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PROGRAM/放送作品
ミッション:インポッシブル/フォールアウト
イーサン・ハント史上最難関のミッションが幕を開ける!トム・クルーズ主演の大ヒットスパイシリーズ第6弾
クリストファー・マッカリーが前作から監督を続投。世界同時核爆発阻止に挑むイーサン・ハントの奮闘を、トム・クルーズが自ら操縦するヘリ・アクションや上空7620mからのスカイダイブなどスタントなしで熱演。
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COLUMN/コラム2023.07.27
“生身の戦い”に勝るものなし『レイジング・ファイア』
◆香港アクションの旗手ベニー・チャン最後の作品 正義感に燃えるチョン警部(ドニー・イェン)は、何年も追っていた凶悪犯ウォンによる麻薬取引現場への踏み込み捜査を直前に外され、代わりに向かった捜査員らが何者かによって殺害、麻薬も奪われてしまう。そして容疑者として浮かび上がったのは、チョンに恨みを抱く元警官のンゴウ(ニコラス・ツェー)だった……。 2021年公開の香港・中国合作によるアクション映画『レイジング・ファイア』は、かつては同じ警察組織で正義を全うしようとした二人の男が、善と悪とに立場をたがえ、怒りの拳を交える対立を描いた、身を切るような悲壮さに満ちた復讐劇だ。 本作はもともとメキシコの麻薬カルテルと香港警察との対立を描いたストーリーを映画化する予定で、撮影もおこなったが、製作費が莫大となって企画がペンディング状態に陥った。そんな窮状を見かねたドニー・イェンが監督のベニー・チャンを励まし、映画は軌道修正されて『レイジング・ファイア』として完成をみたのである。 だが残念なことに、ベニー・チャンは映画が公開される前年の8月に上咽頭がんのため亡くなり、作品の興行的成功を見届けることはできなかった。『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(2004)を筆頭とするジャッキー・チェンとの一連のアクション作品や、ラリー・コーエン原案の携帯スリラー『セルラー』(2004)のリメイク『コネクテッド』(2008)など、堅実な職人ぶりで幅広い層のファンを得ていただけに、早逝を惜しむ声は多かった。そんなベニーの形見のような作品として、本作は忘れがたい印象を放つものとなったのである。 特に監督と同い年だったドニーの落胆は大きく、「ベニーの死は、人生には多くの悲しみを目撃しないといけないことや、手放さなければならないことがあるのを悟らせる。私は今も彼の笑顔を感じて、自分のもとを去っていったような気がしないんだ」と語っている。テレビドラマ『クンフー・マスター 洪熙官』(1994)や、『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972)のテレビ版リメイク『精武門』(1995)で仕事を共にし、以来、違う道程で同時代を走ってきた仲間への、惜しみない賞賛を含んだ別れのメッセージだ。 ◆善と悪とに袂を分つ、かっての同志 二人の警察官が袂を分かち、戦い合うという設定は、ハリウッド映画では定番ともいえるエモーショナルなものだ。たとえばコンピュータハッカーたちの決別と対立をテーマにした『スニーカーズ』(1992年 監督/フィル・アルデン・ロビンソン)や、秘密任務の犠牲となった部隊が国家に復讐をなそうとする『ザ・ロック』(1996年 監督/マイケル・ベイ)などが、その代表格といえるだろう。最近だと、キャプテン・アメリカとアイアンマンが正義行動の行方をめぐって対立する『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年 監督/ジョー&アンソニー・ルッソ)が、この条件に合致するものとして記憶に新しい。 このようなテンプレートはアクションを際立たせ、特に顕著なのは映画のクライマックスで展開される、市街地での白昼の銃撃戦だろう。同シークエンスはマイケル・マン監督によるクライムアクション『ヒート』(95)を彷彿とさせるもので、発砲が始まると同時にかの名作を連想した人は少なくないだろう。奇しくも『ヒート』がアル・パチーノとロバート・デ・ニーロという二大俳優の顔合わせで耳目をさらったように、ドニーとニコラスの15年ぶりの共演も、これになぞらえることができる。 ドニー・イェンとニコラス・ツェーの共演は、香港の伝統的アクションコミックを映画化した『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』(2006)以来となる。単に同じ作品に出演したというだけならば、二人には2007年公開の『孫文の義士団』(監督/テディ・チャン)があるが、本作では二人が同じフレームに収まり、そして彼にアクション指導をしたという、密接なコラボレーションを果たしているのだ。 そして『レイジング・ファイア』は『ヒート』の反復などではなく、さらにそこから先を大胆に攻め込んでいる。それが最後の、ドニーとニコラスが教会で繰り広げる格闘シーンだ。 片や両手にバタフライナイフ、片やスティックを手にした凶器戦から、ステゴロ(素手喧嘩)のバトルへとなだれ込んでいくこの展開にこそ、本作の価値と独自性を実感することができるのだ。そしてかつての盟友どうしが拳を交える、悲壮なクライマックスを繰り広げていくのである。 ドニーがディレクションしたアクションは、持てる力をすべて振り絞って出したようなハイレベルなもので、谷垣健治を筆頭に、ドニーのスタイルを映画に落とし込むことのできる優秀なスタントコーディネーターが配された。その成果は2022年の香港フィルムアワードの最優秀アクション・コレオグラフィー賞(電影金像奨 最佳動作設計)を受賞したことで明白だろう。 ◆ドニー・イェンを体現する劇中のキャラクター なにより筆者はこの最終バトルに、かって『かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート』のインタビューでドニー・イェンが放った、以下の発言を思い出さずにはおれない。 「このジャンルはワイヤーワークやCGの発達によって、年を追うごとに見せ場の演出がエスカレートしていく。なので、それが常に新鮮であるのはとても難しいんだ。だからこそ、生身の戦いやファイター同士の精神こそが、いつの時代にも新鮮さを保つんだよ」 まさにその言葉を体現するかのような、ドニーとニコラスの一騎打ち。そこにドニー・イェンの役者哲学の実践を見たように感じられてならない。“生身の戦い”に勝る普遍性などあろうか、と——。 なにより、ドニーのアクションに対する真摯で実直な姿勢は、そのまま劇中、聞き取り調査の席で警視監に正義への理念を吐露する、チョン警部にぴったりと重なるのである。 「(警察は)命を懸けて全うする仕事なのか? と若い警官たちは思うだろう。だがいつしか、プライドを持って奮闘することになる。危険を顧みず、犠牲をも恐れない。そして(自分たちがなすべきは)仕事を減らすことではなく、より良い仕事をすることだと考えるのだ」 腐敗した警官組織の中で正しさを維持しようとする主人公の言行は、アクションスターとしてのドニーの哲学に重なっていく。市場の拡大と共に映画のスケールも巨大化したアジア映画において、こうした基本をまっとうするドニー・イェンの姿に、映画においてもっとも重要な不変の魂を感じるのである。 ちなみに本作の最初のバージョンは、ランニングタイムが約3時間におよぶ「ディレクターズ・カット版」が編集で調整され、このバージョンはそれをさらにタイトにまとめたものとなる。カットの影響としては、ニコラス・ツェーの役が本来もっと邪悪な存在だったものが、ややソフトになったとのこと。いつか完全版が公開される日を待ちたい。■ 『レイジング・ファイア』© 2021 Emperor Film Production Company Limited Tencent Pictures Culture Media Company Limited Super Bullet Pictures Limited ALL RIGHTS RESERVED
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PROGRAM/放送作品
トム・ホーン
世の中が変わり、世間に捨てられた悲しきガンマンをマックィーンが静かに演じた、彼の最晩年の傑作
実在のガンマン、トム・ホーンの転落を描く、マックィーン最晩年の傑作。西部開拓時代が終わり、銃で悪を倒すこと自体が悪と見なされる時代まで生き残ってしまった最後のガンマン、その悲哀に満ちた運命とは?
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COLUMN/コラム2022.09.08
原作者と主演俳優の人生を大きく変えた、「反戦映画」の名作。『西部戦線異状なし』
本作『西部戦線異状なし』(1930)の原作者、エリッヒ・マリア・レマルクは、1898年に、ドイツの都市オスナブリュックに生まれた。 1916年、18歳の時に学徒志願兵として、軍に入隊。時は第一次世界大戦下。激戦地である、ベルギー・フランドル地方の西部戦線へと送られる。 1914年に勃発した第一次大戦は、日露戦争と並んで、20世紀に特有の“新たな戦争”だったと言われる。毒ガス、機関銃、戦車、飛行機、潜水艦等々、新兵器が続々と登場し、それまでとは比べものにならない、大量殺戮と大量破壊を伴う総力戦が行われるようになったのである。 レマルクは工兵として、塹壕掘りや有刺鉄線を敷く任務を与えられたが、戦場に入って2ヶ月ほどで、砲弾の破片を受けて負傷。病院送りとなった。 幸い、怪我は深刻なものではなかった。レマルクは病室で負傷兵同士、この“新たな戦争”に於ける、お互いの戦場での体験談を話し合った。この時耳にした話が、後に彼の創作の糧となる。 1918年、20歳になった彼は退院。軍に復帰するが、間もなく大戦は終結。ドイツは、悲惨な敗北を喫した。 終戦後レマルクは、小学校の代用教員やジャーナリストなどの職に就きながら、小説を執筆。1929年、30代に突入していた彼が発表した渾身の作が、自分や戦友達の経験をベースにした、「西部戦線異状なし」だった。 当時レマルクの友人の1人だったのが、後にアメリカに亡命し、ハリウッドで名匠の名を恣にする、ビリー・ワイルダー。彼はレマルクが、10年前に終結した第一次世界大戦についての小説を執筆していると聞くと、「何てこった、いまさら?!…前の世界大戦なんぞに誰が興味ある?」と、忠告したという。 他の者たちからも、同様の指摘をされたレマルクだったが、蓋を開けてみれば、そんなことはなかった。小説「西部戦線異状なし」は、ドイツ国内で空前のベストセラーになったのである。 反響を呼んだのは、本国だけではなかった。イギリス、フランス、ソ連、イタリア、アメリカなどで、次々と翻訳出版された。日本でもその年の内に、発売されている。後々まで含めるとこの小説は、少なくとも45言語以上に翻訳され、総計部数は2,000万部以上と言われている。 映画化の企画も、すぐに動き始めた。レマルクから権利を買ったのは、ドイツにとっては第一次大戦では敵陣営だった国家、アメリカのユニバーサル・ピクチャーズ。監督には、ルイス・マイルストンが決まった。 マイルストンはロシア生まれで、ベルギーのヘント大学に留学。母国が第一次大戦に参戦したため、徴兵逃れでアメリカに帰化した。 結局アメリカも参戦したため、兵役に就くのだが、陸軍の写真部門などに配属されたため、前線に送られることはなかった。この時に新兵のための教育映画に携わり、その経験から、除隊後はハリウッド入りとなった。「アカデミー賞」の記念すべき「第1回」、『美人国二人行脚』(1927)で、マイルストンは“喜劇監督賞”を受賞。続く作品として、警察と行政の腐敗を描いた『暴力団』(28)を手掛け、リアルなギャングの描写が注目された。 「西部戦線異状なし」の映画化に当たっては、プロデューサーはレマルクに脚本の執筆を依頼するも、小説に集中したいからという理由で、断わられる。そのため脚本家4人掛かりで、脚色を進めることになった。 主人公のポールは、作者の分身ということもあって、一時期レマルク本人に演じさせることも、検討された。しかし彼は、これも断り、当時ほぼ新人だった、21歳のリュー・エアーズが抜擢されることになった。 ドイツ軍の兵営を、ユニバーサルの屋外セットで再現するなど、撮影はアメリカ国内で行われた。戦場シーンは16万平方㍍の農場を使って、ドイツ軍やカナダ軍の元兵士たちの助言を受けながら、撮影されたという。 ****** 第一次大戦のさなか、街の教室では老教師が、若者たちに愛国心を説く。煽られたポールとその仲間は、次々と入隊を志願した。 彼らの訓練係は、街で郵便配達を行っていた男。人の良い郵便屋の面影はなく、執拗に冷酷な振舞で過酷な教練を行い、若者たちの出征前の熱狂は打ち砕かれていく。 西部戦線に送られた彼らを迎えたのは、古参兵たち。その中のカチンスキーという男が、人間的な温かみと共に、戦場で生き延びる術を、色々と教えてくれた。 初めての戦闘で、ポールたちはいきなり、仲間の1人を失う。その後日々の激戦の中で、1人また1人と、戦死者が続く。 ある日の戦闘。塹壕に実を潜めていたポールに、フランス軍の兵士が襲いかかる。彼を銃剣で突き刺したポール。瀕死の状態ながら、なかなか息絶えない兵士と一晩を過ごし、頭がおかしくなりかける。 やがて、ポールも負傷。傷病兵が次々と死んでいく病院で、何とか回復すると、休暇を貰って、故郷に一時帰休となった。 姉と病床の母の歓迎には、心が和らぐ。しかし、戦場の実態を知らずに勝手な戦争論をブチ上げる、父や街の有力者たちには辟易。更には相変わらず、教え子を戦場に送ろうとする老教師に憤りを覚える。居たたまれなくなったポールは、休暇を早めに切り上げる。 戦地に戻ったポールは、今や父のように慕うカチンスキーと再会。喜びを覚えたのも束の間、爆撃により、不死身に思えた古参兵は、あっけなく命を落とす。 もはや寄る辺もないポールは、戦場での日々を、ただただ重ねていくが…。 ****** 戦闘場面を撮るのには、長いクレーンの先端にカメラを複数台載せた。俯瞰し、時には地を這うようなカメラワークは、当時としては、至極斬新なチャレンジだった。 ハリウッドは、ちょうどサイレントからトーキーへの移行期。当初サイレント映画として企画された本作だったが、時勢に合わせて、トーキーでの製作に切り替えられた。 マイルストン監督は、砲弾の炸裂音や機関銃の連射音、兵士たちの叫び声などを盛り込んだ。これが革新的な移動撮影との相乗効果で、観る者に、戦争の悲惨さをリアルに伝えることに成功したのである。 マイルストン監督が、最も腐心したというのが、ラストシーン。主人公のポールが、遂に落命するのだが、原作では次のように記されている。 ~…前に打伏して倒れて、まるで寝ているように地上にころがっていた。躰を引っくり返してみると、長く苦しんだ形跡はないように見えた…あだかもこういう最後を遂げることを、むしろ満足に感じているような覚悟の見えた、沈着な顔をしていた。~ このままでは、映像化しようがない。あまりにも有名なラストシーンではあるが、ポールの戦死の様をいかにマイルストンが演出したかは、実際に目撃していただきたい。 実はポールが休暇で帰郷した際に、実家の自室に入るシーンで、ラストへの伏線が張られていたのを、今回の執筆用の再鑑賞で、初めて認識した。いかに細心の注意を以て、綿密に組み立てられたラストであったことか! こうして映画史に残る「反戦映画」となった本作は、大ヒットを記録。「アカデミー賞」でも、作品賞と監督賞を受賞した。 一方で、本作が製作された1930年という時代から、アメリカ以外での公開に当たっては、その国の事情によって、シーンが大幅にカットされる憂き目に遭った。例えば日本では、「全面反戦思想」と捉えられる部分が、大幅に削られ、また、ポールたちがフランス女性と一夜を共にするシーンが、「風俗上の見地」から除かれた。 最も物議を醸したのは、レマルクの本国ドイツであった。原作小説出版時も議論の対象となった、「政治性」が再び大きくクローズアップされたのである。 時のドイツは、折しもヒトラー率いるナチ党が支持を伸ばして、選挙での躍進が顕著になっていた頃。彼らは本作のプレミア上映を襲い、「ユダヤ人の映画だ」「ユダヤ人ども出て行け」などと叫びながら混乱を引き起こし、上映を中止に追いやった。これがきっかけとなって本作は、「…ドイツ国防軍の声望を貶め、外国における全ドイツ人の声望をも傷つけるものがそこに存する」という理由で、国内での上映が禁止となってしまう。 ベストセラー作家として、富と名誉を得たレマルクだったが、ナチが台頭する中で、そうした勢力からは、「ユダヤ人である」などのデマを飛ばされるなど、確実に攻撃の対象となっていく。特に1933年、ヒトラー政権が成立して以降は。「西部戦線異状なし」は、「厭戦気分をあおる売国的書物」として、焚書の対象となり、レマルクはやがて、国籍を剥奪されるまでに至る。スイスなどに逃れていた彼だが、1939年、ドイツによって第2次世界大戦の口火が切られたのと前後して、アメリカへの亡命を、余儀なくされた。 レマルクは、「西部戦線異状なし」を著したことによって、激動の生涯を送ることになった。一方で、その映画化作品である本作に関わったことで、人生が大きく変わったのが、主演のリュー・エアーズだった。 本作出演で、根強い「反戦思想」の持ち主となったエアーズは、1930年代半ば頃からは、聖書に没頭し始め、ベジタリアンとなった。そして第二次大戦が起こった際には、兵役を拒否している。 こうした彼の姿勢には、非難の声が殺到。映画会社は彼を締出し、各劇場は彼の出演作の上映を、拒否するようになった。 エアーズは改めて、良心的兵役拒否宣言を行うと、看護兵として南太平洋の戦線に赴いた。そして3年半の間、粛々と兵士の手当を続けたのである。報酬はすべて寄付したというエアーズが、捕虜の日本兵に手当を行う写真が、当時の有名誌に掲載されている。 こうした自分の活動について、エアーズはこんな風に表現している。「破滅的な状況で、建設的な仕事をするんだ」 彼は戦地から戻った後、ハリウッドに復帰するが、1996年88歳で亡くなるまで、戦争映画への出演を、拒否し続けたという。■
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PROGRAM/放送作品
ラヴィ・ド・ボエーム
パリで独自の芸術を追うボヘミアンたちに乾杯!アキ・カウリスマキ監督が贈るおかしくも哀しきコメディ
アキ・カウリスマキ監督がプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」の原作小説を映画化。生活に困窮した芸術家が暮らすパリの情景をモノクロ映像で感傷的に写し撮っている。ベルリン国際映画祭で国際評論家連盟賞を受賞。
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COLUMN/コラム2021.10.01
スコセッシ&デ・ニーロ。名コンビが『レイジング・ブル』でなし遂げたこと。
30代中盤を迎えたマーティン・スコセッシは、心身ともに疲弊の極みにいた。『ミーン・ストリート』(1973)『アリスの恋』(74)、そして『タクシー・ドライバー』(76)の輝かしき成功を受けて、意気揚々と取り組んだ『ニューヨーク・ニューヨーク』(77)が、興行的にも批評的にも、惨憺たる結果に終わってしまったのである。私生活で2番目の妻と離婚に至ったのも、大きなダメージとなった。 どん底から這い出すきっかけとなったのは、78年9月。入院していたスコセッシを、ロバート・デ・ニーロが見舞った時のことだった。「よく聞いてくれ、君と俺とでこれをすばらしい映画にすることができる。やってみる気はないか?」 デ・ニーロが言った「これ」とは、本作『レイジング・ブル』(80)のこと。盟友の誘いにスコセッシも、「やろう」と答えたのだった。 と言っても本作の準備は、その時にスタートしたわけではない。それよりだいぶ以前から、進められていたのである。 本作の原作は、元ボクシング世界チャンピオンで、現役時代に“レイジング・ブル=怒れる牡牛”と仇名された、ジェイク・ラモッタの自伝である。それがデ・ニーロに届いたのは、『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)撮影のため、73年にイタリアのシチリア島に滞在していた時。その暴力的なエネルギーとラモッタの特異なキャラクターに惹かれたデ・ニーロは、『アリスの恋』に取り組んでいたスコセッシに、この題材を持ち込んだ。 脚本は、『ミーン・ストリート』『ニューヨーク・ニューヨーク』などで2人と組んだ、マーディク・マーティンに託された。スコセッシが当初は、デ・ニーロほどは本作に乗り気でなかったこともあって、その後しばらくはマーティンに任せっぱなしとなり、何年かが過ぎた。 77年になってから、2人はマーティンの脚本を読んで、不満を覚える。そのため執筆は、『タクシードライバー』のポール・シュレーダーへと引き継がれた。 しかし、シュレーダーが書き上げた脚本には、大きな問題があった。ラモッタの性格が暗すぎる上に、シュレーダー本人が「僕が書いた中で最高の台詞」というそれは、刑務所の独房に入れられたラモッタが、自慰をしながらするモノローグだった…。 この作品に本格的に取り組むことを決めたスコセッシと、それを促したデ・ニーロの2人で、脚本に手を加えることとなった。カリブ海に浮かぶセント・マーティン島に3週間ほど缶詰めになって、シュレーダーの書いた各シーンを再検討。必要ならばセリフを書き加えて、最終稿とした。 撮影に関してのスコセッシの申し入れに、製作するユナイテッド・アーティスツは、目を白黒させた。彼の希望は、「モノクロで撮りたい」というもの。70年代も終わりに近づいたこの時期に、正気の沙汰ではない。 この頃は『ロッキー』(76)の大ヒットに端を発した、ボクシング映画ブームの真っ最中。『ロッキー』シリーズ、『チャンプ』(79)『メーン・イベント』(79)、挙げ句はカンガルーのボクサーが世界チャンピオンと闘う『マチルダ』(78)などという作品まで製作され、続々と公開されていた。 スコセッシの希望は、当然のようにカラー作品である、それらのボクシング映画とは一線を画したいという、強い思いから生じたもの。そして同時に、当時浮上していた、カラーフィルムの褪色という、喫緊の課題に対するアピールの意味もあった。 その頃に撮影の主流を占めていた、イーストマンのカラーフィルムは、プリントは5年、ネガは12年で色がなくなってしまうという、衝撃的な調査結果が出ていた。撮影から上映まで、ほぼすべてがデジタル化した、現在の映画事情からは想像がつかないかも知れないが、映画の作り手にとっては、至極深刻な問題だったのである。「…僕はこれを特別な映画にしたいんだ。それになによりも黒白は時代の雰囲気を映画に与えてくれる」そんなスコセッシの思いは届き、ユナイトはモノクロ撮影に、OKを出した。 一時期は「これが最後の監督作」とまで思っていたスコセッシの元に、79年4月のクランク・インの日、1通の電報が届いた。差出人はシュレーダー。その文面は、“僕は僕の道を行った。ジェイクは彼の道を行った。君は君の道を行け”というものだった。 *** 1964年、ニューヨークに在るシアターの楽屋。1人のコメディアンが、セリフの暗唱を行っている。その男は、42才になるジェイク・ラモッタ(演:ロバート・デ・ニーロ)。でっぷりと肥え太ったその身体には、かつての世界ミドル級チャンピオンの面影はなかった…。 時は遡り、41年。19歳のジェイクは、デビュー以来無敗を誇っていたが、初めての屈辱を味わう。ダウンを7回奪ったにも拘わらず、判定負けを喫したのだ。 妻やセコンドを務める弟のジョーイ(演:ジョー・ペシ)に当たり散らすジェイクだったが、そんな時に市営プールで、15歳の少女ヴィッキー(演:キャシー・モリアーティ)に、一目で心を奪われる。妻がいるにも拘わらず、ジェイクはヴィッキーを口説いて交際を開始。やがて2人は、家庭を持つこととなる。 43年、無敵と謳われたシュガー・レイ・ロビンソンをマットに沈めるも、その後行われたリターンマッチでは、ダウンを奪いながらも判定負けとなったジェイク。これからのことを考えると、それまで手を組むことを拒んできた裏社会の大物トミーを、後ろ盾にする他はなかった。そして、タイトルマッチを組んでもらう見返りに、ジェイクは格下の相手に、八百長で敗れるのだった。 49年、フランスの英雄マルセル・セルダンに挑戦。TKOで、ジェイクは遂に世界チャンピオンのベルトを手に入れた。しかし栄光の座を得ると共に、異常なまでの嫉妬心と猜疑心が昂じて、ジェイクは妻ヴィッキーの浮気を執拗に疑うようになる。そしてあろうことか、公私共にジェイクを支え続けてきた弟ジョーイを妻の相手と思い込み、彼に苛烈な暴力を振るってしまう。 この一件でジョーイから見放され、やがてチャンピオンの座から滑り落ちることになるジェイク。54年には引退し、フロリダでナイトクラブの経営者となるが、ヴィッキーも彼の元を去る。 遂にひとりぼっちになってしまったジェイク。その行く手には、更なる破滅が待ち受けていた…。 *** スコセッシは言う。~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~と。 その原作者であるジェイク・ラモッタは、本作のボクシングシーンの撮影中、デ・ニーロに付きっきりで、喋り方からパンチのコンビネーションまで、自分のすべてを伝授したという。中でも口を酸っぱくして指導したのが、己のファイトスタイル。それは「絶対にホールドするな」というものだった。 本作ではデ・ニーロの共演者として、ジョーイ役のジョー・ペシとヴィッキー役のキャシー・モリアーティが、一躍注目の存在となった。ペシはデ・ニーロと同じ歳だが、それまではほとんど無名の存在。ペシの過去の出演作のビデオをたまたま目にしたデ・ニーロが、スコセッシにも観ることを勧めた。スコセッシも彼の演技に興味を引かれ、会ってみることにしたのである。 ところがその時、ペシは俳優の仕事に疲れ果てて、辞めようと決意したばかり。スコセッシのオファーを、真剣に取り合おうとしなかった。 スコセッシはペシを、何とかなだめすかして、セリフ読みをしてもらうと、その喋り方が非常に気に入ったという。更に即興演技をしてもらうと、やはり素晴らしかったため、ジョーイ役を彼に頼むことに決めた。 ジョー・ペシの起用によって、呼び込まれたのが、キャシー・モリアーティだった。1960年生まれで当時18歳だったキャシーは、高校卒業後にモデルをしながら、女優を目指していた。 ペシはキャシーの近所に住んでおり、彼女がヴィッキー・ラモッタに似ていることに気が付いた。キャシーは、ペシに頼まれて自分の写真を渡し、それをスコセッシが見たことから、本作のスクリーンテストを受けることとなったのである。そして次の日には、合格の電話を受け、見事ヴィッキーの役を射止めたのだった。 役作りに際しては、ジェイク・ラモッタ本人がベッタリ付きだったデ・ニーロとは真逆に、キャシーは自分が演じるヴィッキーと会うことを、スコセッシに禁じられたという。ヴィッキー本人がセットを訪れた際も、キャシーは顔を合わせないように、仕向けられた。演技はほぼ素人で、すべて直感で演じたというキャシーが、ヴィッキーの影響をヘタに受けないようにするための配慮であったと思われる。 さて主演のデ・ニーロ。本作での役作りこそ、彼の真骨頂と言って差し支えなかろう。チャンピオンを演じるために、タイトルマッチに挑むプロボクサー以上のトレーニングを積んだのは、まだ序の口。引退後のでっぷりと太ったラモッタを演じるため、4カ月で25㌔増量という荒技に挑んだ。 フランスやイタリアまで出掛け、お腹が減らなくとも1日3回、高カロリー食を詰め込むという苦行を繰り返す。それによってデ・ニーロは、体重を72.5㌔から97.5㌔まで増やすのに、成功したのである。 役に合わせて、顔かたちや体型まで変化させる。当時はまだそんな言われ方はしてなかったが、本作ではいわゆる“デ・ニーロ・アプローチ”の究極の形が見られる。逆に『レイジング・ブル』があったからこそ、“デ・ニーロ・アプローチ”という言葉が生まれ、一般化したとも言える。 では、そんなデ・ニーロが挑むボクシング試合。スコセッシはどんな手法で作り上げたのか? 通常のボクシング映画では、リングの外に数台のカメラを置き、様々なアングルから捉えたものを、編集するというやり方が一般的である。ところが本作撮影のマイケル・チャップマンが回したカメラは、1台だけ。しかもその1台をリングの中に持ち込み、常にボクサーの動きに焦点を合わせた。 この撮影は、スコセッシが描いた絵コンテを、忠実になぞって行われた。それはパンチ1発から、マウスピースが飛んでいくようなところまで、各ショットごとに細かく描き込まれたものだった。 スコセッシは、リング上では観客がボクサーの眼を持つようにしたかったという。観客自身が、殴られているのは自分だという意識を持続するように。それもあって、試合のシーンでは、絶対に観衆を映さなかった。 サウンドも、リングで戦うジェイクの立場から作ることを決めていた。パンチがどんな風に聞こえるか? 観衆の声は、どんな風に届くのか? ライフルの発射音やメロンの潰れる音などを駆使して、結局ミキシングには、当初予定していた7週間の倍の時間が掛かったという。 本作で初めてスコセッシ作品に参加し、後々彼の作品には欠かせない存在になっていく、編集のセルマ・スクーンメイカー。彼女はこう語っている。「…監督があらかじめとことん考え抜いておかなければ、『レイジング・ブル』のような映画の編集は生まれてこないわ。あの映画を偉大にしているのは背後にある考え方であって、それはもちろん私のでなくてスコセッシのものなのよ」『レイジング・ブル』は、アカデミー賞で8部門にノミネートされ、デ・ニーロに主演男優賞、スクーンメイカーに編集賞が贈られた。この年はロバート・レッドフォードの初監督作『普通の人々』があったため、作品賞や監督賞は逃したものの、スコセッシの見事な復活劇となった。 ~『レイジング・ブル』はすべてを失った男が、精神的な意味で、すべてを取り戻す物語だ~ それはこの作品に全力を投じた、スコセッシにも当てはまることだった。■ 『レイジング・ブル』© 1980 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
(吹)ミッション:インポッシブル/フォールアウト
イーサン・ハント史上最難関のミッションが幕を開ける!トム・クルーズ主演の大ヒットスパイシリーズ第6弾
クリストファー・マッカリーが前作から監督を続投。世界同時核爆発阻止に挑むイーサン・ハントの奮闘を、トム・クルーズが自ら操縦するヘリ・アクションや上空7620mからのスカイダイブなどスタントなしで熱演。
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COLUMN/コラム2017.04.05
【本邦初公開】これが日本未公開で未ソフト化なんておかしくないですか!?な文句なしの娯楽作!「ウェルメイド」とはこういうことさ〜『ゲティン’ スクエア』〜04月20日(木)深夜ほか
今回4月にお送りする、ザ・シネマが買い付けてきた激レア映画全3本は、どれも本邦初公開ですが、そのうちここではサム・ワーシントン主演のオーストラリア産クライム・ムービー『ゲティン’ スクエア』をご紹介させていただきます。 のっけからいきなり武装強盗シーンで始まるこの映画。目出し帽をかぶった犯人数人組がショッピングモールの事務所を襲います。従業員の給料を奪おうというのです。そこに一発の銃声が。強盗の一人が撃たれました。そいつを背負い、現金もバッグに詰め、一味はワンボックスカーに撤収。急発進させた車内で撃たれた男の死亡が確認されます。死んだのはジョニー。「どっちみち廃人だったしなコイツ」と犯人の一人が吐き捨てます。 ここで場面が切り替わり、刑務所の鉄条網がアップで映って「GETTIN’SQUARE」とタイトルが入ります。時制が6ヶ月前にさかのぼりました。結末を最初に見せて「どうしてこうなった!?」を逆にたどっていく構成です。ここまでが5分強のタイトルバック。テンポの良い編集と音楽使い、オーストラリア映画らしい抜けのいい風景ショット、つかみはOK!この監督は上手いぞ! 監督はジョナサン・テプリツキーという人で、誰かと思ったら『レイルウェイ 運命の旅路』(2013)撮った人でした。あの映画、「“反日”映画だ!」なんて一部で言われましたが全然そんなことはなく、むしろ若干反米か?ぐらいの反イラク戦争映画、実に良くできた豪英合作の反戦映画でした。「拷問はイカンぞ!」というね(トランプさん聞いてる?)。日本で紹介されることの少ない監督ですが、確かな技量を持っている人と見た。 閑話休題。さかのぼること半年前、ジョニーと本作の主人公バリー(彼も強盗グループの一員です)はそのムショに服役中でした。バリーは仮釈放を認めてもらおうと何度も査問会に訴えてきたけど却下され続け、今回もまたダメ。彼は殺人罪で懲役12年。しかしそれは冤罪で、汚職刑事に供述調書を捏造されたからで、真犯人は別にいるんだ、と一貫して主張してきたのですが、その名前を「俺はチクリはやらない」と頑なに黙っているため、聞き入れてもらえないのです。 この主人公バリーを演じるのがサム・ワーシントン。2009年の『アバター』&『ターミネーター4』、その後の『タイタンの戦い』&『タイタンの逆襲』等で今やすっかりおなじみのハリウッド・スターですが、本作の本国公開は2003年。彼のキャリアでも初期の頃にあたります。バリーは、主張している通り実際に無実で、ムショに入れられたのは本人曰く「しょんべん漏らしてたぐらいガキだった」歳。それでも「チクリはしない」と仁義を貫いて早8年という、愚直で朴訥な男です。サム・ワーシントンの好演が光ります。 しかし!そんな主役を完全に喰っちゃう珍演を見せるのが、ジョニーを演じるデヴィッド・ウェンハム(ウェナムと表記されることも)です。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのファラミア(ボロミアの弟で父デネソール侯から目の仇にされていた次男)で知られる俳優です。リスさん/ウサギさん系ルックスからは想像もできないバっキバキの腹筋を披露した『300』シリーズ、逆にルックス的にはこっちの方が似合う『ヴァン・ヘルシング』でのコメディリリーフ的ヘタレ修道士役も印象に残ってはいるものの、いかんせん脇も脇…。でも本作でのジョニー役は、それらと比べて役が大きくて準主役級。決して悪人ではないんだけれど頭があまりにも悪すぎて人生に支障をきたしちゃってるジャンキー、という忘れがたいDQNキャラに命を吹き込んだウェンハムは、この年のオーストラリア各映画賞で男優賞を総なめにするほどの高い評価を得ました。必見です! このジョニーがまず仮釈放されます。査問会で珍しくまっとうなことを言い(劇中で彼がまともなことを言うのはここだけ)、それが委員たちにまぐれで好印象を与えたのです。バリーは例によって真犯人を明かさなかったため申請を棄却されますが、しかし彼もその直後、母親が病死し(彼はいつも家族写真を眺めて懐かしがっていたのですが死に目に会えず…)、独り未成年の弟が実家に遺されてしまったために、急きょ仮釈放が認められます。 獄中でバリーとジョニーが最後に言葉を交わした時、2人はGET SQUAREを固く誓い合います。GET SQUAREとは「堅気になる」という意味で、何度も何度もセリフに出てくる、本作劇中の最頻出イディオム。今となっては、しっかり者で常識人のバリーが、麻薬常用で脳がすかすかスポンジ状になっちゃったとしか思えないラリパッパのジョニーの面倒を見てやってるような保護・被保護の関係ですが、もとはと言えば、ガキで入所したバリーにジョニーがあれこれ世話を焼いてやったという過去があり、それをバリーはいまだに恩義に感じていて、今も2人は厚い友情でむすばれたダチ公同士なのです。 そして最後の1人。3人目の主要キャラクターが、レストラン・オーナーの成り金おやじダレンです。演じるのは「ハリポタ」でワームテール役だった人ティモシー・スポールさん。本作の舞台となるオーストラリア東岸ゴールドコーストのサーファーズパラダイスという土地で、「テキサス・ローズ」という場違いな悪趣味全開アメリカン風ダイナーを営んでいます。ウエイトレスは全員露出度の高いカウガールのエロ制服を着せられており(牛革白黒模様ブラ×フリンジ付きリンリンランラン風インディアン革ミニスカ)、そして歳の離れた奥さんはと言うと見事に金髪巨乳のビッチ。まごうかたなきTHEトロフィー・ワイフですな。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』におけるマーゴット・ロビー的な。 バリー、ジョニー、ダレン、全員GET SQUAREしたいと思っている前科者たち。中でもダレンは、流行らないレストランのオーナーとして一応は成功しており、すでにGET SQUAREをほぼ達成できていて、違法なことから完全に足を洗いたいと願って万事において自重している妻子持ち。バリーとジョニーはムショを出たてで、堅気としての人生を今まさにスタートさせたく思っている。でも、そう簡単にはいかない。世間が受け入れてくれないのです。 バリーは、いくら冤罪を主張していても結局「殺人罪で8年服役していた」という“前科”が付いて回っちゃいますから、どこも雇ってくれません。ムショでは調理場担当として調理師スキルを習得しており、しかも腕も良いのですが、誰も雇わない。 ジョニーはアホすぎて出所後もトラブルを自ら次々と招きよせちゃいます。堅気になりたいと本気で思っていることは確かなのですが、社会常識が無さすぎてその方法が彼にはわからない。 ダレンはと言うと、カネを任せていた会計士が特捜部に目をつけられたトバッチリで、資産を特捜に差し押さえられそうになります。彼が築いてきた資産の元手となったのは大昔に彼が銀行詐欺を働いて得たカネで、その件ではちゃんと服役してキッチリお務めも済ませており、シャバに出てきてからあくまで運用で蓄財してきたのですけど、それを全額没収され、しかもその資産運用がマネーロンダリング行為にあたるとして、その容疑で久しぶりに逮捕されそうという絶体絶命の立場に。 堅気として真面目に生きたくてもそうさせてくれない世知辛い世の中で、どんどん彼ら3人はのっぴきならないシチュエーションに追い込まれていくのです。 そこから、どう最後の(最初の)武装強盗のシーンに話がつながっていくのか!?というお話なのですが、いゃあ、シナリオよく出来ているんですわ。まず脚本が良い!そして演出が良い!ウェンハムも良い!舞台が良い!サーファーズパラダイスの風景が良い!おまけに音楽使いまでが良い!これサントラ欲しくなる映画ですよ。グルーヴ・アルマダの「Easy」、「チョレえ!チョレえ!いま思い返せば超チョロかった!」と何度も繰り返すだけの、もう「ゴッキゲン!」としか評しようのない当時流行ビッグビートの歌が、クライマックス→エピローグ→エンドロールにかけてフルコーラスでかかるのですが、ここのBGMとあいまったラストのガッツポーズ感は、まさしく痛快無比!!!!!!!! これだけはネタバレを何卒お許しいただきたいのですが、この映画、追い込まれた男どもの痛快きわまりない大復讐劇なのです。GET SQUAREには「仕返しする」、「恨みを晴らす」という意味も別にあって、この映画のタイトルって実はWミーニングになっていて…いや、もうこれ以上は何も申しますまい。あとはぜひとも本編をご覧ください。実に良く出来た娯楽映画で、「こういうのってあんまし趣味じゃないんだよね…」というクセもなくて万人向けで、洋画チャンネルの編成マンとしては自信をもって視聴者の皆さんにお薦めできるタイプのコンテンツであります!■ © 2003 Universal Pictures. All Rights Reserved.
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PROGRAM/放送作品
ツーリスト
アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップが奇跡の競演!水の都ヴェニスを舞台に描く大人のミステリー
2005年のフランス映画『アントニー・ジマー』をアンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップの豪華競演でリメイク。水の都ヴェニスを舞台に息詰まるミステリーを織りなし、ゴージャスな旅情も醸し出す。
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COLUMN/コラム2016.01.30
男たちのシネマ愛③愛すべき、ボロフチック監督作品(6)
飯森:最後に、今回はせっかくこういうテーマだったので、ちょっとばかりモザイクの話をしたいと思います。まず、映画屋でありテレビ屋でもある僕は、個人的に映画館とテレビとでは倫理の基準が違って然るべきだと思っているんですが、海外ではどうなんですかね。さすがにテレビでは規制がかかりますでしょ? なかざわ:アメリカの場合で言えば、ネットワークかケーブルかによっても基準が分かれますよね。ケーブルだとモロ出しもありだと思います。 飯森:HBO【注70】とかですかね。 雑食系映画ライター なかざわひでゆき「ダン・オバノン監督『ヘルハザード/禁断の黙示録』(‘91)のドイツ盤ブルーレイを購入。日本盤未収録の特典映像&オーディオコメンタリーてんこ盛りで、まさに至福のひと時を過ごしております」 なかざわ:そうですね、あとはStarz【注71】とか、Showtime【注72】とか、いわゆるプレミアム・チャンネルですよね。ケーブルの基本契約料金に加えて、別料金を支払わないと見れないチャンネル。HBOやStarzのオリジナルドラマだと、女性のヘアや男性器のモロ出しも珍しくありません。親が番組の視聴制限を設定できる仕組みになっているようですし。 飯森:「ウォーキング・デッド」【注73】なんかも、ケーブル局だから残酷シーンの規制がないって聞きますしね。日本の場合ですと、うちも子供がいるからよく分かるんですが、簡単にチャンネルを合わせることが出来るんですよね。さんざん陰毛を映して何が悪いと言っておきながら恐縮ですけれど、我が家で子供がそうしたものを見てしまうというケースが起こり得ると想定すると、それはよろしくないなと思うわけです。 なかざわ:それは確かにその通りですね。 飯森:なので、テレビに関しては仕方がない。我が国では、たとえCS放送であったとしても、リモコンでザッピングすれば子供でも見れてしまう状況ですので。何かしらの対応策は講じなくてはならない。ただ、劇場なりパッケージ商品なり、入口できちんと観客を選別できるものに関しては、日本ももうちょっと進んでいて欲しかったなと残念には思いますね。僕が生まれた日のキネ旬で、ポルノに関して日本はあまりにも遅れていると書かれ、ボロフチックさんにも昔は春画のような素晴らしい文化があったのに酷い有様だねと苦言を呈されていて、それから40年経っても大して変わってはいない。 なかざわ:それもケースバイケースですけれどね。配給会社の姿勢にもよるとは思います。最近であれば、男性器でも勃起さえしていなければモザイクなしでOK…かも?とか(笑)。結局、基準が明確化されていないので、確実に大丈夫なのかどうかは誰もハッキリと太鼓判を押せない。だから、例えば最近だと「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」【注74】なんかはガッチガチに修正されていましたし。もう、今時こんなのアリか!?ってくらい真っ黒でした(笑)。 飯森:あれは話題作でしたから、なおさら神経を使ったんでしょうね。その昔、「黒い雪事件」【注75】という“猥褻と芸術”裁判があったのご存知ですか? 映倫【注76】の審査を通った映画が、わいせつ図画公然陳列罪【注77】で起訴されちゃったんですよ。後出しジャンケンじゃないですか!でもよく考えると、そもそも映倫って公的機関ではない。あくまでもお上とのトラブルを避けるために、これだったら問題ないんじゃないですか、映画館でお客さんに見せても大丈夫だと思いますよ、というお墨付きを与える業界団体に過ぎないんです。だから、先ほどなかざわさんが仰ったように、どこからがアウトなのかは当局の気分次第という側面があるんです。とはいえ、この40年の間にヘアヌードも解禁になったわけだし、男性器でもちょっと写っているくらいなら問題視されなくなりましたけれど。 なかざわ:実際、映画版「セックス・アンド・ザ・シティ」【注78】の日本公開バージョンでも、堂々と男性器が写っていましたからね。 飯森:なんとなく、なし崩し的にはなっているけれど、まだまだ遅れていますよね。 なかざわ:欧米の常識に比べるとですね。 飯森:レイティング【注79】の基準があるんだからいいのでは?とも思うんですけれど。 なかざわ:海外でもそれを基にして、青少年の目に触れないようになっているわけですから。 飯森:とはいえ、やはりテレビは別です。そこは視聴者の方にも理解して頂きたい。自宅に小さな子供がいることを想定すれば分かると思うんですが、簡単にアクセスできてしまいますから。今の時代、インターネットの海外ポルノサイトで何でも見れるじゃないかという声もありますが、それは大人の感覚で、Googleのエロブロックフィルター外して画像・動画検索し、そこまでたどり着ける子供はなかなかいない。テレビの場合は、少なくとも日本だと子供でも見れてしまうので、そこは一線を引かないといけない。テレビは一番保守的であって然るべきでしょうね。 (終) <注70>1972年に創設されたケーブルテレビ局。「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」や「セックス・アンド・ザ・シティ」、「ゲーム・オブ・スローンズ」などのドラマを生んでいる。<注71>1994年に設立されたケーブルテレビ局。もともとは映画専門チャンネルだが、近年は「スパルタカス」シリーズや「アウトランダー」などのドラマも放送。<注72>1976年に設立されたケーブルテレビ局。「デクスター 警察官は殺人鬼」や「Lの世界」、「HOMELAND」などの問題作ドラマを次々と放送している。<注73>2010年より米ケーブルテレビ局AMCで放送されているドラマ。ゾンビの蔓延によって文明の崩壊した世界で、僅かな生存者が決死のサバイバルを試みる。<注74>2015年製作。過激な性描写が各国で問題視された。ダコタ・ジョンソン主演。<注75>1965年に公開された日本映画「黒い雪」の関係者が警察に書類送検され、武智鉄二監督が起訴された。69年に無罪確定。<注76>映画倫理委員会。1956年に設立され、映画作品の内容を審査してレイティングを設定する日本の任意団体。<注77>わいせつな図画を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者を罰金若しくは科料に処すこと。<注78>2008年製作。同名テレビシリーズの劇場用映画版。ニューヨークに住む大人の女性4人組の恋愛とセックスを描く。<注79>映画やテレビ番組などの内容に応じて、その対象年齢の制限を設定するシステム。 『インモラル物語』"CONTES IMMORAUX" by Walerian Borowczyk © 1974 Argos Films 『夜明けのマルジュ』©ROBERT ET RAYMOND HAKIM PRO.