(88)で、おりしの単館系作品ブームと連動するようにカルトな人気を得て、後に『ニキータ』(90)や『レオン』(94)といった哀愁のスナイパーアクション作品で、その名を大きく拡大させた。 そんなベッソンだが、キャリアの初めは一部のSFファンから熱視線が注がれており、その注目の対象となったのが、1983年に公開された長編映画デビュー作『最後の戦い』である。退廃した未来を舞台に、残された人類が資源をめぐり争う野心作だ。なにより初の劇場作品は、端的なまでに監督の趣意や志向、その後に連なるフィルモグラフィの指標を力強く示している。 『最後の戦い』が筆者の視界に入ってきたのは、SF映画専門誌「日本版スターログ」だった。同誌においてSF/ファンタジー作品を中心にしたアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭の記事が掲載され、この映画祭で本作が審査員特別賞と批評家賞を受賞した旨がそこに記述されていた。加えて載っていたのは、主人公の男(ピエール・ジョリベ)の全身を捉えた一枚のスチール写真で、それがもたらすインパクトはあまりにも大きかった。 「こ、これはバンド・デシネだ!」 バンド・デシネとはフランス漫画の通名で、今や有数のジャンルとして日本の漫画やアメリカンコミックと並び世界の漫画ファンの支持を得ている。とりわけ『最後の戦い』のそれはバンド・デシネの巨匠メビウスことジャン・ジローの諸作を彷彿とさせるもので、氏の独特な描画タッチを実写に置換したかのような外観を、この作品は持っていたのだ。 さらに本編に触れてみると、その影響は一枚のスチールだけにとどまるものではなかった。特徴的な装飾感覚とレリーフ描写、モノクロによって強調された陰影のコントラストは、まさに「劇場でバンド・デシネを観る」というべき感覚をもたらした。セリフを必要としない設定や展開も、視覚を主体とする自信をおのずと主張し、またポスト黙示録ともいえる設定とストーリーは、メビウスが創刊に尽力したSFコミック誌「メタル・ユルラン」に掲載されてもおかしくないファンタジー性の強さを放っていた。近年『ヘルボーイ』(04)『パシフィック・リム』(13)で知られるギレルモ・デル・トロ監督も、 「『最後の戦い』は生の「メタル・ユルラン」映画だ」 と、ベッソンのデビュー作を正鵠を射た形でツイートしている。 LE DERNIER COMBAT by Luc Besson. Living Metal Hurlant film w a great, young Jean Reno. No dialogue, all visuals, action & character. Fab.— Guillermo del Toro (@RealGDT) November 19, 2015 しかし『最後の戦い』が発表された80年代初めの日本では、バンド・デシネという呼称も今のように周知されたものではなく、メビウスも『エイリアン』(79)や『トロン』(82)といったアメリカ映画の美術デザインなどで活躍の範囲を広げていたものの、かろうじて映画ファンの間で知られる存在だった。ゆえに『最後の戦い』の先述した印象を共有してもらうことが難しく、また同作とバンド・デシネとの関連に触れた文献が当時から見当たらず、プレス資料や92年リバイバル公開時の厚いパンフレット、そして後年に出版された『最後の戦い』を知るうえで良著ともいえるメイキング書『最後の戦い―リュック・ベッソンの世界』(ソニーマガジンズ)においてさえ一点の言及もなかったため、自分の見立てが間違っているのではと疑心暗鬼になった。 ただベッソンが『最後の戦い』の後に手がけたSFアクション大作『フィフス・エレメント』(97)において、メビウスがコンセプトデザインを担当。これこそがおそらく自分の見立てを立証する根拠だと信じ、機会あれば監督本人に確認してみたいと思い続けていたのだ。 ◆べッソン自身に問うたバンド・デシネへの熱情 そんな『最後の戦い』への膠着した思いが、ついに報われる機会が訪れた。2006年、リュック・ベッソンが手がけた初の3DCG長編アニメーション『アーサーとミニモイの不思議な国』(以下:『アーサー』)の公開にあたり、彼がプロモーション来日を果たし、個別インタビューをすることになったのだ(*1)。奇しくも同作はベッソンが以前より宣言していた「監督作を10本撮ったら引退」の10本目にあたり、なんとか間に合ったという安堵もそこには強くあった。 なので初めての邂逅に緊張と興奮を覚えつつ、『最後の戦い』について制限時間内に言及することができるかどうか気を揉んだものの、そのチャンスは早々に訪れた。まず初問として「引退を撤回する気はないのか?」と訊くと、ベッソンは筆者の言葉を否定することなく、さまざまな媒体から寄せられたであろう疑問に対して食傷気味に「その話は本当だ。なんせ30年も監督をやらせてもらったんだから、そろそろいいんじゃないかと思ってね」と愛想なく答えた。ところが『アーサー』でアニメに初めて着手した動機を問い「昔からバンド・デシネやアニメが好きだったから」という回答に弾みを得た自分は、 「あなたの長編デビュー作である『最後の戦い』は、バンド・デシネの巨匠メビウスにインスパイアされたものなんですか? と言うや、ベッソンは晴れたような笑顔を見せて、以下の返答をくれたのである。 「もちろんメビウスだ。彼は僕のアイディアの源泉で、『最後の戦い』は彼の描く世界を実写で置換した実験作といってもいい。名誉なことにメビウスも『最後の戦い』を観てくれていて(*2)、僕の存在を気にかけてくれてたんだ。だから『フィフス・エレメント』で彼をデザイナーに起用できたんだよ」 もはや『アーサー』の取材を副次的なものだと思うくらい『最後の戦い』とメビウスの存在が確信をもってリンクづけられ、嬉しさのあまり涙腺が決壊しそうになった。しかし、そこは仕事としてグッとこらえ、インタビュー記事の掲載が少年マンガ誌(「週刊少年チャンピオン」)であることを告げ、読者向けにベッソンが勧めるバンド・デシネを訊いてみることにした。すると、 「『フィフス・エレメント』でメビウスと一緒にデザインをお願いしたジャン=クロード・メジエールというアーティストがいるんだけど、彼の連作『ヴァレリアン』シリーズを勧めたいね。日本のコミック読者はレベルが高いから、きっと満足してもらえると思うよ」 このインタビューから現在までに17年が経過したが、その間にリュック・ベッソンは監督宣言を撤回。2021年の時点で10本の倍に迫ろうかという18本もの長編作品を手がけ、自分の質問を快く裏切った。しかも彼がメビウスと共に勧めてくれたメジエールのバンド・デシネを、自身が映画化(『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』(17)するという尾ひれまで華麗にたなびかせて。 しかし引退が反古となったことで、彼のフィルモグラフィをつらぬくバンド・デシネの軸芯を感じることができた。そして前述したように『最後の戦い』が、監督の志向や、その後に連なるフィルモグラフィの指標となったことを、改めて力強く示してくれたのだ。■ 『最後の戦い』© 1983 Gaumont
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COLUMN/コラム2021.11.01
新生『ハロウィン』はシリーズ過去作へのオマージュも満載!
※注意:以下の作品解説コラムにはネタバレが含まれます。本編鑑賞後にお読みください。 ホラー映画の金字塔『ハロウィン』とは? 1978年のハロウィン・シーズン、一本のB級ホラー映画がアメリカで劇場公開された。アメリカのどこにでもある田舎町で、精神病院から脱走した殺人鬼マイケル・マイヤーズがティーンエージャーたちを次々と惨殺していく。そう、ジョン・カーペンター監督によるホラー映画の金字塔『ハロウィン』である。低予算のインディーズ映画に過ぎなかったこの作品は、予算30万ドルに対して世界興収7000万ドルという驚異的な大ヒットを記録。その後の『13日の金曜日』(’80)を筆頭とする’80年代スラッシャー映画ブームの先駆けとなったばかりか、リメイク版を含めて現時点までに通算12本が製作されるほどのロングラン・シリーズとなっている。 そもそもの始まりは1963年のハロウィン。イリノイ州の田舎町ハドンフィールドに住む6歳の少年マイケル・マイヤーズは、両親の留守中に高校生の姉ジュディスを包丁で殺害し、精神病院送りとなってしまう。時は移って1978年のハロウィン当日。スミスズ・グローヴ療養所に幽閉されていたマイケルが脱走。生まれ故郷のハドンフィールドへ向かった彼は、金物店でハロウィンマスクとロープとナイフを盗み、平凡な女子高生ローリー・ストロード(ジェイミー・リー・カーティス)をつけ回す。マイケルの主治医ルーミス(ドナルド・プレザンス)は地元のブラケット保安官(チャールズ・サイファーズ)に警戒を訴えるも、その間にブラケット保安官の娘アンを含む高校生男女3人がマイケルに殺され、幼い子供トミー・ドイル(ブライアン・アンドリュース)とリンジー・ウォレス(カイル・リチャーズ)の子守をしていたローリーも命を狙われるものの、間一髪のところで駆け付けたルーミス医師に救われる。だが、博士の銃弾を受けてバルコニーから転落したはずのマイケルは、跡形もなく忽然と姿を消してしまう。 以上が記念すべき元祖『ハロウィン』のあらましである。余計な説明を極力省いたシンプルなストーリーは、それゆえ本能のままに殺戮を繰り返していくマイケルの、まるで得体の知れない超自然的な怪物性を際立たせて秀逸。無感情にして無言で何を考えているか分からず、人並外れた怪力を持つ不死身の殺人マシン。『スタートレック』のカーク船長のお面を改造したという、どこか哀しげで不気味な白いマスクがまたインパクト強烈だ。このマイケル・マイヤーズという唯一無二のキャラクターこそ、『ハロウィン』が関係者の誰も予想しなかった大ヒットを記録し、長きに渡って愛されることとなった最大の理由であろう。もちろん、当時まだ無名の新人だったジェイミー・リー・カーティスのスター性、ジョン・カーペンター監督自身による不気味な音楽スコアの魅力も外せない。 そして、それから40年後、再びハドンフィールドへ舞い戻ったマイケルとローリーの宿命的な戦いを描いた作品が、リメイク版2本を挟んで16年ぶりにジェイミー・リー・カーティスがシリーズ復活した新生『ハロウィン』(’18)。ただしこれ、実は1作目の直接的な続編として作られており、2作目以降のストーリーはなかったことになっている。なので、ホラー映画ファンには常識である「マイケルとローリーは実の兄妹」という設定もなし。長年に渡って『ハロウィン』シリーズに親しんできたマニアほど戸惑うだろうし、同時に新鮮味も感じられることだろう。そこで、まずは本題に入る前に過去シリーズの変遷(リメイク版シリーズは除く)を駆け足で振り返ってみたい。 シリーズの変遷をたどる 第2弾『ブギーマン』(’81)物語は前作の続き。惨劇を生き延びたものの大怪我を負ったローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は、ハドンフィールド総合病院に担ぎ込まれるものの、後をつけてきたマイケルによって再び殺戮が繰り返される。ローリーがマイケルの実の妹であることが初めて明かされるのは本作。ルーミス医師(ドナルド・プレザンス)の元部下である看護婦マリオン(前作にも同役で出演したナンシー・スティーブンス)が発見した機密ファイルによって、1963年の事件当時ローリーはまだ2歳で、その直後に両親が死亡したことからストロード家へ養子に出され、プライバシー保護のため出生の秘密が隠されてきたことが判明する。15年前に姉を殺したマイケルは、今度は妹の命も狙っていたというわけだ。また、劇中のフラッシュバックでは、幼少期のローリーが精神病院に幽閉されたマイケルを見舞っていたことも描かれる。 第3弾『ハロウィンⅢ』(’82)『ハロウィン』シリーズのタイトルを冠しただけで、ストーリー的には全く関係のない番外編的な作品。ハロウィンのルーツである古代ケルトのドルイド教を信仰するカルト集団が、ハロウィンマスクを使って子供たちを神への生贄にしようとする。もちろん、マイケル・マイヤーズもルーミス医師もローリーも出て来ず。案の定、興行的には大コケした。 第4弾『ハロウィン4/ブギーマン復活』(’88)舞台設定はハドンフィールドの惨劇から10年後。ローリーは夫と共に交通事故で亡くなったことになっており、本作ではその幼い娘ジェイミー(ダニエル・ハリス)が主人公となる。昏睡状態のまま病院に収容されていたマイケルは、自分に姪がいることを知って意識を取り戻し脱走。ハロウィンで賑わうハドンフィールドへ再び姿を現し、今は別の家庭の養女となったジェイミーの命を狙う。ジェイミーが恐怖体験の後遺症でマイケル化してしまい、その姿を見たルーミス医師(ドナルド・プレザンス)がショックのあまり絶叫するラストが印象的だ。 第5弾『ハロウィン5/ブギーマン逆襲』(’89)前作の1年後。PTSDでハドンフィールド児童病院に入院していたジェイミー(ダニエル・ハリス)が、意識を取り戻したマイケルとテレパシーで繋がってしまい、再び惨劇の幕が切って落とされる。ラストはフードを被った謎の人物がマイケルとジェイミーを連れ去るという衝撃の展開に。ジェイミーに「おじさん」と呼ばれたマイケルが、マスクを脱いで涙を流す場面もある。 第6弾『ハロウィン6/最後の戦い』(’95)前作から6年後の本作では、まずマイケルとジェイミーを連れ去った人物が、ドルイド教のカルト教祖であることが判明。さらに、マイケルが不死身なのはドルイド教の呪いが原因だと明かされる。まあ、確かに2作目『ブギーマン』でもマイケルとドルイド教の関連を匂わせるセリフはあったが、まさかそういうことだったとは(笑)。今回のマイケルが狙うのは、ジェイミーが出産した息子。スティーブンと名付けられたその赤ん坊を守るため、1作目でローリーが子守をしていたトミー・ドイル(ポール・ラッド)とルーミス医師(ドナルド・プレザンス)が、マイケルとカルト教団を相手に戦うこととなる。 第7弾『ハロウィンH20』(’98)ジェイミー・リー・カーティス演じるローリーが復活したシリーズ20周年記念作。こちらは2作目の直接的な続編となっており、それ以降の設定はなかったことにされている。全くもって、ややこしいですな(笑)。で、全米各地で殺人事件を繰り返す兄マイケルから身を守るために死を偽装したローリーは、名前を変えて全寮制高校の校長を務めながら一人息子ジョン(ジョシュ・ハートネット)を育てている。事情を知っているのは旧知の看護婦マリオン(ナンシー・スティーブンス)だけなのだが、そのマリオンがマイケルに殺されて書類が盗まれたことから、ついに居場所を突き止められてしまう。マイケルが自分を殺しに来るとの強迫観念にとらわれ、息子を守らんがため神経質になっているローリーは、まさしく新生『ハロウィン』のローリーそのものだ。 第8弾『ハロウィン レザレクション』(’02)前作に続いてジェイミー・リー・カーティスが登板した作品だが、しかしローリーが出てくるのは序盤だけ。PTSDを装って精神病院へ入院していたローリーは、来るべき兄マイケルの襲撃に備えて罠を仕掛けていたものの、なんとあえなく殺されてしまう!以降は、ウェブ番組の肝試し企画でマイヤーズ家の廃墟に潜入した若者たちが、次々とマイケルの餌食になっていくという凡庸なストーリーが展開。どうやら、ローリー役のジェイミーはこれを以て『ハロウィン』シリーズに終止符を打つつもりだったらしい。 全編に散りばめられたオマージュを探せ! かように、人物設定や相関関係が複雑怪奇になってしまった『ハロウィン』シリーズ。本作を1作目の直接的な続編にした理由のひとつは、それらのストーリーラインをカバーしきれなかったからだという。そもそも、1作目が大成功したのはストーリーも設定も極めてシンプルだったから。この機会に原点回帰を図るという意図もあったのだろう。なので、ローリーとマイケルが兄妹だという事実もなければ、娘ジェイミーや息子ジョンの存在もなし。そればかりか、実は1作目のあとでマイケルは警察に逮捕され、40年間に渡って精神病院に幽閉されてきたことになっているのだから驚かされる。 ハドンフィールドの惨劇から40年後の現在。ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)は今なお深刻なPTSDを抱えており、いつか必ずマイケルが自分を殺しにやって来るという強迫観念に囚われていた。そのため、自宅を要塞のように改造して引きこもり、酒に溺れる毎日を送っている。そんな母親を娘カレン(ジュディ・グリア)は疎ましく思っているが、しかし高校生の孫娘アリソン(アンディ・マティチャック)は祖母を理解しようと努めていた。やがて訪れるハロウィン・シーズン。精神病院から刑務所へ移送中のバスからマイケルが脱走し、40年前の決着をつけるためにハドンフィードへと舞い戻ってくる…というわけだ。 終盤はローリーと娘カレン、孫娘アリソンが団結し、様々なトラップを仕掛けた自宅を舞台にマイケルとの死闘を演じる。故ルーミス医師が「純粋なる邪悪」と呼んだマイケルは、子供だろうが女性だろうが、はたまた善人だろうが悪人だろうが容赦なく襲いかかるという意味において、さながら地震や台風など自然災害の如し。そんな理屈の通用しない理不尽な暴力に対し、口ばかりで役に立たない男たちを差し置いて、愛と勇気で結ばれた三世代の聡明な女性たちが連帯して立ち向かうという筋書きは、女性のエンパワーメントとジェンダーロールの再定義を掲げる第4派フェミニズムの時代に相応しいとも言えよう。 既に述べたように、シリーズ2作目以降のストーリーや設定をリセットしてしまった本作だが、しかしその一方で「ファンのため、過去作の全てにオマージュと敬意を捧げている」と脚本家デニー・マクブライドが語っているように、全編に渡ってシリーズ各作品からの引用が見受けられる。どれだけオマージュを探し当てられるかも、ファンにとっては大きな楽しみだろう。 そこで最後に、筆者が気付いたオマージュ・ネタを幾つかご紹介してみたい。 「教室の窓から外を眺めるアリソン」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』恐らくこれは最も分かりやすいオマージュであろう。1作目では授業中にローリーが教室の窓から外を眺めるとマイケル・マイヤーズが立っているが、今回の新生『ハロウィン』でアリソンの視線の先にいるのはローリー。ファンなら思わずニヤリとするはずだ。 「公衆トイレにマイケル襲来!」 元ネタ:『ハロウィンH20』ガソリンスタンドの公衆トイレでジャーナリストたちがマイケルに殺されるシーン。これとよく似ているのが、道路脇の公衆トイレに立ち寄った母親と幼い息子がマイケルと遭遇する『ハロウィンH20』のワンシーンだ。ただし、こちらの母子は殺されずに済むのだが。 「キッチンから包丁を奪うマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』ハドンフィールドへ戻ったマイケルは、まずは凶器を調達!とばかりに民家のキッチンへ押し入り、赤いガウンを着たオバサンを殺して包丁を奪うのだが、2作目『ブギーマン』にも似たシーンがある。ただし、こちらのオバサンはピンクのガウン姿で、幸いにも殺されずに済む。 「電話で事件を知った主婦を背後から襲撃するマイケル」 元ネタ:『ブギーマン』こちらも2作目のオマージュ。本編に登場する順番まで一緒だ。『ブギーマン』では友達との電話で惨劇を知った女子高生が、「まじ?怖くね?」と言っている間に背後から忍び寄ったマイケルに殺されるのだが、本作ではマイケルの逃亡を電話で聞いて戸締りしようとした主婦が同様の目に遭う。 「白いお化けシーツを被ったヴィッキー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』マイケルに殺されたアリソンの親友ヴィッキー。まるでハロウィンの仮装のごとく、その死体には白いお化けシーツが被されているのだが、これは1作目で恋人ボブのふりをしたマイケルに、ローリーの親友リンダが殺されるシーンのオマージュと思われる。 「何も知らずに夜道を歩くアリソン」 元ネタ:『ハロウィン4/ブギーマン復活』マイケルがハドンフィールドに戻ったことも、警察が安否確認のため行方を探していることも知らず、パーティ会場を出て友達と夜道をとぼとぼ歩くアリソン。目の前で友達が殺されたことで、ようやく事態に気付いて周辺住民に助けを求めた彼女を、保安官とサルテイン医師がパトカーで迎えに来る。これと同様に、4作目でもマイケルが町に戻って、警察が自分を探していると知らないジェイミーは、トリック・オア・トリートのために夜道を歩いていたところ、やはりパトカーに乗った保安官とルーミス医師に助けられる。 「マイケルをトラップで迎え撃つローリー」 元ネタ:『ハロウィン レザレクション』いよいよマイケルと対峙することになったローリーは、家のあちこちに仕掛けたトラップでマイケルを迎え撃つわけだが、同様に『ハロウィン レザレクション』のローリーも、マイケルが自分を殺しに来た時のため、精神病院の屋上にトラップを仕掛けていた。 「2階から転落したローリーを見下ろすマイケル」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』これは’78年版クライマックスへのオマージュ。1作目ではルーミス医師の銃弾を浴びたマイケルが2階から転落。ローリーが無事か確認したルーミス医師が再び下を見下ろすと、既にマイケルの姿は消えているのだが、本作ではローリーが2階から突き落とされ、マイケルが見下ろすこととなる。 「マイケルの背後の暗闇から浮かび上がるローリー」 元ネタ:オリジナル版『ハロウィン』犠牲者の背後の暗闇から白いマスクを被ったマイケルが浮かび上がる…というのはシリーズを通してのお約束だが、その原点はもちろん’78年のオリジナル版。しかし本作では、反対にローリーがマイケルの背後の暗闇から姿を現し、「ハッピー・ハロウィン」の決め台詞と共に一撃をお見舞いする。 「ガス大爆発」 元ネタ:『ブギーマン』本作のクライマックス、マイケルを地下室に閉じ込めたローリーたちが、家中にガスを充満させて火を点け大爆発させる。一方の『ブギーマン』では、病院の物置部屋に追い詰められたローリーとルーミス医師が、部屋中に置かれたガスボンベの栓を開いてガスを充満させ、先にローリーを逃がしたルーミス医師が火を点けてマイケルもろとも吹っ飛ぶ。 他にも様々なオマージュが散りばめられていると思うので、ぜひ探してみて欲しい。 なお、現在劇場公開中の『ハロウィンKILLS』(’21)は本作の直後から始まり、ハドンフィールドの町を舞台にマイケルが大量殺戮を繰り広げることになる。オリジナル版からはリンジー役のカイル・リチャーズにブラケット保安官役のチャールズ・サイファーズ、さらには7作目で殺された看護婦マリオン役のナンシー・スティーブンスが再登場。’22年のハロウィン・シーズンには、シリーズ完結編となる『Halloween Ends』(邦題未定)も公開される予定だ。■ 『ハロウィン(2018)』© 2018 Night Blade Holdings LLC. All Rights Reserved.
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COLUMN/コラム2020.10.09
無敵のサイキック美少女の壮絶リベンジを描く韓流SFアクション!『The Witch/魔女』
徹底した娯楽精神と惜しみないサービス精神は韓国映画の強み さながら韓国版『ストレンジャー・シングス』もしくは『エルフェンリノート』である。『パラサイト 半地下の家族』(’19)がカンヌ国際映画祭のパルムドールとアカデミー賞の作品賞をダブルで制し、今や紛れもないアジア最大の映画大国となった韓国。その成功の秘訣は高い芸術性や自由で豊かな創造力など幾つも挙げられると思うが、中でも大きな強みとして欠かせないのは徹底した娯楽精神と惜しみないサービス精神だ。 近年のヒット作『新感染 ファイナル・エクスプレス』(’17)や『EXIT イグジット』(’19)、『エクストリーム・ジョブ』(’19)にしても、実はジャンルやプロットそのものは決して目新しくない。むしろ散々使い古されてきたものと言っても差し支えないだろう。しかし、韓国映画はそこに独自の視点で新たな“ひねり”を加え、アクションありユーモアありサスペンスありバイオレンスありの大盤振る舞いによって、極上のエンターテインメント作品へと昇華させるのが非常に上手い。このサイキック美少女アクション『The Witch/魔女』(’18)もまた同様だ。 先述した『ストレンジャー・シングス』や『エルフェンリノート』はもとより、『AKIRA』や『炎の少女チャーリー』、『スキャナーズ』などなど、似たような題材の映画やコミック、テレビシリーズを挙げればきりがないのだが、しかし「おっと、そうきますか!」というユニークな着眼点にワクワクさせられ、中盤のアッと驚くような“ひねり”に大興奮させられ、畳みかけるようなスリルとアクションとバイオレンスに圧倒される。これぞ韓国映画の醍醐味と言えるだろう。 謎の施設から脱走した少女の正体とは…? 物語の始まりは森に囲まれた謎の施設。責任者らしき女性ドクター・ペク(チョ・ミンス)が到着すると、そこは一面が血の海となっている。夜の闇に紛れて逃走する幼い少女。ドクター・ペクの手下ミスター・チェ(パク・ヒスン)率いる捜索隊が少女を追跡するも取り逃がしてしまう。どのみち少女は死んでしまうと言い残して去っていくドクター・ペク。その頃、森を抜けた少女は農場へとたどり着き、その姿を見かけた酪農家ク夫婦によって助けられる。 それから10年後。ジャユン(キム・ダミ)と名付けられた少女はク夫婦に育てられ、どこにでもいる平凡な女子高生として暮らしている。かつてアメリカ在住の建築家だった養父と養母は、交通事故で子供と孫を失っていたため、ジャユンには惜しみない愛情を注いできた。農場へ来る以前の記憶が一切ないジャユンだが、養父母だけでなく地元の住民たちからも可愛がられ、口が悪いけど気は優しい親友ミョンヒ(コ・ミンシ)と幸せで楽しい青春を謳歌しているようだ。 しかし、そんな彼女にも大きな悩みがあった。養父母の経営する農場が財政難に陥っていたのだ。そればかりか、ジャユンは定期的に起きる原因不明の激しい片頭痛に苦しみ、すぐに骨髄移植をしなくては余命2~3カ月だと医師に宣告される。だが、これ以上養父母に心配をかけるわけにはいかないと、ジャユンは病気のことを周囲には隠していた。なんとかして両親を楽にさせてあげたい。そう考えていたところ、ミョンヒからテレビのオーディション番組「スター誕生」の存在を知らされたジャユンは出場を決意。賞金を獲得して農場の借金返済へ充てることに望みを賭けたのだ。 愛らしい容姿と歌の上手さを活かして、見事に地方予選を勝ち抜いてソウルで行われる本選への出場を決めたジャユン。しかし、地方予選のテレビ放送を見た養父母は困惑する。というのも、審査員から特技を見せてくれと言われたジャユンは、マイクを宙に浮かせる“マジック”を披露したのだ。だが、これはマジックなどではなかった。幼少期から不思議な超能力を備えていたジャユンは、それを決して人前で見せてはいけないと養父母から固く注意されていた。世間は自分たちと違う人間を放っておかないから…と。 その頃、同じ放送を見ていたドクター・ペクとミスター・チェは驚く。これはあの逃げた少女に違いない、まだ生きていたのか!と。10年前に事件の起きた施設は、とある巨大企業の生物学研究所だった。そこでドクター・ペクは、遺伝子操作によるミュータントを生み育てることに成功していたのだ。ジャユンはその中のひとりだった。しかも、彼女には他の実験体とは比較にならないほどの優れた知能と超能力と残酷性が備わっており、“怪物”とまで呼ばれる最強のサイキック少女だったのである。 この日を境として、ジャユンの周辺で怪しげな人物が次々と暗躍する。ソウルへ向かう列車でジャユンとミョンヒの前に姿を現す若い男性(チェ・ウシク)、テレビ局の前で待ち伏せていた芸能事務所社長を名乗る男とボディガードたち。最高の実験体を自らの手元に取り戻したいドクター・ペクと、ジャユンを脅威と考える会社の指示で動くミスター・チェ、それぞれが追手を差し向けていたのだ。自分の正体を知らないジャユンは困惑して恐怖に怯えるものの、しかし愛する養父母やミョンヒに危険が迫った時、長く眠っていた彼女の凄まじい能力が一気に覚醒する…。 主演は『梨泰院クラス』のキム・ダミ! ネタバレするわけにはいかないため、残念ながらこれ以上多くは語れないものの、しかしヒロインのジャユンが“生みの親”たるドクター・ペクと対面し、ある衝撃的な真実が明かされる中盤にこそ、本作の核心的なテーマが秘められていると言えるだろう。果たしてジャユンの正体は善なのか悪なのか。そもそも、絶対的な悪=殺人兵器として生を受けた者が、その成長過程によって善へと生まれ変わることは可能なのか。人格形成のプロセスには遺伝子や家庭環境の影響など諸説あるものの、本作は善悪の境界線を曖昧にすることで、その答えを観客の想像と判断に委ねつつ、いったいジャユンの本性はどちらなのか?超能力者として覚醒した彼女は次に何をするのか?というサスペンスを盛り上げる。 もちろん、最強の殺人者としてのポテンシャルをフルに発揮していくジャユンの無双ぶりも大きな見どころだろう。なにしろ、それまでごく普通のか弱い女の子にしか見えなかった彼女が、不敵な笑顔を浮かべながら圧倒的な破壊力を駆使し、次々と悪人どもをなぎ倒していくのだから、そのカタルシスたるやハンパがない。もはやサイキック・バトルというよりも一方的な大虐殺。CGやワイヤーワークを全面に出し過ぎないスタント・アクションも完成度が高い。 監督と脚本を手掛けたのは、『悪魔を見た』(’10)の脚本家として注目され、『新しき世界』(’13)や『V.I.P.修羅の獣たち』(’17)などの韓流バイオレンスをヒットさせて来たパク・フンジョン。これまでハードボイルドな男性映画ばかり撮ってきた彼にとって、本作は珍しいSFアクション系の作品であり、同時に初めて“強い女性”をメインに据えた映画でもある。ヒロインのジャユンは勿論のこと、男社会たる組織での不満を抱えたマッド・サイエンティストのドクター・ペクもまた、ままならぬ人生を自分の思い通りに切り拓こうと闘うタフな女性だ。こうした、ある種のフェミニズム的な傾向もまた本作の意外な要素であり、パク・フンジョン監督の成長と変化を如実に感じさせる。 ジャユン役を演じるのは、参加者1500人のオーディションを勝ち抜いた新人キム・ダミ。日本で大ヒットしたばかりのテレビドラマ『梨泰院クラス』(’20)でもお馴染みの女優だ。これが初の大役だった彼女は韓国内の新人賞を総なめにし、たちまちトップスターの座へと躍り出た。それもそのはず、とにかく恐ろしいくらいに演技が上手い。しかも、あどけない少女の面影を残す無垢な存在感が、天使と悪魔の顔を併せ持つジャユンの得体の知れなさを引き立てる。対する悪女ドクター・ペク役のチョ・ミンスは、キム・ギドク監督の『嘆きのピエタ』(’12)で大絶賛された女優。また、『パラサイト 半地下の家族』の息子役で知られる純朴系俳優チェ・ウシクが、珍しくクールな悪役を演じているのも要注目だ。 なお、数々の謎を残して終わるエンディングをご覧になれば分かるように、本作はシリーズ映画の第1作目に当たる。一説によると三部作になるとも言われているが、最新の情報によると新型コロナのため第二弾の制作はスケジュールを調整中のようだ。■ 『The Witch/魔女』© 2018 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
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COLUMN/コラム2020.09.07
ロシア産SF映画史上最大のヒットを記録したSFパニック大作『アトラクション 制圧』
ソビエト時代から連綿と受け継がれるSF映画の伝統近年、ロシア産のSF映画が徐々に注目を集めつつある。今年だけでも『ワールドエンド』(’19)に『アンチグラビティ』(’19)、そして『アトラクション 制圧』(’17)の続編である『アトラクション/侵略』(’20)などが相次いで日本へ上陸。かつては、ロシアのSF映画というとアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(’72)や『ストーカー』(’79)くらいしか思い浮かばない日本人も多かったと思うが、それももはや「今は昔の話」と呼ぶべきだろう。 こうしたロシア産SF映画のムーブメントは、恐らくティムール・ベクマンベトフ監督による『ナイト・ウォッチ』(’04)と『デイ・ウォッチ』(’06)の世界的なヒットがきっかけだったように思う。どちらもジャンル的にはファンタジーに分類される作品だが、しかしロシアでもハリウッドのようにVFXを多用したエンターテインメント映画が成立することを証明したことの意義は大きく、これ以降ロシアでも『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』(’08~’09)や『タイム・ジャンパー』(’08)とその続編『タイムソルジャー』(’10)、露米合作『ダーケストアワー 消滅』(’11)など、ハリウッド路線のSF映画が続々と作られるようになる。 ただ、振り返ればソビエト時代からロシアにはSF映画の長い伝統と歴史がある。その原点がフリッツ・ラングの『メトロポリス』(’27)や『月世界の女』(’29)を先駆けたSF映画の古典『アエリータ』(’24)。世界で初めて宇宙旅行をリアルに描いたとされる『宇宙飛行』(’35)も忘れてはならない。アレクサンドル・コズィリ&ミカイル・カリューコフ監督の『大宇宙基地』(’59)やパーヴェル・クルチャンツェフ監督の『火を噴く惑星』(’61)は、アメリカのB級映画製作者ロジャー・コーマンが追加撮影と再編集を施し、複数の全く違う映画へ変えてしまったことで有名だ。 また、ティーンエージャーたちが宇宙船に乗って銀河系へ冒険の旅に出る「モスクワ=カシオペア」(’74・日本未公開)とその続編「宇宙の十代たち」(’75・日本未公開)は、西側の特撮SFアドベンチャー映画を知らないソビエトの青少年にとって、いわば『スター・ウォーズ』や『スター・トレック』みたいなものだったとも言えよう。他にも、エイリアンと人類のファースト・コンタクトを抒情的に描く『エバンズ博士の沈黙』(’74)は大人向けの優れたSF映画だったし、独特のシュールな世界観が強烈な印象を残す『不思議惑星キン・ザ・ザ』(’86)は日本でも大ヒットした。このように、かつてのロシアではタルコフスキー作品以外にもSF映画の製作が盛んだったのである。 しかし、ソビエト連邦の解体によってロシア経済が低迷した’90年代、制作コストのかかるSF映画は敬遠されるようになってしまう。いわば空白の時代だ。それだけに、’00年代半ば以降のロシア製SF映画の復権と台頭は素直に喜ばしいし、なにより伝統あるロシア映画界がいよいよハリウッドばりのSF大作映画を作るようになったことに感慨深いものがある。まあ、あくまでもまだ発展途上にあることは否めないため、どうしても大ヒットしたハリウッド映画のパクリみたいな作品は少なくないし、技術的に洗練されているとは言い難い部分も見受けられるが、しかしそこは実績を重ねるうちに成熟していくはずだ。そういう意味において、ロシアのSF映画史上最大の興行収入を稼いだ本作『アトラクション 制圧』は、ひとつのターニングポイントになった作品とも言えるだろう。あくまでもロシア的なものにこだわったストーリーと世界観舞台は現代のロシア。モスクワ郊外の北チェルタノヴォ地区では、人々が珍しい隕石雨の観測を心待ちにして大空を眺めている。ところが、その隕石雨の中には故障した宇宙船が紛れ込んでおり、そのことに気付いたロシア軍の迎撃機がミサイルを命中させたところ、宇宙船は住宅街に墜落して200人以上の住人が犠牲となってしまう。宇宙船から降り立ったのは未知のエイリアン。果たして、地球へ何をしにやって来たのか?エイリアンと対峙したロシア非常事態省のレベデフ大佐(オレグ・メンシコフ)は、少なくとも相手に攻撃する意思がないことから、無用の争いを避けるためにも戒厳令を敷いて事態を静観することを政府に進言する。 しかし、これに不満を隠せないのがレベデフ大佐の一人娘ユリア(イリーナ・スタルシェンバウム)。親友スヴェタを墜落事故で亡くした彼女は、その原因を作ったのがロシア軍側にあることも知らず、エイリアンが地球を侵略しに来たものと決めつけ復讐を決意する。恋人チョーマ(アレクサンドル・ペトロフ)とそのチンピラ仲間たちを集め、封鎖された事故現場へと忍び込んだユリアは、そこでエイリアンとばったり遭遇。驚いて転落しそうになった彼女をエイリアンが助けるものの、そうとは知らないチョーマたちは身代わりに転落したエイリアンの強化スーツを奪い去っていく。 一方、自分を助けるために重傷を負ったエイリアンを救出するユリア。ヘイコン(リナル・ムハメトフ)と名乗るエイリアンは人間とソックリで、しかも流暢なロシア語を話す。彼はたまたま事故で地球へ飛来しただけで、47光年先にある故郷の惑星へ戻ることを望んでいた。だが、そのためには現場からロシア軍が持ち去ったシルクという物体が必要だ。そこで、シルクを取り戻すべく力を貸すことにしたユリアは、やがて純粋で心優しいヘイコンと深く愛し合うようになる。だが、それを知って嫉妬の炎を燃やすチョーマは、一般大衆のエイリアンに対する恐怖心や復讐心を煽って自警団を組織し、宇宙船を破壊してヘイコンを亡き者にしようとする…というわけだ。ある日突然、空から巨大な宇宙船が地球へ飛来し、人類がパニックに陥るという侵略型SFのパターンを踏襲しつつ、実は友好的だったエイリアンの存在を通して、有史以来争いや殺し合いに明け暮れる人類の野蛮な愚かさが炙り出されていく。そうしたプロット自体は『地球が静止する日』(’51)の昔から使い古されてきたものだが、しかしそこへ未知なる他者へ対する不寛容や憎悪に煽られる大衆心理、盲目的な愛国心の危うさなど、昨今の国際情勢を取り巻く不穏な要素を散りばめることで、極めて現代的なSFドラマとして仕上げられていると言えよう。 基本的に原作物が多いロシア産SF映画にあって、本作は近年増えつつあるオリジナル・ストーリー物なのだが、それでも実は元ネタになった出来事がある。それが、’13年10月にモスクワ南部で起きた「ビリュリョーヴォ地区の騒乱」だ。工業地帯であるビリュリョーヴォ地区に暮らす25歳の若者が刺殺され、目撃された犯人が中央アジア系の移民であったことから、増加する一方の不法移民やそれを黙認する当局に対する地元住民の不満が爆発。大規模なデモは近隣都市へと飛び火し、ロシア人の若者と移民の間で暴力的な衝突まで発生した。フョードル・ボンダルチュク監督は本国公開時のインタビューで、「これは我々ロシア人全員に関係する問題を描いているからこそ、私の手で映画化しなくてはならないと思った」と語っているが、本作では現代ロシアに蔓延する深刻な民族対立を憂慮し、多様性のある成熟した社会の実現を願う意図があることは間違いないだろう。そういう意味で、現代的であると同時に非常に“ロシア的”なテーマを扱った映画でもある。 エイリアンの宇宙船や強化スーツの洗練された独特なデザインを含め、ロシア産SF映画がたびたびハリウッド映画の物真似と揶揄されがちだからこそ、なるべく“ロシア的”であることにこだわったというボンダルチュク監督。ソビエト時代の国民的な俳優・監督だったセルゲイ・ボンダルチュクを父親に持つ彼は、ロシアを代表するSF作家ストルガツキー兄弟の小説を映画化したSF超大作『プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星』も手掛けているが、恐らく本作においては従来のハリウッド的なるものと決別した、よりロシア映画らしいSFエンターテインメントの世界を模索したのかもしれない。先述したように、本国では歴史的な大ヒットを記録した金字塔的な映画だが、ここからロシア産SF映画がどのように発展していくのか要注目だ。 ちなみに、ロシア映画ファンにとって興味深いのは、チョーマ役のアレクサンドル・ペトロフとレベデフ大佐役のオレグ・メンシコフの顔合わせであろう。人気の伝奇ホラー・ファンタジー『魔界探偵ゴーゴリ』(’17~’18)シリーズで、それぞれ若き日の文豪ニコライ・ゴーゴリとその相棒グロー捜査官を演じた名コンビ。ペトロフは現在ロシアで最も売れている若手俳優のひとりで、リュック・ベッソン監督の『ANNA/アナ』(’19)ではヒロインのダメ亭主を演じていた。一方のメンシニコフは巨匠ニキータ・ミハルコフの作品に欠かせない名優で、中でも『太陽に灼かれて』(’94)に始まる「ナージャ三部作」のKGB幹部ドミートリ役で有名だ。■『アトラクション 制圧』(C) Art Pictures Studio