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オリジナル版の要素を取り込みながら、異なるムードを醸しだした〜『パトリック 戦慄病棟』〜01月21日(土)深夜

鷲巣義明

 ある種、変態的なラヴストーリーともいえるオーストラリア映画『パトリック』(78)は、79年のアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞しながらも、日本では劇場未公開。でもSF&ホラー映画ファンの熱い支持を得てきたカルト映画だ。  監督には、ヒッチコック監督の『トパーズ』(69)で撮影現場を経験したことのある、根っからのヒッチコッキアン、リチャード・フランクリン(1948年生まれ~2007年死去)。『パトリック』では、『サイコ』(60)のように母親にトラウマをもった青年を主軸にし、『疑惑の影』(43)、『ダイヤルMを廻せ!』(54)、『マーニー』(64)等、随所に師匠へのオマージュを盛り込んでサスペンスを盛りあげていた。また1983年には、師匠の大ヒット作の続編『サイコ2』を監督してヒットさせた。  今回の作品は、大まかな流れはオリジナル版と似たような展開を見せるが、大胆な脚色を施して全体のムードを変え、結末も異なるリメイク版になっている。監督には、オーストラリア出身で、ジャンル系映画の異色ドキュメンタリー『マッド・ムービーズ~オーストラリア映画大暴走~』(08)で注目された気鋭マーク・ハートリーが務めた。  そのためか、オリジナル版にあったヒッチ作品へのオマージュの数々が、本作でも異なる形で散見できる。例えば、病院へと連なる断崖沿いの道路を自動車が這うように走行してゆく場面は『断崖』(41)風だし、病院に入る真俯瞰ショットは『北北西に進路を取れ』(59)を彷彿させ、キャシディ婦長の妖しい存在感は『レベッカ』(40)のダンヴァース夫人を匂わせるし、妖しい雰囲気を放ちつつ地下室に秘密が隠されているあたりは『サイコ』のサイコ・ハウスを意識している。オリジナル版が、ヒッチへのリスペクト&オマージュ描写がサスペンスを醸成する一要因を担っているところから、新たにヒッチ・サスペンスの要素を盛り込むことも、リメイクの重要な要素だと考えたのかもしれない。  とはいえ、オリジナル版との最も大きな違いは、海沿いの崖の上に建つ古びた私立病院ロジェット・クリニック(修道院を改装して再利用した設定)の陰湿なたたずまいと、重度の昏睡状態の患者を実験体にし、電気実験による脳研究を推し進めるロジェット院長の存在だろうか。ロジェット・クリニックは海沿いにあるため、霧が立ち込める時があり、実に怪しげで幻想的な雰囲気を醸しだしている。そのうえ研究で高い電磁波を使っているためか、院内では植物が育たないという(コワッ)。そこの院長ロジェットが、かつて医学界でフランケンシュタインの異名を取り、医学界から追放されたのち、密かにスポンサーの資金力を得、非道な研究をずっと続けている。脳がたとえ損傷した患者であっても、投薬直後に高圧電流を流して刺激し、眠っている神経を呼び覚ましてつなぎ変えようとする驚きの実験だった。  ロジェットのパトリックに対する見解はこうだ。「24時間、彼の脳電図を観察している。生理現象から神経衰弱まで、脳波の記録を。すべてのパトリックの動作は、意識の有無にかかわらず電流次第。神経中枢を刺激すれば、いいだけ。植物状態とはいえ、彼の脳内には電流が流れている。時々、いずれかが作用して体を動かすだろう。ただそれだけのこと。彼は、73kgの動かぬ肉塊。死んだ脳を抱えたな。すべて私の指示に従え。この扉が開いたら、今までのやり方は忘れろ!」  ロジェットは、実験体パトリックを治療したいわけでなく、あくまでも持論の証明が欲しいだけ。そのための“生ける屍”だと思っている。その下で“氷の女王”の威厳を漂わせる看護師長ジュリアがいる。彼女はロジェットの娘で、噂では一度ここを出て結婚するが、夫が自殺し戻ってきたといういきさつがある。  ゴシックホラーのような舞台に、我が道をゆくマッドサイエンティストの凶行は、まるで怪奇映画のたたずまい。そんな異常な世界に、オリジナル版より、だいぶ美少年になったパトリックと、彼が好意を抱くキャシー・ジャカード看護師との奇妙な関係が描かれる。クリニックの地下室は、ロジェットとジュリア以外は立ち入り禁止。  キャシーは、恋人エド・ペンハリゴン(オリジナル版でキャシー役を熱演したスーザン・ペンハリゴンに敬意を表した役名)との関係が悪化し、ストーカーのような彼から離れるため、ロジェット・クリニックの看護師業務に就くことになった。  キャシーを演じたのが、ビーチ系映画やホラー映画で活躍してきたスレンダー女優、シャーニ・ヴィンソン。サーフィン系OVA映画『ブルークラッシュ2』(11)ではしなやかなスレンダーボディを充分拝ませてくれたし、『パニック・マーケット3D』(12)では津波によるサメ・パニックに対峙するスクリーム・ヒロインを全身で熱演! 『サプライズ』(11)では、サヴァイバル・スキルを身につけたヒロインが襲撃者たちを相手にキリング・マシーンと化してゆく変貌ぶりがたまらなかったぞ。これらの作品で一気にシャーニのファンになった筆者としては、オリジナル版のキャシー役を演じた癒し系のスーザン・ペンハリゴンとは異なり……ちょっと見、健気に見えそうなシャーニが、白衣(映画では白ではなく水色だけど)に身を包み、恐怖と気丈に対峙していく姿に萌え萌えなのだ。  そして、シャーニ扮するキャシーが、ロジェット・クリニックで最初に担当を任された患者が、15号室(オリジナル版も同じ15号室。タロットカードで15は、悪魔に属するカードで、拘束・束縛・誘惑・妬みなどの意味がある)のパトリックだった。  キャシーがベッドに寝たきり状態のパトリックと初接見の日、キャシーがパトリックに顔を近づけた時、彼の口から飛ばされた唾が彼女の顔にかかった。ロジェットやこの病院を“植物園”と揶揄する同僚の看護師は、無意識に筋肉が反応しただけだと言うのだが……。  キャシーは、同僚の看護師がパトリックのシーツを取り換える際、彼の体をぞんざいに扱っている姿を目撃し内心驚いてしまう。優しいキャシーに対し、パトリック流のあいさつがツバを吐くことだった。でもキャシーにとって、その後もパトリックが彼女の前で唾を吐き続けることから、彼の意識を感じ取るようになる。でもパトリックが意識を伝えてくるのは、キャシーだけ。  知り合ったばかりの精神科医ブライアンにパトリックのことを相談すると、ブライアンがいきなりキャシーに対しツバを吐いた。驚いたキャシーはブライアンに激怒するが、どうやらパトリックの超能力によって、ブライアンの意識に侵入してやらせた行為だった。パトリックにしてみたら、2人だけの秘密を、他人に、しかも男に話したことが許せなかったらしい。観ているうちに、パトリックが吐く唾にはいろいろな思いが込められているように見え、時にパトリックの想いの一つ……キャシーへの性的な隠喩も込められているように思う。  キャシーが、パトリックの体をあちこち触り、股間の方に手を伸ばすと股間が膨らんでくるくだりはエロティックだし、パトリックがパソコンを使って、キャシーに「オナニーして欲しい」と伝えてくるところはちょっと怖い。  パトリックはキャシーを好きになるが、やがてそれが執着へと変化し、脳で思い描いたことを超能力で強引に変えてしまう。でも彼の超能力で大概なものは思い通りにできるが、真に操りたいのは、一人の看護師キャシーの心だが、それがほんとに難しい。  怪奇幻想的なムードを漂わせながら、拘束されたようなパトリックが超能力という絶大な力を持ってしても、キャシーの女心を拘束できない変態的なラヴストーリー。オリジナル版にとらわれず、新たな要素とオリジナル版の魅力を巧みに融合させたエンタメ・ホラーだと思う。■ © MMXIII Roget Clinic Pty Ltd, Screen Australia, Melbourne International Film Festival Premiere Fund, Film Victoria, Screen Queensland, Cherryhill Holdings Pty Ltd, PDER Pty Ltd and FG Film Productions (Australia) Pty Ltd

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ゾンビ映画ファンだけでなく、ゾンビ嫌いな人にも観て欲しい、2人の愛を見せつけられる秀作ドラマ『ゾンビ・リミット』

鷲巣義明

ちょうど1981年~1985年は、リターンドと名づけられた未知のウィルスが発見され、多数の死者を出した第1次流行期にあたる。そのウィルスの感染者はリターンドと呼ばれた。感染者が出血した場合、他者は決して血に触れてはならないし、感染者をそのまま放置すれば、数日後には意識を喪失し、生肉と血に飢えたゾンビのように凶暴性を発揮する。  これは現代史において人類最大の悲劇となり、現在まで世界中の犠牲者は1億人以上とされる。第1次流行期から治療を研究しはじめて10年後、リターンド(感染者)の髄液から採取した“リターンドたんぱく質”により大きな希望がもたらされた。そして第2次流行期以後は、多くの人を救うことができた。  でも全てのリターンドを完治できるわけではなく、感染後、36時間以内に薬“リターンドたんぱく質”を注射し、効果があらわれた者だけしか助からないし、助かった者も一生、薬をうち続けなければならない。国はリターンドに薬を配給し、患者を管理していた。  一方、リターンドへの反発は徐々に大きくなり、反リターンド派のみならず一般市民による差別やデモが相次ぎ、各地でリターンドが襲撃される暴行死傷事件が起きていた。そのため、リターンドは密かに暮らし、周囲にカミングアウトすることはなかった。  ゾンビのような凶暴化した人間を生み出す新種のウィルスに対する反応を、多少のシミュレーション風に描いたものでは、『28日後…』(02)の続編『28週後…』(07)が思いだされる。感染者の恐怖とそれに対する社会(世界)の対応が描写されていたが、見せ場のメインは、ゾンビのような感染者が人間に襲いかかる光景だった。  でも『ゾンビ・リミット』では、未知のウィルスに感染したリターンドが徐々に増殖してゆき、それに対する社会と人間たちの様々な反応を描いたドラマであって、ゾンビのように凶暴化したリターンドが人間に襲いかかる描写はほんのわずかしかない。だから、そのテの凄惨な残酷描写を期待するファンにとっては、最初は肩すかしを喰らった感があるかもしれないが、それでも徐々に見応えある作品世界に没入してゆくハズ。  ゾンビ映画をリスペクトしつつも、ゾンビ映画の見どころの一つ、感染者の人間襲撃場面を極力排している。でも筆者は、それでも本作が大好き。愛すべき作品である。しかしこの邦題は、あまり好きじゃない。原題は“THE RETURNED”で、未知のウィルス名、およびその感染者を指すが、RETURNEDだけなら「戻ってきた」という意味がある。薬“リターンドたんぱく質”の効果によって、ゾンビ化から戻ってくるという意味もあるためか、邦題は劇場公開やレンタル・ビデオ市場を考慮し、分かりやすいゾンビの語を使用し、ゾンビ化への限界点を意味するだろう『ゾンビ・リミット』と名づけたのかもしれない。  主人公は、ミュージシャンでギターの講師もするリターンドのアレックスと、その恋人のリターンド治療医師のケイト。  6年前のある日、アレックスがショップで倒れている中年男性を助けようとしたところ、実は彼がリターンドとは分からず、指を咬まれてしまう。アレックスを診察したのがケイトで、2人はリターンドと担当医師という関係を超えて愛を育むことになる。  ケイトは、日々リターンド患者を診察し、彼らに対して慌てさせないよう優しく接する。感染した幼い子供をもつ両親が、「“リターンドたんぱく質”の在庫はあとわずかという噂が流れているが……」と質問されると、ケイトは「根も葉もないデマよ」とキッパリ。国はリターンドをできる限り増やさないよう、感染者に“リターンドたんぱく質”を配給し続けているのだから、必然的にそれを採取できる感染者は減少してくる。それを早くから察知していた国側は、“リターンドたんぱく質”の代わりになる、人工開発された“合成たんぱく質”の研究開発に着手するが、未だ完成にいたっていない。  ケイトはその事実を知っていても、優しい女医を演じて嘘をつき続け、しかも自分の勤務病院の薬品管理部の女性を通じて、アレックスのために密かに“リターンドたんぱく質”を高額で横流ししてもらっている。ケイトはエゴにはしってしまい、リターンドの治療医師にあるまじき行為を取っていた。アレックスも、彼女の行為をありがたいと感じながらも反道徳的な行為に対して何も言わない。2人の部屋の冷蔵庫には、手に入れた“リターンドたんぱく質”のアンプルがたくさん隠してある。  そんな2人の姿を見ていると人間の本性を感じ取ると同時に、この世界観に説得力が増してくる。ケイトは、アレックスさえ今のままでいてくれれば、他の感染者=リターンドがどうなってもいいと考えているわけじゃない。ケイトがまだ子供だった頃、両親がリターンドとなり、哀しい出来事を体験した……だからこそ彼女は、リターンドの治療医師になったと推測できるし、かつて愛する者を救えなかった後悔が、アレックスのために横流しをさせたと理解できる。  しかも、ケイトのリターンドに対する気持ちが、前半のこんな場面で力強く迫ってきた。ある日ケイトが勤務する病院に、黒い目だし帽を被った反リターンドの過激派が銃を持って襲撃した! 彼らはケイトに銃をつきつけ、「いかれているな、ゾンビのお世話か?」と揶揄した。するとケイトは、「彼らは、リターンドよ」と気丈に言い返した。怒った過激派は、更に「(彼らを)ゾンビと言え」と銃を向けていきがるが、彼女は決して「ゾンビ」とは言わなかった。  だからケイトは、たとえ社会や民衆がリターンドをゾンビと表現しようとも、自身の中ではあくまでリターンドという思いが強い。このケイトの思いを感じ取れる人なら、邦題の『ゾンビ・リミット』には少々抵抗があるハズだ。  そして、ケイトの病院に入院中だったリターンド患者は、過激派によって全員射殺され、リターンド=感染者の名簿を奪われてしまう。  過激派によるリターンド患者殺害の衝撃は、2016年7月に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」の加害者のように傲慢だが、それは彼らだけではなかった。感染者=リターンドは社会の弱者でありマイノリティで、“リターンドたんばく質”の在庫薄が明らかにされると、リターンドの社会の風当たりは一層強くなっていく。  反リターンド派によって、“リターンドたんぱく質”配布所や病院が続けざまに襲撃され、しまいには病院そのものが軍の統治下に置かれた。そして国側がついに発令。「リターンドは、3日以内に監視センターに出頭しなければ逮捕する」と。大型バスに乗り込むリターンドたちの姿は、まるで第二次大戦でユダヤ人らがナチの強制収容所に運ばれる様とダブッてくる。  筆者も彼らをゾンビとは言いたくない……リターンド患者が増えてゆく世界を、リアル・シチュエーション風に描きつつ、アレックスとケイトの2人の愛と葛藤のドラマが展開する(それについての詳細は、ここでは書かないでおきます)。どうか本作を観て欲しい。もしゾンビ化させるようなウィルスが蔓延したら?……それをシリアスに捉えた危機的社会として描写しているからこそ、アレックスも、ケイトも、真に迫る魅力を発する。  国から“リターンドたんぱく質”の配給が停止されようとした時、アレックスは、25年来の親友にリターンドであることをカミングアウトしたことで、予想外の事態に陥ってしまう。そして、反リターンドの過激派が感染者名簿を入手してリターンド狩りをはじめる。更に出頭しないリターンドを捜査する警察の手も迫る。是非、追いつめられてゆく2人の姿を目に焼きつけて欲しい。■ © 2013 CASTELAO PICTURES, S.L. AND RAMACO MEDIA I, INC.. ALL RIGHTS RESERVED.

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人間同士の相互不理解がもたらすカオス!パラノイアの暴走する先はほとんどホラー⁉〜『トランストリップ』〜

なかざわひでゆき

日本人にとって南米の映画といえば、例えばメキシコやブラジル、アルゼンチン辺りならパッと思いつく監督や作品も少なくないだろうが、しかしチリの映画となると馴染みが薄いのではないだろうか。それもそのはず、かの国では政情不安定な時期が長く、サイレント映画以降はなかなか映画産業が発展しなかった。’60年代にはニューシネマ運動の盛り上がりも僅かにあったようだが、それも’73年の軍事クーデターで誕生したピノチェト大統領の独裁政権下で潰えてしまう。同国出身のアレハンドロ・ホドロフスキーが、母国ではなくメキシコを活動拠点に選んだのも無理はなかろう。本格的にチリ映画界が産業として成長するようになったのは、ここ20年ほどのことなのだ。  最近はアカデミー外国語映画賞候補になったパブロ・ラライン監督の『NO』(’12)や、ベルリン国際映画祭の女優賞に輝いたセバスティアン・レリオ監督の『グロリアの青春』(’13)など、世界の主だった映画祭や映画賞でチリ映画が高く評価されることも増えてきた。そんな中、現在最も国際的な注目を集めているチリの若手映像作家の1人がセバスティアン・シルバだ。  カナダでアニメーション制作を学んだ後、イラストレーター兼ロックミュージシャンとして活躍した経歴のあるシルバ監督。特にイラストレーターとしてはニューヨークで個展を開き、実を結ばなかったもののハリウッドへ招かれたこともあったという。チリへ帰国して暫くはソロ・アーティストとして活動するも、やがて自らの制作プロダクションを立ち上げて映画監督へ転向。長編2作目の『La Nana(女中)』(’09)がサンダンス映画祭のワールド映画部門グランプリやラテンアメリカ映画祭の批評家賞などを獲得し、ゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞にもノミネートされたことで、一躍脚光を浴びることとなったのである。  そんなセバスティアン・シルバ監督の作品に共通するキーワードは“相互不理解”と“パラノイア”である。裕福な家庭で長年に渡って雇い主の信頼を得てきたメイドを主人公にした『La Nana』では、年を取ってきた彼女に良かれと思って家主が若いメイドを補佐役として雇ったところ、自分の立場が脅かされると思い込んだ主人公が強迫観念を暴走させていく。また、同じくサンダンス映画祭でワールド映画部門監督賞に輝いた『Crystal Fairly & the Magical Cactus』(’13)は、幻のドラッグを求めてチリを旅する利己的なアメリカ人の若者(マイケル・セラ)とラブ&ピースな現代版ヒッピー女性(ギャビー・ホフマン)の対立を描くロードムービーだった。ベルリン国際映画祭でテディ賞を獲得した最新作『Nasty Baby』(’15)では、ゲイのカップルとその親友の女性が親切心で恵まれない浮浪者と関わったところ、その浮浪者がゲイに偏見を持つ差別主義者だったことから命の危険に晒されるという、弱者をヘイトする弱者の構図が描かれた。ディスコミュニケーション=相互不達によってもたらされるカオス、それこそがシルバ監督の一貫して描いてきているテーマだと言えよう。  そして、日本で唯一見ることのできるシルバ監督作品が『トランストリップ』(’13)。ちょうど『Crystal Fairly & the Magical Cactus』の直後に撮影され、ほぼ同時期に発表されたアメリカとチリの合作映画である。両作品にマイケル・セラが出演しているのもそのためだ。まずは簡単にストーリーを説明しよう。  主人公はカリフォルニアからチリへとやって来た若いアメリカ人女性アリシア(ジュノ・テンプル)。現地在住の従姉妹サラ(エミリー・ブラウニング)のもとを訪れた彼女は、その足でチリ南部の島へとバカンスに向かう。同行するのはサラとその彼氏アウグスティン(アウグスティン・シルバ)、その姉バーバラ(カタリーナ・サンディノ・モレノ)、そしてアウグスティンの同級生ブリンク(マイケル・セラ)だ。ただでさえ初めての外国旅行で緊張している上に、見ず知らずの他人に囲まれたアリシアは気分が落ち着かない。  5人揃って車に乗り出発したのも束の間、従姉妹のサラが学校の試験を受けるために戻らねばならなくなる。明日には合流するから、それまでみんなと一緒にいてというサラに押し切られ、知り合ったばかりの3人と旅を続けることになったアリシア。仲間同士の中でたった一人の赤の他人。内気で大人しく繊細なアリシアは、少々乱暴だが気がよくて明るい若者たちの輪に溶け込めない。島へ着いてからもなかなか打ち解けられず、彼らの他愛ない悪ふざけやジョークを必要以上に深刻に受け止める彼女は、やがて自分が彼らに嫌われている、馬鹿にされている、危害を加えられるかもしれないという妄想に取りつかれ、どんどん精神のバランスを崩していく…。  とまあこんな感じなのだが、冗談半分で催眠術を掛けられたアリシアが一気に被害妄想を暴走させていく後半の展開は殆どホラー。まるで悪霊に取りつかれたような有様だ。まさか自分たちが誤解されているなどと思いもよらない若者たちは、彼女の異常な行動の原因や理由を全く理解できず、パニックで右往左往するしかない。まさしくディスコミュニケーションの招いたカオス、そして悲劇としか言いようがないだろう。  悪意を持った人間は一人も出てこない。誰もが言ってみればごく普通の若者だ。しかし、人見知りで生真面目で感受性豊かなアリシアにとって、アウグスティンら仲間たちは得体のしれない野蛮人にしか思えない。一方、細かいことなど気にしない楽天的なアウグスティンたちにとってみれば、終始うつむき加減で怯えたような様子のアリシアはどことなく薄気味の悪い存在だったりする。お互いに頑張って歩み寄ろうとはするものの、その溝はなかなか埋められない。次第に不信感を募らせていく両者の心理を丁寧に汲み取ることで、ヒリヒリとするような緊張感を高めていくシルバ監督の演出は非常に巧み。誰もがどこかで身に覚えのある嫌な感覚を蘇らせるのだ。  そう、相容れない他者との相互不理解というのは、恐らく誰でも一度は経験したことがあるはず。イジメや民族紛争の原因も往々にしてそこにあると言えよう。たいていの場合は、そういうものと割り切ってやり過ごせば済むものだが、しかし小さな島という限定空間の中に閉じ込められるとそうはいかない。みんなが自分と同じ価値観を持ち、自分と同じジョークで笑い、自分と同じものを好きだとは限らないという、我々が時として忘れがちな当たり前のことを、この作品は強烈に思い起こさせてくれる。  そして、本作は最後までその相互不理解が解消されることはない。恐らくクライマックスは賛否両論だろう。実際、あのエンディングはなんなんだ⁉という批判の声も多い。しかし、世界中で紛争やイジメのなくなることのない現実を鑑みれば、一見して不完全燃焼のように見える本作のラストも当然の帰結だろう。そこには、軍事独裁政権の恐怖政治によって国民の間に根深い相互不信の広がったチリという国の、いまだ払拭できないトラウマと歴史の教訓が反映されているようにも思えるのだ。■ © 2013 MAGIC, MAGIC LLC

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新世代アクションスター スティーヴ・オースティンに着目せよ!

高橋ターヤン

長年アクション映画界を牽引してきたシルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーは、共に70歳前後。2人ともいまだ現役でヒット作を量産し続けているものの、アクション映画界は長らく第二のスタローン、第二のシュワルツェネッガーを生み出すことが出来ず、苦しんできた。しかしここ数年、スタローンの後継としてジェイソン・ステイサムが急成長。良質なアクション映画を送り出し続けている。また第二のシュワルツェネッガーと言うべきザ・ロックことドウェイン・ジョンソンも世界的な大ヒット作品を次々とリリース。両者とも世界的なアクションスターとしての地位を完全に確立している。そしてその2人の牙城を虎視眈々と狙う次世代アクションスターが、本稿の主役ストーン・コールド・スティーヴ・オースティンなのである。  スティーヴ・オースティンは1964年、テキサス州オースティンで産声を上げた。少年時代からアメリカン・フットボールに打ち込み、アメフトの奨学生としてノーステキサス大学に進学するほど将来を嘱望されたアスリートであった。しかし勉学に嫌気がさして突然大学を中退したオースティンは、子供の頃から憧れていたプロレスラーの道を目指す。当時テキサス州ダラスに在住していたイギリス人プロレスラーのクリス・アダムスのプロレス道場に入門したオースティンは、メキメキと頭角を現して1989年に本名のスティーヴ・ウィリアムスとしてプロデビューを飾る。この頃、所属団体のUSWAには同名のスティーヴ・ウィリアムス(殺人医師のニックネームで新日本プロレス、全日本プロレスで活躍)がいたため、地元オースティンにちなみリングネームをスティーヴ・オースティンとし、さらにヒール(悪役)に転向することで次第に人気を博していくことになる(後に改名し、本名もスティーヴ・オースティンとなる)。  1991年にはダスティ・ローデスにスカウトされてWCWに入団。1992年からは新日本プロレスに継続参戦するようになる。しかし1995年に怪我を理由にWCWを解雇されてしまい、インディ団体にスポット参戦。そこでの活躍を認められてWWF(現WWE)との契約を手にしたのだった。WWFでは最凶のタフ野郎、ストーン・コールド・スティーヴ・オースティンとして大ブレイク。1998年にはWWF世界ヘビー級王座を初戴冠するなど、人気・実力ともにWWFの頂点に君臨するスーパースターとなっていく。特にオースティンがWWF経営者ファミリーのマクマホン一家や、スーパースターのザ・ロックと繰り広げる一連の抗争(アティテュード路線)は、WWEとオースティンの人気を不動のものとしていくことになる。この人気絶頂のオースティンは、ドン・ジョンソン主演の警察ドラマ『刑事ナッシュ・ブリッジス』に刑事ジェイク・ケイジ役で出演。後に繋がる俳優としての活動も開始している。  しかしザ・ロックやブロック・レスナーらの若手を推す会社の方針に反発したオースティンは、何度かWWEからの離脱と復帰を繰り返す。そして2005年に復帰した際は、プロレスラーとしてではなく、WWEの映画製作会社のWWEフィルムズ所属の俳優としての契約となったのだった。そのためこれ以降はプロレスラーとしての試合は無くなって大会にゲスト登場となることが多くなり、メインの活動は俳優業へとシフトしていく。ちなみに2007年には、共にヅラ疑惑のあったWWE会長のビンス・マクマホンと不動産王で次期アメリカ大統領のドナルド・トランプが、レッスルマニア23で激突。負けた方が髪を剃るという髪切りデスマッチとなり、その際髪を剃る役をスキンヘッドのオースティンが務めている。この抗争は、大の大人(しかも世界的な大金持ち)が意地とプライドと髪を賭けた戦いを繰り広げるという超絶大馬鹿勝負となり、記録的なペイ・パー・ビュー売り上げを記録することになる(トランプは本件でブルーカラー層への知名度を爆発的に拡大し、それが2016年の大統領選での躍進に繋がったとの分析もある)。また2009年にはWWEの殿堂入りを果たし、その際のスピーチでプロレスラーの引退を宣言。オースティンは本格的に俳優としての活動にシフトしていくことになる。  オースティンの映画俳優としての本格なデビューは、2005年にアダム・サンドラーがリメイクした『ロンゲスト・ヤード』だ。ビル・ゴールドバーグ、ボブ・サップ、ケビン・ナッシュらプロレスラー勢に交じってオースティンも看守役で出演している。そして2007年には、WWEフィルムズがライオンズゲート社と組んで制作した『監獄島』で映画初主演を務めている。2010年にはシルヴェスター・スタローン制作のオールスター映画『エクスペンダブルズ』に、極悪用心棒ペイン役で出演。スタローンをボコボコにし、元UFCヘビー級王者のランディ・クートゥアとガチンコ勝負を繰り広げるなど大活躍を見せた。  そしてこの年には『スティーヴ・オースティン ザ・ストレンジャー』にも出演。記憶を失った元FBI捜査官が、記憶を取り戻すために巨大な陰謀に立ち向かう本作は、オースティンにとっても演技力を試されるサスペンスフルな作品となっている。とはいえ、もちろんクライマックスは「待ってました!」と喝采をあげたくなる大暴れが待っているので安心してほしい。  そして2011年には『スティーヴ・オースティン 復讐者』と『スティーヴ・オースティン ノックアウト』をリリース(オースティン主演のビデオ映画の邦題には必ず“スティーヴ・オースティン”が付くので非常に分かりやすい)。『復讐者』は、敵のバイカー集団のボス役でダニー・トレホが登場。最後はオースティンとトレホがガムテープで片手同士を結び付けて殴り合いという、番長マンガのような展開が素晴らしい作品だ。『ノックアウト』はオースティン版『ベスト・キッド』と言うべき作品で、高校の用務員オースティン(ゴツすぎる)がイジメられっ子にボクシングを教え、州大会でイジメっ子と対決するという映画。オースティンらしい『復讐者』と、らしくない『ノックアウト』は、共にオースティンファンならおさえておくべき作品だろう。その他にも年に数本はオースティン出演作がリリースされており、どれも粒ぞろいの作品なのでザ・シネマで順次放映されることを期待したい。  俳優スティーヴ・オースティンの魅力は、もちろんシュワルツェネッガーのような巨大な肉体を武器に大味な殴り合いなどWWE時代を彷彿とさせるプロレス技を活用したアクションシーン。しかしオースティンの魅力はそれだけでなく、オースティン主演映画ではスタローン映画のように敵に捕まって拷問され、耐えて耐えて最後に大爆発という展開も多い。オースティンが完全無欠のフィジカルモンスターとして描かれるわけではないというギャップが、映画の中で非情に良いスパイスになっているのだ。  つまりオースティンこそは、スタローンとシュワルツェネッガーという二人のアクション映画の重鎮の魅力を併せ持つ、新時代のハイブリットアクションスターと言えるのだ。■ © 2010 BOXER AND THE KID PRODUCTIONS INC. ALL RIGHTS RESERVED

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【本邦初公開】ジョックスとナードを自在に行き来する男リンクレイターは、どこの国も変わらぬ“地方の若者のどん詰まり”をいかにして描いたか。〜『サバービア』〜

村山章

リンクレイターの実質的デビュー作『スラッカー』(1991)が日本の映画祭で上映され、処女長編『It's Impossible to Learn to Plow by Reading Books』(1988)もYouTubeで観られてしまう現在。『サバ―ビア』は日本唯一の“幻のリンクレイター作品”だった。『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(1995)の大成功直後だったにも関わらず日本では劇場未公開のまま捨て置かれ、今回のザ・シネマの放送が本邦初公開なのである。  リチャード・リンクレイターはオタク気質の監督と思われがちだが、ゴリゴリの体育会系出身者である。哲学性と諧謔のある会話劇を得意とし、フィリップ・K・ディックのようなSF作家への憧憬を標榜し、ロック音楽の造詣も深いなど文化系ナード感があふれているのに、野球のスポーツ推薦で大学に入るような典型的なアスリート系=「ジョックス」の一員だった。  リンクレイターの出世作『バッド・チューニング』(1993)は一地方の高校の夏休みが始まる一日の狂騒を膨大なキャラを配して描いた群像劇で、主演格に“ピンク”というアメフト部員が登場する。苗字がフロイドなので“ピンク(フロイド)”と呼ばれているという設定からして、リンクレイターのジョックスとナードに引き裂かれた二面性が顕れていると言っていい。  映画のラストで“ピンク”は支配的なアメフト部のコーチに反抗し、スクールカーストでは下位に属するボンクラどもと“エアロスミス”のチケットを買いに行く。リンクレイター自身が“ピンク”が一番高校時代の自分を投影しているキャラクターだと公言しているもの当然だろう。  リンクレイターはあるインタビューで、ジョックス時代の自分について「周りの人間は僕をクールなヤツだとチヤホヤしていたけれど、実際のところクソみたいな気分だった」と語っている。「僕が疎外感を感じているなら、他のみんなはどうなのか。(思春期の)普遍的な悩みだとわかっていたけど、早く歳を取って混乱の泥沼から抜け出したいとばかり考えていたよ」  リンクレイターの最新作『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』は大学の名門野球チームに入った新入生の3日間を描いた『バッド・チューニング』の続編的内容だが、スポーツ推薦で入学した主人公は演劇を専攻する女生徒と恋に落ちる。これまたふたつの世界に片足ずつ突っ込んだリンクレイターの分身である。    リンクレイターはキャリアを通して「ドラマチックなことが起きない等身大の青春」にこだわり続けてきた。年齢を経るに従い「ドラマチックではないが山あり谷ありの人生」にシフトしつつあるのは『ビフォア』三部作を観れば明らかだが、その際の強みになっているのがジョックスでありナードでもある、つまりはクラスタを限定しない共感力だ。  例えば『ビフォア』三部作の主人公ジェシーは元バックパッカーから作家になる文学青年だったが、息子がサッカーを続けることが精神鍛錬になると信じるスポーツマッチョでもある。クリエイターの多くが自伝的キャラクターを描くときに陥りがちな繊細なアート系というくびきからあらかじめ逃れているのだ。  さて、前置きが長くなったが『サバ―ビア』の話だ。  『サバ―ビア』とは「郊外」のことで、そのまま日本の「地方」と置き換えても構わない。車社会で、街道沿いにチェーン店が並び、町の中心にはもはや活気がなく、繁華街はわずかな飲み屋を除けばシャッターが下ろされている。日本もアメリカも変わらない、というより、アメリカの地方がたどった道を日本が追いかけているのが実情である。  主人公はそんなサバ―ビアに育ち、20歳を過ぎても実家でうだうだしている若者たち。誰ひとり自動車すら持っておらず、夜な夜な近所のコンビニの駐車場で酔っぱらったりハッパをキメながらダベるしかない。そんな退屈な毎日に今日ばかりは新鮮な風が吹く。地元を飛び出してロックスターになった幼なじみのポニー(ジェイス・バートック)が凱旋コンサートで帰郷し、いつものコンビニに顔を出すというのだ。  傷を舐め合い、足を引っ張り合い、こいつより自分の方がマシだと考えることでかろうじて自尊心を保っていた彼らのバランスが、ポニーがリムジンに乗ってやってきたことで壊れ始める。かつてポニーと音楽をやっていたジェフ(ジョバンニ・リビシ)、ジェフの彼女でパンクス女子のスーズ(エイミー・キャレイ)、軍隊を除隊したティム(ニッキー・カット)、お気楽でお調子者のバフ(スティーブ・ザーン)。さらに情緒不安定な女の子ビービー(ディナ・スパイベイ)やパキスタン系のコンビニ店長、ポニーのパブリシスト・エリカ(パーカー・ポージー)が絡み、いつもと変わらないはずの夜が思わぬ方へと転がっていく……。  まるで『バッド・チューニング』のニート版だが、リンクレイターにとってデビュー以来初めてオリジナル企画ではない原作物である。もとになっているのは『トーク・レディオ』(1988)の原作・主演で知られるエリック・ボゴシアンが書いた同名の舞台劇だ。  『サバービア』の舞台を観劇したリンクレイターは「まるで自分自身の物語のように感じた」という。鬱屈と不満を持て余すジェフも、アート系をこじらせたビービーも、夢を掴んでも郷愁が捨てられないポニーも、全員がリンクレイターの一部だった。ちなみにポニーに扮したバートックの外見が驚くほどリンクレイターに似ていると感じるのは自分だけではあるまい。  脚色はボゴシアン自身が手がけたが、ボゴシアンの地元であるボストン郊外からリンクレイターのお膝元、テキサス州オースティンへと変更された。とはいえ映し出されるのはアメリカ中のどこに行っても変わらない街道沿いの無味乾燥な景色。場所の変更は作品がもともと備えていた普遍性をより強固にしたに過ぎない。  リンクレイターはかねてから『アメリカン・グラフティ』やジョン・ヒューズ作品のようなドラマチックな青春など神話に過ぎないと公言していたが、『サバービア』ではコメディから悲劇へと転調するメリハリのあるドラマツルギーを取り入れている。延々と続くダベりや、ストーリーの向かう先を定めない語り口などリンクレイター初期の特徴は完璧に押さえている。が、原作通りとはいえ『サバービア』では緩慢な日常をぶち壊すある「事件」が起きるのだ。  普通の映画であれば当たり前の展開も、映画から「映画的事件」を引き剥がすことに腐心してきたリンクレイターにとっては大きな変化だった。結果として『サバービア』は、ボゴシアンのシニカルで毒々しい社会批評と、リンクレイターらしい等身大の青春要素が一体となり、倦怠と危なっかしい笑いとヘビーな悲劇が折り重なった問題作に仕上がった。  ちなみに当時のオルタナロックのスターが揃ったサントラ盤はオルタナという音楽シーンが“地方”の閉塞感のはけ口だったことをよく表していて時代の資料としても興味深い。ただし冒頭に流れるのはジーン・ピットニーの1961年のヒット曲「非情の街」。1960年生まれのリンクレイターにとって完全に親世代のオールディーズだが、若者らしい自意識過剰で自己憐憫的な詞が印象的なロック歌謡だ。「非情の街」が醸す青臭いセンチメントは、「バーンフィールド(焼け野原)」という架空の町名も相まって、結局いつの時代も青春なんてどん詰まりなのだと宣言しているのである。■ TM & © Warner Bros. Entertainment Inc.

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